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GPライダーの巻(その2)
                               

ほとばしる黄金水と際限なくつづく快楽

 天井と壁の白さ、医師と看護婦の白衣を見たとき、私は妙に気持ちが落ち着いた。さあ、どうなりとしやがれ、といった気分の落ち着きであった。あとになってわかったことだが、病院は北アイルランドでも、一、二位をあらそう大きなもので、円形になった八階建ての建物であった。このロイアル・ビクトリー・ホスピタルは、舟のへなべりをくっつけて円形にしたようなかっこうで、病室と病室との間にできる三角形の空間に色とりどりの花が植えられていたり、テニスやバスケット・ボールもやっていて、私の入れられていた部屋は一列が十三人で二列になっている二十六人入りの病室であった。こういう立派な病院は日本では見たことがなかった。
 外を見ると朝であった。事故を起こした次の日の朝の七時頃であった。まわりを見ると、ハダの色のやけに白っぽい連中が、訳のわからぬことばをしゃべっていたが、それをぼんやりと聞いているうちに風雲急を告げる感覚が襲ってきた。考えてみると前日のレースが午後一時頃で、それから次の日の朝の七時なのだ。それに麻酔が切れはじめると、こうなることは日本でも経験があった。日本なら簡単だ。
 「おい、出るぞ、しびんだ」で済むが、ここ北アイルランドの病院では、看護婦を呼ぶブザーのボタンも見当たらないし、マネジャーの飯田さんの姿もなく、そしてそのしびんという英語がわからないときている。麻酔のあとでなければ、こう早く堤防が破れることはなかろうが、私はその感じを発見してから、三分とたたないうちにそれは起こった。それは私が初めて体験した射精より甘く長時間にわたって持続した。朝寝坊の朝小便ほど気持ちのいいものはないというが、まさしくそれであった。ゆるやかな快楽の下降線をたどって、それは際限なく続くように思えた。ことの重大さに気づいたのは、それが終わって、しばらく経って、堤防の破れた地点にゆるやかな湿気とかすかな臭気がただよい、やがてそれが冷えびえした不快感となっていったころ、その臭気は私の顔面を覆い、そして私以外の人間にも及んでいった。
 隣の男が大声で叫んだ。「ノース、ノース」と聞こえたが、それは最後には「ナース」とも聞こえた。私達ホンダ・チームは、外国にいく前に英会話の教師を招いて、日常英会話を習ったのだったが、病院での会話は、習ったものかどうかも思い出せないほど忘れてしまっていた。とにかく看護婦の姿がこちらに歩いてくるのが見えた。ナースといえば看護婦がくることがこれでわかった。私は意を決してそれを発音してみた。
 「イエスサー」 と女ははじけるような声を上げて近づいてきた。決して若いとはいえないその看護婦の笑顔は、職業上の義務感を越えた何か特別の意味があるかのような気配だった。外国女の笑顔のきれいなのは映画でよく見ていたが、実際に、私一人に向けてこのような特別な笑顔を見せるのは、それなりの理由もあったことがあとでわかった。何しろ私はこの病院始まって以来の日本人患者であり、その日本人が初めて口をきいたということであったそうだ。しかし、このときはこの笑顔に私は完全に魅せられてしまった。この異国においてことばが通じ、気持ちが通じ合えるのはこの女ただ一人なのだという気がしたのだった。
 私は黙って下の方を指さした。看護婦は私が指さす前に、臭気でそれと感じたらしく、「オール・ライト、オール・ライト。ネバー・マインド」といい、引き返した。すぐに四人の看護婦が手に手にシーツ、毛布、敷布団を持ってやってきて、私のからだの上にあった毛布を何のためらいもなくまくりあげた。ところが、こちらは身に布切れ一つない素裸ときているので、毛布が私のからだを離れるその瞬間、怪我をしていない片手が反射的に水源地″を覆った。
 これが日本の病院なら「何をするか、無礼者J」と一喝くわせるところだが、北アイルランドの女どもにはそれは通じない。せめて、日本男児の心意気を示すために、天を向いていなないて、後ろ足でそそり立つ駿馬の勢いを見せてやりたかったが、何しろ十八時間もの麻酔のあとともなれば、そういう状態にはなっていなかった。それに、こういう状態で男の武器を臨戦態勢にできるほど図々しい奴が他にいるとは思えない。とにかく羞恥と屈辱感で、もう片方の手が動かせるものなら私は顔を覆いたい気持ちだった。

昭和医大で玩具にされる

 ロイアル・ビクトリー・ホスピタルに私は三カ月入院していた。他の連中は九月にイタリアのモンツァで開かれるイタリアンGP出場のためイタリアにいったが、この年はローマ・オリンピックのあった年だった。自民党の福永健二さんがこのオリンピックの日本選手団の団長か何かで、総勢八百人とかがイタリアから帰る時期にホンダ・チームはぶつかった。それで私の飛行機の席がとれずに帰国はのびのびになった。それというのも、私をたんかで運ぶには、飛行機の席を九人分必要とし、それにイギリスの赤十字の医師と、看護婦が付き添って同乗しなければならないからだった。しかも、途中でこの医師は、飛行機のおりる各国の室港ごとに受け継がれ、その国の赤十字の医師と、看護婦の手配をしなければならなかった。そんな面どうな手間をかけるより、日本から赤十字の医師を派遣し、その医師が北アイルランドから日本まで付き添わせろ、と命令したのはホンダの社長であった。多分、ホンダのおやじは、私以上に日本で気を操んで、どなり立てていたのだろうが、私は日本人の医師がきてくれることでほっとし、ホンダのおやじに感謝した。
 日本から赤十字の柳沢という医師が、汗をふきふきとんできた。帰路はベルファストから、ロンドンまではローカル線で、ここまでは北アイルランドの医師が付き添い、ロンドンからはBOAC機で、コペンハーゲンまでイギリスの医師、そしてアラスカ、羽田と帰ってきた。羽田杢港では、タラップの下にクルマが待っていて、税関を通らずにそのままホンダの指定病院であった昭和医大に入院した。そこに私は十日間いた。この十日間、闘牛場のようなかっこうの大きい部屋の真ん中に置かれ、大勢のインターンを前にして、偉そうに講義する先生の教材となってしまった。
 「これが北アイルランドのロイアル・ビクトリー・ホスピタルでの手術だ。このレンティングを見て下さい」といった調子で、私の傷をいじくりまわした。長さ十五cmのガーゼに、オリーブとかオリーバとかいう黄色い薬をつけて、向脛のところからぶちこみ、裏側のアキレス腱のところで抜き出す作業は、毎日朝の九時に始まり、しかもこのガーゼは一枚でなく十枚、つまり十回やるのだった。この作業を見ていて気絶したレース・ドライバーがいる。高橋国光と一緒に見舞いにきてくれた戸坂(養子なので、当時実家の折懸姓を名乗っていた)六三(ロクゾウ)である。彼はアキレス腱のところから何枚目かのガーゼを引き抜くのを見ていて、フーッと気が遠くなっていった。あいつは強盗みたいな顔をしているが、実にやさしい(あるいは気が小さい)心を持っている男なのだ。
 しかし、こんな荒療治を十日間続けていても病状ば回復せず、相変わらず私はインターンの教材にされていた。この足はすんでのことで北アイルランドで、切断されかかったのだから、切るなら切ってくれ。かあちゃんやホンダのおやじの目の前で切られるのなら本望だ。特にホンダのおやじに立ち会ってもらい、あんたの作ったクルマをおれが一番速く走らせて、こういう結果になったんだから、よう見ていてもらうわと、私は医師にいったが一向にらちがあかない。

危うく片足を切られそうになる

 北アイルランドの病院で切られかかったというのは、私の英語の聞き違えから生じた。ロイアル・ビクトリー・ホスピタルの医師と私は、(もちろん英語で話していた)、こちとらの英語ときたらブロークン・イングリッシュそのものだ。医師はメスを片手に、
 「カット」という言葉を発し、私は、
 「イエス・アイ・シー」 といった。そして河島さんは私の方を向き、
 「おい健二郎、切るんだってよう。手術ってことだな」という。
 私も確に「カット」という英語は「切る」という日本語に当たることは知っていた。そこで私は承知し、河島さんは手術の書類にサインした。ところが、これは次の日の昼までに、出血が止まらなければ、足を切断する、という書類だったのだ。入院してから二十日間ほど出血があり、毎日千二百cc輸血していたのだった。血液千二百ccというと、何でも人間の血液の三分の一くらいだそうで、これを輸血するのに七時間もかかっていたのだった。
 この「カット」の話をした医師は、二つ返事で泰然として「イエス」と答えた私の度胸にえらく感心していたそうである。日本人はフジヤマ、ゲイシャ、ハラキリで知られた武勇の誇り高き民族だと聞いていたが、なるほどそうなのかと、足を切断するのに爪を切るほどにも、動揺しない立派な男達だと、あとになって日本の柳沢医師に語ったそうだ。なんのことはない、こちらは盲蛇におじけずで、カットとは手術することだと思っただけだ。次の日になって出血がやみ、この片足切断の喜劇は中止されたが、これを一番喜んでくれたのは例の年増の看護婦であった。
 「ケンジ、ケンジ」と満面喜色の彼女は私に駆け寄ってきた。健二郎という日本語は英語でいうとケンジとなり、私はそれに「イエス」と答えていた。彼女は嬉しげに早口でしゃべった。その言葉のうちで私が聞きとれたのは、「カット・ノー」だけであったが、要するにカットはしなくなったんだな、とは判断がついた。
 「ホワイ?」 と聞くと、また早口でまくし立て、何やらかにやら「ストップ・イッツ・ハッピー」という。何かがとまって、それはいいことだ、といっているらしかった。
 隣のベッドにいる男は、ジョンといい、彼は通訳の奥本さんが持ってきた英語の辞書をめくりながら 「ケンジ、チ、チ、チ、トマル、トマッタ」といってくれたが、最初は日本語とも思えず、私は、トマル、トマッタ」といってくれたが、最初は日本語とも思えず、私は、「スローリ、スローリ」といった。ジョンがゆっくり話す日本語で、私は出血の止まったのを知った。嬉しかった。
 「バンザイ」と叫んだほど嬉しかった。
 日本から柳沢医師が到着したのはこの頃だった。大きい図体をゆらゆらとゆすって、息せききって彼はかけつけた。よくもまあ、あんたこんなところまで一人でこれたなあ、と私がいうと、一騒動だったと柳沢医師は汗をふきふき一騒動を話してくれた。
 「コペンハーゲンでは行き先を間違え、ロンドンの空港では、国際線で待っていたんだが、ベルファストは国内線だったんだ。国内線に乗るには、そこからタクシーに乗ればいいのを地下道を走っていたら、おまわりの不審尋問に引っかかって……」聞くも涙の物語りであった。そして病院の医師と話をし、手術の書類を見て彼はびっくりした声を上げた。
 「や、や、や、こりや大変だ。何でカットするという書類にサインしたんだ?」
 「カットつて、手術のことだろう、先生?」
 「や、や、とんでもない。切りとっちゃうんだぞ。足がなくなるんだぞ」
 患者の申し出により、足を切断すべく準備していたが、出血が止まったので、これを中止したと書いてある。と柳沢さんは教えてくれた。まさに盲、蛇におじけずとはこのことだ。
 「ありや、先生は英語が読めるんか?」と私が開くと、しやべるのは駄目だが、読むのは読めるという。これを開いていた河島監督は、
 「ここでしゃべっていたら、どこを切られるやらわかったもんじゃない。おい早く日本に帰ろう」といい出した。河島さんはイタリアンGPの行なわれるギリギリの日まで、私に付き添っていてくれたのだ。そしてこのレースが終わると、また病院に帰ってきてくれて、私を帰国させてくれたのだった。イタリアから高橋国光ら一行が、そしてベルファストからは私達が出発して、フランスのオールリ空港で合流し、一緒に帰ってきたのだった。
 高橋国光は飛行機の中で横たわっている私を見ると駆け寄ってきて「もうちょっとで一位になれるところだったのに、誰やらに抜かれ口惜しいよ健さん」と涙を流して報告してくれたのは、いまもって忘れられない。国光はこの次の年に連続優勝し、そしてその次の年にマン島で大事故を起こした。

忘れ得ぬ畏友、故鈴木義一

 ホンダ・チームで最も忘れられない人間は、ギッチャンこと、チーム・キャプテンの故鈴木義一である。何よりも強烈に印象に残っているのは、彼の卓越した統率力である。
 鈴木義一は一九六三年、リエージュ・ソフィア・ラリーにホンダS600で古我信生とともに参加していたとき、峠道で対向車を避けようとして崖下に落ち、死亡した。ハンドルを握っていたのは彼であつたが、高橋国光に輪をかけたような慎重派であつた彼が、こういう事故を起こすとは、いまもって信じられないことで、生きていれば、間違いなく本社の部長クラスに納まっていたはずである。彼はホンダ・スピードクラブの主将であり、兵隊の位いでいえば中尉で中隊長だったと思う。私は、やくざあがりの軍曹というところだ。河島さんは中佐で大隊長。そして当時のホンダのおやじは一兵卒からたたき上げた大将の感が強かった。ホンダのおやじは、あの頃は本社より研究所にいることが多く、荒川のテストコースまでやってきて、
 「お前らばかりいい思いせんで、おれにも乗せてくれや」といい、ギッチャンのヘルメットを借り、四気筒をぶっとばすのだったが、このおやじが乗るとエンジンをオーバーランさせるので、ギッチャンはよく一
万以上あげないで下さい、と注意していた。
 この頃のホンダには、骨のある奴が多かったが、その中でもその骨の太さでは、河島さんとギッチャンが目立った。
 ギッチャンは、いつ、いかなるところでも兄貴だった。会社では当時係長だったが、本田社長、河島監督と同じ浜松の出身であり、この三人の息はぴたりと合っていた。浜松は、気性の荒らいところだ。浪曲などに出てくる森の石松も、浜松在森町の出身だ。(静岡つ子は貧乏すると乞食をするが、浜松っ子は貧乏すると強盗になる)ということばの通り、たくましい生命力をもっていた。ホンダのおやじに、なぐられて口から血を流していても、へらへら笑っていたというし、水沼平二(現在本田技研、徳島営業所長)の運転する単車の後ろに乗っていても、彼の腰に手を回しながら、グウグウいびきをかいて眠っていたほど、肝っ玉の太い男だった。その半面、驚くほど繊細な神経も持っていたし、数字に強く、緻密な頭脳の持ち主だった。
 そして、決して自分一人のことだけを考えない男だった。第一に己の部下、第二に会社を考えているところが、常に兄貴分としての人望を集めていた。
 私や藤井璋美は、そらいけ、ドンドン、という調子で独走するタイプであり、まあまあ、よせよせというのが水沼平二。谷口尚巳、島崎貞夫、田中禎助などは、「いやー、おらいかんぞ」といい、ギッチャンは「うむ、じや、ちょっとやってみるか」というタイプだつた。武田信玄に似ていた。しかしそれにしても、ホンダ・スピードクラブは多士済済であつた。あれだけ一くせも二くせもある若者がうまくまとまっていけたのは、ひとえにギッチャンという隊長がいたからであった。そしてこのホンダ・チームは本田技研という会社を小さくしたものであつた。鈴木義一は本田社長であり、その下に河島さん、藤沢専務とかいう参謀格がそろつていた。ホンダのおやじも、えらい男だったが、それを取り巻く番頭からデッチ小僧まで、今でいうモーレツ社員がそろつていた。鈴木淳三(現在ホンダ中古車販売、大阪地区マネジャー)が、会社の上層部とのパイプの役をしていて、ギッチャンのところに会社の強制的な命令とか苦情が直接伝えられることはなかった。もし受け入れがたい会社の指示なり苦情なりが、このギッチャンに直接とどいたなら、「なに、よし、それならやめた。おいみんな、片づけて家へ帰るぞ」と彼はいうだろうし、その彼に従わない部下は一人もいなかっただろう。
 私は、ギャンブル・レース、ホンダ、日産、タキ・レーシング、そして自営の板金屋(田中自動車工業)と、三十五歳になる今日まで、比較的多くの人と接してきたが、ギッチャンほど見事に部下を掌握している男には、お目にかかっていない。部下を自分の手足のように使う、とよくいわれるが、彼の(人使い)のうまさは、まさしくそれだ。なにか人を惹きつけずにはおかない、男が男にほれるものを持っていた。それだからギッチャンがリエージュ・ソフィア・ラリーで事故死したとき、ホンダのおやじが「どんなことをしてでも、遺体を日本に持ってこい。向うで火葬にするなんて、もってのほかだ」と怒ったのだ。
 今でもそうだろうが、遺体を空輸してくるのには、検疫とかなんとかがうるさくて、骨にしなければ日本への入国は許されないのが普通だ。それをホンダのおやじは、強引にやってのけた。おそらくゼニもかかっただろうが、相当の政治力がなければできなかっただろう。
 それを敢えてやってのけた。何故か? ギッチャンの人柄が、ホンダのおやじを、そうさせずにはおかなかったのだ。
 いい奴は早く死ぬつていうが、これはほんとうだ。オレらみたいなクズは、今もってピンピン生きているが、ギッチャンのことを考えると、実際に惜しい人間を亡くしたという実感で、胸がキリキリとしめつけられてくる。
 私は、めったなことでは泣きごともいわないし、涙を流したこともない。男は泣くもんじやない。メソメソ泣くのは、オナゴどもがやることだ。しかし、ギッチャンが死んだときだけは泣いた。思いきり天に向かって、吠え、泣き叫んだ。男は普段泣くもんじやないが、泣けるときに泣けないような男は、クダラン奴だ。
 泣くときには思いきり泣く。これが私の主義だ。ギッチャンの思い出は、深く、悲しい。私は書いているのが辛くなつてきた……。
 「ギッチャンよ。オレは今でもやってるぜ。そらいけ、ドンドンだ」

高橋国光との出会い

 高橋国光のレース・ライダーとしての素質を最初に見抜いたのは、ホンダの中では私が最初だったと思う。あれはたしか、一九五九年の浅間レースの前か後か、何でもホンダが多摩テックを作るといって、私は当時売り出したベンリイのスーパースポーツで、小金井に向かつていた。小金井駅の横の「開かずの踏み切り」に近づいたとき、後ろでレース・ライダーのやるエンジンブレーキと、ギヤダウンの音楽的な音が聞こえた。ウォーン、ウォーン、ウォーン、ウォーン、クー、と最後の一声を長く尾をひかせて、トップからローギヤまできれいにギヤダウンして私を抜いていき、踏み切りの百メートルほど手前からローギヤでトン、トン、トンと静かに踏み切りに近づいていった。半袖のシャツにGパン、坊主頭の少年のBSAゴールデン・フラッシュを私は、こいつはただものでないと見ていた。
 遮断機が上がると同時に、この少年はBSAを一声大きくわめかせて、一気に踏み切りを渡り、それ以後は、その音も姿も見えなくなつていた。当時は「カミナリ族」という言葉のではじめた頃で、カミナリ族はローギヤからトップまで、サーキットにいるように全開でつっ走るのが常だったが、この少年は、ローギヤだけを全開とし、あとは静かにしかも素早く姿を消していった。それにしても、少年の踏み切りでのスタートは、アクセルの開け方とクラッチのミートが完壁であつた。
 小金井の踏み切りを越え、まっすぐいくと八王子から多摩テックにでるのであったが、私はどうもあの少年を追いかけたくなって最初の十字路を左へまがり、吉祥寺への方向に向かつた。しばらく走ると、自転車屋の前にさっきのBSAが置いてあつた。店の名は「高橋輪業」とあつた。私はベンリイSSから降り、店にはいって、多摩テックにいく道順を聞いた。
 「実は私はホンダで選手をやっているものですが、このBSAに乗っている人はお宅の人ですか、それともお客さんですか?」と私はさぐりを入れた。応対にでた青年は、あれは弟ですといい、当の本人も姿を見せ、私の乗っているベンリイSSを珍しそうに見ていた。私がホンダ・スピードクラブにはいらないかというと、少年はBSAの輸入元のパルコム貿易と契約して浅間に出ることになつているという。長々と話をしているうちに、彼の友達に折懸六三の名がでてきた。両親に話をしてみると、
 「とんでもない。あんなサーカスみたいな真似して、この国光が一生メシ食えるとは思えん。お断わりします」ということだった。本人に当たってみると、そのサーカスを一生やりたいという。折懸六三の加入しているクラブは、ハイスピリッツといい、そこにはギャンブル・レースの大先輩である杉田和臣がいるという。私は和さんのもとにとんだ。
 「もう、目をつけたのか」と開口一番杉田さんはいった。「あれは大事に育てようと思っとつたんだがなあ」
 「ホンダがヤマハに勝つには、ああいうのが必要なんです。ひとつ、おやじさんたのみます」
 「藤井璋美を連れてこい。何でお前がでしゃばることがある」
 「実は私も選手集めの仕事を任せられていまして……」
 「それじや、健二郎。いいヒントだけやろう。高橋国光が兄貴みたいにしたつている奴が一人いる。そいつをまず本田技研に入れろ。そいつが使える使えないは、一人ぐらいいいじやないか」
 この「そいつ」とは折懸六三であつた。折懸は出れば骨折というへマばかりやり、ホンダ・チームでの「最高滞空記録」をも樹立したほどよく宙を飛んだ。まずこの折懸が入社し、国光は、浅間レースが終わるとすぐはいり、その次に同じ浅間で一二五CCと二五〇CCクラスで優勝した北野元が、滋賀ホンダから本社の営業部を通じてはいってきた。
 私は国光の師匠格となつて、知っていることのすべてを教えこんだ。一方、北野の方は誰の後ろだてもないにもかかわらず、荒川テスト・コースでのタイムは、彼の方が国光より優れていた。国光は入社当初、よく芋畑につつこんでひっくり返り脳震盪を起こしてばかりいた。これには私も困ったが、一番困ったのはチームの主将だったギッチャンだった。ところが、この国光を蔭になり、ひなたになり暖かく教えこんでいたのが島崎貞夫だった。よくレース評論家が国光の成長の蔭に私の名を引き合いに出すが、本当はこの島崎が功労者である。島崎もレースのかけひきや、会社の中で生き抜く知恵を十分に心得ていたし、また彼だってチームにいて何らかの功績がなければ、.選手からはずされる恐れもあつたのだろう。だから島崎としても自分の子分が、自分を必要とする新人が必要だったのだ。
 北野の方は水沼平二が、みっちりと仕込んだ。私は国光を島崎の手に任せ、自分の練習をしていた。若いものにかまっていられない、自分達が先にたって走ろう、というわけであつた。島崎には、バクチ打ちの肌合いがあり、親分肌のところがあつた。水沼は、会社という組織の中でうまく生きた男だった。この中で、谷口尚巳とか佐藤幸雄は親分につくでもなければ、子分を育てるでもなく、自分一人の道を歩んだ。

割箸特訓

 私がホンダにはいって一番苦しかったのは、ギャンブル・レースのスター選手でありながら、ロード・レースに、全く無経験だったことだ。これは藤井璋美についてもいえた。彼がシンガポールのレースに、カウリングのついたホンダに乗って、カーブで、足を出した写真をとられ、それを物笑いのたねにされたことがあった。足を地につけないで、クルマがどれだけ寝ているか、どうしたらわかるのか? この答えを考え出してくれたのは、ギッチャンであつた。これは前にもちょつと書いた
 彼は私の靴の底に割箸を一本、ビニール・テープで直角につけてくれた。この割箸がステップから突き出していて、それがクルマの傾斜時には、路面と触れるので、クルマの傾斜角が感知できるのだった。この装置を使ってみると、その日のコンディションがよくわかった。午前中は、箸は滅多に地に触れることはなかったが、なれてくる午後には、よく路面に触れていた。調子のでてこない午前中に、箸が接地するまでクルマを傾けると、結果は土煙をあげて畑に突っ込むのだった。割箸の長さは二十センチで、それを靴底につけて、横に突き出る部分は約十センチであつた。最初はこの十センチ全部を突き出していても、テスト・コースのバイパスの出入り口で、接地しなかった。
 ホンダのテスト・コースにはレースのためにゆるい、弧状のバイパスがつけられていて、高速ではいると、でたときに本線にもどれなくなつて畑に突っ込む危険な短いカーブだった。
 この割箸練習はなれてくるにしたがつて、朝から靴の外側五センチでよくなり、夕方にはその五センチが三センチになるほどすり減っていたものだった。そしてついに、割箸なしでも、クルマの傾斜が判断つくようになり、ステップにのせた靴の先が、接地するほどクルマを寝せれるようになつたとき、私の出発日程は迫っていた。

足は、なおらないビッコ”を宣告される

 昭和医大をでた私は、外科では日本一といわれる矢橋外科に入院した。傷は、右足が足首の他に二カ所、合計三カ所の複雑骨折で、左は足首にひびがはいっていたのだつた。矢橋外科にはいって数カ月経つと、傷は快方に向かい、足は切断しなくてもよいことになつた。
 退院したかった理由は、一日も早くレース界にカムバックしたいということだった。矢橋外科に入院しているときから、ホンダのマシンがいろいろと改良されて、よくなつてきていることが知らされた。高圧縮・高回転型のエンジンから、中・低速トルクを重点にした方向に変わってきているということだった。私は、これらの変化を自分の目で見ておきたかった。家が下赤塚で、ホンダの研究所からクルマで五分くらいのところなので、ホンダ・チームの連中は毎日遊びにきて、クルマやらライディング・テクニックの情報を流してくれた。それに、私の事故をきっかけにして、日本人ライダーの乗り方を根本的に改め、初歩からやり直そうという動きが、鈴木義一から提案されていた。
 各メーカーのライダーは、レースが終わるとその報告書を書く。私も、病院でそれを書いたが、ギッチャンは、外人ライダーに見られたリーン・イン、リーン・ウイズ、リーン・アウトの走法を科学的に分析し、それを発表した。それに基づいて、ホンダのライダーは新しい基本から乗り始めたという。私は、家にじっとしていられなかった。荒川のテスト・コースで走るという日には、私は必ず出かけた。
 ところが、これに困ったのは、毎日足をマッサージに家にくるおっさんだった。こんなことで、彼のくるたびに私はいなかったのだ。だが、このおっさん、腹を立てるかと思いきや、私のカムバックの執念に感動し、
 「それなら、毎朝六時にこよう。六時なら、テスト・コースにもいけまい」と女房にいったそうである。そしてその言葉どおり、このマッサージ師は二カ月間、毎朝六時きっかりにわが家を襲撃した。しかも、このおっさんは荒療治だった。柔道何段とかいう二十貫以上のでっかい助手を引きつれ、この助手が私の上にのっかり、おっさんが私の動かない足首と膝を力まかせに曲げるのだった。まったく二人の大男に押えこまれ、締めつけられているようなものだ。これにはさすがの私も参った。しかし、これを我慢しなければ、レースにカムバックはできないのだ。しかも、このマッサージの先生は、二カ月荒療治したあとで、これ以上よく動くようにするには、足首をもう一回手術せにゃならん。アキレス腱が膠着している、という。なおしてみても、足首の動く感じが、いままでとは違ったものになるという。
 私は唖然とした。もう一回あの苦しみを味わわなければならないのか。どうすればいいんだ。足はなおらないのか。
 オレは「ビッコの片輪」になるのか。「チンバ」になるのか。一生足をひきずって歩かなければならないのか。もう二度と健康だった足は戻ってこない。

あくまでもカムバックを狙う

 これまで荒川テスト・コースで、ホンダのライダーが走るのを見ていて、私は、その変化と進歩にびっくりしていた。クルマの性能も向上したが、ギッチャンの研究によるライディング・テクニックは、基本から筋道を立てて進んでいた。ライダーの体に遊んでいるところが一つもなかった。ブレーキ地点は昔より短くなり、そこにくると、ぱっと体を起こして風圧によるブレーキを利用し、左カーブだとカウリングの左に体をのりだし、それによってクルマが左を向くといった具合いだった。
 私は彼らの急速な進歩をみて、足首のよく動かないことを考え、テスト・コースに行ったことを後悔した。あいつらが走るのを見るまでは、私には自信があつた。あの高圧縮・高回転の扱いづらいエンジンで、日本人のなかでは、おれが初めて三位をとつたんだ。しかし、いまこのビッコの足で、おれには何ができるのか?
 足首は十度しか曲がちなかった。矢橋外科の話では、足首の動きは、足のうらで測って運動選手が、四十五度、普通の人は三十五度だという。十度しか、足首が動かないということは、尻を乗車姿勢のままサドルに置いていたのでは、ブレーキ・ペタルを踏みおろすことができないのだった。ブレーキのたびに、尻をずらさなければならなかった。こんな具合いでも、どうにかホンダの工場レーサーに乗ってテスト・コースを走っていたのが、一九六一年の三月頃で、もうそのシーズンの選手編成の時期にきていた。思えば、アルスターGPの事故以来九カ月目であつた。もちろん、口にこそ出さなくても、私のレース選手へのカムバックの願いは、ホンダの社長にまで通じているはずだった。
 会社の上層部では、私を乗せようという動きがあったそうである。あいつの勝負根性だけで、奴を外国に連れていくだけの価値はある。足が動かんから優勝はできんかもしれんが、どんなピンチになつてもパドックで、口笛吹いて、毛唐をからかい、助平話をやり、サーキットに出れば一波乱作る男だ、という理由からであつた。しかし、会社の中間部はこれとは違っていた。ホンダが海外レースにでてから、三年目に当たる六一年には何としても優勝せにやならん。優勝できそうもない片輪の選手など連れていく、経済的、精神的余裕はない、という理由をあげた。それでは、本当に優勝の望みがあるかないか、本人をテストしようという結論になつた。
 これは双方にとつてきびしい、いやな仕事であつた。私が怪我をしたのは、私のミスではなかった。前には書くまいと思って書かなかったが、アルスターでの事故は、エンジンの焼付きなのだ。そういうエンジンを作って乗せた会社側が、怪我のなおつた私をテストするという。非情な現実ではあったが、しかし、私が会社側の人間だったら、やはり同じことをしただろう。他に方法はないのだ。それに私はこのテストをパスしたい、もう一度(おれは健二郎だ)という走りつぶりを見せてやりたかった。このテストのとき、私は会社側に対する恨みは露ほどもなかった。せいぜい力いっぱいいいところを見せてやるぞ、と張り切っていた。
 このテストの話は、正式に会社側から、お前をテストする、といわれたのではなかった。やはり会社側も私に気を使っていて、矢橋外科の桑沢という先生が、その使者に立った。
 「健さん、カムバックするつて話は、重役から聞きました。それで、足のなおり具合いなどを調べるため、荒川テスト・コースで、走るあんたを八ミリで撮ってみたいんだ」
 「ひとつ頼みます。どうか上の方にもよく説明してやって下さい。私は完全になおつたと」
 私は、この桑沢医師がその後の私の人生を変えるカギを握っていることを、本能的に感じとつていた。私は、わらでもつかむ気持ちで、彼の前に深々と頭を下げた。

テストは失敗、レーシング・ライダー失格

 テスト・コースでの仕事は、四気筒二五〇CC車で押しかけスタートし、途中弧状のバイパスを通り、コース両端にあるヘアピンを折り返すもので、それを八ミリのカメラが、場所を変えて撮影するのだ。
 クルマをコースに運んできたのは、島崎と谷口であつた。彼らもこれが私のテストとなることは、恐らく私以上によく知っていたことだろう。奴らは意味ありげな表情で、落ち着いてとか、大丈夫だとかいっていた。私は習慣的に指につばをつけ、シリンダーに触れてみた。シュンという音だけで、私はこの二人が見せた顔つきの意味がわかった。奴らは研究所でこのエンジンを火のつくほど熱くしてくれたのだった。はっとして私は、二人を振り返ったが、谷口も、島崎もそしらぬ顔をしていた。このときほど、この悪党に、私は感謝したことはなかった。
 考えてみれば、プロ選手の友情なんておかしなものであつた。私がここで駄目な奴と判定されると、この谷口か、島崎かが外国にいけ、名声と、ゼニと、○をほしいままに手に入れることができるのだ。野球でもそうだ。誰かが、デッドボールを食らって倒れる。すると、補欠選手がバッターボックスに立てる。あるいは、三塁手がランナーのスパイクで怪我すると、スターティング・メンバーに加えてもらえなかった選手がこれに代わる。毎回ベンチにだけいる補欠選手は、いつか、ちらっと同僚選手の負傷をねがうこともあるだろう。出場選手がべンチにもどるたびに、補欠選手が彼のスパイクの泥を落としてやったり、肩をもんだりすることはない。私の場合でいえば、四気筒エンジンを冷蔵庫の中に入れて、冷やしてきても当然の状態だった。ホンダの連中とは、こんなにいい奴だったのか。ホンダにはいってよかった。おれは、ここで駄目と判定されても、こういういい連中が、暖かく手助けしてくれたことで、悔いはない。これが他のチームだったら、どうだったろう? あのギヤンブル・レースの社会だったら、どうだろう? おれはホンダにはいつてよかった……。
 ハンドルを握り、ギヤをローに入れ、ぐいと後に引くと、圧縮の頂点にきた手ごたえがある。それからクラッチを握り、二歩三歩走り、横ざまに尻をサドルに乗せ、同時にクラッチを放し、アクセルをわずか開ける。二人の悪党が火のでるほど、ウオーミング・アップしたエンジンは、私の尻がサドルに触れると同時に、ホンダ・ノートといわれるギャウォーンという独特の轟音を発した。谷口に島崎、ありがとう、この悪党め、八百長野郎、おれはすんでのことでふり落とされるところだつたぞ!。回転を上げる。イギリスの貴婦人の乗馬姿のように優雅な横座りから、右足で、サドルをまたいで本格的に座りなおし、一度膝を折り、それから両足を外に、ぴんと張って突き出し、革ズボンの張りをゆるめ、セコンドにギヤをチェンジし、完全にウインドスクリーンに頭を突っ込む。右だ。バイパスだ。いや、危ない、やっと本線に戻れたぞ。ちきしょう、ケツをずらさにゃならん。リヤのブレーキが弱いな。フロントだ。くそ! こりゃ、ケツのずれているのが見られたな。直線はいい調子だ。またヘアピンだ。このやくざな足首め! もつと下に曲がらんのか。ちきしょう、またケツがずってしまった。
 もう谷口も島崎も田中禎助も笑つてはいなかった。奴らの気づかわしげな表情から、奴らも、また私と同じ心配をしてくれているのがわかった。心配してくれたって、お前らがいくら心配してくれたって、これはおれの問題なんだ。おれと会社の問題なんだ。この野郎、余計な心配するな。何とかコナしてみせるさ。ちきしょう、座布団を敷いとけばよかった。
 クルマから降りると、私は桑沢医師のところへいった。
 「健さん、右足を大分かばっているな」医者は慰めるようにいつた。河島さんの顔は、きびしかった。
 「ブレーキはあれが精一杯なのか?」私はみじめだった。
 「いや、私の考えどおりブレーキを改良すればもつとよく踏めます」 これが私にできた精一杯の答えだった。


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