第141回 平成16(2004)年4月13日放送

                 「不屈の町工場 走れ魂のバイク」

 日本最大のバイクレース「鈴鹿8時間耐久」。日本の4大メーカーは、最新鋭のマシーンを送り込み、凌ぎを削る。かつてここに、わずか数人の小さなチームで大メーカーに挑んだ町工場があった。

 バイクのエンジン部品を手作業で改造する小さな工場「ヨシムラ」。親父の名は、吉村秀雄。マフラーやカムシャフトなど、たちまち奇跡の部品を生み出すその手は、「ゴッドハンド」と言われた。

 吉村の部品には、世界のメカニックも真似の出来ない技術が吹き込まれている。「ヨシムラ」は、あの本田宗一郎さえも脱帽した町工場なのだ。
 しかし、この町工場が世界に認められるまでには、長い苦難の道のりがあった。

 吉村秀雄は、九州・博多の鉄工所の次男。戦前、史上最年少の19歳で「航空機関士」に合格したが、敗戦で技術を発揮する場が失われ、生きる目標を見失っていた。そんな吉村に、昭和29年、運命の出会いが訪れる。進駐軍の兵士からレース用にと、バイクの改造を依頼された。

 バイク・エンジンの躍動感や加速感。かつて我を忘れて取り組んだ飛行機と似ていた。「これだ」と確信した吉村は、早速、バイクのチューンナップに乗り出した。家族総出で取り組んだヨシムラのマシーンは、レースで驚異のタイムを叩きだした。

 勝利を重ねる町工場「ヨシムラ」の名は、瞬く間に全国に広がった。やがて、ホンダから部品を提供してもらいマシーンを改造するという契約を果たした。
 
 しかし、間もなく危機が訪れた。「吉村はライバルだ」。自らレース専門会社を設立したホンダは吉村との契約を断ち、部品の提供をストップ。吉村は孤立した。

 さらに、工場の未来を懸け、アメリカの市場に飛び込んだが、共同経営者に会社を乗っ取られる。再起を掛けた新工場も火事で焼失。吉村自身も技の命・両手が動かぬ瀕死の重傷を負った。

 絶体絶命のピンチ。その時、吉村の前に現われたのは、「レースで勝ちたい」と願うバイクメーカーの技術者だった。吉村は家族と共に、一発逆転を掛け、昭和53年「第一回鈴鹿8時間耐久レース」に打って出る……。

 番組は、技術一本に突き進んだ吉村秀雄とその家族の生き様を取材。大メーカーに立ち向かった町工場の壮絶な物語を描く。

◆バイクの改造一筋・
吉村秀雄さんその技術は
「ゴッドハンド」と呼ばれた。
◆大メーカーに挑んだ
吉村さんの工場の人たち
◆「第一回・鈴鹿8時間耐久レース」
に出場した吉村さんのマシーン。
(スズキGS1000の改造車)
◆スタジオ写真



「http://www.chez.com/racingmemo/MOTORSPORT/MOTO_SOMMAIRE.htm」による

鈴鹿8耐 歴代優勝者
回数 西暦 ライダー名 国籍 マシン
1 1978 Wes COOLEY USA SUZUKI GS 1000
Mike BALDWIN USA (Yoshimura Racing Group)
2 1979 Tony HATTON AUS HONDA CB 900
Mike COLE AUS (Team Honda Australia)
3 1980 Wes COOLEY USA SUZUKI GS 1000
Graeme CROSBY NZ (Yoshimura R&D)
4 1981 Mike BALDWIN USA HONDA
Dave ALDANA USA
5 1982( 6H) 飯嶋茂男 J HONDA
萩原紳治 J
6 1983 Herv? MOINEAU F HB-SUZUKI
Richard HUBIN B
7 1984 Mike BALDWIN USA HONDA
Dave ALDANA USA
8 1985 Wayne GARDNER AUS HONDA
徳野政樹 J
9 1986 Wayne GARDNER AUS HONDA VFX 750
Dominique SARRON F
10 1987 Martin WIMMER D YAMAHA YZF 750
Kevin MAGEE AUS
11 1988 Kevin MAGEE AUS YAMAHA YZF 750
Wayne RAINEY USA
12 1989 Dominique SARRON F HONDA RVF 750
Alex VIEIRA F
13 1990 Eddie LAWSON USA YAMAHA YZF 750
平忠彦 J
14 1991 Wayne GARDNER AUS HONDA RVF 750
Michael DOOHAN AUS
15 1992 Wayne GARDNER AUS HONDA RVF 750
Daryl BEATTIE AUS
16 1993 Scott RUSSELL USA KAWASAKI
Aaron SLIGHT NZ
17 1994 Doug POLEN USA HONDA RC 45
Aaron SLIGHT NZ
18 1995 Aaron SLIGHT NZ HONDA
岡田忠之 J
19 1996 Colin EDWARDS USA YAMAHA
芳賀紀行 J
20 1997 伊藤真一 J HONDA
宇川徹 J
21 1998 伊藤真一 J HONDA RC45
宇川徹 J
22 1999 岡田忠之 J HONDA
Alex BARROS BR
23 2000 宇川徹 J HONDA VTR 1000 SP-W
加藤大治郎 J
24 2001 Valentino ROSSI I Cabin-HONDA VTR 1000 SP-W
Colin EDWARDS USA
鎌田学 J
25 2002 加藤大治郎 J HONDA
Colin EDWARDS USA
26 2003 生見友希雄 J HONDA VTR 1000 SPW
鎌田学 J (Team Sakurai Honda)
27 2004 宇川徹 J HONDA CBR1000RRW
井筒仁康 J Seven Stars Honda 7
28 2005 宇川徹 J HONDA
清成龍一 J
29 2006 辻村 猛 J HONDA
伊藤真一 J
30 2007 加賀山就臣 J SUZUKI GSX-R1000
秋吉耕佑 J ヨシムラ スズキ with JOMO
31 2008 清成龍一 J DREAM Honda Racing Team
Carlos CHECA ESP HONDA CBR1000RR



「http://www.suzukacircuit.jp/8tai/」による

第1回 1978年

初代勝者はクーリー/ボールドウィンのヨシムラレーシンググループ!!

 スタートから快走し、レース序盤でほとんどのチームを周回遅れにしたクーリー/ボールドウィン。だが、レース序盤でのピット作業でトラブルが発生。ポールシッターで、2ストロークレーシングマシンのヤマハTZ750改を駆る杉本/エムデが逆転するが、この杉本/エムデもその後のピット作業で手間取ってしまい、クーリー/ボールドウィンが再逆転。
これで、194周を走破したクーリー/ボールドウィンが初代覇者となり、2位に杉本/エムデ。そして3位には、途中、ガス欠でスプーンカーブからマシンを押して戻ってきたハットン/クロスビーが入った。

第3回 1980年

ヨシムラの作戦勝ち!! スペンサー、ローソン初登場!!

 レース序盤の混戦からクロスビーとアルダナが抜け出す。しかしアルダナはマシントラブルでリタイア、代わってクーリー/クロスビー、ハンスフォード/ローソンのトップ争いへ。
レース中盤、ローソンが転倒、クロスビーはピット作業に手間取るなど、両チームともにタイムロスをしながらの戦いとなったが、最後のライダー交代の際、クロスビーはクーリーと代わることなくガス補給のみでピットアウト。ラップタイムは、クーリーよりもクロスビーのほうが勝っていたからの作戦で、これが奏功して優勝。ハンスフォード/ローソンは2位。初参戦のスペンサーはマシントラブルでリタイアとなった。



「http://www.suzukacircuit.co.jp/8tai/his01.html」による

1978ー1982年の鈴鹿8耐

 鈴鹿8時間耐久ロードレース。この歴史ある一戦が初めて開催されたのは1978年のこと。1977年には、鈴鹿8耐の前身とも言える6時間耐久ロードレースが行われて大盛況を博す。と同時に、これはモータースポーツ界がオイルショックから復活したことをアピールするのに十分なものだった。
 こうした背景から、1978年に第1回鈴鹿8時間耐久ロードレースが開催される。ここには、海外からライダーやチームが参加。そしてホンダは、世界耐久選手権シリーズでチャンピオンを獲得したRCBを投入して、必勝体制を整えてきたのである。
 しかし、記念すべき第1回大会を制したのは、アメリカのスーパーバイクで活躍し、コンストラクターとして名高いヨシムラだった。ヨシムラ・チューニングが施されたスズキGS1000を、ウエス・クーリーとマイク・ボールドウィンが豪快かつ巧みに操り、194周を走破して優勝。
 そしてこのヨシムラの勝利が、以降の鈴鹿8耐でのコンストラクター(プライベーター)vsメーカーという戦いの構図を決定づけたといっても過言ではない。
 翌1979年は、ホンダが前年の雪辱を晴らす優勝を遂げる。だが、1980年は、再びヨシムラ旋風が吹き荒れ、ウエス・クーリーとグレーム・クロスビーがヨシムラ・チューンのスズキGS1000を駆り、200周を走破して2勝目をマークしたのである。なお、この1980年には、当時はまだ日本で無名に近かったが、のちに世界を舞台に大活躍、偉大なチャンピオンとして永遠に語りつがれるフレディ・スペンサー、エディ・ローソンらが参戦した年としても知られている。
 そして1981年、優勝はホンダRS1000を駆るマイク・ボールドウィンとデビッド・アルダナのものとなった。しかし、予選では、また新たなヒーローが誕生した。そう、モリワキからモリワキ・モンスターを駆り出場したワイン・ガードナーが、なんと2分14秒76という驚異的なタイムを記録して、ポールポジションを獲得したのである。コース全長が6.00415kmだった1978〜1982年のポールポジション・タイムは、2分17秒台というのが平均的だった。そうした時代の、いきなりの2分14秒台は、どれだけすごいタイムかは容易に察しがつくというものだ。
 1980年のスペンサー、ローソン、さらに1981年のガードナーらは、1980年代後半から90 年代前半を代表する世界グランプリ・ライダーとして知られている。なかでもガードナーは、鈴鹿8耐での活躍が契機となって世界グランプリへの出場を果たしたとも言われており、“世界”への登竜門として、鈴鹿8耐はより以上に全世界から注目されることになる。
台風が鈴鹿サーキットを直撃した1982年は、レース時間が8 時間から6 時間に短縮された。もちろんこれは、現在までの鈴鹿8耐の歴史上、最初で最後の出来事である。そしてこの6時間レースでは、ホンダCB900Fを駆る飯嶋茂男と萩原紳治が優勝を遂げ、6時間という短縮されたレースながら、史上初めて日本人ライダーのペアが表彰台の中央に立つことになった。

1983−1991年の鈴鹿8耐

 1983年、耐久王として知られるエルブ・モアノーがリカルド・ユービンとのコンビで鈴鹿8耐初優勝を遂げる。そして翌1984年からは、コカ・コーラとのパートナーシップにより"コカ・コーラ" 鈴鹿8時間耐久ロードレースとしての開催となるが、ここで優勝したのが、通算3勝目となるマイク・ボールドウィンだった。そして1985年を契機に、いよいよ"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐は大きな変貌を遂げることになる。
 1985年、世界グランプリを引退した“キング”ケニー・ロバーツが平忠彦とチームを結成して"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐に参戦してきたのだ。そしてこの頃から、世界グランプリの現役トップライダーが多数参戦を開始して、アベレージスピードは飛躍的に向上していく。
 同時に、ヨーロッパを中心に開催される世界耐久選手権で勝つために重要なファクターとなる『安定したペース』の定説は崩壊を迎え、『スプリントレース並みの速さでの安定』こそが"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐を制する新基準となった。これが"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐が【スプリント耐久】と呼ばれるようになった由縁でもある。
 この1985年、ホンダRVF750を駆るワイン・ガードナーと徳野政樹が優勝するが、もうひとつ、ファンにとっては忘れられないドラマがあった。そう、全世界が注目したケニー・ロバーツと平忠彦の悲劇である。午後7時30分のチェッカーまで残り約30 分となったところで、ヤマハFZR750が停止してしまったのだ。そしてここから、平は悲劇と戦い続けることになる。
 ガードナーが"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐で2勝目をマークした1986年、平はクリスチャン・サロンとのコンビで出場するがリタイアに終わる。翌1987年に平は、ケガによりライダーとしてではなくチーム監督として登場。そして平が率いるマーチン・ウィマーとケビン・マギーが優勝したが、ライダー平にとって、これは皮肉な結果であったと言えるだろう。その後、平はライダーとして"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐に出場し続けるが、栄冠を手にしたのは1990年、エディ・ローソンとのペアのときだった。
 さて、世界グランプリ・ライダーたちが主力を形成するなかで、平が勝利を収める前年の1989 年に優勝したのがドミニク・サロンとアレックス・ビエラの耐久スペシャリストだった。
 そして、このとき2位となったのが宮崎祥司と大島正の日本人コンビであり、翌1990年にも同様のペアで2位を獲得すると、この頃から"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐での日本人コンビの優勝が悲願となりはじめる。台風が直撃した1982年には、飯嶋と萩原の日本人ペアが優勝している。しかし、このときはレースが6時間に短縮されており、8時間フルタイムの戦いでの日本人ペア優勝はなかったのである。
 1991年、全日本TT-F1で前年のチャンピオンを獲得した岩橋健一郎と、同ランキング2位の宮崎祥司がペアを組み出場。"コカ・コーラ" 鈴鹿8 耐で日本人ペアの優勝を狙うには、考えられる最高の布陣だった。しかし、天候の急変などによって宮崎と岩橋のペアは結果的に低迷してしまった。そしてここで優勝したのは、ガードナーとミック・ドゥーハンであり、世界グランプリ・ライダーの実力を見せつける結果となった。

1992−1999年の鈴鹿8耐

 1992年、この年を最後に"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐からの引退を宣言して挑んだガードナーが、ダリル・ビーティーとのペアで4勝目をマークする。そしてこの4勝という記録は、現在もなお"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐の最多勝記録として破られてはいない。
 翌1993 年、TT-F1レギュレーションによる最後の年に、カワサキZXR-7を駆るスコット・ラッセルとアーロン・スライトのペアが優勝。カワサキにとっては、これが"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐初制覇だった。そして1994年には、"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐史上空前のバトルが展開される。
 1994年、"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐は変貌を遂げる。参加マシンのレギュレーションがスーパーバイクとなり、同時に、予選にはスペシャルステージが採用された。そしてレースでは、前年の勝者でホンダに移籍したスライトと、カワサキから継続参戦するラッセルが、激しい戦いを演じたのである。なんと、午後7時30分のチェッカーを迎えたとき、トップでゴールしたダグ・ポーレンとスライト組と、2位のラッセルとテリー・ライマー組とのタイム差は僅かに0.288秒差だったのである。この年は、レース途中で鈴鹿8耐史上初めての赤旗中断があり、レースタイムは7時間を切るものだったが、この年の激しい戦いを記憶にとどめているファンも多い。
 1995年、スライトが"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐3連勝を達成。この連勝記録はもちろん大会新となるが、このときスライトのパートナーは岡田忠之が務めており、日本人ライダーが優勝したのは1990年の平以来の出来事であった。また、2位には伊藤真一と辻本聡、3位には柳川明と藤原克昭、4位には藤原儀彦と吉川和多留のペアが入り、再び日本人ペアによる"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐制覇の期待が高まっていく。そして翌1996年には、ヤマハのコーリン・エドワーズと芳賀紀行ペアが214 周の最多周回数記録を樹立して優勝。さらに、"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐史上最年少ペア、芳賀にとっては21歳146日で最年少勝者と、まさに記録づくめの優勝となった。
 そして迎えた1997年、いよいよ日本人ペアによる"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐制覇の瞬間が訪れた。その立て役者となったのが伊藤真一/ 宇川徹だった。この年は、“スプライトクール”鈴鹿8耐に名称を変えたが、土曜日の予選は台風9号の影響で中止になるという波乱があり、さらに決勝レースでは気温が24℃前後までしか上がらず、雨が降ったり止んだりという難しいコンディションだった。こうしたなか、伊藤と宇川は終始安定したペースで走り続けての栄冠であった。
 翌1998年と1999年は、“スプライト”鈴鹿8耐として開催。その1998年は伊藤と宇川のペアが前年に続いて優勝。同一ペアによる連覇は、これが初めてのことであった。また、1999年は岡田とアレッシャンドレ・バロスが優勝。岡田にとっては1995年以来の2勝目、バロスにとっては1997年から連続2位となっているだけに、悲願の優勝となった。

2000−2003年の鈴鹿8耐

 2000年からは、再び"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐としての開催となるが、ここにバレンティーノ・ロッシが登場して注目を集める。ロッシは、"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐で優勝経験を持つエドワーズとのコンビで出場。スペシャルステージで6 番手となったエドワーズとロッシ組だったが、決勝ではそれぞれ1回ずつの転倒により、121周でレースを終えてしまった。
 この2000年の"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐を制したのは、宇川と加藤大治郎だった。215周の大会新記録となる周回数を樹立。さらに、宇川にとっては通算3 勝目となる優勝で、これはガードナーの持つ最多優勝記録の4勝に、現役ライダーとして唯一迫るものとなった。
 翌2001年、ロッシが世界グランプリの500ccクラスチャンピオンの肩書きを持って"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐に戻ってきた。この年は、1チーム2 〜 3名のライダー登録となったが、ロッシは前年に続いてエドワーズと、新たに鎌田学を加えての戦いとなった。そして、スペシャルステージでは2番手に甘んじるものの、決勝レースでは217周を走破して優勝を遂げたのである。
 2002年、記念すべき25周年大会の新たな戦略が"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐に登場する。ホンダのワークスチームが、6回ピット作戦を採用したのである。従来であれば、ひとり約1時間の走行ごとにライダー交替することから、通算7回のピットインとなっていた。しかし、ホンダは慎重な燃費計算により、ひとり約1時間20分走行でのライダー交替を敢行してきた。ライダーへの負担は増えるが、ピットインの回数を減らすことでさまざまなリスクを回避できるという発想だ。そして、これが見事に功を奏し、加藤とエドワーズのペアが新記録となる219周を走破して優勝。2位の玉田誠と岡田、3位のバロスと武田雄一までもが219周を走破する結果となった。
 そして2003年の第26回大会で総合優勝を遂げたのは、スーパーバイクマシンのホンダVTR1000SPWを駆るTeam桜井ホンダの鎌田学/生見友希雄だった。そして総合2位には、JSB1000マシンのヤマハYZF-R1で戦ったYSP&PRESTOレーシングの中冨伸一/吉川和多留。さらに3位には、ホンダCBR954RRベースのXX-Formula Division1 マシンで出場したF.C.C. ZIP-FM RACING TEAMの辻村猛/伊藤真一となり、総合表彰台には、それぞれ異なったカテゴリーのマシンを駆るライダーたちが並ぶことになった。もちろんこれは"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐史上初めてのことであり、同時に、メーカー直系のワークスチームが表彰台から姿を消すという異例のものでもあった。そして、こうした事実は、まさに"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐が新局面を迎えたことを意味していると言っても過言ではない。
 これまで、"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐で圧倒的に優位な立場を保ってきたワークスチームだが、昨年は、全日本ロードレースのメインカテゴリーがJSB1000に移行したのを受けて、各ワークスチームは活動を停止。
 同時に、"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐にワークス体制で参戦したのは、セブンスター・ホンダを結成したホンダ・ワークスの2チームのみとなった。これにより、"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐のひとつの見どころとなっていたワークス間バトルは姿を消したが、一方で、コンストラクターやプライベーター勢の闘争心が一気にヒートアップした。なぜなら、これまでの"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐では、多くのワークスチームが参戦していたために、プライベーター勢の目標は「一桁(9位)ゴールないしは6位入賞」が精一杯だった。しかし、ワークスが2チームとなった昨年は、表彰台の3位の座はおろか、一番高い位置を目指しての戦いが可能となったからだ。
 さて、今年(2004年)の"コカ・コーラ" 鈴鹿8耐では、まだワークスチームの動向は不明である。しかし、コンストラクターやプライベーター勢にとって、上位入賞さらには表彰台獲得のチャンスが広がっていることは事実であり、その創生期から脈々と受け継がれるメーカーvsプライベーターという戦いの構図を、より鮮明に打ち出し始めたと言える。



http://www.mobilityland.co.jp/8tai/history/2007.htmlによる


第30回 2007年

ヨシムラがTEAM HRCを破った! 加賀山と秋吉が、新生ヨシムラに27年ぶりの鈴鹿8耐優勝をプレゼント!!

午前11時30分に、恒例のル・マン式スタートで始まった
"コカ・コーラ ゼロ"鈴鹿8耐。

第1コーナーに真っ先に飛び込んだのはヨシムラスズキ with JOMO 34 の加賀山就臣で、2番手にはTEAM HRC 11 清成龍一、3番手にはYAMAHA RACING 81 阿部典史が続く。

加賀山はスタート直後から2分09秒台のハイペースで周回を重ね、2番手以降を引き離しにかかる。このペースについていくのは清成のみだったが、その清成も周回遅れが出始めた頃から少しずつ引き離されてしまう。

一方、ポールポジションからスタートしたTEAM HRC 33 岡田忠之は、5番手からトップを追う形となったが、なんとその岡田はスタートの際にフライングを犯してしまい30秒のピットストップペナルティを受けてしまう。これで、TEAM HRC 33 は優勝争いから大きく遅れをとる形となってしまった。また、スタート後に3番手にまで順位を上げた急募.com team HARC-PRO. 安田毅史は、スプーンカーブ立ち上がりで周回遅れと絡んで転倒、優勝争いから脱落してしまう。

レース終盤に入っても、2分11秒台という安定した速さで周回を重ねるヨシムラスズキ with JOMO 34 は、残り1時間15分となった185周目に2番手のTEAM HRC の背後に接近。慎重に抜くチャンスを伺った加賀山は、188周目のヘアピン手前で岡田をパス。これでヨシムラスズキ with JOMO 34 は、参加全車をラップ遅れとしたのである。

一方、レースも残り1時間を過ぎたとき、5番手を走っていたYAMAHA RACING 81 ジェイミー・スタファーがピットイン。マシンからオイルが漏れるトラブルが起こっており、その補修作業に4分を費やして順位を下げてしまう。これで5番手にはモリワキ MOTUL レーシング 山口辰也が上がり、結果、モリワキ MOTUL レーシングはこの順位をキープしてチェッカー。

さて、ヨシムラスズキ with JOMO 34 は、夜間走行でも危なげない走りで周回を重ねると、いよいよ午後7時30分にチェッカー。216周を走り切ったヨシムラは、鈴鹿8耐の第3回大会以来、実に27年ぶりとなる優勝を遂げた。そして2位にはTEAM HRC 33 が入り、3位は昨年の優勝チームF.C.C.TSR ZIP-FM Racing Team が2年連続で表彰台を獲得した。



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