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GPライダーの巻(その3)

本田社長に引導をわたされる(若手を育てるために、コーチになる)

 一週間後、研究所のスピーカーが私の名を呼び出し、所長室へ至急こいといった。ギッチャンが駆け寄ってきてくれた。一緒にいこう、という。所長室は暗く、八ミリの映画が、ギヤの音だけをともなって上映されていた。
 「健二郎、そこに座って見てみい」と闇の中から本田社長の声がかかった。白いスクリーンには、素人目にはわからないかもしれない、私のぶざまな姿が写し出されていた。私はこの部屋が闇に包まれていて、自分の顔が他人にみられないことを感謝した。きっと泣きだしそうな、それでいてそんなこと屁でもないという表情にしようと、ゆがんだ笑いを浮かべていたことだろう。
 「健二郎、お前コーチをやってくれんか。うちには国光と北野しかいない。若手を育てるんだ。若いもんに、勝負というものを教えてやってくれ。若いもんの心の支えになってくれ」
 映画が終わると、本田社長は私に静かにいった。そうか、そういうことか。おれはもう駄目か。お前はもう使いものにならん、といってくれたっていいんだ。くそ! おれは田中健二郎だ。ビッコにされて、ホンダの捨て扶持もらって、はい、おありがとうございます、といえというのか?。しかし、いまのおれに……。私は、一カ月考えさせてくれといったが、考えることなぞ何もなく、承知する以外に、道のないことを知っていた。
 私は、当時まだ右にステッキをついて歩いていた。それでも、このテストまでは、自転車を買い、まだ右足に、半分ギブスの残っているときから、成増の東京と埼玉県の境にある急坂を登り、下りして足の鍛練をしていた。とまるときも、登りきれなくなって倒れそうになるときも、右足を、地におろす訳にはいかなかった。右足を、地につけたときの痛みは我慢するとしても、それでもって傷が悪化することを恐れたからだ。
 「レースにはクルマを作る奴、整備する奴、それに乗る奴が必要だ。命がけなのは、その乗る奴だ。ところが、その命がけの仕事を教える奴がおらん。うちに欠けていたのはこれだ。どうだ、男ならひとつやってみんか。乗る奴は自分一人の命だ。十人の乗る奴に、命がけの仕事を教えるつてことは、十人の命がけの男の命を預かることなんだ。男一匹、やりがいのある仕事だ」
 本田社長のおだやかな説得が、私の胸を締め上げていった。おやじの、心の暖かさが私をナニワ節的に感動させていった。もう、おやじのいう理屈などどうでもよかった。いいおやじだよ、おっさん、あんたという人は。おれは、このおっさんには頭が上がらん。負けたよ、シャッポを脱ぐよ、おっさん。
 本田社長が若手を育てよう、というのは海外遠征のためのライダーというより、国内レースのためのものであつた。この頃はまだMFJが、今日のような形になっておらず、国内レースはモーターサイクル出版社で「モーターサイクリスト」という雑誌をだしている酒井のおやじが、アマチュアイズムを錦のみ旗にして、年に一回のクラブマン・ロードレースと朝霧高原のモトクロス大会を開いていた。とにかく、国内には浅間でのメーカー対メーカーの耐久レースがなくなつたので、各メーカーとも、院外団的クラブに技術的、経済的援助をしていた。中でも活躍が目ざましいのは、ヤマハの院外団で、土屋進三を頭とする野口種晴、益子治、砂子義一らのヤマハYDSに乗る連中だ。ホンダは、五九年頃はオトキチクラブが、院外団的存在であったが、ホンダの面どう見が悪いため、彼らはトーハツのバックアップを受けていた。スズキでは、城北ライダーズというクラブが活躍しており、このクラブも五九年頃は、ヤマハのさん下であったが、メーカーの援助に不満をもち、より条件のいいスズキのさん下にはいったのだった。このクラブには、いま日産販売のドライバーである鈴木誠一がチーフ・ライダーであり、久保三兄弟と、その父親(いまはこの一家は日産自動車とつながりをもち、東名自動車というチューン・アップ工場を経営している)が采配をふっていた。
 私が、前に酒井のおやじをこきおろしたのは、一方で雑誌販売という営利事業をやりながら、片方では、純粋なアマチュア精神を掲げて、やれプロはいかんだの、工場レーサーはいかんだのという「二足のワラジ」をはいた態度である。それにホンダは、このクラブマン・レースまで経済的にも技術的にも、さらに時間の上でも手がまわらなく、ヤマハに負けるどころか、スズキ、トーハツにすら国内では追いこされたような気配となってきた。このクラブマン・レースに出場できるクルマは厳格に市販車に限られていた。一台でも売れば、市販車としての名目がつくように思うが、連盟側は五十台の販売証明を要求してきた。
 メーカーの技術部が本腰を入れてやれば、量産の市販車からでも大幅なチューンアップしたクルマを作れる。ホンダ以外のメーカーは二サイクル・エンジンであり、このチューンアップの作業がやり易すかったうえにメーカーの技術部が本腰を入れていた。ホンダは研究所が忙しくてそこまで手が回りかね、本社の営業とか、各地の代理店の修理工がチューンアップをやっていたのだから負けても不思議はない。ヤマハのYDSに対し、ホンダはCR71を少量生産し、するとヤマハはTDlという工場レーサーまがいのクルマを作り、そっちがその気ならと、ホンダはCR72という本格的な市販レーサーを作り、これにヘッドライトからウインカーまでつけて自動車ショーに飾ったものだった。しかし、このような高性能車の少量生産は、工場の作業順序を狂わせ、金がかかり、貴重な技術者の頭脳をいためつけた。これらのクルマは販売したといっても、メーカーの販売店が誰かに売ったような書類上の操作をして五十枚の販売証明を揃えたが、実際は売れたのでもなく、もし売れたとしても、その正式の価格をもらったところで、十倍以上の開発研究費がそのクルマに注ぎこまれていて、メーカーとしては、そろばんのあう仕事ではなかった。
 そもそもメーカーをこういう泥沼に追いこんだのは、誰か? 全日本モーターサイクル・クラブ連盟を作り、その理事長に納まっている酒井のおやじだ。酒井のところの雑誌がやっていけるのは、メーカーが広告を出しているからじゃないか。よし、モーターサイクリスト誌に広告をだすのをやめろ。取材記者がきても口を利くな、と本田社長の指令がとんだ。本田のおやじも、一城の主なら、若いながら酒井のおやじもちっぽけではあったが一城の主だった。この冷戦は半年か一年続いたが、何となくもとに戻っていった。本田のおやじも、国内レースにそっぽを向き通すわけにはいかなかったのだろう。海外レースにも、スズキやヤマハが乗りだしてきていて、しかも国内レースにも、これら二社は十分手を伸ばしていた。それじや、ホンダも院外団を作って国内レースも頑張ろうということになつたのだろう。それに、スズカ・サーキットをホンダの資本で建設することになっており、国内のモーター・スポーツを育成しなければ、このサーキットも客がつかない、という事情もあった。
 本田社長は、男の涙をしぼり取るような殺し文句を並べたが、背景には、こういう事情があつたのである。しかし、それにしても、本田社長の私に対する厚意には、いつわりはなかった。社長は、お前は選手としてもう駄目だとか、クルマから降りろとは一言もいわなかった。年間百万円の予算をやるし、クルマも用意する。コースは、スズカ・サーキットが、もうすぐできるから、そこを使え。飯田元レース・マネジャーが、スズカ・サーキットの仕事をやっているから、一度工事を見にいってこんか、といった。
 スズカ・サーキットにいったのは、六一年の夏だつたと記憶する。暖かかったからだ。はるかかなたに、伊勢湾の見える山中の広大な原野に、ダンプカーやブルドーザーが蟻のようにはっていた。建設費六億とか聞いたが、その金額の大きさの実感など湧くはずもなく、ただやたらと大きいのだけが印象的だった。
 このスズカの帰りに、私は本田社長と初めて出会った浜松の寿司屋(左ノ一)に立ち寄った。
 「そりや、いい話だ、健二郎。その話は受けろ。これからは、寿司屋だって自分一人で握ってばかりいる時代じゃない。おやじ一人に見習い小僧一人という時代じゃないんだ。先生一人で、何十人もの生徒を教えるクッキング・スクールの時代だ。教育産業ということばのある時代なんだ。ただし、コーチに落とされるような待遇、つまり、コーチになつて生活が苦しくなるようじやいかん。これからモノになる奴を沢山育てるんだ。いま以上のゼニをもらえ、いいな」
 私は、この寿司屋のいうことに従い、それまで二万八千五首円だった私の月給は、一挙に三万五千円にはね上がった。当時は契約制度ではなく、嘱託料を月給にしてもらい、出張すると、係長補佐の手当てが実費の他に支給された。その他に乗った場合は、危険手当てが千円ほどついた。

健二郎学校、開校(初仕事で、渥美、大月を優勝させる)

 私は野球が好きで、当時ホンダの社内チームのキャプテンをしていた。野球でいえば、リーディング・ヒッターが足を折って、二軍のトレーナーになつた有様であつた。しかし、一九六一年は、ホンダの海外遠征の三年目に当たり、五五年から六十年までの六年間レース界に君臨していたイタリアのMVが引退したとはいえ、ホンダは一二五CCクラスでは十一のGPレースのうち優勝八回、二五〇CCでは十回の優勝を遂げ、T・Tレースではホンダに移ったマイク・ヘイルウッドの一二五、二五〇、五〇〇CC(これはノートン)三連勝、高橋の西ドイツGP優勝、トム・フィリスの一二五CCチャンピン獲得、マッキンタイヤのTT二五〇CCにおける九九・五八MPHの最高ラップ、北野は負傷して人差指を失ったが、タベリやロブの参加と、ホンダの黄金時代の夜明けであつた。
 この間、私は国内のモトクロス・レースを見て歩き、目ぼしい若手を集めて、(テクニカル・スポーツ)というクラブを作り、モーターサイクル・クラブ連盟に加入した。メンバーには、故渥美勝利、粕谷勇、長谷見昌弘、大月信和、加藤爽平、片山義美といった連中を集めた。
 一九六二年(昭和三十七年)になり、私の仕事は、テクニカル・スポーツのクラブ員をクラブ連盟主催の第五回全日本モーターサイクル・クラブマンレースに出場させることだった。これは九州の雁の巣の米軍飛行場で開かれた。
 私は、このレースに、故渥美勝利(この年十月二十四日スズカで練習中死亡)大月信和の二名を出場させた。渥美は、一二五CCクラスにCR93で、大月は、五〇CCクラス(CR110)と、一二五CCクラスにエントリーさせた。いわば、この二名は、健二郎学校の成果をはじめて世に問うものであった。
 私としては、本田社長に引導をわたされてからの初仕事であり、渥美、大月を優勝させることによって、(健二郎健在なり)(コーチ健二郎)の存在を明らかにしたかった。是非とも優勝させたかったし、また優勝させるだけの自信はあつた。そうはいうものの、渥美、大月ともに、レースは初出場であり、日頃私が教えていることを、そのまま本番のレースで実行できるかどうかがカギだった。
 レースは、一九六二年七月十四、十五の両日行なわれた。第一レースは、大月のでる五〇CCクラスだ。このレースには、第三回、第四回クラブマン・レースではランベットが圧勝した。そして今回は安良岡健(後にカワサキのファクトリー)、西久保功(前年度優勝者)、横山徹、大久保力などの強敵がいた。変わり種としては、アメリカからきた小児麻痺で、手足の不自由なW・エリスなどがいた。大月は、レース前の予想では、全然問題にされていなかった。
 はじめ横山(前に書いた東京オトキチCの所属で、生沢と同じ徹という名前なので、横山のことを大徹、生沢のことを小徹といっていた)がリードしていたが、二周目から大月がリードし、あとは榎本(ホンダCRl13、東京クレージーライダース)が続き、八周を走り切り、優勝した。
 さらに大月は、このあと休む間もなく引き続いて行なわれた一二五CCクラスにも出場した。このレースには、いまカー・レースで活躍している、生沢徹、加藤爽平(現在三菱のファクトリー・ドライバー)大久保力などが、トーハツで出場してきた。
 一周目、生沢が猛然とダッシュし、リードした。四番手に渥美がいる。大月は、なんとケツから三番目。
 「あやー、これはいけん、大月の馬鹿たれめ」二周目、渥美は生沢をかわしてトップにたった。「渥美、その調子で、そらいけ、ドンドン」一方の大月は、三周目までに、十一人を抜いて三位に上がってきた。この坊主は、まったく気をもませる奴だ。もっとも、五〇CCに引き続いての出場だ。それにまだ十七歳の高校生。多摩テックで走っていたのをスカウトしたのだ。いわば健二郎学校の、ヤンチャ坊主であつた。
 その後渥美は、二位の大月を四百メートルも離してゴールイン。二位の大月は、三位の生沢を約一キロも離してゴールインした。これで、五〇CCに続いて、一二五CCも制覇したわけだ。私は、自分が走っているよりも疲れた。一緒に行った藤井璋美と、二人で思わず顔を見合わせて、
 「藤井さん、ピットでサインをだすのも疲れますネ」
 「健さん、コーチ稼業も楽じゃないよ。走ったほうが楽だな」
 責任を果たしたという思いと、先ず健二郎学校の初成果としては、成功だったという思いで、まったくガックリきた。ところがクラブマンレースで、勝ち残った奴は、日本選手権に招待されるというので、大月と渥美のマシーンの整備にとりかかった。
 日本選手権五〇CCクラスは、並みいるトーハツのファクトリー勢、野地誠、有川秀男、安良岡健、スズキの藤井敏雄(一九六六年のマン島TTレースで、将来を嘱望されていたが、一二五CCクラスで転倒し死亡・・マシンはカワサキ)らを押えて、大月は二位。一位は同じホンダCR113に乗った榎本正夫だった。
 日本選手権一二五CCクラスには、クラブマン・レースで優勝した渥美と、二位の大月とが走った。出場者は、五〇CCクラスのレースと同じようなメンバーだったが、スズキから、モトクロス男の久保和夫、後にGPライダーとなつた越野晴雄などが出場した。
 レースは、最初トーハツの有川がリードしたが、中盤からは、渥美と、大月のランデブー走行となり、三位の生沢を、一周遅れにして、大月が、渥美を押えて優勝した。
 こうして健二郎学校の、初出場としては、五〇CC、一二五CC両クラスに圧倒的な成績をおさめて、私の初仕事は終わった。
 レースが、すべて終わった後、深閑とした雁の巣飛行場で、私は走り屋稼業と違った、(コーチ稼業)の辛さと、難しさを、しみじみと噛みしめていた。「てめえのからだが自由にならないのに、他人様を自由にコントロールできるのか?」「からだが違えば、考えてることだって違うんだ。ましてやレースは命がけの勝負だ……」
 その夜、私と藤井璋美と、われわれチームの面倒をみてくれていた、多摩ホンダの近藤専務の三人は、福岡の板付から、日航のムーンライトに乗って帰京した。博多のオナゴどもには、後髪を引かれる思いだったが、さすがの私も、その日は、ぐったりとしてしまい、ただただ疲れ果ててしまった。その疲れ方も、ゴルフや、自分が走るだけの肉体的な心よい疲れ方でなく、からだはそんなに疲れていないのに、妙に神経だけが高ぶってくるといった、へんてこりんな疲れ方だった。この他、ヤマハTDlに乗る片山義美の走り方が、印象的であった。

健二郎学校のハード・トレーニング(マン・ツー・マン方式で徹底的にしごく)

 私の新人教育は、やはり魚市場のあんちゃん風なもので、まあ、いうなれば森の石松が剣術を教えるようなものだ。コースの横には、会長の藤藤井璋美や、私や、戸坂六三が、手に風船を持って立ち、走ってくるマシンの数十メートル手前で、それをコースに投げるのだった。ライダーは、誰がいつ風船を投げるか教えられていないし、しかも高速走行なので、それに触れないで、通り抜けるのは一仕事であった。これはレース中、前車の転倒事故にまきこまれないための訓練である。
 六二年の夏、私はすてきなボーナスを、ホンダからもらった。私を助監督にして、外国にいっていいというのである。六二年という年は、日本のモーター・スポーツが、開花した年であつた。つまり、スズカ・サーキットが、九月に完成し、同年十一月三日には、第一回全日本ロードレース大会が、MFJの手で開かれたのだった。四輪車の方は次の年の五月二日と三日に、第一回日本GPが十五万人の観衆を集めて開かれた。
 テクニカル・スポーツは、人材を集め始め、藤井さんは、各地の代理店推薦のライダーをテストして、A、B、Cのランクをつけていた。藤井さんの仕事を手伝ってくれたのが、通称「カミ忠」といわれていたホンダの神谷忠であつた。
 六三年の第一回日本GPには、ギッチャンがフォルクス・ワーゲンで、一位になった。彼の優勝は、驚くに当たらないが、驚くべきことは、ホンダが自社の社員に他社のクルマに乗ることを許したことである。ギッチャンは係長であったのに休職願いをだして、他社のクルマに乗ったのだが、こういうことをやったのは、ホンダで最初の人間であり、恐らく、日本のメーカーの中でもこういうことをやった第一号だったろう。
 私は、このギッチャンの走る姿をみて、「いいなあ、ギッチャンはいいなあ」といっていた。「おれは二輪車で、しかも二軍のトレーナーなんだ」私は素直にギッチャンを羨んだ。私が四輪車の運転免許を取得したのはスズカができるという話のでた頃であつた。が、これは私一人に限ったことでなく戸坂六三、伊藤史朗、外川一夫、望月修、野口種晴といった二輪のベテラン・ライダーが、四輪車の免許がなく、しかも四輪の運転の腕前は、レース・ドライバー並みで、私などは、この無免許時代に、コンサルを一台持っていたくらいだった。
 なぜ免許をとらなかったのか? これは自動車教習所の教員のマナーの悪さに、腕達者な無免許ドライバーが、誇りを傷つけられたからであつた。水沼平二は、教習の途中で、教官とケンカし、「この野郎、外に出ろ!」という一言で、教習所の門を去ったし、伊藤史朗となるともっとすごかった。奴は教習所での運転に、横に座っている教官がつべこべいうのに腹を立て、黙って聞いていたが、最後にはぐいとアクセルを踏みこみ、狭い教習所のコースで、レースを始めた。教官は顔面蒼白となって、「とめてくれ、降ろしてくれ」とばかりいい続けたそうだ。当時の交通一斉取り締まりは、赤いちょぅちんで、この赤い灯が遠くに見えると、私はクルマを歩道に乗り上げて、タクシーで家に帰ってきたものだった。
 テクニカル・スポーツのうちで、長谷見、大月、渥美がモノになってきたが、私には四輪車のスポーツの時代の到来を感じはじめていた。そこで前記の、無免許悪童連と一緒に小金井の自動車試験所で、普通免許をとった。私は、ギッチャンが、VWで優勝した姿が頭から離れなかった。このやくざな足首は、二輪車のペダルには向かないかもしれないが、自動車のそれには使える自信があった。そこで私は、本田社長や、河島さんに、一回でいいから四輪に乗せてくれないか、と何回となく頼んだが、はっきりした返答は得られなかった。これは、私一人の願いではなく、テクニカル・スポーツというクラブを将来のモーター・スポーツに備えて、自動車レースにも参加しようという考えがあったからだった。
 「藤井さん、おれらも乗ろうじやないか。若手にも乗せて、おれらも乗ろうよ」と私は藤井さんをあおった。私は会社の上層部に何度となく、これを頼みにいった。四輪なら乗れます、乗れると思います、と私は機会あるごとに上役を口説いていた。その機会あるごととは、ときには風呂にはいっているときのこともあった。ある上役は、その風呂場で、冗談だったかもしれないが、
 「ちんばが乗れるわけないじやないか」と一蹴した。
 このとき、私の顔に血がのぼり、そして次の瞬間、その血がすっと下がって冷汗のでてくるような、冷たい感じで蒼白となつたのは、風呂の熱気のせいではなかった。本田社長にも、河島さんにも、こういうひどいことばは一度だって浴びせられたことはなかった。私はそれをいった相手の目を見た。あまりの興奮のため、それは次第に遠くかすんでいくようだった。私は、何の考えも浮かばなかったが、ことばが、抑えるべきことばが口から洩れた。
 「おい、もう一度いってみろ」
 私が、怪我したとき、助監督をしていたのはこの男だったのだ。メいっぱいやってくれ、といつたのはこの男なのだ。ああ、もうホンダは「おやじ」の時代ではなくなつたのか!
 私の洩らした一言は、その後社内でえらい問題となり、私の心に堅いしこりを残し、それが私がホンダを去る大きな原因となつた。
 「短気を起こすなよ。二輪のライダーだって、はんぱ者しかいないじゃないか。やめたいなんて勝手なことをいうな。もうちょっと辛抱してやれ」といったのは河島さんだった。これは六三年のことだった。私はスズカ・サーキットで、CR72に乗り、トレーニングをはじめた。生徒と横に並んで走り、頭が高い、と怒鳴り、膝がでている、といってはその足を走りながらけとばした。そしてS字カーブでは、先になつてコースのとり方を教えていた。
 スズカ・サーキットは、六三年の五月の日本GPが終わるとすぐに、各自動車メーカーは次の年のトレーニングにはいっていて、日産のチームと、われわれの練習とがサーキットでかち合った。ニッサンの練習は、ケタ違いに大規模であつた。ブルーバード、フェアレディ、セドリックが合わせて五十台、六十台とやってきた。まったく、羨ましい気持ちよりも、そのケタ違いの有様に、ただただあきれるばかりだった。われわれの方は、年間百万円の予算で、スズカ・サーキットの借り賃を払い、保険を払い、人件費を払っているうち、ガソリン代にもこと欠く有様だったのだ。昼食も、にぎり飯を食べて我慢していた。おまけにニッサン・チームは、名古屋の小牧まで飛行機でとび、そこからマイクロバスでくるという殿様スタイルであった。彼らは一時間十万円くらいのコース借用料を払い、われわれ二輪車は五千円ほどの料金だ。当然彼らに優先権があった。われわれは、ドイツ機甲化師団の移動のような彼らの引きあげが終わるまで練習を休んでぽかんと突っ立っているか、彼らのくる前にこそこそと走るしか道はなかった。われわれが走れるのは、スズカ・サーキットの営業時間外だけなのだ。ここで劣等感にとらわれて、こそこそ引き下がるのは男ではない。座布団敷いて、でんと座って走るのとはわけが違うんだ、こっちは、ひとつあの薄らボケどもに見せてやろうじやないか、ということになり、私はわざとある日われわれの引き上げを十分間延長してニッサン・チームを待たせてやった。
 見せ場は、例の森の石松流の教育であつた。私は、生徒の横になり、後になりして、彼らの頭をたたいたり、足をけったりして、二輪ライダーのハード・トレーニングを見せてやった。加藤爽平、粕谷、大月、長谷見、黒沢などが私の犠牲者だつた。このトレーニングは、一対一のマン・ツー・マン方式であつた。

ニッサン・チームにコーチを依頼される(いきなり五周走って、べストタイムを叩き出す)

 われわれは練習を終え、パドックの一番隅であしたの予定を打ち合わせていた。スズカでは毎朝五時起きであった。コースは午前六時から正規営業時間の七時半までしか使えなく、コースの見張りはわれわれのクラブ員が交代でこれに当たった。あすのためのクルマの整備は昼近くまでかかった。
 「田中さんというのは……あなたですか?」
 振り返ると、ニッサン・チームの制服を着て、戦闘帽のような帽子に線が二本はいったものをかぶった男が立っていた。帽子の線でもって、こいつはエライんだな、と私は考えた。男は難波と名乗り、話がしたいという。私はクルマの整備を終えねばならなかった。彼は、私の宿舎を聞き、それでは夜にうかがうといった。用件は? と聞くと、レースのことについていろいろうかがいたいという。天下のニッサンがホンダの、しかも二軍のトレーナーに、ものをうかがいたい、というのだ。当然私は悪い気はしなかった。
 その夜の九時過ぎ、私の泊まっているホンダの宿舎に、難波さんと、それ以上にエラそうなのが五、六人やってきた。話は簡単だった。あしたから、ニッサン・チームのコーチをやってくれ、というのだ。来年のレースのために、全国から集めたドライバーのコーチをあしたからやってくれ、というのだ。
 「私はホンダの人間です。この十人ほどのライダーを育てるのがいまの仕事です」 私の答えは簡単だ。だが、敵はそれは十分承知していて、食いさがってきた。それなら、ただ見ているだけでいい、あの男はこうした方がいい、この男は、ああした方がいいと、アドバイスしてくれるだけでいいんです、ときた。もっとも、このニッサン・チームがコースを走っている間は、私は仕事がなかった。それにしても、私は、ホンダからゼニをもらっている人間だ、会社に断わちなくてはならない。
 意外にも、会社側の返答は引き受けろ、ということだった。
 「ニッサンは、スズカ・サーキットの上客である。お得意さんのして欲しいということは、やるべきである。ただし、お前は、あくまでも本田技研の人間であることを忘れるな。つまり、何事も控え目に、控え目にということだ」と河島さんはいった。ここで改めて、河島さんという人間の偉大さを知らされた。
 かくして、私は、翌朝からニッサン・チームのアドバイザーとなった。ところが、私の助言は、これまでニッサン・チームのレース・テクニックを指導していたものと、食いちがうところが多かった。アドバイザーの仕事を三日、四日と続けていくうち、二輪のレース選手上がりに、四輪車がわかってたまるか、という気配が流れだしてくるのを私は肌で感じとった。四輪車で、レースをやったこともない奴が、レースの走法を指導するとは、チャンチャラおかしいと、考えているらしかった。私は、河島さんにまたも電話した。
 「……というわけで、ニッサンのクルマに乗らしてくれませんか? 駄目なら、五周だけでいいんです。五周だけです」河島さんの答えは冷たかった。
「ばか/ ホンダの人間が、他車のクルマに乗れるか、考えてもみい。いいか、健二郎、絶対に駄目だぞ。ただしな、誰も、知らないうちに乗る分には、そりや別問題だ。おれの見ていないところで……」私はみなまでいわせず、それじゃ、乗りませんといって電話を切った。
 翌朝、私は、ニッサンのクルマに誰も見ていないところで五周走った。この五周が、私の日産入りを、決定した初のテスト走行であった。私はこの五周で、それまでニッサン・チームで、最高タイムを出していた男より十一秒速かったのだ。初めて乗ったクルマで、各周とも二秒以上の差をつけたのだから、天下の日産もアゼンとしていた。ただ、速いというだけでなく、私の出したラップ・タイムには、各周とも乱れがなかった。難波さんは、自分の先見の明に狂いがなかったと、大いに喜んでくれた。そして、是非、何が何でもことしはニッサンに乗ってくれ、という。

甘えたり、甘えられたりが人生

 六二年の、マン島T・Tレース以後から、九月のイタリアンGPまで、私はボーナス助監督となり、一騒動起こしてきたが、これはあとで書く。海外にいても、この年の十一月三、四日の両日に行なわれる、二輪車の全日本ロードレースの方が心配であった。このレースはMFJが主催で、ノービス部門と、セニア部門の二つにわかれていた。前者は、市販車によるアマチュア、後者は工場レーサーによる外人ライダーも参加したレースで、翌年から開かれた第一回日本GPの前哨戦でもあった。
 私が日本に帰ってきたのは十月で、レースは間近だった。スズカに電話すると渥美が出た。彼はヤマハのTD1のこと、それに乗る片山、三室の速いこと、そして藤井さんにタイム、タイムとせめられていることを私に告げた。
 よっしや、あしたいくぞ、といった、その次の日に渥美は事故死した。彼はテクニカル・スポーツのエースだった。その頃、エースの彼より粕谷の方が、タイムがよかった。そこで、藤井さんは朝の五時半に、渥美に、粕谷のCR72を与え、走らせた。渥美は、ホームストレッチの入り口で、はらんで柵に衝突したという。(以後このコーナーをアツミ・コーナーと呼んでいる)私はこの話を聞いて、藤井さんと大喧嘩をした。エースの渥美に、いくらタイムがよくないとはいえ、セコンド・ライダーのマシーンを与えるのは、余りにも精神的な負担が大きすぎる。エースは、セコンドの男より、いいタイムを出さなければ面子が立たないと思い、当然無理をする。こういうことは、渥美に棺桶を背負わしたことなのだ、と私は、藤井さんを責めた。そして私は、今回のレースからは手を引き、スズカ・サーキットの仕事をしている、飯田さんの手伝いをした。
 このレースの、ノービス部門には、ホンダはCR110、CR93、CR72、CR77と五〇から、三五〇CCまで出場させたが、ホンダ車が、優勝したのは、五〇CCと、一二五CCで、いずれも黒沢元治(現在ニッサンのファクトリー・ドライバー)だった。見どころの二五〇CCと、三五〇CCは、ヤマハのTD1に大きく負けた。二五〇CCは三橋実、三五〇CCは片山義美が優勝した。特に片山のあざやかな走りっぶりが印象に残った。片山は、この年の前半、わずか三カ月ぐらいだったと思うが、テクニカル・スポーツに席をおいたことがあった。ダブルOHCのCRが、竹づっぽのような二サイクル車に負けたのだった。またしても、ヤマハのあざやかな勝ちっぶりだ。どうも、ヤマハと、ホンダの勝負を思うと、現在のトヨタ、日産に通ずるものがある。ホンダと、日産は、力まかせに全力投球するのだが、一方、ヤマハとトヨタは、一見気がなさそうに、ひょこひょこと出てきて、勝利をかっさらうのだ。剛と柔、陽と陰のイメージが、この両者にあてはまり、いつも、そのネガティブの方がひょうひょうとして勝っていく。
 このレースが終わってすぐ、私は、目ぼしいライダー六名に非常呼集をかけた。徹底的に、やり直すのだ。私は、藤井さんにいった。
 「悪いけど、乗ることに関しては、おれがとことんまでやる。あんたは、いろんな段取りとゼニを用意してくれ。マネジャーの仕事は、あんたが一切やってくれ。おれは、徹底的にコーチする。おれは、第一線をおりたからには、これに打ちこむよ」
 名古屋の山下護裕、粕谷、加藤、黒沢、大月、榎本正夫の六名を集めた。私は、重役連中のところへ頼みまわって、旧型のホンダ四気筒車を、研究所から借り出した。それは、埃をかぶって何年も放置されていたものだったが、エンジンを、オーバーホールし、タイヤをつけかえると、この連中が、夢にまで見た四気筒車が完成した。まず私が、みんなの羨望の眼差しを浴びながら、走り出した。ウァーン・ウァーンと減速の音も高らかに、スズカのサーキットに響かせ、ぱっとスイッチを切り、さあ、乗せてやるぞ、といったときの、この連中の喜びようは、すごかった。
 六人が乗り終わると藤井さんが、おれにも、乗せてくれや、といいだした。お前さんは、駄目だよといったが、奴っこさんはあきらめない。それじや、今晩全員でいっぱい飲む勘定をもつならいいだろう、ということで、彼に四気筒車を渡したが、押しかけスタートがようできんときた。仕方がない。ギヤをローに入れてまたがり、後ろから、若いものが押すといった、見栄も外聞もないスタートで走り出した。
 私は、この四気筒車を借り出したのは、この六人を喜ばすためではなかった。誰がどこまで、やれるかを見るためであった。私の目にかなったのは粕谷勇一人だった。加藤が、その次によかった。大月は、四気筒車は無理のようだった。六二年の十二月、研究所の方から粕谷をファクトリー・チームに入れようという話がでてきた。粕谷は、次の年の三月に正式に本田技術研究所の社員になり、一カ月ほどして、海外派遣選手に選ばれた。スーパカブに乗っていた高校生が、一年くらいの間にGPライダーになったのだ。いいなあ、粕谷は、とみんながうらやましく思っていたものだった。

アムステルダムの大惨事

 私のいた当時の、本田技研は、清水次郎長一家に匹敵する一家であった。その中で、私は森の石松的役割を演じてきたが、たしかこの頃から大組織となり、昔ふうの親分、子分の考え方では、片のつかない問題もあった。
 ギッチャンの葬式のとき、本田社長は、黙然と涙をふいていた。この当時のホンダの社員ライダー(ドライバー)は、レース出場の際は、休職届を出し、一時職籍を離れて、契約選手となる。一レースいくら、という契約を会社側と結んでレース出場するわけである。こういう方式は、外人選手との契約より学んだものだが、入賞できない奴には、きびしい処置だろうが、私は、特にきびしいとは思わない。月給もらってレースをやるのは、どうも「親方日の丸」式の走り方になるような気がしてならないからだ。ファクトリーのライダーは、契約選手、つまりプロフェッショナルでなくてはいかん。
 六二年の六月から九月まで、私は、ホンダ・チームの監督助手として、ヨーロッパに連れていってもらったが、走るのと勝手が違って悪戦苦闘の連続であった。前(六〇年)にいったときは、河島監督という引率の先生がいたが、こんどはそうはいかなかった。まず最初の大惨事がアムステルダムの空港の便所での、老婆の悲鳴で幕が開いた。私は、飛行機を降りて税関を済ませ、歩いていくと、それらしいドアを見つけた。もとは高価なアルコール含有飲料水も、いまはただの水となり、私の下腹で、はけ口を求めていた。最初に目にはいったのは、スカートをたくし上げ、ストッキングをもち上げていた老婦人だったが、それを見たと気づく前に、まさに映画で、殺される女が恐怖の叫び声をあげるのと、そっくり同じに、極めてつつしみのない悲鳴が聞こえた。映画では、その悲鳴をあげる専門のエキストラとか代役がいると聞いたが、この老婆は、かってそんな商売でもやっていたのか、とにかく、その悲鳴で、私は一瞬立ちすくみ、思考の機能が停止してしまった。こりや、しもた、逃げにゃあ、とやっと考えついたとき、すでに警官が次々とドアを押してはいってきた。
 両腕を、二人の警官におさえられて女便所から連れだされた私の姿は、ワイセツの現行犯で、逮捕された変態性欲者のそれだった。警官は、日本の大使館に引き渡すという。飯田さんが、平身低頭してあやまってくれた。その結果、本署まで同行せられたし、ということになった。
 「本当にもう、お前はどこまで世話をやかせるんだ」と河島さんはにがり切って、レースの予定があるからと、予定した飛行機で、チームをひきつれていってしまった。残るは、飯田さんの通訳と私の二人で、警察本署に引っばられ、日本でいう供述書にサインし、罰金を払ってやっと釈放されたが、いまもってわからないし、思いだせないのは、あれだけたまっていた体内の液体をいつ、どこで始末したかということである。きっと、胃袋に逆流したのだろう。

「ワカリマセン…」の一点張りで、エンジンをモンツァまで空輸

 この年に始まった六二年の五〇CCレースは、スズキのデグナーの連勝で、ホンダは何としても歯が立たなかった。馬力を上げると、パワー・バンドが狭くなって、変速段数を増さねばならない。マン島までは六段変速であったのが、マン島では、八段変速機を時間までにやっと二つ作り、それを谷口が抱いて日本から飛行機で飛ぶという始末だった。車重を軽くするために、一つ百円くらいのチェン引きを、一つ一万円もするチタン製に替えて、貴重な何グラムを稼いだこともあった。ダッチTTでは、変速段数は十段となり、これに乗ったタベリは、足首がつかれる、ということで西ドイツでは九段に変えた。
 この間、日本のホンダの研究所では、変速機だけをいじくっていたのではなかった。五〇CCの二気筒を開発していたのだった。イースト・ジャーマンGPの、次のイタリアンGPに、そのエンジンを一台送ってみるということになった。ところが、その到着を待っていたのでは、九月九日の、イタリアンGPに間に合わない。小さいエンジン一台だ、誰か一人ドイツに残しておいて、そいつが受け取って、モンツァまで持ってくればいい。そいつは名案だ。ところで、猫の首に鈴をつけるような仕事は誰がやるんだ。
 衆議一決、その役は、私ということになった。理由は、私が助監督だからではなく、この際、生半可な外国語をわかる奴より、むつかしい通関手続きをしなければならないのだから、いっそのこと、ドイツ語も、英語も、イタリア語も、とにかく日本語以外一切通じない私が、適任ということなのだ。
 「冗談じゃない。そんな殺生な。河島さん、おら責任もてないぞ」
 「そうじやない。どうせみんな生半可な英語しか喋れないんだ。こっちがスリップのつもりでいっても、向うでは、スリープに聞えるような英語しか喋れないんだ。お前が一番いいんだ。何たって、お前は、聞く方も、喋る方も、駄目なんだから一番いい。お前みたいな図々しい奴でなきや勤まらん仕事なんだ。お前なら手まね足まねでもイタリアにくるさ」と平然といってのけた。
 エンジンは、貨物としてルフトハンザでハンブルグに着き、それを、税関に書類を提出して受け取り、こんどは、アリタリア航空で、それをかかえてミラノにいき、そこからモンツァにいくのだ。ハンブルグには、島田という私の知り合いがいたので、彼に通関手続きの書類を集めてきてもらい、あした一緒に空港にいってくれないかとたのんだが、奴は、都合が悪くていかれないという。ここで頼みの綱が切れてしまった。本隊は、大きなライトバンで、モンツァに向けて出発してしまっているし、残るは私一人であった。
 翌日、黙って書類を税関の役人にだすと、まず第一に、エンジン番号が違うということだった。河島さんが、国際電話で受けたエンジンとは、違うものが送られてきたのだ。河島さんが、開いていたのは五〇CCの単気筒だったのが、ツイン・シリンダーのダブルOHCエンジンとなっているのだ。予定変更は、ホンダのお手のもので、五〇CCの二気筒は、モンツァに間に合わないものと考えられていたのが、どうにか日本側で間に合わせたらしい。
 問題はこの二つだったが、それがエンジン番号の違いと、エンジンが、単と二気筒の違いであることが、英語だかドイツ語だか判然としない外国語でまくし立てられた私は、ただ両手を大きく広げ、首を振って「ワカリマセン」。やっとのことで、ジス・イズ・ツイン・シリンダ、ユア・インボイス・イズ・ミステーク、というような単語が、何十回と聞いているうちにわかってきた。ノー・ワン・シリンダ、アンダスタン? アンダスタン? ガソリンスタンドならわかるが、この言葉も何回となく耳にした。私と税関の役人とのいとも珍妙なヤリトリは、昼に始まり、外が薄暗くなる頃、とうとう税関のドイツ人は、根負けしたのか、自分で私の書類を書き直してくれた。ダンケ・シエン、ダンケ・シエン、これが、こちらが発した唯一のドイツ語だ。
 さて、エンジンはやっと受け取ったが、今度はどうやってミラノまで行くかが大変だ。なにしろ、こちとらはオシにツンボときている、あるのはゼスチャーのみ。
 最初の予定では、二時頃にエンジンを受け取って、ハンブルグを出発するスケジュールになっていたのだが、五〇CCのエンジン一つをかかえた私は、さあて、これからどないしょ。弱ったなあ、まあ、どうでもせい。いよいよとなればタクシーでも拾うか。まさか百万円もとられることはあるまい。こっちは本田技研がついているんだ。かまうことないや。
 飛行機で、ハンブルグからミラノにいくには、スイス経由と、フランス経由があった。タクシーに乗ったら、どっち経由の方が近いのか、私にはわからなかったが、ゼニは沢山もっていた。助監督という役目上、私は、小切手帳をもっていたし、それの書き方も教わっていた。タクシーの運転手にいうべき言葉は、
 ワタシ、ミラノニ、イキタイ、タクシー、ジョイント、ジョイント、OK。
 このジョイントというのは、日本では電線の接続のことをいうが、ヨーロッパでは「乗り継ぎ」という意味であった。
 ハンブルグの空港は、羽田空港の四倍くらいある大きなもので、いよいよ、タクシーかと外の方に歩いていると、遠くかなたに日本人らしき人間が見えた。これこそ天の助け、私は恐る恐る声をかけた。
 「あのう、日本の方ですか?」
 「はい、そうですが、なんですか?」
 「実は、私は本田技研のものですが、恥をしのんで打ち明けますが、ここに私は、エンジンをかかえていて、四日後のレースのために、ミラノにいかなきゃならんのです。チームの連中は、私が英語も、ドイツ語も、喋れないのをいいことにして、私に運ばせたんです。これからベンツのタクシーにでも乗ってアウトバーンを走って、スイス国境にいき、そこからイタリアにでようと思うんですが、どのくらいで着くでしょうか?」
 「そりや、あんた、一日半か、二日ありや着くでしょうが、またなんで、飛行機に乗らないんですか? もうすぐミラノ行きがでますよ」
 うまくいったぞ! 私が、聞きたかったのはこれなんだ。
 「ところで、そのミラノ行きに乗るには、どこにいけばいいんですか?」
 「どこへいけばいいかっていったって、この広い空港で……あんた全然駄目なんですか?」
 「そうなんです。だから、何とか頼みます」
 この人は話を聞いてみると三井物産の人で、いまハンブルグに着いたばかりとのこと。そのおじさんも、ミラノ行きの飛行機の出る時刻に、ロンドンに向かうのだという。だから、あんたをミラノ行きの飛行機に乗せる案内をしている時間はないという。聞けばもっともなことだが、ここで会ったら百年目とばかりに、いやあ、そんなつれないことをいわないで、頼みます、私の乗るべき飛行機のところまで連れていって下さい、と私は片手に重い五〇CCのエンジンをぶら下げ、片手で、そのおじさんの背広のすそを握ってただひたすら哀願した。時たま、上野駅で田舎の婆さんが見せる光景であるが、それをこの私が、ドイツのハンブルグ空港でやらかすとは情けない。とうとう三井物産のおじさんは折れ、私は、ミラノ行きの飛行機に乗り込むことができた。しかし、あのおじさんが、ロンドン行きの予定の飛行機に乗れたか、どうかはわからない。
 ところが、乗った飛行機がプロペラのオンボロ機で、チューリッヒに不時着となった。機内のアナウンスでは、何とかのトラブル(聞きとれたのは、トラブルの一語のみ)ということで、ミラノに着いたのは、翌朝の午前六時だった。あのバカは、間違ってロンドンへでもいったんじやないかと、チームの連中は話していたそうだが、私は、ハンブルグ空港の出来事などは、そしらぬ顔で意気ようようとエンジン片手に、タラップを降りた。それどころか、みんなの前では、
 「なあに、簡単なもんさ。オー・イエス・ツイン・シリンダって調子さ。お前らみたいなバカじやできるはずがないよ。おれだからやれたんだ」と鼻たかだか。
 しかし、その夜、酒が体中に浸みわたると私の唇がゆるんだ。チームの全員は、涙を流して笑いころげた。私の失態がこれほど奴らをうれしがらせるとは……。
 「いやあ、健さん。こりゃまた、優勝したよりうれしいよ」

                         

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