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社内報すヾきNo.89 (1970-10)より

               「世界モトクロス選手権(250cc)初制覇」座談会

       ■出席者/研究部 岡野部長・石川主査・松木主査・稲葉係長・佐々木照夫・瀬崎英征
                            ■司会/輸出部 西主任

       
    岡野        石川       松木            稲葉           瀬崎           佐々木          西

              RH70        都合で欠席の伊藤勝平

 当社の圧倒的勝利で10月4日幕をとじた1970年世界モトクロスGP。終幕を前にした1970年9月11日、研究第一課の皆さんにお集まり願って、RH70が生まれるまでの苦心談やうら話、さらには今後のモトクロスにかける姿勢を語っていただいた。

西 今日は研究第一課の世界モトクロスGP担当の皆さんにお集まりいただいたわけですが、従業員全員がヨーロッパのレースを見に行けるってものでもないので、現地の模様もできるだけ織り混ぜてお話しいただきたいと思います。
 まず最初にあとオーストリーの一戦を残すのみとなった、今年のレースを、かいつまんで説明していただきたいのですが……。

松木 4月12日、スペインでのレースがかわきりで、このときロベールがトップ、2位ゲボース、ペテルソンは7位でしたか。その後2回戦目のフランスは惜しくもおとしましたが、あとはロベールかゲボースで1位あるいは2位を必ずとっている。途中8月9日のフィンランドを境にメカの交替があって、第1陣のわれわれが帰ってきたわけです。
 この世界モトクロスGPっていうのは、いわゆるグランプリと呼ばれる国際レースで、欧州12ヵ国を舞台に12レース行なわれるのですが、上位7レースをとった成績で順位が決められる。それが有効得点と呼ばれるもので、現在までのそれはロベールが96点で第1位、ゲボースが94点で第2位、ペテルソンは39点で第6位。ロベールとゲボースの差がわずか2点で、最終戦でゲボースが1位になれば、ゲボースの優勝、その他の場合は必然的にロベールがチャンピオンになるわけです。ま、いずれにしてもスズキが1位ってことですが。

西 最後までおもしろいレースが展開されるわけですね。それでは、当社が世界モトクロスにとり組んだ歴史を簡単にお話しいただきたいのですが・・・。

岡野 その前にロードレースについて少し述べなけれはならないと思うが、ロードレースで初めてマン島に行ったのが、1960年。翌々年の1962年には50ccが初めてグランプリに登場、当社が初のチャンピオンをとったという記念すべき年なんですが、この頃私はすでにヨーロッパにモトクロスというものがあることを知っていて、余力があれはそういうものにも出たいなとは思っていたんです。ただ1963〜1964年とロードレースがいそがしくて、なかなか希望は満たされなかった。それが50ccと125ccの両方のチャンピオンをとり、スピードレースには頂上をきわめてしまったので、具体的には1966年に当社の契約ライダーだった久保和夫・小島松久の両君がRH66をひっさげてヨーロッパモトクロス界に出ていった。(これは間違い!最初にヨーロッパモトクロス界に出ていったのは、1965年RH65で久保和夫・鈴木誠一両君である)。ロードレースで1960年に当社が日本人ライダーで乗りこんだのと同じなぐり込みをかけたわけだ。この小手調べの結果は最初のロードレースのときと同じように1966年は惨敗に終わった。車がまだ実戦にたえられるものでなかったというのが真実のところでしょうか。それが今のすばらしいマジンRH70に続くわけなんですが、翌1967年には小島がただ一人で参加、この時代からまあまあ走れる車になったわけです。
 1968年になってはじめてペテルソンと契約。当時ランキング3位の男があえてうちの車に乗ってくれたのは、1966・1967年と日本人が乗つたオンボロですけど、うちの車に何か魅力があったからこそだと思うんです。
 それで1968年、最初はどうだったんだろうか。

石川 第1戦がベルギーで2位だった。

岡野 そう、最初のレースではいいスタートをきったのだけれど、あとが続かなかった。途中でけがをしたり何かして、結局7位だった。
 この年に初めて私、行ったんですね。フィンランドとスウェーデンと……。このときロベールをとりたいという話をつけてきたはずだったんだけれど、あとのフォローアップがうまくいかなくて2年ほど足ぶみしたわけ。今考えると、1968年の車にロベールが乗っても、今日のような記録はでなかったと思う。白状すると、当時はそれほど自信のある車ではなかった。
 ペテルソン2年目の1969年はマシンも大いに改良を加えたけれど3位。いよいよペテルソンでは車がよくても勝てないということになったので、上部からの指示もあり「勝てる者をとろう」ということになった。

西 それが今年のロベール、ゲボースとの契約につながっていくわけですね。

石川 ペテルソンの契約のときの話になりますが、かつて当社のロードレースのスターだったヒユーアンダーソンに再三、意見を求めたらしいんですよ。そしたら、「スズキはモトクロスの歴史はないけれど、あの会社はとにかく次の行動をとるのが速いよ。だからヨーロッパのペースでものを考えて、今スズキの車がこのレベルだからヨーロッパのレベルにあがるのに3年、4年かかると思っていたら大まちがいだよ。それに自分が長年住んでみて、スズキのチームの零囲気はいい。あそこに入って生活していると割合おもしろいし、楽しめる」っていわれたそうなんです。ペテルソンはそれでふんぎりをつけたって言ってましたネ。
 そして、昨年の暮、今度はロベールとゲボースがペテルソンのところに「スズキとはどんな会社か」と意見を聴取に行ったらしいんです。そしたらやはり同じような答えが彼らに返っていったとか。

岡野 うちの車に当時ランキング1、2位の超一流選手がすぐ乗ってくれたというのは、その前2年間ペテルソンが乗ってかなりの実績を示していたからと、ヨーロッパにはロードレースで培われたスズキの大きなイメージがいまだにあるからだと思うんです。当社のロードレースから一貫した実力がまざまざと示されたいい例ですね。これなんか。
 ただ残念なのは、従業員一人一人にロードレースのときの全社あげての盛り上がった気持が今度のモトクロスでは全くない。勝つということは世界に一つしかない。世界一はうちしかないから、うれしいことですよ。それが、みんなの関心を一つにまとめ、士気を鼓舞するだけの神通力がないのは僕はおかしいと思いますね。

西 それは同感ですね。私なども非常にさびしい気がしているんです。もっと大々的にPRしてもいいんじゃないかと、ひそかに思っていたわけなんですが……。
 次に、今度は当社のモトクロスの歴史を越えて、モトクロスGPというものの起源とか、現在9千人以上にも従業員がなってくると中にほ「モトクロス、モトクロスっていっているけどモトクロスってなんだ」って思う人もいるでしょうから、ロードレースとの比較もまじえて、その辺をお話しいただきたいのですが・・・。モトクロスの歴史というのは古いわけでしょ。

石川 そんなに古くないという話だな。500ccの欧州選手権が1952年、250ccが1957年だったかな、始まりは。

岡野 いがいと古いように思うんですが、そうじやないんですよ。発祥の地は英国でそれがスウェーデン、ベルギーにとひろまった。

石川 グランプリのはしりは、ロードレースでも同じですが、一つの国で、1年に1回ってことなんです。毎年、何レースをどこの国でと、過去の実績に基づいて、FIM(国際モーターサイクリスト連盟)が決める。モトクロスとロードレースの一番大きな違いは、モトクロスGPの場合、一国の出場者には限りがあって、3名が原則。それも前年度の国内選手権で3位までに入賞した人でなくてはグランプリに出られない。前年度の成績が翌年の出場権を獲得するので、ライダーにとってはロードレースよりもきびしいわけだ。2年ごしにメシの種がかかっているのだから。
 ロードレースよりも危険率ははるかに低いが、自分の腕を磨き、けがをしないように努力する点では、逆にロードレースよりも深刻なわけです。
 レース方法としては、各国で3名ずつの選手が、多いときで約40名同時スタートをきる。1周は1.5km以上あればよく、だいたい2km前後。1回のレースが何kmというより、ライダーの耐久力から考えて35分プラス2周程度。1レース終って1時間か2時間の休憩があって、同じ日に2回レースをしてその総合成績で優勝が決まる。
 コースの設定では、1周のラップが45km/h〜60km/hの範囲。選手が練習で走ってみてこの範囲外だとすぐ変更する。
 ロードの場合、安全というものが走行の必要条件だから、コースの設備に金がかかる。だから開催地がほとんど西側自由諸国に限定される。ところが、モトクロスの場合、発祥の由来からして、山野をかけめぐるんだということで設備に金がかからない。だから今、グランプリは共産圏と自由諸国とが半々位じゃないですか。ロベールなどは、東西のかけ橋として鉄のカーテンを行ったりきたりして、親善を深めているわけです。

西 共産圏っていうのは娯楽が少ないわけですね。そこでモトクロスがもてはやされているんですが、モトクロスの魅力を一口でいえば、おもしろいってことでしょうか。

石川 ウーン、おもしろいってことより、手軽にできるってことが一番の親しみやすさでしょうネ。

稲葉 それと、もう一つ安全だってこともありますね。

西 われわれしろうとが見ますと、非常に危険なように見えますけれど、あれで安全なんですか。

松木 そうなんです。死亡した人はほとんどいないし・・。

佐々木 メカとしてもモトクロスの場合は簡単ですね。

稲葉 ロードの場合、高速だから一レースごとに分解整備するわけです。モトクロスの場合はそれがない。

岡野 ロードレースのときは、エンジントラブルとか安全の点でミスが起こらないように、つまりメカの責任で事故が起こらないようにとわれわれは考えた。モトクロスの場合はロードほど気をつかわなくてもすみますね。
 私は六八年にフィンランド、スウェーデン、英国で初めてレースをみたんだけど帰ってきていったことは「あれはうさぎ跳びのレースだよ。」
 二つの車輪が地についていることは、まず少ない。駆動輪が空中に浮いているからスピードなんて出やしない。最高出ても100キロ出たか出ないかで、一番の問題は操縦性とか安定性になる。性能のことをいえば、いかに駆動力を保持するか、ジャンプしておりたときの安定性は、とかいうことの方が大切なんです。

西 ライダーの技量とマシンの性能との比重を考えたたとき、ロードではマジンの比重が非常に高いといわれますが、モトクロスの場合はどうでしょう。

石川 ロードレースではマシン80%、ライダー20%といわれています。モトクロスの場合は、マシン20%、ライダー80%といわれた時代もあるのですが、今はだいぶ近づいてきて、マシン40%、ライダー60%。これにしたところで、同じライダーが乗って比較しているわけではないので、あくまで俗説であって確かな説であるとはいえないわけですが・・・。

岡野 スズキのチームをみると、はじめはスタートが悪くて何位かで出ても、あとで回数をおうごとにあがってくるのがわかる。彼らの腕がいいのか、車がいいのか。

松木 両方でしょうネ。だれかがいってましたよ。「いいライダーは、いいマジンにしか乗らない。」って。

西 うちは2ストロークですが、モトクロスの場合、4ストロークはどうでしょう。

瀬崎 ほとんどないですね。

岡野 250ccはないですね。技術的な理由があると思うんですが。

佐々木 エンジンの重量の関係でしょうね。

岡野 エンジンブレーキのこともあるし。

松木 500ccの方は一台だけアメリカの車でしょうか、ありましたネ。今年は5位か6位でしょ。

西 そうすると、モトクロスには2ストロークが最も適しているってわけですね。

稲葉 エンジンのことがでたついでに、RH69からRH70へ移ったときの状況を次に説明しますと、去年の5月、もう4速から5速の時代に移るんじゃないかと感じまして、九州の国内レースが終わるとすぐ設計にとりかかったわけです。ちょうどヨーロッパからメカの第一陣が帰ったときに案を練り直しまして、9月に試作課に持っていったんです。ところが、試作課がちょうどいそがしい時期だったものですから、できそうもないってことだった。そしたら、試作課長(現本社工場長)が「社内でできないものは、外からの力を借りてでもできあがらせる。」と、みずから名古屋にでむいて、日程にまにあわせてくれた。その辺、非常に協力的に動いてくださってうれしかったですね。
それが11月にできて、RH69と比較してテストしたところ、「ウン、これは大丈夫いける」ってことで確信持ちまして、次に少しイメージチェンジしようということになったわけです。それまでは燃料タンクは、アルミの地肌そのままだったわけですが、デザイン課から意見があって何か色をつけることを考えた。最初はオレンジ色を塗ったわけなんです。ところが、この結果は、ロベールとゲボースの二人とも「この色はきらいだ」というんです。「なぜきらいか」というと、「ヨーロッパの、ある早くない車と同じ色だ。だから、変えてくれ」というわけなんです。それでイエローになった。車体も非常に軽くて80〜90kgの間におさまった。1月の下旬に両選手に来てもらってテストをしたわけですが、その結果、別に悪いところはないという。本当にそうだろうかと思ったわけですよね。わずかにステップとハンドルですか?注文があったのは・・・。
 それも、次の日に直っていたってびっくりしましてネ、「むこうのペースとは違う!非常に協力してくれる!ライダーを盛りたててくれる!」って言って・・。

西 私もその話は聞きました。二人が注文をつけなかったってことですが、ああいった優れたライダーから注文がなかったというのは、そこまで、うちの車が完成していたってことでしょうね。

稲葉 そうですね。ギヤレシオも最初二通り選んで作ったんです。それで二人にどちらがいいか聞いたら、ロベールはこれ、ゲポースはこれだと別々のをさしていう。以前から自分の好みがそうだというわけなんですよ。それで、それぞれ違うギヤ比のものを作ったわけなんですよ。

西 今でも違うギヤ比のものですか。

稲葉 ええ、違います。

西 さきほど、5速だといっていましたが、他のCZとかハスクも5速ですか。

稲葉 それが、どこもまだで他は4速です。

西 やっばり5速の方がいいですか。

稲葉 ええ。来年はおそらく他の外国メーカーも5速になるでしょう。

西 それじゃ、この辺は強調しておきたいところでしょうネ。

石川 しかし、人間ていうのは一つのことに慣れると保守的になるもので、最初ペテルソンにいろいろ意見を聞いたら、「ギヤなんてない方がいい。ギヤのチェンジに神経を使っているよりは、少しでも道をみつめて、いい道をさがして速く走ることを考えよ。今何段に入っているとか、ここでギヤチェンジをなんて考えない方がいい。だから4段より3段がいい、3段より2段、極言すれはグリップと連動して無段変速が一番いいんだ。」という論法をいったわけです。
 だからロベールやゲボースにも「5速でやってもらうんだ」といったら「果して5速なんて……」と最初は疑問視されたわけです。「とんだりはねたり、ほては空中にいてもギヤチェンジしなくてはならない。5速だと煩雑になりやしないのか」って気を持ったらしいんです。
 ところが今じゃ「どうだい4速にもどるか」というと「イヤだ」という。

西 というのは何ですか、5速の方が車の性能をフルにひき出せるってことですか。

石川 使いやすいんです。しかし、こんどのロベールとゲボースのテストで修正が少なかったというのは、われわれのところでテストをくり返してくれた人たちの力もさることながら、一方ではペテルソンの功績が大きな位置をしめていると思うんです。
 おそらく、前にペテルソンがあれだけ、ああだ、こうだ注文つけて直してくれなけれは、やはりロベールとゲボースの二人だってその時点でスタートして、同じ修正を上のせしたと思うんです。若い彼らと違って体力的におとろえはあったかもしれないが、だてに年はとっていなかった。

西 確かにそれはいえますね。ライディングテクニックはロベールやゲボースの方が上かもしれないが、そういった意味での車の知織など、ペテルソンは、なかなかしっかりしたもの持っていますからね。

石川 彼が過去2年間に、ライダーの立場から与えてくれた忠告が、当社のマシン製作に非常にプラスしていますね。

西 話はかわって、ヨーロッパの本場モトクロスの様子をちょっとお話しいただきたいのですが……。

松木 ヨーロッパの場合、観衆のモトクロスに対する知識が違いますね。日本ではモトクロスとはどんなものか説明しなくてはわからないけれど、むこうではちやんと知っている。だからモトクロスがあるんだっていうとワッと集まる。多いところでは20万人とか。概して共産圏の方が多いです。

岡野 ただ、年間にして最も多くの人を動員するのはベルギー。

石川 ベルギーは多いですね。発祥地の英国ではもうトップランクがいなくなってしまった。

西 でも英国では冬場になるとテレビで報道していますね。

石川 ベルギーでも、スウェーデンでもやっていますね。日本でもやってますよ。浜松では入らないけれど読売テレビのサンデースポーツで。

稲葉 ベルギーがさかんになったのは速い選手が3人もいますからネ。

松木 それにロベールがちょっと言ってましたけれど、規模は小さいけれど歴史の古いオートバイ工場があるそうですね。

西 ヨーロッパはロードレースやモトクロスのおかげで知名度が高いんじゃないですか。他の市場と比べたら、おそらく全世界で一番じゃ・・・。

松木 名前は知れてますね。レース場に行くと必ず、「この車はいつ売るんだ」とこうくるわけですよ。

石川 モトクロスの車は、ワークスマシン(RH70のようなそのメーカー独自のレースのための特殊仕様車)という考え方が強いですね。だから、ゆくゆくは市販につながる車という考えで開発をすすめなけれはいけない。

西 今年の優勝でワークスマジンと同じものを手に入れたい人が殺到するんじゃないですか。

松木 ライダーのとりまきが何人かいるわけですよ。レースがいい成績で終わると、そのとりまき達も尊敬するライダーと同じものをやはり欲しがるでしょうネ。

岡野 いずれつくらなきやいけないでしょうね。

西 営業担当としてはタイミングを失しないように、ぜひ、ひとつ開発していただきたいとお願いします。ヨーロッパだけでも相当の注文があるのでは。
 それと、アメリカで今モトクロスがさかんになりつつありますネ。

岡野 アメリカは、あれだけの広大な土地をかかえている国ですし、あと1、2年もすればモトクロスブームの根がすわりますね。

松木 日本も今さかんですよ。アマチュアのクラスが、ものすごくふえているし、各地でレースをやっても、出場者をさばくのにてんてこまいのようですね。

岡野 日本のモトクロス人口ってどの位あるんでしょうね。

佐々木 この前の秋田のレースで300台。

石川 だいたい300台は越しますね。

岡野 ロードレース熱は1960年代に終わって、1970年に入っては、もうそうないように感じるけど、モトクロスはまだ屈曲点に達していないように思いますね。まあそれがいつまで続くかはわからないけれど・・・。

松木 日本の場合、まだまだだというのはマスコミのせいもあると思うんです。ヨーロッパではレースがあると、すぐその日のうちに報道する。そういうことから、モトクロス熱も自然に高まってくるわけです。

岡野 こういう点じゃないのかなあ。日本ではオートバイのような機械を使って、そういうゲームをするってことに特殊性を感じている。
 ところが、英国では18世紀に産業革命が起こっているわけですよ。ヨーロッパっていうのはその発祥の地でもあるだけに、日常のすべてに機械が結びついていて、例えば車の整備ができなかったら車を持てないわけですよ。ところが日本じゃ、そうじゃないでしょ。そういう点が機械を使ったスポーツが日本では、入っていかない理由でしょうね。

西 そうですね。輸出の商売をしていますと、やはりそういうことは感じますね。車を買いますと、取り扱い説明書というのがついているわけです。ところがそれではあきたらず、ジョップマニュアル(代理店で使うマニュアル)がほしいという人がずい分あるわけです。いちいち代理店へ行かず自分で修理でも何でもやってしまうんですね。

岡野 ほんとに生活の中に機械工業とか、技術が長い間に溶け込んでいるんですね。僕らは、やっぱりそれは西洋から教わったものですからネ。

松木 やはり情報化社会ですから、国民に大きな報道力をもった所が、情報をどう扱うかによって、こういったスポーツの普及っていうのもずい分変わってきますね。なにしろモトクロスは文部省推薦ですから。

岡野 こういう話があったんですよ。6年程前に東京オリンピックがありましたね。そのときスウェーデンの二輪車協会から日本のMFJに、近代五種の中にモトクロスを入れたらという話があったんです。近代五種に馬術がありますね。しかし、馬術っていうのは馬によってハンディがある。日本の選手は日本の馬でいいが、外国の選手は乗りなれた馬を金をかけて持ってくるわけです。動物だから、どうしてもコンディションが狂ってしまう。それなら、コンディションの狂わないものでレースをやったらどうだ。モトクロスがいいんじゃないかということだったらしいんです。

西 いつの日にかオリンピックにもとりあげられるんじゃないかという非常におもしろいレースがモトクロスだって証拠ですね。

石川 当社でも、好きな連中も多いし、せっかく白須賀に当社のモトクロス場もあるし、やはりメーカーである以上、まず従業員から集まって、自社製品で、モトクロスクラブを作ってもいいじゃないだろうか。

瀬崎 日本では、今年スズキが初めて世界選手権をとったわけですが、これを機会に当社がリーダーシップをとって、ヨーロッパ流を国内に広めたらいいと思うんです。ヨーロッパと日本じゃ、全く感じが違いますからね。今、ロベールとかゲボースっていうのは完全にスターですよ。大統領の招待も受けるし、スポーツ欄にも必ずのっている。そういうヨーロッパの目で日本の新聞見たら全然載ってないでしょ。がっかりしますよ。

佐々木 それと、ヨーロッパでは観衆から入場料をとって選手がお金をもらって出ているわけです。日本では入場料は無料。日本人の考えで、タダなら「よくないじゃないか」お金をとれば「あっ、いいものをやっている」という先入観があるわけです。だからお金をとってやれば、もう少しよいものになるのでは・・・。

西 かえってお金をとれば、もう少し入場者数もふえるし、モトクロス熱もあがるかもしれませんネ。

西 最後に何かありましたら・・・。

岡野 モトクロスに関して当社はもっと自信をもっていいと思うんです。一部には、「スズキが世界チャンピオンになった」と言ったら「H社・Y社も出たんですか」と言った人がいた。「H社・Y社がいなければそりゃ勝つのは当然さ」というような顔で・・・。二輪業界には、そういった観念がまだあるわけです。モトクロスに関しては全く違うことがわからないわけですよ。
 あくまでもスズキはモトクロスの日本におけるパイオニアであるって精神、ヨーロッパになぐり込みをかけたのはスズキであるってこと、そしてみごとにチャンピオンの座をも獲得したし、もっと自信をもっていいと思うんです。

瀬崎 そうですね。われわれが行っているときにイギリスで別のレースがあって、他の日本のメーカーのライダー一行が来ていたんです。彼らのふくみとしては、「スズキがあれだけできたんだから、われわれだって」というような気持があったらしいんですが、結果はわずかに小さな草レースで奮闘したのみで、国際レースとなるとトラブルが起きたり何だりでサンザンだったようです。この辺でも、われわれは気を強くしましたネ。

西 では、最後に岡野部長から、今後の抱負を語っていただいてしめくくろうと思いますが。

岡野 今年のレースはあと一戦を残すのみで、それも優勝がスズキのロベールかゲボースかということだけですから、今年はもう安心ってことで来年のことになりますネ。今ここでいえることは、来年はいま一人いいライダーをとります。そして、一つ上のクラス500ccにも挑戦します。250ccがあくまで本命ですが、目標としては、昔ロードレースで50・125ccと同時にチャンピオンをとったことがあるように、モトクロスでも250ccと500ccと両方のチャンピオンをとりたい。歴史をくり返したいわけです。
 それから、われわれも、いくら若いときにレースを始めても、もう10年になるので、次の時代若い人たちで興味をもった人がでてくるのを期待します。こういうものに出たいという動機は各人それぞれ違うだろうけれど、問題はこういうものでも何でもそうだが、上から示されるものでなく、自分たちが仕事の中で問題をつかんで、あるものをやろうじやないかという意欲を持つってことが大切なわけだ。ふつうの人間がやっていることは、誰にでもできるはずだ。さがしだしたあるものを自分の手でつかんで、やればできるんだという気持、みんながそんな気持になれは、当社もまだまだ発展する余地が十分あるんじゃないかな。
 ロードレースでいい成績を収め、一般の生産車に反映させて大いに寄与したと同じように、モトクロスでも同じ成果が一日も早く得られるよう、皆さんのご協力をお願いしたい。

西 今日はお忙しいところどうもありがとうございました。

(1970年9月11日開催)


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