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SUZUKI M40/TR50

 GPの舞台を席巻する、RMレーサーの技術を受け継いだM40/TR50は、プライベーターたちの手に届かぬまま退場した悲運のモデルとも言えよう。

一般市場に届かなかった市販レーサー

 保安部品付きの公道用スーパースポーツモデルのM40、スクランブル(モトクロス)レーサー仕様のM40改、そしてロードレーサー仕様のMR41と、3つのバリエーションからなるM40系モデルがスズキから発表されたのは、`63年秋の第10回東京モーターショーだった。世界GPロードレースで活躍するスズキの50cc市販レーサーというこれらのモデルが、モーターショー会場で多くの人の注目を集めたのは言うまでもない。
 GP用RM系が当時のレーシング技術のトレンドに乗っ取り、吸入方式にロータリーディスクバルブを採用していたのに対し、M40系はオーソドックスなピストンバルブ方式を採用していた。ボア×ストロークは42×37.5mmで、これもRM62/63とは異なる数値だった。しかし公表された性能は、RMの血統を想起させるに十分なものだった(公道モデルのM40が6.5ps/9000rpm、ロードレーサーのMR41が8.5ps/11500rpm)。
 クランクケースはM40、MR41ともに共通で、RM系同様の砂型鋳造の上下2分割式。中に収まるミッションは、1速がスタート専用のかなりローギアードなもの。そして2〜6速がクロスレシオとなっており、M40、M41ともに共通だった。クランクケース右側からギアでタコメータードライブと点火用マグネトーを駆動するレイアウトはRM系と共通だが、充電系の発電機をクランクシャフト左端に備えるのは、保安部品付き公道車であるM40ならではの装備だろう(MR41には発電機が付いていないが、取り付けスペースはクランクケースに残っている)。
 シリンダーまわりの部品は、M40とMR41とは異なるものが多い。シリンダーはM40用は鋳鉄製だが、MR41はより放熱性に優れる鋳鉄スリーブ+アルミシリンダーを採用。またポートは内面が研磨され、タイミングと形状もロードレーサーに適した設定となっていた。そして、これに組み合わされるピストンも、M40、MR41両者のポートタイミングの違いから、吸・排気側双方のスカート長が違っている。キャブレターはともにミクニ製を採用しているが、M40用は20mm口径のアマルスタンダード、MR41は22mm口径のM型レーシングをそれぞれ装着している。
 車体は、50cc用としては贅沢なダブルクレードル型フレームを採用。M40はこの骨格に当時の運輸省保安基準を満たした、セミアップハンドル、シングルシート、セミロングタンクを装着。MR41はM40をベースに、クリップオンハンドル、ストッパー付きシート、フェアリング、レーシングステップ、そしてアルミリムが、それぞれ換装された。
 先に登場したホンダCR110を凌駕するモデルとして、多くのライダーはその市販化を待ちわびた。しかし、彼らの期待を裏切り、M40系モデルが正式に市販されることはなかった。その理由は定かでないが、ビジネスの観点から充分な投資対効果が望めない、という判断が社の上層部にはあったのだろう。
 再びM40系が市販化が取沙汰されたのは、数年後のことだった。輸出専用市販レーサーとして、MR41の改良版、であるTR50(MR43)が`68年シーズン向けに発表されたのである。TR50はMR41をベースに、いくばくかの改良を施したモデルだった(ピストンリング溝の下に焼き付き防止のオイル保持溝を設置。フレーム・スイングアーム各部に補強追加。前後リムにより軽量な古賀製リム=RK67と同じものを採用)。
 だが、TR50も結論から言えば先のM40、M41同様、量産レベルに移されることはなかった。発表後、英国から20台分のオーダーを受けてTR50は生産されたが、出荷直前になって正式な輸出販売中止の決定が下された(現在国内に残るスズキ50cc市販レーサーは、このとき作られたTR50なのだが、それは輸出をキャンセルされたTR50が、日本国内に出回ったためであろう)。
 繰り返し一般の市場で販売される機会を失ったM40系/TR50だが、その姿が多くのモータースポーツファンの目に、まったく晒されないわけではなかった。
 M40系発表当初から、日本国内各地のスクランブルレース会場では、城北ライダースやマウンテンライダースなどのスズキ系レースチームから、M40系を改造したモトクロッサーが出走し、数々の好成績を残している。また`67年のマン島T.T.50ccクラスでは、ワークススズキRK67ツインに乗るS.グラハム、H.G.アンシャイトに次いで、(平均時速にして20km/h以上の大差ながら)T.ロブの乗るTR50が3位表彰台を獲得している。
 単気筒時代のワークスRMレーサーの活躍ぶりから推察するに、もしM40系/TR50が信頼性を確保したうえで、ホンダCR110ほど量産(約250台)されていたら、おそらく世界各地のサーキットにて、CR110以上の活躍が期待できただろう。また、`69年からの50ccクラスにおける気筒数・変速機段数制限(単気筒・6速まで)施行により、M40系/TR50の市販レーサーとしての価値は、相対的にアップしていたに違いない。ともあれ歴史にもしも、はない。今日わずかな台数が生き残るM40系/TR50は、`60年代から今日に至まで、“幻のレーサー”という評価を、受け続けていることだけが、紛れもない事実なのだから…。
 なお、M40系/TR50の発展型であるX13というプロトタイプも存在したが、このモデルの資料は今日確認されてはいない。変速機は8段。よりショートストローク化されたエンジンは、外観的にはシリンダーフィンが1枚少ない(7枚)、マグネトーの搭載位置が後方に移動したなど…これらM40系/TR50との違いが、伝聞で伝わるのみである。

希少な保安部品付きのM40。ステアリングロックが付くステアリングパイプには、フェアリングマウント用のボルト穴が設けられており、そのルックスは実にユニークに思える。チェーンケース、バッテリートレー、ツールボックス、そしてイグニッションキーの存在も、また然りだ。撮影車にはキックペダルが付いていないが、本来はクランクケースカバー、クラッチリフター斜め前下のシャフトに、前踏み式のものが装着されるのが正規の姿だ。
レーシングモデルのフレームに、GPテクノロジー由来の高性能エンジンを搭載。シリンダー背面に出っ張ったマグネトーを避けるように、独特の形状のエアクリーナーが装着されている。車体右側のステップ・ステーはマフラー吊り下げに使われ、M40用のステップは公道モデルとしては常識的な、前寄りの位置にセットされている。
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(上)海外市場への輸出用、として企画されたTR50。だが輸出販売計画が途中で中止されたため、国内に出戻った完成車の何台かは、スズキ系チームの手に渡りロードレース/モトクロスに使われたりもしている。

(左)TR50の基本設計は、M40を踏襲するもの。M40が鋳鉄シリンダーを採用するのに対し、TR50はMR41同様アルミシリンダーを装備。またキャブレターはM40のM20Hに対し、M22Hを装着する。
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開発者が語る スズキ50ccグランプリ発展史

 GPの最前線にRMシリーズを送り出した開発者たちは、当時自身の作品を、そして協力なライバルたちをどのように評価していたのか? そんな観点を交えながら、初期の50cc単気筒開発秘話を、元スズキチームのおふたりに語っていただいた。

`50年代のスズキ・ロードレース活動黎明期より、ロードレーサーのエンジン開発に従事。氏が管理する、自らの体験に基づき、当事者ならではの秘話を交えたウェブサイト「日本モーターサイクルレースの夜明け(スズキの挑戦の記録)」=http://www.iom1960.com/は、すべてのGPファン必見のコンテンツを満載する。 浅間時代からスズキのレース活動の中心となった「研究3課」に所属し、幾多のロードレーサー開発を担当。チューニングの達人として、気難しいことで知られるE.デグナーより、全幅の信頼を得た数少ないエンジニアのひとりでもある。 当時の激務を克明に示した中野氏の記録ノートを元に、記憶をたどる両氏。この取材日の直後には、当時レース活動に関わったOBらのによる定例の集い=研三会が開かれたという(その模様を取材できなかったのは、実に残念)。 RM62に跨がるE.デグナー。彼はスズキ2ストロークグランプリマシンの躍進に、多大な影響を与えたライダーでもある。
`63年マン島T.T.50ccクラス、日本人による初のマン島制覇に向け、疾走する伊藤光夫+RM63。彼の地のセンターポールに日の丸が掲揚されたのは、現時点これが最初で最後である。 `64年アッセンのダッチT.T.50ccクラスにて、RM64を駆る森下勳(2)と伊藤光夫(3)、レースは首位を走るアンダーソンがトラブルで脱落し、直後につけていたホンダのR.ブライアンズが優勝。続いて森下、伊藤の順でスズキ勢が表彰台を獲得した。

典型レイアウトの完成まで

 クラス3連覇の成績が示すとおり、単気筒のRMはそのデビュー年から最終年まで、常に他メーカーが繰り出すライバルマシンとのアドバンテージを保ち続けることに成功している。一体その速さの秘密はあの小さなエンジンの中の、どこにあるのだろうか? 
中野「最初のRM62の出力目標は、9psでした。これは`61年度の欧州50cc選手権の情報を元に、設定した目標値です。GP50ccは新設されたクラスですので、シーズンが開幕してみないとこの目標が正しかったのかは判断できませんでしたが、結果的にはその見込みは間違っていなかったと思います。ただ、最初にエンジンを動かしたのが`62年の3月と遅かったので、開幕までに時間がないため大した検討はできず、当初のモデルは9psにはちょっと足りませんでした。日本から送られてきた対策部品を組んで、デグナーが優勝したマン島T.T.のときに8.5psで、その後のレースでは目標を達成する9ps以上の出力を出せるようになったのです」
 初代RM62より、全RM単気筒に共通するエンジンの特徴にクランクケースの形式がある。一般に当時の単気筒エンジンは左右分割式を使っているが、RM単気筒の場合は一貫して上下分割式だった。
中野「左右割りと上下割りを、比較検討した記憶はないですね。最初に悩むことなく、上下割を選びました」
神谷「RM62は8速ですが、多段ミッションやるなら、上下割のほうが何かといいんです。
段数が増えるとシフトフォークが増え、シフトカムが大きくなるので、これを左右割りケースで組み立てようとすると、大きなスペースが必要になります。4、5速ならそれぞれ2、3本で済みますが、8速だと5本のシフトフォークが必要になります」
中野「RM62は8速で、パワーバンドも狭くなく、回転数もさほど高くないので、乗り難くはなかったと思います。RM63からは9速になりますが、私はより多いほうがいいと思って10速を提案したんです。ただデグナーは反対し、9速でいいと言いましたが…」
神谷「当時の技術ではパワーバンドやトルクピークを、現代のエンジンのように広くはとれませんでした。またトルクとパワーのバンドは大体同じくらいの回転数でしたので、そこを外すと再び回転数を上げるのに時間がかかってしまいます。クライドラーは手動3×足動4の12速を採用していましたが、小排気量でいかに速く走るかを考えると、多段ミッションが必要だったんです」
中野「最初作ったRM62用8速は1、2速低すぎました。経験がないので、1速がトップ8速に対し、どれくらい低ければ良いのかわからなかったんです。オランダ以降のレースでは、1〜3速の変速比を変更しています」
 RM63からは後方排気(リヤエキゾースト)が採用され続けることになるが、そもそもこのレイアウトを採用した理由は、どのあたりにあったのだろう。
中野「東ドイツを亡命したデグナーは、`61年の11月に最初にきましたが、彼が一番我々に主張したのが後方排気の採用でした。その他にもピストンは鍛造のマーレ製を使え、大端部コンロッドはINA製を使えとか、色々注文してきましたね。日本製のものは信用していなくて、彼の125cc用RT62Dにはドイツから取り寄せたマグネトーが付けました。車名末尾の“D”は、デグナー専用の意味です」
神谷「後方排気の良さは、ベンチかけて試作した排気管と近いものを、車体に付けられることです。2ストロークは排気管で性能が大きく変わりますが、ベンチテストした試作は真っ直ぐな形状をしています。これを前から後ろに曲げながら車体に合わせるのですが、どうしても曲げると試作のときと性能が変わってしまうんです。その点で後方排気は、試作の真っ直ぐな排気管と近い形状で車体に付けられるので、試作の性能に近いものができるんです」
中野「デグナーは実験屋ではないから、そこまでのことは言わなかったし、わからなかったと思いますね。かつて乗っていたMZが後方排気だから、そうしたいという考えだったと思いますね」
神谷「後方排気にすると、前方からの外気による冷却が期待できなくて熱がこもると、最初は思ったんです。それが常識と。でも実際は後方排気のほうが、ピストンの焼け具合とかは良かったんです。それは、真っ直ぐに近い排気管が、より効率上げてくれるからなんです。フィンなど外部からの冷却は実はそんなに大きくなく、ピストン冷却の大部分は掃気によるものなんです。混合気が気化することで内側から冷やされ、熱とともに外に出ていくわけです」
中野「`64年用RM64からはショートストロークに変えましたが、馬力を出すためにはさらに高回転化しかないので、ショートストロークのほうが有利と考えてのことです。2ストロークは、ボア×ストローク変えるのも大した手間ではないです」

ライバルとの切磋琢磨

 当時スズキは1、2、3陣に分けて、スタッフを現地に送り出していた。サーキットの現場にて、スズキの開発者たちは他メーカーが送り出すライバルマシンを、どのように見ていたのだろうか。
中野「`62、`63年のライバルはクライドラーとアンシャイトです。初年度`62年の前に欧州選手権を走っている分、彼には一日の長がありましたね」
神谷「ホンダのDOHC2気筒は、あんな小さなものをよく長時間持つようにしたな、というのが正直な感想です。2ストロークに比べたらメカニカルロスも大きいのに、あれだけの性能だったんですから大したものです」
中野「`63年3月に2気筒のRM64Xの開発を始め、12月のRM64Y、そして`64年1月の64Y・から開発が本格的になりました。また`63年6月にはRM63を水冷化したRM63Aも、手がけていましたね」
神谷「実際2気筒をレースに使ったのは`65年からですが、それは性能が安定して出せるようになったからですね。水冷の単気筒のほうは実戦には出ませんでしたが、確かベンチでは水冷も従来の空冷も、出力的には大差なかったので空冷のままで良い、ということになった気がします」
中野「あと、`64年のRM64が大分性能が上がっていたことも、水冷が出なかったことの理由のひとつでしょう。水冷RM63Aと、RM64の元となったショートストロークのRM63Yを並行して開発していた時期もあったと思いますが、ショートストロークのほうが性能が出たので、水冷は見送ったんでしょう」
 2気筒に主戦が移行した`65年シーズン、スズキは急速に力をつけてきたホンダにタイトルを初めて譲ることになる。もし、実戦投入初年度で発展途上だったRK65に代わり、熟成の進んだRM単気筒の発展型を投入していたら、どうだったのだろう。
中野「高回転・高出力を追求すると、単気筒にはもう見切りをつけてました。過去のタイムなどのデータはすべてまとめていますが、ホンダがタイトルを取った年は、昨`64年に我々が単気筒RMで出した記録を破ってましたね」
神谷「後方排気についてお話ししたときにも言いましたが、開発は熱との戦いとも言えます。単気筒は構成部品が少ない点では楽ですが、熱の分散ということになるとより多気筒のほうが有利です。単気筒から2気筒への移行は、熱対策からすれば自然なことと思います。つまり、同じ所に安住していたら勝てないです」
 RM単気筒を語るうえで必ず挙げられるであろうエピソードは、伊藤光夫による`63年のマン島T.T.優勝であろう。そのとき中野さんは本社居残り組で吉報を待つ身、神谷さんは現地にて手に汗を握っていた。
中野「私は居残り組のときは、勝っても負けて結果を社長に報告する立場でしたが、あの日は誇らしく報告することができましたよ。守衛所で吉報を聞いた時のことは、今でも良く覚えています。」


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