豪徳寺の秋山邦彦さんのお墓
黒田克祥さんが開設している
「谷口尚巳さん」のHPより引用
(無題) 投稿者:
でり
投稿日: 2002年 5月 8日(水)20時49分31秒
こんにちは。私は豪徳寺のすぐ傍に住んでいる者です。
小さい頃から豪徳寺のお墓が遊び場でした。
そこでいつも気になっていたのが、秋山邦彦さんの銅像でした。
マン島を向いて立っていらしゃる秋山さん。
我が家はお寺の西側にあるものですから、偶然にも我が家の方向を向いていることになり、子ども心にちょっと怖かったこともあります(ごめんなさいね、秋山さん)。
というわけで、私にとっては子どもの頃からとても気になる存在でしたが、
石碑かかれていること以外は知る由もなく、昨日まで過ぎていました。
昨日、レース好きの夫が「今日のプロジェクXはホンダのマン島のレースのことだからきっと豪徳寺にあるあの銅像の人のことがでるんじゃないの」というので、見たのです。
もう、びっくりしました。
秋山さんがあんなに凄いライダーだったなんて。
もちろん、谷口さんはじめ、ホンダの方々の開発への執念も(これはシビックエンジン開発の時と同じですよね)。
銅像だけでしか存じ上げなかった秋山さんがリアルにイメージできました。
今日、早速秋山さんの銅像にお参りしてきました。
秋山さんにもマン島を走ってもらいたかったですね、ってお話してきました。
もう銅像みても怖くないぞ(笑)
番組では、マン島出発直前に事故死した秋山邦彦さんが大きく取り上げられていました。
「プロジェクトX」放送日の翌日に、「谷口さんのホ−ムペ−ジ掲示板」への書き込みの一つ
を紹介します。豪徳寺は小田急線の豪徳寺駅の南500mほどにある大きなお寺で、
秋山邦彦さんの銅像(お墓)があるのですね。井伊直弼の墓もあるようです。
秋山さんについては、黒田克祥さんが開設している「谷口尚巳さん」のホ−ムペ−ジ
の中の「もう一人のマン島TTレース出場メンバー秋山邦彦」をご覧下さい。
中野広之記
黒田克祥さんが開設している「谷口尚巳さん」のホ−ムペ−ジの中の
【プロジェクトXが放送されるまで】をご覧下さい。
日本国内やマン島に出掛けての取材時の写真が掲載されています。
このペ−ジは「NHKからクレ−ム」がつき、1週間ほどの掲載で、残念ながら
閉鎖されてしまいました。
メカニック姿の
キャスタ−の
国井雅比古と
膳場貴子
キャスタ−の
国井雅比古
膳場貴子
河島喜好さん・久米是志さん・八木静夫さん・秋鹿方彦さん・谷口尚巳さん・田中禎助さんなどの最近の姿を久し振りに見ることが出来、非常に懐かしかった。八木さんは1960年にホンダの荒川テストコ−スを借用した時お世話になって以来、久米さんは筆者の大学の1年先輩で48年振り、その他の方々は約35年振りかな。やはり長い年月で容貌が大きく変わった方もおられたが・・・。
谷口尚巳さんはこの番組のため、マン島に取材に行かれたと言うことも聞いていたので、スタジオにも出られることと思っていたのに・・・・・残念でした。
番組の取材協力に「ヤマハ発動機」の名前が出ていたが、放送を見ていても、何に協力したのかな?浅間レ−スの「8ミリフィルム」かな?
放送を見ていると、ホンダさんがTTレ−スに初出場した「1959年125cc」は「1周60kmのマウンテンコ−ス」で開催されたような印象を受けるが、そうではなく「1周17.364kmのクリプスコ−ス」だった。125・250・サイドカ−のレ−スが「マウンテンコ−ス」で開催されるようになったのは、1960年からである。その他にも、幾つか史実と異なるようなこともあったようだが、・・・これもやむを得ないことかな。でも真実を正確に伝えたい・・・気がする。
2002年5月8日記
河島喜好監督(2代目ホンダ社長)と
エンジン設計を担当した久米是志氏
(3代目ホンダ社長)
写真はクリックすると、拡大表示されます
◆スタジオ写真
〜マン島・オートバイにかけた若者たち〜
「制覇せよ 世界最高峰レース」
「タイトル」が変ったが、本文は前記の「放送予定の記事」と同じ。
そして、スタジオ収録の写真2枚が追加された。
第86回 2002年5月7日放送(放送後のNHKホ−ムペ−ジ)
人類の歴史と文明を劇的に変えたのは「フロジェクト」である。
「プロジェクトX」は、熱い情熱を抱き、使命感に燃えて、戦後の画期的な事業を実現させてきた「無名の日本人」を主人公とする「組織と群像の知られざる物語」である。
今も記憶に新しいあの社会現象、人々の暮らしを劇的に変えた新製品の開発、日本人の底力を見せ付けた巨大プロジェクト・・・。戦後、日本人は英知を駆使し、個人の力量を“チームワーク”という形で開花させてきた。戦後日本のエポックメイキングな出来事の舞台裏には、いったいどのような人々がいたのか。成功の陰にはどのようなドラマがあり、数々の障害はいかなる秘策で乗り越えられたのだろうか。
番組では、先達者たちの「挑戦と変革の物語」を描くことで、いま、再び、新たなチャレンジを迫られている21世紀の日本人に向け「挑戦への勇気」を伝えたいと考えている。
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◆1961年 完全制覇したマシン
◆レース直前 最終
調整するメカニック
◆1959年 マン島TTレース
に初挑戦したライダーたち
◆レース用エンジン第一号
しかし馬力は“ゼロ”だった
〜オートバイ・世界最高峰レース制覇〜
「マン島へ 疾走せよ」
第86回 2002年5月7日放送予定(放送日前のNHKホ−ムペ−ジ)
昭和36年、日本製のバイクが世界の度胆を抜いた。オートバイのオリンピック「マン島TTレース」で、ホンダのマシンが1位から5位を独占した。日本初の快挙の裏には「友の夢を果たす」という男達の誓いがあった。
昭和29年、本田技研工業は経営危機に陥っていた。不況と相次ぐマシントラブルへのクレーム。ある日、本田宗一郎はみかん箱の上に立つと従業員の前で宣言した。「オートバイ最高峰のレースを制覇し、日本の若者に希望を与える」
レース用のマシンの開発は、河島喜好ら若き技術者に託された。
斬新なアイデアを盛り込み試作したエンジンは、思うように動かず、馬力ゼロだった。
「日本人が勝てるわけがない」屈辱をバネに出場した前哨戦、惨敗だった。
ライダーは社内から公募した。限界までコーナーを攻め続けた秋山邦彦。海外から、マン島レースの実況を録音したレコードを取り寄せ、手探りでレースの戦略を練った。開発現場に足繁く通
い、設計に注文をつけた。
開発から5年、マン島へ飛び立つ直前、悲劇が襲った。映画の撮影に協力するため箱根を走っていた秋山が、トラックと正面
衝突。帰らぬ人となった。河島たちメンバーは、秋山の遺髪をマン島全景が見渡せる小高い丘に埋め、優勝を誓った。
しかし、結果は最高6位。ヨーロッパ車との性能の差は歴然だった。それから2年、技術者達はマシンの開発に全てを賭けた。1000分の1秒の狂い無く動くエンジンの設計。何万通
りを数えるギアの組み合わせ。そしてライダー達は、石をつめたリュックをかつぎ、高速コーナーに耐えうる足腰を鍛えた。
そして昭和36年6月12日、秋山の志を胸に運命のスタートラインに立った。
後に「まるで時計のような精密さ。アイデアに満ち溢れた完璧なエンジン」と世界から絶賛されたマシンが、出走の時を待っていた。
※
イギリスのマン島TT(ツーリング・トロフィー)レースが始まったのは1907年。
1周60キロ、高低差400メートル、219のコーナーが連続する難コースを3周する。毎年、死傷者が続出。「マン島を制するバイクは世界最高のマシン」と言われた。