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             スズキの社内報『すヾき』に掲載された
         「第3回浅間火山レース・1960年代のWGP」関連の記事


スズキの社内報『すヾき』が創刊されたのは、「第3回浅間火山レース」が開催された2ヶ月後の、1959年10月であった。この社内報『すヾき』の中から、レース関係記事を拾って掲載することにした。

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社内報『すヾき』 No.1(1959年10月23日発行)

第3回浅間火山レース行わる

八月二三日、当社一二五RB型レーサーの出場日だ。朝から曇、本社から一晩中走ってきた応援団六十余名も、眠たげな顔をして到着した。

 レースの予想は各社研究陣のも、一般の予想も全く一致し、コレダとベンリーのトップ争いがミモノであるとのことである。コレダは練習時に一昨年の浅間優勝車ヤマハを、三五秒も縮めるタイムを出し、TTレースで最優秀のベンリーを、二百米も追いつき、追いこしたものである。

 午前八時頃から雨雲がにわかに拡がり、ついにひどい雨が降り出した。約一時問たち、雨はやんだが、コースは水がたまりどろんこだ。こういうコースは各選手とも走ったことがないのと、スリップ等で非常に心配である。

 第一列に八車、第三列までに計二三車が並ぶ。当社はクジ運が悪く、第一列には、一〇五番伊藤光夫選手のみ、第二列には一一五番松本聡男選手、第三列に一一七番伊藤利一選手、一一八番増田俊吉選手、一一九番市野三千男選手とスタートには非常に悪い位置だ。

                                   

 スタート三秒前―どよめきを破って笛が鳴った。当社各選手は先頭グループの中だ。

 一周目、一・五キロ地点のカーブで、トップグループでも上位にいた増田選手がスリップ転倒、十八位となったほかは二、四、六、七位である。一、三、五、八位がベンリーだ。増田選手は転倒後もよく走ったが二周目の同地点で伸車と接触転倒、ついに走行不能となってしまった。二周目にも、雨の犠性者が出た。二番で走っていた伊藤光夫選手が一番を走っていたTTレース入賞のベンリーを追越した直後、スリップのため転倒、右ハンドル不能のまま、十二位から七位までになったが、残念ながら車の故障で十一周目で走行不能となった。

 七周目も後半に入り、二位を走っていた伊藤利一選手の車が急にスピードが落ちた。見るとガソリンタンクから、ガソリンがもれている。”駄目だ”伊藤選手もこれでは手のほどこしようがなく、涙をのんだ。

 八周目以後の後半戦は、ベンリースポーツ一台、ベンリーレーサー三台と当社RB二台の争いとなった。この時走っているのは、トーハツ、クルーザーを含めて十台のみだ。

 最終の十四周目、市野選手は確実に入賞するため五位まで落とし、六位が松本選手であったが、松本車はゴール前二キロの地点で、思いがけない故障のため断念した。

 計一三一キロを走るレースは終了した。結果は残念ながら市野選手が五位に入賞したのみであった。そして、一〜四位はベンリーが占めた。
 各誌のレース評をまとめると「コレダは線習から判断して、こういう結果になったのが不思議な位だ」というのが一般的な見方である。当社研究部は「こういう結果になって、従業員のみなさんに申し訳ない。性能、耐久力は他社には絶対劣っていないが、ただ当日の雨と、練習時にはなかったような故障が起きたためです。この失敗を足場にして、次のレースは絶対勝つ」と強い自信のほどを見せ、「レースを通して有形無形の進歩があったが、これはすぐ生産車に反映されるでしょう」と語った。

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社内報『すヾき』 No.3(1960年5月10日発行)


当社T Tレ−スに初参加


 イギリスのマン島でこの6月に行なわれるオートバイの世界的大レース、TTレースに当社が初めて参加することになりました。遠征チームのメンバーは7名。岡野武治課長(監督)以下清水正尚、中野広之、神谷安則の研究部員が作戦を練り、車の整備に当り、市野三千雄、伊藤光夫、松本聡男の3ライダーが実際のレースで戦うことになっています。車は既に三月に船積しましたし、味噌、のり、塩からなどを含む食糧の準備も完了、5月11日の選手団の出発を待つばかりとなっています。

 このTTレースについて説明しましょう。今世界的に有名なオートバイのレースには、次の8つが挙げられます。日付は今年の開催日です。

〇5月22日 フランスのグランプリレース。
〇6月13日、15日、17日 TTレース。(初日に125ccのレースがある。)
〇6月25日 ダッチのグランプリレース
〇7月 3日 ベルギーのグランプリレース
〇7月24日 ドイツのグランプリレース
〇8月 6日 アルスターのグランプリレース
〇8月20日、21日 スイスのグランプリー・レース
〇9月 2日 イタリーのグランプリレース

 TTレースはこの中でも歴史が古いこと、コースがむずかしく車の性能のみでなく、ライダーのドライブテクニックが大いに作用することから世界の一流の車とライダーが集まるので最高の権威があると言われています。

 さて、TTレースの本名はツーリスト・トロフィー・レースと言い英国本島の西部にあるマン島にて行われます。このマン島は広さ363平方粁、人口5万5千人の小さい島で島民は牧畜と観光で暮している平和な島です。

 このTTレースが始まったのが1907年、当時は排気容量でなく気筒数に依ってクラスが決めてあり、マン島の西悔岸にあるジョーンズコースにて行われていました。1911年になると、現在と同じマウンテンコースが採用され、クラスもシニヤー、ジュニヤーとして‥排気容量で区別されています。当時活躍していた車はノートン、マチレスというような現在でも名車といわれる車でした。1920年、250CCのレースが始められましたが、この時のスピードは七〇粁/時足らず、その後1939年、戦争に依って中断される迄そのままの状態で行われ、スピードは年々上昇していきました。参考までに戦前の最高スピードを書くとシニヤークラスでは146粁、ジュニヤーで136粁、ライトウェイトクラスで129粁です。この頃になると出場する車の、種類も増し、AJS、ベロセット、DKW、BMW等が加わって来ています。1930年日本人として初参加されたのが当社東京支店勤務の多田健蔵氏で、氏は当時42才でしたが日本で行われたレースで500CCに乗りながらインデイアンを降し、英国のACUの招きを得て渡英されたものです。レースではベロセット350CCに乗って健闘されました。

 中断されていたレースも、1947年、時代の落付きと共に再開されましたが、レーサーの研究の中断と、ライダーの練習不足のためか、記録は悪く、1950年になってようやく戦前の記録を破ったほどでした。本年当社が参加する125CCレースは1951年から始まったもので、この年に121粁/時という記録をイタリーのモンデイアルが作っています。1952年はMVが122粁、1953年もMVが125粁で優勝しています。翌年1954年からは周回を増す為250、125CCはクリップスコースで、又サイドカーもこのコースで再開されました。其の年はNSU(114粁)1955年はMV(115粁)、1956年もMV(122粁)、1957年はモンデイアル(119粁)、1958年はMV(119粁)がそれぞれ優勝しています。1959年は日本からホンダが出場したし、トップはMVである事は御存知のことでしょう。今年のレースは6月13日行われますが、コースは前回と異り再びマウンテンコースとなっています。このコースはなかなかむずかしく1、2年でマスター出来るものでなく、一、二を争うライダーは少くとも五、六回の出場経験を持ち、英国特有の濃霧が出てもスピードは晴天と同じ、あるいはそれ以上となる位馴れているとのことであります。

 以上でTTレースがどんなものかほぼ推察出来ると思いますが、次にこのレースに出場する当社のRT型の諸元を列挙してみましょう。

                                    

                              〇エンジン型式 2サイクルツイン125CC 自然空冷式
                              〇最高馬力12000回転で30馬力
                              〇最高回転16000回転/分
                              ○最高速度150粁/時
                              ○変速段数 前進6段

 最後にTTレースについて、丸山研究部長の話を聞いてみましょう。

丸山研究部長談

 TTレースは技術的に非常に苛酷なレースであるが、世界的な権威のあるレースであるので出ることそのものに相当の意味を持つ。出るからには勿論勝ちたいが、.今年1年だけで優秀な成績を占めるのは困難である。優秀な車、選手も初めはどこにいたかもわからない位であったが、数年、.数十年たって始めて一流と呼ばれるものとなっている事実からもうなずけるであろう。今年は外国レーサーを見、音を聴き、又実際に車を走らせることによって、今迄の我々の考え方が妥当であったかどうかを知り、次の飛躍にそなえたい、というのが私の考えである。

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社内報『すヾき』 No.4(1960年7月21日発行)

銅レプリカ賞を獲得・TTレース行なわる

 当社がオートバイを作り始めた頃からの夢であったTTレース出場が実現し、去る6月13現地時間午前10時半、125CCのレースが挙行されました。この日には社長も渡欧され、選手団を激励されています。

 全参加台数は43台、中でも昨年優勝したMVアグスタ(伊)が11台、昨年僅少の差で2位となったMZ(東独)が4台、ドカツティ(伊)が11台、ホンダが6台、当社が3台、その他も世界の有名車が名を連ねていました。

 当社から出場した3台は、これら世界の強豪を相手に初出場ながら全車完走し、松本聡男選手が15位、市野三千雄選手が16位、伊藤光夫選手の代走者フェイ選手(英人)が18位となり、銅レプリカ賞を獲得して来たのは賞賛に値することといえるでしょう。

                                 
         
銅レプリカ賞                     市野三千雄                           報告会の模様

 次に他車の順位を示しますと、
1、2、3位 MVアダスタ 1位のタイム、1時間19分21秒2、平均時速138粁。4、5位、MZ。6、7、8、9、10、19位 ホンダ。
15位松本選手の時間は1時間34分29秒、平均時速115.68粁。
16位市野選手の時間は1時問37分1秒4、平均時速112.21粁。
18位フェイ選手の時間は1時間40分2秒、平均時速109.13粁となっています。

 ここでことわっておかねばならないのは、伊藤光夫選手の名前がないことです。これは公式練習の時、難所で転倒しレース時ドクターストップ(医者から出場を禁止されること)となったためであります。伊藤選手としては非常に残念だったと思われますが、傷がわずかであったことは幸いでした。

 それにしても、選手団の苦労は並大抵のものではありませんでした。気候風土の異なる土地において1ヵ月の滞在、しかも言葉の障害があり食事の違い、少人数ですべてやりとげなければならないことなど数えあげればきりがありません。これらを克服し、初期の目的を達成したのです。

 これで当社の研究の妥当性が分り、当社で苦労されているところが、やはり世界の一流2サイクルの研究者が苦心していることも判明し、来年のレースに、より高性能のものが出場できるものと期待されています。

 選手団は6月18日帰国、元気な姿をみせました。なお、社長と岡野課長は引きつづき欧州各国を視察されました。

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社内報『すヾき』 No.5(1960年9月22日発行)

欧州の思い出


研究第一課長 岡野武治(TTレース当社チーム監督)

一、マン島への道

 昨年来私達が夢にまで見たマン島へ、五月十三日午後六時十分到着した。気持よく晴れ上った空からこの島を眺めると、緑の芝生と牧草に包まれ、ガリバー旅行記の挿画に出てくるような家が点在してなかなか美しい。緯度の関係で午後六時でも日はまだ高い。私達は荷物を受け取り、すぐバスでダグラスの町へ向かった。七時少し前にホテルに着き、長い旅の旅装を解いた。

                                   
                                     
宿舎から見たマン島の眺め

 ダグラス市は熱海に似ており、われわれのホテルはちょうど駅の辺に相当し、南を眺めるとダグラスの海岸通りが右から大きな弧を描いて南にのび、その尖端に港が見える。ここでこれから約一カ月生活するわけだが、環境がよくて幸せだと思う。

 さて、この辺でわれわれがTTレース参加までにたどった道をふり返って見るのも面白いと思う。一口にいって実に苦しい苦労の連続であったと思うが、今となってみると苦しかっただけになつかしい。昨年夏の浅間レース、お正月もないRTレーサーの設計、耐久テストの開始、練習車の船積み、本命車の運搬・・・そして最後に社内壮行会。感無量というべきか?しかし私として、はっきりいえることは「もっと多くの苦労を!!」ということである。レーサーには完成はありえない。常に青年のごとく前進あるのみである。一つの問題を解決したと思ったとたんにまた別のトラブルが次から次へと起こり、それらを一応解決してかからねば優秀な車は出来ない。苦しみが、問題が、多ければ多いはど技術の進歩は早い。

 話が横道にそれてしまったので、この辺で元に戻し、羽田より南方廻りの空の旅のわずかな印象を参考までにお話ししよう。コメット機は高度一万米もの高いところを飛ぶので、陸上の景色は雲にさえぎられてはとんど見えない。従って心に残った景色、話題は着陸飛行場附近にしぼられてしまう。

(1)羽田=香港

 途中奄美大島らしき島影を雲間より眺めたのみで、機内の美人のスチュアデスをからかうことにのみ専念。香港に来ていよいよ日本ともしばらくお別れかといった実感がわいてきた。と同時に急に会社、同輩、子供、仕事のことなどが頭に浮かび上ってくる。中国大陸のほんの一部分しか見えないのであるが、この下に何千年もの歴史と伝統に生きて来た中国人が生活していることを思うと、昔教えられた中国史が急になつかしく、当時の幼き頃の追憶にひきこまれる。

(2)香港=バンコック

 香港より中国服の美しく似合うスチュアデスが乗り込む。われわれ日本人にそっくりであるが、英語がわれわれより上手なため変なコンプレックスを感ずる。バンコック近くでメコンの大河が折からの西日に光り、蛇のように曲りくねりつつ、まるで生き物のように浮かび上って見える。飛行場の案内嬢は小柄であるが、日本人そっくりでまた日本に逆戻りしたという感じを受ける。この頃より飛行機は何か故障のため待ち時間が長くなる。

 ここで私は笑えぬ失敗を一つしてしまった。待ち時間が長いので小便に行ったところ、有料でもないのにタオルを持った現地人がいてチップを置いてこなければ出られもせず、硬貨を一枚も持っていないことに気付いた時はもう遅かった。結局一ドル紙幣を置いて来た。こんなことは一度旅行した経験のある人から話を聞いておれば何のこともないのに、と考えると急におこれてくる。この頃から便所恐怖症にかかる。案外外国は有料便所が多いことを覚えておいても損はない。

                                      
                                           
バンコック空港にて

(3)バンコック=デリー

 バンコックを出てじきに夜になり、デリーは真夜中で途中何も見えない。デリー市の光が見えて来た時にはホッとした。螢光灯やネオンはないが、きれいに整理された街路の有様がよくうかがえた。

(4)デリー=カラチ

 日中の疲れのため機外へ出る元気もなかつたのであるが、一同機内でおかしな書類に色々と書き込まされ外に出されてしまう。(パキスタンはいつもこの書類を書かしている。)ムッとする暑さだ。見なれぬジェット機がいる。聞いてみるとソ連の旅客機で、週二回モスコーに飛ぶんだそうだ。ここでもトイレには素足の現地人がいる。我慢しようや。

(5)カラチ=ベイルート

 二、三時間眠ったらもうベイルートに着いてしまった。朝まだ早い。大分人間の様子も違うし、書いてある文字も変である。いよいよヨーロツパの入口に来た。しかし寝不足のため、地中海の波、石造りの白い建物を見ても別に感興はわかない。

(6)ベイルート=フランクフルト

 キプロス畠、シシリー島と次々に飛んで行く。時々白雪に輝く山の頂が見える・・・もうドイツだな。機は高度を下げ始めた。きれいに耕やされた畠が見える。森が、そして河が、まっすぐな道路が・・・家も見え始めた。日本ははるかかなた、ここはヨーロッパ。さすがに身のひきしまる感じだ。一時間程休む。今までにない立派に完備した空港で、待合室も美しく何か愉しい。税金なしで買える商品に見とれる。

(7)フランクフルト=ロンドン
 飛行時間わずか一時間。その間食事が出る。これまでになく美味である。ロンドンは小雨に煙って街の様子も見えず残念である。予定より五時間も遅れてロンドン空港におりる。肌寒さを感ずる程東京とは気温が違う。日本人は一番最後まで残されてやっと入国手続をすませ、通関もやっとパスした。ヤレヤレ。

 三十何時聞かかった空の旅も意外に疲れる。もちろん気分的な疲労が多いと思うが案外面白くないものである。時速八百キロといっても対象物がないためそれが意識されない。外界の移り変わる景色もなく、白い雲と青い空のみ相手では、誰でも寝る以外に手はなく、愉快な思い出を求めること自体がムリというものである。これで片道二五万円、時間の節約以外を考えると実に高価な旅である。結局、この空の旅の印象としてあとまで残ったものは、次のことである。

@ タイにおける貧富の差と近親感
A インド、パキスタンでは階級制度の名残りと後進国のコンプレックス
 アラブの複雑性

ニ、十二進法と二十進法

.英国の、特にロンドンの印象が他の都市のそれに比較して私には余り芳ばしくなかった原因の一つに、この十二進法と二十進法の複雑性があると思う。すでにお気付きの方もあろうと思いますが、英国の通貨の単位は下表のようにわれわれ十進法を無意識のうちに利用している者には非常に面倒なものである。しかもこの計算をすばやく行なわなければ甘く見られる、と最初は考え実に苦労した。

通貨の種類 邦貨換算(円) 通貨の種類 邦貨換算(円) 通貨の種類 邦貨換算(円)
紙幣 5ポンド 5000 硬貨(銀) 2シリング6ペンス 125 硬貨(銀) 6ペンス 25
1ポンド(20シリング) 1000 2シリング 100 硬貨(真鍮色) 3ペンス 12.5
10シリング 500 1シリング(12ペンス) 50 硬貨(銅) 1ペンス 4
. 硬貨(銅) 1/2ペンス 2
硬貨(銅) 1/4ペンス 1
            「2シリング6ペンス」を「ハーフクラウン」と呼ぶ

 たとえば、ロンドン空港よりエヤーターミナルまでのバスは無料と考えていたが、実際には有料で、一人二百五〇円(五シリング)もとられる。六名分で三〇シリング。持っている金はドルしかない。一ドルが何シリングだか計算をするヒマもない。これにはこりた。実際三〇シリング払ったのかどうか?キップをもらってから計算をし始めたら車掌も何か考えている様子だったが、しばらくしてドルを幾らか帰しに来た。それでも、こちらは計算ができない。悪い感じを抱いたままバスはターミナルヘ着いてしまった。宿へ着いてから計算してみたら、結構三〇シリングに相当する金を払っていた。英国人は信用がおけると気付いたが、その頃はすでに次のチップ病に取りつかれ、結局金の計算はマン島で身のまわり品を買うまで身につかなかった。

 言葉の上で二十進法、十二進法といっても、それ程複雑でないように響くかもしれないが、意識せずに一人前に使用できるまでにはまず半年位かかりそうだ。それ程ちょっとしたことでも、われわれの習慣というものはそれからぬけ切るのに時間がかかるものである。大体買物に出れば最初に必ず物の価格を尋ねなければならないが、相手のしゃべる数字がピンと頭にこない。

 元来われわれの英語は耳からは素直に入らない。だからいわれてそれを日本の数字で三とか五とかになおして記憶せねばならない。つまり二重手間である。そしてどれだけの貨幣を出せば、いくらつりが来るかをまた日本の数字で計算する。こういった手段を頭の中で繰り返し繰り返して、おそるおそる(本当に)金を出す。このようにして買い物をし、われわれは小学生のように二十進法、十二進法を学びとった。

 ある者は値段を聞いても分からねため、何を買っても一ポンド紙幣(千円札に相当する)を出すのでつり銭が多くなり、悪いことに英国の硬貨は非常に立派で大きいから入れ物がなくなり、ついにバスの車掌の持っているキップ入れの半分位の大きさのガマ口を買って来た。夜、ビールを飲みに行ってもこの中の硬貨を全部机め上にひろげ、ビールの来るたびにその中からそれに相当する金額を持って行ってもらう。すべて先方まかせ、その光景は実に愉快でいつしかこれが習慣になってしまい、私達も喜んでその風習(?)に従った。

 買い物の話で思い出したが、つり銭の出し方がまた違う。たとえば三シリング六ペンスの払いをするのに十シリング紙幣を出したとすると、必ずまず第一番目に六ペンスの硬貨を出しつつ四シリングという。(買った品物の値段の三シリング六ペンスとつり銭の六ペンスで四シリングになる。そして次には二シリング硬貨を一枚渡すごとに、六シリング、八シリング、十シリングという。これで終わりである。つまり買い物の値段とつり銭の額を加えたら、自分の出した最初の金額に等しくなることを実行しているわけである。だから必ず最初は、少額硬貨から出てくるわけである。考えようによっては、インチキのない合理的な手段だと思う。しかしこれとても最初は面くらった。

三、英国人について

 「岡野君、外国へ行って色々勉強しようと考えても先にたつ物は語学ですよ」「立派な通訳を頼みなさいよ」と国を出る時、仙台の成瀬教授にいわれたように、私達のようにわずか四〇日程度の英国生活では本当に自分が直接感じ取った事柄は非常に少ない。またそれを期待するのは、最初からできない相談である。従ってこれからお話しすることは、あちらで生活している日本人の口を通して知ったことばかりとお考えになっていただきたい。

 いつだったか(日曜日であったことは確かだが)社長のゴルフのお供をしての帰り、日本語に訳して”処女膜”(Maidenhead)というテームズ河中流の橋のたもとでお茶を飲みながら、日本人ばかりで色々と表題のことについて話しあった。これらの話を総合すると、案外英国は階級意識が強い。上流階級の自家用車の運転手の息子は、父親と同じように将来もっとよい車の、もっと上手な運転手になることを考え、決して総理大臣とか陸軍大将などになろうという夢は抱かない。これは抱いても現実的に不可能なことをよく知っているため、夢みないのだそうだ。反対に上流階級の家庭では子供が生まれると、すぐハロー、イートンという有名校に入学の登録をし、予約をする。そしてそれにつながるオックスフォード、ケンブリッジ大学に自然的に入学し卒業する。卒業後は政界、財界へと進む。また、大学を卒業して入社式験を受け、入社すると、この時の成績によってこの人は将来重役になる人、この人はこの会社では平社員というように格付されてしまうそうである。従って若者には将来に対する夢のようなものは余りないらしい。日本人の私達が考えると、実に非民主的、封建的と思われる。しかし英国は社会保障制度が確立しているため、これで表面的には不平不満はないらしいとのこと。しかし、真実そうであるか否かは疑問だと私は思った。矢張りこういった点、夢を抱くことのできるわれわれは幸福だとしみじみ思った。

                                  
                                    
テームズ河ほとりにて俊三社長

 英国は紳士の国と昔からいわれている通り、食事をする時などの服装、作法はどうもうるさいらしい。さすがに山高帽に洋傘といったスタイルの紳士は余り見受けなかったが、でも大陸の開放的な服装とは大分違う。英国でも最近アメリカナイズの問題が大分気になるらしく、大部分の英国人はアメリカ人を嫌っている。

 紳士の国でありながら男女関係、特に若い人々のそれは完全に知る由もなかったが、私が社長の泊っておられたホテルの前の公園で見たものだけでも相当である。一般にこちらの人は愛情の表現は大胆である。宮城前広場の探訪をしたこともあったが、どうもケタが違うようである。

 こんなことに興味を抱いてばかりいたわけではないのでこの辺で。


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