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本文は、1990年(平成2年)発行の『スズキ70年史』に掲載されている記事である。『スズキ50年史』に比べるとページ数も大分縮小され、何よりも残念なことは、一部史実・真実が書かれていなくなったことである。30年も経過すると、スズキの中でさえも風化していくのだろう。そして伝説になりつつあることを感じる。

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海外レースへの参加と輸出の推進

マン島TTレース

 イギリスのマン島へ向けて,当社のTTレース遠征チームが本社を出発したのは,1960(昭和35)年5月9日であった。メンバーは監督の岡野武治以下8人,ライダーは伊藤光夫,市野三千雄,松本聡男の3人であった。

 TTレースは,ツーリスト・トロフィー・レース(Tourist Trophy Race)の略で,世界の各地からツーリスト(旅行者)として集まるライダーによって競われる,という意味で,1907(明治40)年に第1回のレースが行われた。コースは,マン島の公道に設定され,距離が長く起伏も多い。車の性能ばかりではなく、ライダーのドライブテクニックも問われる過酷なレースである。この歴史と権威のあるきびしいオートバイレースに,当社は初めて戦いを挑んだのである。選手団を激励するため,社長もまたマン島へ渡った。全社の目がマン島に注がれた。

 初出場で優勝を狙うのは不可能といえた。現地では,まず全車完走してコースを見きわめ,勝利は次の機会に待つべきである,との忠告が支配的であった。

 1960年6月13日,現地時間10時30分,125ccレースがスタートした。固唾を飲む疾走のなかで43台が栄冠をかけて戦った。結果は,1位,2位,3位がMVアグスタ,15位にスズキ松本聡男が入り,16位スズキ市野三千雄,17位が伊藤光夫の代走者フェイ(イギリス)であった。 

 スズキは,全車完走してブロンズ・レプリカ賞を獲得した。上位にこそ入れなかったものの,この体験と自信が,やがてくる連続優勝の栄光へとつながっていく。
                            
松本聡男が獲得したブロンズ・レプリカ

50cc級レース初制覇


 オートバイ・レースは,1962(昭和37)年から新しく50cc級が加えられることとなった。当社は,このクラスでの必勝をめざし,まず,50cc級レーサーの完成を目標に,技術陣がきびしい戦いを開始した。

 50ccの場合,各種のデータから判断して,優勝するのに必要な速度の最低目標は,平坦最高時速140kmであると推定された。しかし,目標は立っても,エンジン馬力は一朝一夕で得られるものではない。幾度も設計変更が繰り返された。だが,出力アップに成功しても,いざテストコースで試走という段になると,馬力は出ても思うように走ってくれない。走ったかと思うとトラブルが続出する。もう一度分解して,原因をさぐり,また新たな試作に挑む。このような実験・研究が来る日も来る日も繰り返された。技術陣には日曜も祭日もなかった。

こうして,1962年3月末,最初のレース国スペインに出発する直前,ついに9馬力,最高速度140km/hを達成,4月24日,まず第1陣が羽田を出発した。

 監督はマン島レースの雪辱を期す岡野武治,ライターは伊藤光夫,市野三千雄,鈴木誠一のほか,E.デグナー(西ドイツ),H.アンダーソン(ニュージーランド),E.ペリス(イギリス)の3選手が加わった。

 しかし,期待に反して,スペイン(5月6日),フランス(5月13日)での戦いはふるわず,即日原因を究明して,最後の改良が加えられた。こうして,GPレース最大の山場ともいうべき,マン島TTレースの日を迎える。時に6月8日。

 スズキのE.デグナーは,終始好調な走りをみせた。瞬間最高144.8km,平均時速が120.9kmという記録でコースを走り抜き,世界初の50cc級レースで,60分16秒4の驚くべきスピードで初優勝を飾った。伊藤光夫5位,市野三千雄6位,鈴木誠一8位とスズキの各選手が上位に入賞,全員が銀レブリカ賞を獲得した。メーカーチーム賞,最高ラップ賞,ともにスズキが独占したのであった。

             
         
1962年 TTレース 50cc Degner優勝での表彰式           1962年 50cc部門のメーカータイトル獲得したライダーたち

 鈴木俊三社長は,当時の社内報に,「優勝に思う」と題して,次のような一文を寄せている。

 「宿願のマン島TTレースで,スズキ50は優勝を果たした。世界のレースに出場して3年目になし得た勝利のよろこびは,ひとしおのものがある。昨年,本田技研工業が世界に示した“オートバイ日本’’の名声に,さらに“モペット”を加え得たことは,まさに斯界におけるエポックメーキングであろう。また,TTレースでは本年がはじめての50ccレースは,世界モーターサイクルメーカーのいわば試金石であったが,当社の歴史が物語る“フロンティア・スズキ”の地歩を,着実に固めたわけだ。同時に従来の“実用は2サイクル,レーサーは4サイクル”というヨーロッパおよび一般の通念を打破し,2サイクルエンジンヘの関心と認識を新たにした点でもその意義は大きい」

 他社に先がけて50ccモペットを世に送り,いわゆるモペット・ブームを巻き起こした当社にとって,その50ccクラスでTTレース初優勝を飾ったことは,ひとしお感慨深いものがあった。

GPレース選手権獲得

 マン島TTレース初制覇のニュースは,さっそく,翌6月9日のテレビCM放送でとりあげられた。

 「オートレースのなかでもっとも権威あるイギリス・マン島でのTTレースで,スズキセルペットが優勝,スズキの技術が世界を制覇しました。スズキセルペット80K,好評発売中」

 この10秒スポットCMは全国に流れ,セールス担当者を大いに勇気づけたのであった。そして,こののち,“スズキ”の名は世界各地で驚異的な力を発揮していく。

 6月30日,オランダ。7月8日,ベルギー。7月15日,西ドイツ。8月11日,アイルランド。そのいずれのレースでも勝ち進み,10月4日,最終のアルゼンチンでも優勝,輝く1962年度世界グランプリレース選手権を手中におさめたのである。メーカーチーム,個人(デグナー)の両賞を獲得。スズキ50は,世界最高の地位についたのであった。

4年連続のメーカーチャンピオン

 1963(昭和38)年,“スズキ”の名が世界を駆けめぐった。2月,デイトナGPレースで,当社は50ccと125ccの両部門で完全優勝をなしとげた。これを皮切りに,4月,シンガポールGPで50ccの1〜3位を独占,6月10日,12日,14日の3日間にわたって行われたマン島TTレースでも,50ccと125ccの両部門で上位を占めて優勝,前年の初優勝についで,それを上回る完勝の成績をおさめた。

 とくに,TTレースの50cc部門で,伊藤光夫が日本人として初の優勝をなしとげ,マン島の空高く日章旗をひるがえしたことは,特筆されてよいだろう。

                      
          
1963年 TTレース 50cc 優勝の伊藤光夫         1963年 TTレース 125cc Anderson優勝での表彰式

 この後も各国のGPレースで”スズキ”は連戦連勝し,早くも8月18日には125cc部門で世界GP選手権を勝ちとり,10月6日には50cc部門でも世界を制覇し,“スズキ”の名は世界的に高まったのであった。

                    
         
1963年10月4日 浜松市体育館での世界選手権獲得祝賀式   世界選手権レ−スでの戦績を示すトロフィーのかずかず

 翌1964年もマン島の50cc部門で3年連続優勝の快挙をなしとげ,なおも各国で連勝して,8月30日には,50cc部門で世界メーカー選手権を獲得,3年連続の栄誉を手にするという,史上初の記録を樹立する。

 1965年,マン島でのレースは50ccで2位,3位にとどまったが,各国のGPレースでは依然として強さを発揮し,7月には,125cc部門で早々にメーカーチャンピオンに決定した。1962年から数えれば,4年連続してチャンピオンメーカーの座についたわけである。2サイクル・エンジンの分野では,まさに世界一の地位を確立したといっていい。

 レースの世界は,勝つか負けるかしかない。評価は結果によって決まる。その結果をつくり出すのが技術である。GPレース4年連覇の偉業は,“技術のスズキ”の名を世界に知らしめたのである。

 「マン島TTレースにおいて,日本のスズキみごと優勝!」のニュースは,電波に乗って世界をかけめぐった。その反響はおどろくべきスピードで広がった。その年新設されたばかりの輸出課には,ヨーロッパ各地からの引き合いがにわかにふえた。なかには,「レーサーの写真を送ってくれ」とか−「貴社のセールスマネジャーとして働きたい」という申し込みまであり,世界がいかに注目していたかをうかがわせた。


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