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第15号(1962年5月発行)
1962年海外出場レース紹介
昨年、一昨年と海外レースに出場した当社は、本年度もマン島TTレースをはじめとする十一の世界選手権レースに出場します。出場クラスは新しく五〇ccクラスが追加され、一二五cc、二五〇ccとの三クラスとなり、各三台ずつ出場する見込みです。
四月二十四日羽田を発って、スペイン、フランスのGPレースを終えた第一陣チームは、残りのマン島T・T、オランダTT、ベルギーGPの各レースに出場し、七月十六日頃帰国する予定。
第二陣は七月上旬から、西独GPよりアルゼンチンGPまでの六レースを転戦し、十月下旬帰国の予定です。
本年度G・Pレース選手団は次の通り。
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第一陣
監 督 岡野武治 (技術部次長)
事務局 石川正純 (研究第一課)
整 備 袴田 勇 (試 作 課)
神谷安則 (研究第三課)
伊藤利一 (研究第三課)
中野広之 (研究第三課)
ライダー 伊藤光夫 (研究第三課)
市野三千雄(研究第三課)
鈴木誠一 (城北ライダース)
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第二陣
監 督 清水正尚 (研究第三課長)
整 備 鈴木三雄 (試 作 課)
重野重雄 (東京営業部・サービス課)
和田三枝 (大阪営業部・サービス課)
松本聡男 (研究第三課)
川原文明 (研究第一課)
ライダー 伊藤光夫 (研究第三課)
・ 森下 勲 (研究第三課)
なお、ライダーはこの他、契約選手としてE・デグナー(独)、H・アンダーソン(ニュージーランド)、F・ペリス(イギリス)の三選手が出場する予定です。
世界選手権レ−ス日程
●五月六日 スペインGP(バルセロナ)
●五月二二日 フランスGP(クレルモン)
●六月四、六、八日 マン島TT(マン島)
●六月三〇日 オランダTT(アッセン)
●七月八日 ベルギーGP(フランコルシヤン)
●七月一五日 西独GP(ソリチュウド)
●八月一一日 アルスターGP(ベルファスト)
●八月一九日 東独GP(ザクセンリンク)
●九月九日 イタリヤGP(モンツァ)
●九月二二、二三日 フィンランドGP(ヘルシンキ)
●一〇月四日 アルゼンチンGP(ブエノスアイレス)
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第16号(1962年7月発行)
優勝に想う
社長 鈴木俊三
宿願の、マン島TTレースで、スズキ五〇は優勝を果たした。世界レースに出場して三年目になし得た勝利のしよろこびは、ひとしおの、ものがある。
昨年、本田技研が、世界に示した「オートバイ日本」の名声に、さらに「モペット」を加え得たことは、まさに斯界におけるエポックメーキングであろう。
また、TTレースでは、本年が初めての五〇C Cレースは、世界のモーターサイクルメーカーの、いわば試金石であったが、スズキ五○の優勝は、当社の歴史が物語る「フロンティアスズキ」の地歩を着実に固めたわけだ。
同時に、従来の”実用は2サイクル、レーサーは4サイクル” という、ヨーロッパおよび一般の通念を打破し、2サイクルエンジンヘの関心と認識を新たにした点でもその意義は大きい。
当社の技術と人の和がもたらした総合成果をよろこぶと共に、全員がそれぞれ自己の職務に全力を尽くし、今後の精進を期されるよう切望するものです。
TTレース・GPレース50ccクラスで
スズキ(E.デグナー)優勝
一九六二年度のTTレースは六月四、六、八日の三日間にわたって行なわれ、最終日の八日には、五〇C CクラスでE・デイグナー選手の乗るスズキRM六二型五〇CCレーサーは見事優勝。伊藤光夫選手が五位、市野三千雄選手が六位、マン島初出場の鈴木誠一選手が八位とスズキの各選手がそろって上位入賞し、全員銀レプリカ賞を獲得した。
優勝のDegner
5位の伊藤光夫
6位の市野三千雄
8位の鈴木誠一
メーカーチーム賞、最高ラップ賞―デイグナー選手二九分五八秒六(平均時速一二一、五四キロ)―ともにスズキの独占するところとなった。
この五〇C Cクラスは、今年初めて行なわれたレースで斯界の注目の的でした。優勝は出場車から推してスペイン、フランスの両GPレースに優勝した西ドイツのクライドラーあるいは非常に暑い状況下では二サイクルより有利な四サイクル唯一のレーサー、ホンダか、というのが専門家達の予想で、スズキはダークホースというところ。
しかし、この予想は公式練習の結果、大きくくつがえされ、E・デイグナー、伊藤、市野の各選手のレーサーは全く快調で一、三、四位を占めた。
さて、このレースに日本からの出場はホンダ四台、スズキ四台、の計八台。こめ日のデイグナー選手は公式練習の時に増して快調に飛ばし、スタートより二〇マイル地点にあるサルビーブリッジをトップで通過。二位は十五秒遅れて市野選手、更にホンダのロッブ選手、クライドラーのアンシャイト選手が通過。
第一ラップは三〇分一七秒八(平均時速一二〇、二四キロ)でE・デイグナー選手が取得。同選手はさらに後続グループとの差をわずかながら開きつつ第二周を二九分五八秒六と驚異的な記録でゴールイン(平均時速一二一、五四キロ)。これに一八秒遅れてタヴェリ、ロッブ、アンシャイトの各選手が一団となってゴール。史に少し遅れて伊藤光夫選手、市野三千雄選手が五、六位でゴール。鈴木誠一選手もよくがんばり八位に入賞した。
このレースには、自製のトーハツランペットレーサーで出場したシモンズ選手が十三位に入りましたが惜しくも銅レプリカ賞を逸し、唯一の女性ライダー、べリル・スエイン選手はイトム(イタリア)に乗り完走二五台中、二二位に終った。
なお、一二五C Cレースでは、E・デイグナー選手の乗るスズキレーサーが第八位に入賞し銀レプリカ賞を獲得した。
マン島TTレース優勝に寄せて
技術部長 渡瀬善治郎
一九六二年六月八日は、我々の生涯において銘記さるべき輝かしい思い出の日となった。英国マン島におけるTTレース五〇CCクラスでスズキのE・デイグナー選手が驚異的なスピードで見事優勝し、また、日本人ライダーとして、我社の伊藤光夫、市野三千雄両選手が五、六位に入賞し、TTレース初出場の鈴木誠一選手も健闘よく八位に入って何れも銀レプリカ賞を獲得したのである。しかも、優勝したデイグナー選手により最高ラップ賞をまた、メーカーとして最高の栄誉であるチーム賞を獲得し、スズキの名声を、スズキの技術を、全世界に誇示したのである。これはスズキの総合力の成果であり、思わず快哉を叫ばずにはおられない壮挙であった。
マン島のTTレースは五十五年の歴史を持ち、欧州の十大GPレースの中で最も権威あるレースである。過去の歴史を繙いてみると、一九三八年にDKW二五〇CCが二サイクル・レーサーとしてただ一度、優勝したことがあるのみで、起伏の多い長距離コースであるためもあって、二サイクル・レーサーで優勝することは極めて困難視されていたものである。本年度から五〇CCクラスのレースが初めて行なわれたのであるが殆んど不可能とされていた一周三十分の壁をみどとに打破った、すばらしい記録で優勝したのである。しかも、二サイクル・レーサーによる優勝は二十四年振りのことで、スズキの初優勝に一段と花を添えている。
我社は現社長の慧眼をもって、他社に魁けて五〇CCモペットを世に送り出し、所謂、モペットブームを巻き起した原動力となっている。この五〇CCクラスでTTレース初優勝を飾ったということは、まことに感慨一入深いものがある。
スズキの海外レース参加は本年で三回目であるが、一昨年、昨年の成績は芳しからぬものであった。しかしながら、今回の栄誉はあくまでも目標を捨てさせなかったトップの英断によるものであり、オール・スズキの協力一致のもと、岡野監督他選手団の方々、並びに関係者の涙ぐましき粘りと闘志の賜である。また、本田さんが昨年すばらしい成果を上げて日本の二輪車技術を世界に示してくれたことは、同じ日木チームの一員としてのスズキに対して、身近に大きな希望と刺激を与えたという点で、忘れてはならない。
今年のTTレースにおいて、二サイクルのスズキ、四サイクルのホンダが、五〇CC、一二五CC、二五〇CCクラスで優勝、上位を独占して、世界中を瞠目させたことは、誠に痛快であり、日本の二輪車業界のために喜ばしい限りである。
凡そ、ある仕事を完遂せんとする場合、目標を明らかにして、不撓不屈の粘りと努力をもってすれば、必ず達成できるということを、この度のTTレースの優勝が何物にも替え難い程の大きな力で教訓を示した。我々の企業活動は果てしなきレースの連続である。レースに勝、負はつきものであるが、合理的な準備と旺盛な闘志で粘り抜いた者が最後の勝利者となる。今回の優勝を充分に味わいながら、我々は価値ある製品を市場に送り出し、我社永遠の発展のために、謙虚な気持でなお一層、精進努力することを、ここに改めて誓い合いたいものである。
最後に、不自由の多い外地に在って、明日に備えて健闘を続けている選手団の方々、並びに社内のレーサー関係者のご努力に対して感謝すると共に、限り無き声援を送りつつ擱筆する。
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第17号(1962年9月発行)
ごくろうさま
帰国選手団を迎えて(座談会)
司会
大変お忙しいところ、お集まり願いましてありがとうどざいます。
レースで輝かしい成績をおさめられて帰国された第一陣選手団を囲んで、いろいろお土産話をお聞きしたいと思います。まず最初に各国を回られた経路を説明していただきたいんですが。
岡野
地図を出してもらうとよくわかるのだが、四月十五日パリ着、セーヌ河に近い代理店ピエール・ボネーの工場の一隅で車の整備、四台のバンに車を積んで四月三十日最初のレース場であるスペインのバルセロナヘ行きました。五月六日に終わってフランスのクレルモンフエランヘ。それからドーバー海峡を渡って英国マン島へ。再び同じ道を帰りベルギーからオランダのアッセン、ドイツのシュトウットガルトを経てベルギーのアントワープヘ。そこにあるムーケンスで全整備を終えて総走行距離七千キロをオーバーしたコースを終ったわけです。この間ずっと車で旅行しました。
司会
そういたしますと、運転は大変だったでしょうね。交代はしたんですか。
岡野
いや四人ともずっと交代なしでしたよ。
伊藤利
右側通行で右ハンドルだから運転しにくくって苦労したけど、道がいいからアクセル全開ですっとばしたら足首が痛くなったほどだったですよ。
中野
あちらの道路標識はうまくできていて、実にわかり易いんです。道路には通し番号がついていてスラスラと行けるから、その点非常に楽だね。スピード制限も百キロという道路だから、日本とはてんで比べものにならない。
伊藤利
その反面、地理を知らない我々にとっては、高速道路から町に入る時は困ったね。どのインターチェンジから入れば町のどの辺に行くのかさっばり見当がつかない。フランクフルトでは一番弱った。
●顔パスとレーサーでOK。
櫛谷
免許証は日本のものでいいのですか。
岡野
本来なら国際免許証がいるんですが。日本のパスで通れましたよ。顔パスでね。(笑)しかもレーサーを積んでいるんですから、これはとても楽でした。
御子柴
そうするとヨーロッパでは免許に対してやかましくないということなのですか。
岡野
日本ほどやかましいことはないが免許制度はちゃんとありますよ。しかし、ベルギーは例外で免許というものがなかったね。そのかわり事故が多い。(笑)
伊藤登
パスポートは国境を越す毎に見せるんでしょう。
岡野
ベネルックス諸国内では、いらなかったな。「スーペニール(記念)としてほしければ押してあげますよ。」なんて、すずしい顔して言っていました。
●ジエスチャーは万国共通語
司会
ライダーである市野さんなど、さぞ女の子にもてたことでしょうね。
岡野
彼等はもてたようですね、なかなか・・・・。あちらの女性は体格が立派で美しいけれども、めずらしいうちだけだな・・・。特にそう感ずるのは。
司会
ほんとうですか。
市野
中には小柄で日本人を思わせるような女性もいて親しみを感ずるので話しかけようと思うんだけれど、残念ながら言葉が通じないという次第で。(笑)
庄古
そのほかに言葉で苦労されたことは。
岡野
フランス、スペインなどではあまり英語が通じなかったんでね。
伊藤利
だからこういう次第になっちゃう。(手で話すジェスチャー)(笑)
司会
ジェスチャーだけは万国共通だからね。
神谷
小さい国ほど英語がよく通じる。自国語が国際的な言葉になっていないためだろうな。コペンハーゲンなどではコック達でも英語がうまい。
庄古
料理の注文の時など困らなかったですか。
岡野
メニューはフランス語のが多くて不便でした。前に社長と行ったときは、社長が写真入りでしかも六ケ国語で書かれたメニューを持っておられたんでね。もっぱらそれに頼らせてもらって。(笑)
●やっぱり日本の味がいい
庄古
各国のホテルの料理なんかいかがでした。
伊藤利
めずらしいうちは肉がよかったんだが日本の肉と味がちがってまずいのであきてしまった。やっばり日本の味がいいね。
岡野
私達がでかけるときにはいつも必ず醤油を持って行きましてね。すき焼きもできるし、日本の味も割合に味わえました。
櫛谷
野菜などは、
岡野
きゅうりなんかよく食ったな。
伊藤利
生で食塩をふりかけて食べるんですよ。
神谷
しかし、野菜は日本にかぎるね。果物だって外国にはあまりいいものがないしリンゴはこんなもの(小さいというジエスチュー)トマトだって真赤に煮てあってこれもまた小さいんだ。
伊藤登
そんなものばかりだとすると、作物の手入れはしないのでしょうかね。
中野
畑に出てお百姓が働いているのなどほとんど見かけませんでした。野良仕事をしていたのは、オランダとベルギー、ドイツぐらいだったね。
岡野
働かなければ食えないドイツあたりは日本と感じが似ているね。また食べ物の話になるが、一番食べたいと思ったのは私の猛烈に好きなナスの漬物でしたね。郷愁を覚えたものです。
櫛谷
食中毒などありませんでしたか。
岡野
安い食堂へ入って食べたとき、下痢した人があったな、誰だったか。
伊藤登
水はどうでした。
岡野
フランスの水は悪い。すごく鉱物質を含んでいるのでね。
中野
そんなわけで水もだんだん飲まなくなりましたよ。
●徹夜で整備したことも
司会
整備は技術的な面で非常に重要なことですから、整備士の方々のお骨折りは大変でしたでしょう。
岡野
やむをえず、二回程徹夜で整備したことがあります。しかし我々の苦労も今回は実ってうれしく思っています。と同時にこの好結果はこれまでレースを続けさせてくれた会社の主脳部の決意と全従業員並びに協力工場のご協力のたまものだと思っています。
御子柴
レースに勝った時のようすなどお聞かせ下さい。
岡野
勝ってほっとしたとは思っても、うれしい! 優勝した! 世界一になった! という実感はすぐには湧いて来なかった。後になってじわじわとこみ上げてくる程度なんですね。
神谷
自分で整備した車が完走してくれるのが一番うれしいですね。勝つということよりうれしいものです。
●”どうぞ勝って下さい”と
岡野
マン島の場合一周するのに五〇CCで三〇分かかるんです。だから自分の前を通った車は三〇分たたないと自分の目では再び見られないわけです。サインポストコーナーに車が来るとスタンド前の赤ランプがつき、あと一分もすると車が現われることを知らせるのですが、この一分間の長いこと、長いこと。
中野
マン島の場合はサインを出したくても、どこかに受ける人がいてくれないとサインも出せないでしょう。うちの場合は電話を買ってコースの途中とゴールの二ケ所に別れてサインを送り合ったわけです。コースの発信所からゴールまでは一五分ぐらいかかりますが、サインを送ってからのその一五分間の気持といったら「どうか勝って下さい」とまさに祈るばかりでしたよ。(笑)そんなわけでデイグナーが表彰台にあがったのは見ることができなかったな。電話でドイツ国歌を聞いただけでした。
岡野
そう、表彰の場合、ライダーの国歌がかなでられその国旗があげられる。だから感激もうすいような気がしたね。
●パリとオランダがいい
司会
まわってこられた国々のベストスリーは、
中野
僕はパリ。
岡野
夜のパリがだろう。それから印象に残ってるのは南フランスのカルカソンというところのお城。とがった塔があって中世のおとぎ話に出て来るような美しい城なんだ。
市野
スペインの闘牛やフラメンコの踊りも有名ですね。踊りの方だけは見ましたが。
岡野
アムステルダムは変ったところで、オランダの首都じゃないが風光明媚な水の都で町が扇形をしていて、運河は網の日のように密に通ってる。河沿いには古いレンガ作りの傾いた建物が並んでいるんですが、それがまたいい。
御小柴
オランダには風車がありますね。
神谷
風車は何のために使われているめかと、踏査したところ石うすをまわすためでありました。(笑)
中野
フランスで感じたことがあるんです。それは、子供が街で遊んでいるという光景をめったに見なかったことなんです。それだけ人ロが少ないのでしょうが。それから南フランスのぶどう畑は見事なものでした。丈はそんなに高くなくって、たわわに実ったぶどうはきれいなものですね。
●スズキ50はすごい
御子柴
日本の車が街を走っているというようなことは
岡野
ベルギーのアントワープには代理店がある関係でうちの車がたくさん走っていたけど・・・。オランダではホンダさんの車をよく見かけました。
伊藤登
スズキに対する評判はどんなでしょうか、
岡野
スズキ50はすごい―と思われていますね。この機会をとらえて輸出が伸びること
を期待したいね。いや伸ばしたいものだね。
司会
まだまだお話はつきませんが、この辺で。皆さんありがとうございました。
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第18号(1962年11月発行)
SUZUKI 50・世界の王者に
メーカーチーム賞・個人賞あわせて獲得
本年度の世界十大グランプリレースを転戦したスズキチームは、最後のアルゼンチンGPにも圧勝し、50ccクラスにおいて、ついに1962年度世界グランプリレース選手権を手にした。メーカー・チーム、個人(E・ディグナー)両賞を獲得した。
スズキ50は、斯界におけるスズキの名と地位とを不動のものにした。
この輝く勝利は、あとに紹介するレース第一線のホープ達の、たゆまぬ研究と努力のたまものであリ、監督以下第一陣、二陣選手団一同のチームワークが招いたものに他ならない。
私たちは、ここでこれまでにいたった足どりをぶりかえると共に、この勝利の意義について考えてみよう。
スピードの世界は厳しいもの
昔からスピードレースは、技術のオリンピックといわれる。細部にわたって設計を担当する技術者は、”我々の技術の世界への挑戦”といい、ライダーはまたスピードの世界に生きる者としての自己への対決と克服という。
目標とされる最高スピード二〇〇余キロメートル/Hの世界には、常に危険が同居している。それだけに整備面を担当するメカニックも女房役としてビス一本の緩みをも見逃がさない細心の注意をもってレースに臨むのである。
ライダーには体力面、精神面において傑出した力の持主であることが要求されるのはもちろんのことである。
本年も既に昨年度の一二五CCクラスの世界チャンピオンであり四サイクルの世界的なリードオフマン、T・フイリス選手(オーストラリア)がレーサーごとコースに突込み即死した事故が報ぜられた。六月六日のことである。昨年は、わがホープ伊藤光夫選手が英国マン島で練習中に転倒して顔面に怪我をし、本番レースには出場できないという苦杯をなめている。
レースには事故はつきものとはいえ、これらの事故が日常茶飯時のように起っているほどレースは厳しいものである。輝く栄光の陰には常に非情な陰影のあることを忘れてはならない。
☆デイグナー選手の獲得
さて、本年当初、グランプリ選手歓送会の席上、スズキチーム岡野総監督は、「初出場以来三年目、今年は思う存分あばれる。さいわいデイグナー選手獲得に成功したので選手の層が厚くなった。このほかニュージーランドのH・アンダーソン、英国のF・ペリスら二選手を補強したので当然昨年のチャンピオンチーム 「ホンダ」を打倒する意気ごみでやる。少なくとも全レースに出場するかぎり何か一つタイトルを取りたいが、それよりも昨年に比べて数段進歩したスズキチームおよびレーサーの活躍に注目していただきたい」と暗に本年のレースに臨むスズキチームの意気あるところを披露したものである。
思えば、今年のレースの勝利は実際にはE・デイグナー選手の獲得にはじまったといえる。彼は今さら紹介するまでもないが昨年度の世界選手権レースにホンダに乗ったT・フィリス選手と東ドイツのMZを駆って最後までチャンピオンを争ったことでも有名である。ちなみに彼の昨年のGPレース(一二五CC級)の成績をひろってみるとイタリアGP優勝、西独GP優勝等を含めて、優勝三回、二位三回という輝かしい功績を残している。
☆「歴史はつくられた・・・」
レース初戦スペインGPを終え、フランスGPを迎える頃には、少なくとも五〇CCにおいては本来のペースに戻っていた。特に初参加のスズキチーム、鈴木誠一選手が海外レースでのキャリアが浅いにも拘わらず、堂々と入賞したことは特記されよう。
選手団はフランスGPをすますのももどかしく、マン島の土を踏んだ。そして六月八日が訪れたのである。
『スズキ五〇TTに優勝』ここに英誌、”ザ・モーターサイクル・ニュース”のB・マクローリン編集長が伝える報道から再録してみよう。
「金曜日、五〇CCクラス・レースがスタートした時、歴史は作られた。
ほとんどすべての批評家は、あまりに素晴しい記録にただ沈黙するばかりであった。一九六二年六月八日金曜日に五〇CCクラスにおいて樹立された記録は、誰一人として予想しなかった、史上空前のものであった。
信ずべからざるスピードでスズキ、ホンダ、クライドラーの精鋭がレースを続ける間、他のレーサーははるか後方にとりのこされていた」
☆マウンテン・コースを二周して
E・デイグナーが優勝したとき、二サイクルレーサーは一九三八年にDKW二五〇CCで同じドイツ人エドワード・クルーゲが軽量クラスに優勝して以来一八年目にして初めて勝利を握ったことになる。
レースを完全にリードしたE・デイグナーは「スズキ」を駆って驚異的スピードでマウンティンコースを疾走し、平均時速一二〇・二四キロメートルで第一ラップを走破したのである。
☆TTを制覇するものは世界を制覇する
初戦のスペイン、次いでフランスと両レース共、スズキレーサーは不調を続けてきた。これを挽回するために、マン島用として新たにチュウニングアップした五〇CCレーサー三台を送り込んだ。そしてこの五〇C C車がスズキに栄冠をもたらしたのである。
T・Tを制覇するものヨーロッパを制覇し、世界を制覇する。スズキの地歩はここに確固たるものとなった。オランダGP、スズキ・E・デイグナー優勝、ベルギーGPスズキ・E・デイグナー驚異的記録で優勝。西ドイツGP・・・。一二五CCクラスにおいてはホンダに次ぐ成績とはいえ、スズキの軽量クラスはヨーロッパにおいて絶讃を博した。スズキというネームが五〇CCモペットの代名詞に―その礎は今、築かれたのである。
実戦を重ねつつ研究試作を続けてゆく。このオーソドックスな方法を怠らなかったのが勝利を招いたのである。勝つためには様々な手法もあろうが一番大切なことは、レースチームを育て上げようとするトップマネージメントを中心とした周囲の理解と平凡な研究を地道に進めて行く研究態度であろう。
栄冠に輝く各選手のプロフィール
世界のチャンピオン
E・デイグナー選手
身だしなみの良い紳士である。しかし技術面に於ては決して妥協しない根性の持ち主である。乗り方は豪快さはないが、一面女性的ともいえるほどスムースに綺麗に乗りこなす。各地の公式繰習中、彼は最短距離を走るためのコーナーワークを練習するのではなく、車の性能を知り、如何にして車のスピードを殺さずにカーブを抜けるかという点に心掛け常に緻密に頭を働かして練習し、レースに臨んでいる。
短期間に英語、日本語をマスターし良く使いこなすのは有名。愛妻家である。当年三十一才。夫人と共に昨年十一月来社したことがある。
メカニックとしても一流
伊藤光夫選手
昭和三十一年入社以来、コレダ二サイクルエンジンと共に生活し研究を重ね、既に自分の特技として二サイクルエンジンメカニズムに精通している理想杓ライダー。
今年三月二十八日単身スズキチームの先発隊として日本を離れてから、ずっと半年間にわたって海外生活を続けてきたが、一昨年初出場した英国マン島のTTレース以来のヨーロッパ生活がすっかり板についている。
レース批評家の間で前々から指摘されていた”スタートのまずさ”も彼独得のファイトで克服した。イタリーGPで見せたレース展開は彼が超一流のライダーであることを実証してみせたものである。性格も地味で静かな心の持主である彼はスズキチームのホープである。静岡県磐出市山身。
豪快な一発屋
H・アンダーソン選手
当年二十六才の独身男性。ハンサムで特に女性に対しては絶大な人気がある。物事にこだわらない、竹を割ったような気性で選手仲間からは”アンチャン”と呼ばれて親しまれている。
ライディングテクニックは強引で、時々怪我をするのもこの強引さのゆえんである。ここ一発という掛引では、契約三選手のうちでは最も信頼がおけるともっばらの評判。
E・デイグナーに続く、次代のホープであろう。生まれはニュージーランド。
芯の強い努力型ライダー
鈴木誠一選手
表面は極めておとなしいが、芯の強さを内に秘めている。日本の各種モトクロスレースでチャンピオンとなり技量十分であるとはいえ、初参加のヨーロッパスピードレースで、何とか上位に食いこもうと乗用車で何回もコースを廻って研究した。
公式練習でも車のスピードと自分のペースをいかにしてマッチさせるか絶えず勉強している努力家タイプ。この研究心が彼をして日本のチャンピオンたらしめたゆえんであろう。六一年度一二五CC、二五〇CC国内ランキングライダーである。洒は一切たしなまない。当年二十五才。
”バンビーノ”
市野三千雄選手
ユーモアに富み一杯飲ませれば一人で座のとりもちをやってのける程。ライダーとしては堅実な完走型ライダーであり、レースに臨んで車を大事にする点では当社のライダーでは最も秀れている内の一人。∃ーロッバライダーとして”バンビーノ”という愛称で人気を博した。レース前の体重測定で規定重量(60kg)には満たないのを、笑いながら検査官が通してくれる程である。コンディションの保持には人一倍神経を使っている。二輪完成課勤務の英子夫人との問に一女がある。
研究熱心な英国紳士
F・ペリス選手
カナダ生まれ、英国育ちの英国紳士。みるからに紳士ぜんとしている感じである。外人選手三人のうちでは一番の好男子。常に研究心旺盛で、一年契約選手でありながらスズキチームの一員であるという自覚が日々の行動ににじみでている。
乗り方は温厚着実であり、いわゆる一発屋のタイプではなく完定型のライダーといえる。愛妻家でレースには必ず夫人を同伴してくる。ツイストが得意。三十一才。
ビフテキが大好物の好男子
森下 勲選手
誰からも好かれ、誰からも愛される好男子。「彼ぐらいライダーとして根性のある男はいない」と評する人がいるが全くファイトの固まった重戦車のような馬力屋。外人選手との合宿生活においてもとにかく研究熱心。
ビフテキが大好物。それも血のにじみ出るような生焼きだ。愛すべきガンマニヤである。当年二十四才。
社長 1962年度世界グランプリレース選手権受賞式に出席
アルゼンチンGPレースにより,スズキ50の優勝が決定し,社長はベルギーのブリュッセルで行なわれた受賞式に出席された。
写真は受賞式列席のため10月17日、羽田を出発する社長。
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