1959年アルスターGP125ccで3位となったDegner。
      左から3位Degner(MZ)・優勝Hailwood(Ducati)・2位Hocking(MZ)。
尚、250ccでは優勝Hocking(MZ)・2位Hailwood(Mondial)・3位Degner(MZ)だった。
[エルンスト・デグナ−の追想]
(1)1961年スエ−デンGP後亡命

 1961年125ccの個人選手権争いは、第9戦を終わって、東独の2サイクルMZのデグナ−とホンダのトム・フィリスの争いで、デグナ−の方が若干有利な状況であった。第10戦のスエ−デンGPはデグナ−は最初から飛び出し、独走のレ−スかと思われたが、序盤の3周目でクランクピン破損でリタイア−。フィリスは不調で、やっと6位となる。そこで個人選手権の行方は、最終戦のアルゼンティンGPにもちこされた。しかしデグナ−は、スエ−デンGP後、亡命を敢行した。亡命すれば、勿論アルゼンティンGPは出場できなくなり、半ば手中におさめかけていた、初めての個人選手権獲得を投げ捨てたのである。これにより、ホンダは、1961年の125・250ccの個人・メ−カ−の全タイトルを獲得することになった。
 時を同じくして、デグナ−の奥さんと幼い子供も、東独より西独への亡命に成功した。デグナ−の友人?の車で、荷物箱に潜み、子供は睡眠薬で眠らしての国境検問突破だったとのことだ。小生も、1963・1966年の2回、東独GP参加のため、共産圏下の東独に入国した経験があるが、国境における検問は、非常に厳しく、デグナ−の奥さんと子供が、よくも亡命できたものだと驚いている。全く命がけの脱出だったと想像する。

(2)1962年よりスズキと契約、念願の個人選手権獲得(50cc部門)

 亡命に成功したデグナ−とスズキとの、1962年の契約交渉は順調に進み、11月1日に初来日にこぎつけた。交渉はロンドン駐在の松宮昭氏があたっていた。彼は、もともとシェル石油に勤務していたが、ヨ−ロッパのレ−ス事情に詳しく、スズキの1960年TTレ−ス初参加にともない、レ−ス部門のマネ−ジャ−として、スズキに入社した人物である。

 デグナ−は、来日するにあたり、「オイゲン(EUGEN)」という偽名を使っていた。この「オイゲン」の「ゲン」をとった「ゲンさん」というのが、いつしかスズキレ−スグル−プでの彼のニックネ−ムとなった。今でも、元レ−スグル−プの人間で、彼のことを「デグナ−」と呼ぶことはなく、「ゲンさん」である。
 彼は、全ての面で「職人」だった。トラブルの発生しやすい2サイクルのMZレ−サ−で、1960年は王者MVアグスタ−を、1961年にはホンダを、ただ一人でおびやかしたが、彼のマシンには、それなりの工夫がなされていた。それは、「キャブレタ−に特殊なチョ−ク」をつけ、又、「キルボタン」と名付けたが、イグニッションをON-OFFさせるスイッチである。レ−ス中、これらを使い、敏感な2サイクルエンジンを、ダマシ ダマシ、巧妙に扱う「職人ワザ」である。また、リヤ−エギゾ−ストタイプに、異常なほど固執していた。1962年の125ccレ−サ−は、デグナ−のマシンのみが、リヤ−エギゾウストでスタ−トした。後年、リヤ−エギゾウストのメリットは、身をもって感じたが・・。それは、2ストロ−クエンジンの出力は、エギゾウストの形状に大きく左右されることは言うまでもないが、実験用エギゾウストを作るのに非常に楽だということである。そして、実験で決定したモノをもとに、車載用を作るのにも、性能面で大きな誤差なく作ることが出来ることだ。当時デグナ−は、どのような理由でリヤ−エギゾウストにこだわったのかは、知らないが・・・。また、彼の推奨でRT62のピストンは、西ドイツのマ−レ社(Mahle)の鍛造ピストン素材を使用することになった。当時、日本には鍛造ピストンを作っているメ−カ−はなかった。その後、住友金属に開発をお願いし、RT63からは、日本製を使うことになった。1962年のフランスGPとTTレ−スの間の5月15日に、小生は松宮氏と、パリ−から、スツッツガルト(Stuttgart)のマ−レ社を訪問したことがあった。この途中、フランス・西ドイツの国境近くに、亡命後、居をかまえていたデグナ−宅にお邪魔した。デグナ−初来日の時、小生・通訳と3人で教育館(今は取り壊されてないが)の小部屋で、丸2日間、マシン作りに対しての彼の要望を聞いたりして、打合せしたことが懐かしく思い出される。その時の印象は、「気難しい、頑固な・・・・・男」ということだった。
 また、「メカニック」の面でも「職人」で、重要部品の仕上げとかエンジンの組立などでも、最初の頃はスズキメカニックを信用せず、全て自分でやらなければ、気が済まない男だった。このため、よく ぶつかったものだった。このような彼に絶大な信用を得たのは、スズキで「メカニックの神様」といわれた「神谷安則氏」である。彼はデグナ−のスズキ在籍中、ずっと専用メカニックをつとめることとなった。

 
1962年のレ−ス成績は、初めて世界選手権レ−スに加わった50cc部門で、第3戦のTTレ−ス、続いて、オランダ・ベルギ−・西ドイツGPと4連勝をかざり、個人選手権を獲得し、スズキにメ−カ−選手権をもたらす原動力となった。11月には竣工した鈴鹿サ−キットで「第1回全日本選手権レ−ス」が開催され、50ccレ−スでTopを独走し、素晴らしい走りをみせたが、転倒リタイアした。転倒したカ−ブは、「デグナ−カ−ブ」と命名されている。

                         
                1962年TTレ−ス優勝         1962年TTレ−ス3位のRobb・優勝のDegner・2位のTaveri
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1963年は、アンダ−ソンの台頭、デグナ−の不運も重なり、50・125ccで各1勝しかできなかった。両クラスとも、アンダ−ソンが個人選手権を獲得し、メ−カ−選手権をスズキにもたらした。最後の日本GP(鈴鹿)では、初登場の「250ccスクエア−(Square)水冷4気筒マシン」で1周目第1コ−ナ−出口で転倒し、車が炎上、不運にも大火傷を負ってしまい、年末近くまで、浜松で病院生活をおくった。

                          
                       1963年日本GPで初登場の250 Square 4 で転倒、マシンが炎上し、大火傷を負う
                                        クリックすると拡大します


 1964年は、第11戦のイタリアGPから復帰し、最終第12戦の日本GP(鈴鹿)125ccで優勝し、健在振りを示した。
 
1965年は、50ccではアメリカGP・ベルギ−GP、125ccではアルスタ−GPと、3回の優勝をかざったが、第12戦のイタリアGP125ccで転倒骨折し、最終の日本GPには参加できなかった。

                 
                      1965年 USGP (Daytonaのモーテル)にて

 1966年は、海員ストライキで開催の遅れた第10戦のTTレ−スの50ccに復帰したが、4位にとどまり、これを最後にスズキを去った。そしてカワサキと契約し、フジスピードウェイで125cc2気筒マシンをテスト中にマシン故障で転倒、負傷、引退することになった。(この経緯についてはこちら)。

(3)引退後のデグナ− そして 不慮の交通事故死

 デグナ−が、スズキのレ−スチ−ムを去ってから、10年の歳月がたった1976年の9月、デグナ−は、スズキの西ドイツの販売代理店「ローツ社」の技術サービス部長として来社した。そこで、元のレ−スチ−ムのメンバ−が集まり、盛大な歓迎会を開いた(下、9月6日、参加者の1人が写したもの?)。


 
1978年6月には、小生が二輪車のヨ−ロッパ市場調査・新機種企画調査&打合せで「スズキ・ドイツランド社」も訪問し、デグナ−と半日いろんな話をした。深く印象に残っているのは、奥さんと離婚したことである。共に命を懸けて、東独から亡命した夫婦だったのに。原因は、1963年の日本GPでの火傷がル−ツと考えられる。ハンサムだった顔にも火傷のあとがひどく残り、このためデグナ−の性格も変わり、これが原因で夫婦仲も だんだん うまくいかなくなったのだと思う。

                  
                  1978年6月「スズキ・ドイツランド社」での Degner

 それから、5年後の1983年9月アウトバ−ンでの、交通事故でこの世を去ってしまった。2サイクルマシンの、天才ライダ−と言われたデグナ−だが、決して幸せな人生ではなかった。(奥さんと息子さんの近況等はこちら

   Degner の交通事故死を伝える1983年9月21日の「Motor Cycle News」    クリックすると拡大します



スズキ社内報 No.135 (1976年10月)

往年の名ライダー  E・デグナー来社

                     

 
昭和37年 (1962) 6月8目,英国マン島に高々と日の丸を掲げた往年の名ライダー,E・デグナー氏が1976年8月31日に来日されました。
 社内報編集室では,スズキ本社に立ち寄られた同氏に貴重な時間をさいていただきインタビューをお願いしました。
 デグナー氏は現在,西ドイツのスズキ代理店「ローツ社」で技術サービス部長として活躍されています。

来日の目的は?。

デグナー このたび,輸出用としてスズキで開発された4サイクルの二輪車(GS750,GS400)の認証をドイツで取得するにあたり,直接メーカーで車の馬力 最高速度,騒音,ブレーキ性能等の諸性能を調査するため,本国の認定官を伴ってやってきました。
日本にやってきたのは昭和39年(1964)の日本GP以来,11年ぶりになります。

ドイツでのスズキ車の評判は?。

デグナー 外観をはじめ全体のイメージとしてはY社,H社より評価はいいですね。ただ私個人としては,これから改良していってほしい点もいくつかあります。
 例えばエンジンですが,ドイツでは高速の出る車が要求されるため,アメリカ向けの仕様ではドイツをはじめ欧州では百%満足されないという面があります。ドイツ向け仕様として作ってもらえばもっと車の評価は上がると思うし,とくにエンジンはドイツに合う車であれば世界中に通用すると思っています。オートバイの性能の評価は,ドイツのほうがアメリカよりずっときびしいですから。
 サスペンションについても,ドイツではアメリカよりハードなものが好まれる傾向にあります。

ドイツでもアメリカのように,2サイクルから4サイクルヘの移行の動きはありますか。?


デグナー 
現在のところありません。2サイクルでなければという人もいるし,4サイクルを好む人もいるし‥・・‥。ただ将来的にみると,排ガス対策の関係からいずれは4サイクルにしていかざるをえないと思っています。

ロ−ツ社に入社されてどのくらいになりますか?。


デグナー 
今年の5月に入社したばかりです。その前は2年間ほど燃料関係の会社におりました。

ロ一ツ社の従業員数は?。


デグナー 
現在、全社で37名です。私の管轄する部門には18名が働いていますが,さらにアフターサービス体制を確立するため9月末からは3名ふえて21名になる予定です。

趣味が広いとうかがっていますが・・?


デグナー 
たくさんあります。クラシック音楽を聴いたり,演劇(オペラなど)を見たり,またスポーツではスキー,テニス,ゴルフなどをやるのが好きです。

現在でもレースに出ることはありますか?


デグナー 
全くやっていません。以前事故にあって4日間意識不明になったことがあり,それ以来レーサーには乗っていません。

今後の抱負を一言。


デグナー 
スズキには知己がたくさんおり私としても商品面 技術的な面でいろいろアドバイスしたいと思っています。
 ドイツでスズキ車拡販のためお役に立ちたいので,今後ともよろしくお願いします。



Degnerの全レ−ス成績(1957〜1961年はMZでの成績である)

年度 . レ−ス名 50cc 125cc 250cc . 年度 . レ−ス名 50cc 125cc 250cc
1957年 1 西ドイツ ナシ 6 . 1963年 1 スペイン R R .
2 TTレース ナシ . . 2 西ドイツ 3 優勝 .
3 オランダ ナシ . . 3 フランス 2 6 ナシ
4 ベルギー ナシ . . 4 TTレース R 3 .
5 アルスター ナシ . . 5 オランダ 優勝 R .
6 イタリア ナシ . . 6 ベルギー 2 R .
1958年 1 TTレース ナシ 5 . 7 アルスター ナシ R .
2 ベルギー ナシ . ナシ 8 東ドイツ ナシ . .
3 オランダ ナシ 6 . 9 フィンランド . . ナシ
4 西ドイツ ナシ 3 . 10 イタリア ナシ . .
5 スエーデン ナシ 5 . 11 アルゼンチン 2 . .
6 アルスター ナシ . 4 12 日 本 7 3 R
7 イタリア ナシ . . 1964年 1 アメリカ . . .
1959年 1 TTレース ナシ . . 2 スペイン . . .
2 西ドイツ ナシ 6 . 3 フランス . . .
3 オランダ ナシ . 6 4 TTレース . . .
4 ベルギー ナシ . ナシ 5 オランダ . . .
5 スエーデン ナシ . 4 6 ベルギー . ナシ .
6 アルスター ナシ 3 3 7 西ドイツ . . .
7 イタリア ナシ 優勝 2 8 東ドイツ ナシ . .
1960年 1 フランス ナシ ナシ ナシ 9 アルスター ナシ . .
2 TTレース ナシ . . 10 フィンランド . . ナシ
3 オランダ ナシ 5 6 11 イタリア ナシ 3 .
4 ベルギー ナシ 優勝 . 12 日 本 不成立 優勝 .
5 西ドイツ ナシ ナシ . 1965年 1 アメリカ 優勝 2 .
6 アルスター ナシ 3 . 2 西ドイツ R 4 .
7 イタリア ナシ 3 3 3 スペイン R R .
1961年 1 スペイン ナシ 2 . 4 フランス 3 2 .
2 西ドイツ ナシ 優勝 4 5 TTレース 3 8 .
3 フランス ナシ 2 . 6 オランダ 5 R .
4 TTレース ナシ R . 7 ベルギー 優勝 ナシ .
5 オランダ ナシ . . 8 東ドイツ ナシ . .
6 ベルギー ナシ 4 . 9 チェコスロバキア ナシ . .
7 東ドイツ ナシ 優勝 . 10 アルスター ナシ 優勝 .
8 アルスター ナシ 2 . 11 フィンランド ナシ . .
9 イタリア ナシ 優勝 . 12 イタリア ナシ R .
10 スエーデン ナシ R(亡命) . 13 日 本 . . .
11 アルゼンチン ナシ . . 1966年 1 スペイン . . .
1962年 1 スペイン 15 R R 2 西ドイツ . . .
2 フランス 7 5 . 3 フランス ナシ ナシ .
3 TTレース 優勝 8 . 4 オランダ 7 . .
4 オランダ 優勝 4 R 5 ベルギー ナシ ナシ .
5 ベルギー 優勝 R R 6 東ドイツ ナシ . .
6 西ドイツ 優勝 R . 7 チェコスロバキア ナシ . .
7 アルスター ナシ R . 8 フィンランド ナシ . .
8 東ドイツ . . . 9 アルスター ナシ . .
9 イタリア . . . 10 TTレース 4 . .
10 フィンランド 4 . ナシ 11 イタリア . . .
11 アルゼンチン 2 . . 12 日 本 . . .
. [全日本選手権] R . . 優勝回数 7 8 0



Degner亡命の真相

 1961年のBelgian GP(7月2日)後の2〜3週間、私は亡命を準備した。妻のGerdaと2人の息子OlafとBorisが亡命に成功し西ドイツ内に居る事が確実になるまで私は亡命する事が出来ない。
 最初、8月13日を亡命日と決めました(Ulster GPが8月12日)。私はレースだけでなく、私の家族を連れ出す事に、最も良い方法を見付けようと全力を注ぐ必要がありました。始めは、私の家族がBerlinの国境を越える事を計画しましたが、壁が作られました。私はUlster GPに飛び、次の日の新聞に、西側は完全に閉鎖され誰もどちらの方向へも国境を通過できない、と書かれていました。
 次に新しい決行日を、9月3日のItalian GPの日と決め、先ず私の家族の安全を確かめた後、私自身が亡命する事としました。しかし、私の家族の亡命計画ができていませんでした。
 次に、新しい決行場所を9月17日のSwedish GPと計画しました。しかし新しい国境規制で、私の家族の逃亡方法を再計画しなければなりませんでした。
 私は西ベルリンと西ドイツの友人達の援助を受けました。彼らが西側で色々計画している間に、私は東ドイツでの問題に対処しました。私の家族がどのようにして逃亡できたか、多くの人に尋ねられましたが、今まで答えた事はありませんが、もう20年にもなりお話してもよいでしょう。
 私の援助者はPetriと云うニックネームの西ドイツ人であり、彼はLeipzig博覧会を訪れている振りをしてHelmstadtの東西ドイツ国境を行ったり来たりしました。まもなく、東ドイツ警備員は一目で彼を認め、彼または彼のLincoln Mercuryリムジンに少し興味を示しました。Mercury車のトランクは2重に仕切られていました。トランクを開くと、半分のスペースしか見えません。他の半分は私の妻と2人の息子が横たわるためのものです。家族の逃亡の日に、私は私の車で東西ドイツ国境から約20キロ手前の、前もって決めておいた地点に家族を連れて行き、そこで家族はMercury車に乗り換えました。
 私には良い医者が居て、私は息子がよく眠れないと彼に言いました。年長の息子は6歳で、幼いのは生後たった六ヶ月でした。私は医者に本当の理由は言いませんでした。彼は息子達を静かにさせておくに十分な、非常に効き目の弱い薬をくれました。 9月13日水曜日に国境への途中で2人の息子は普段よりもっと目を覚ましているように思われました。そのため、薬を2倍にして1錠多く与え、彼らはゆっくり眠りに落ちました。妻が車を乗り換えた時、妻は小さい子供をトランクに移し、私が大きい子供を妻に手渡しました。沢山の毛布を詰め込み、電灯、そして十分新鮮な空気が入るよう2〜3の大きな穴が設けられていました。
 それから私はSassnitzに向かって北にドライブし、そして前もって決めたホテルに泊まり、一晩中いらいらしながら電話を待ちました。その後、私のホテル到着の一時間半前に電話があった事を聞きました。伝言は暗号で、妻と子供が安全に西ドイツに居る事を意味していました。私はすっかり神経質になっていました。というのはもし家族が捕まれば、私は刑務所に入れられたからです。共産党は私の家族が東ドイツを去った事を知らず、私は東ドイツから車で出国することが出来ました。
 私はSassnitzからTrelleborgにフェリーに乗り、それから海岸沿いにSwedish GPの開催地のKristianstadに向けて、車を走らせましたが、子供達に2回分の薬を飲ませたので喜ぶ気分になれず、薬が多すぎて病気になっているかも知れぬと心配になり、私は最初の郵便局で停車し、妻に電話しました。“心配しないで、子供達は全く元気よ。”と妻は言いました。私は安心してKristianstadに向かいました。
 Kristianstadでは、MZチーム全員が同じホテルに泊まり、私はMZチームの車やローリーが全て見れるように、ホテルの前が見渡せる部屋を取りました。
 レース当日の日曜日の朝、全ての人がレースコースへ行くのを待ち、それから階下に下りて私の持ち物を全て車のトランクに押し込みました。そしてレースコースに行きました。何もホテルに残していないので、もうホテルに帰る必要はありません。
 125 cc レースで、私のMZは3周目にクランクが壊れ、リタイヤーしました。これからが、私の亡命の実行でした。
 パドックはレースコースの中にあり、レースとレースの間だけパドックから出て行くことが出来ます。私は500 ccレースが始まる少し前にパドックから出て、Denmarkに渡るフェリー乗り場に向かって南の方角に車を走らせました。
 SwedenからDenmarkに渡るフェリー乗り場で、警官が“貴方はDenmarkに入るビザを持っていない!”と云いました。そこで私は東ドイツでの政治的な立場のため東ドイツから西ドイツへ亡命の途中だと言いました。彼は電話を掛けるので私に待つように云いました。45分程待たされ、2〜3人の人がやって来ました。その時彼らが何処からの人か、警官かどうか、わかりませんでしたが、実は彼らはNATOからのアメリカ人でした。彼らは東ドイツの何か軍事的な内容を知りたがったが、私は何も彼らの助けになりませんでした。30分程話した後、Denmarkに入国する許可をくれました。それから私はフェリーで西ドイツに渡りました。
 私が西ドイツに着いた時、入国管理官は東ドイツのパスポートでの入国と家族と一緒になるためにSaarbruckenへ行くことを許可しました。唯一の条件は必要な書類に記入するため地元の警察署への出頭でした。
 一方、世界選手権レ−スは10月15日の最終戦アルゼンチンGPで、私がT.Phillisの前にフィニッシュすれば125 cc世界チャンピオンシップを獲得する事が可能な状況でした。私はHatfieldのEMCの工場でJoe Ehrlichと会い、125 cc EMCを提供してもらうことの同意を得ました。私は2〜3日間英国のEhrlichの家に滞在し、アルゼンチンに空輸する車を調整しました。しかし私がアルゼンチンのBuenos Airesに到着してから、EMC車はNew Yorkの空港で止められていると聞きました。私の計画をつぶしたのは、東ドイツとアルゼンチン共産党の共謀であると確信しました。これを知ったBultacoから車の提供の話もありましたが、Phillisのホンダに対して余りにも遅すぎると断わりました。その日遅くには、東ドイツのモーターサイクル協会が私のライセンスを取り消したことをFIMから知らされました。このような経緯で、Phillisが世界チャンピオンシップを獲得するレースを眺めることになりました。
Saarbruckenに帰った後、私はGenevaでのFIM審理に出席せねばならなかった。そこで、東ドイツの協会が、私がSweden GPでMZを“故意にオーバードライブ”させて、壊したこと、及びMZの秘密を漏らしてMZの契約を破ったこと、そして東ドイツのレース・ライセンスをもはや必要としない事を東ドイツの協会に通知する事を怠ったことを申し立てていました。私は懲戒を受け、250スイスフラン、約£21の罰金が科せられました。