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レース界の神様、田中健二郎さんが、2007年12月29日永眠なさいました。ご冥福をお祈り致します。


田中健二郎さんを偲ぶ会(2008−02−22)
高橋国光さんと北野元さんが発起人となって開催された「偲ぶ会」

 日本を代表する往年の名レーサー「田中健二郎さんを偲ぶ会」が、赤坂のANAインターコンチネンタル・ホテルで開催されました。会場には氏の遺影とともに、故人の現役時代使用された品々が飾られ、モータースポーツ界を中心に数多くの参加者が集まりました。

 昨年12月29日に73歳で、この世を去った田中健二郎氏は、日本のモータースポーツ界の草分け的存在で、二輪&四輪レースで数々の栄誉に輝いています。会の冒頭には発起人でもある高橋国光氏が田中氏との思い出話しを語りました。

 本田宗一郎さんに見出され、オートレースの世界からホンダワークスの一員として2輪グランプリを転戦、まだ日本の技術力がヨチヨチ歩きだった頃に日本人で初めて、しかも日本製のマシンで、1960年西ドイツグランプリ250ccで3位のの表彰台に上がる偉業を成し遂げられました。次戦アルスターGP125ccで残念ながら負傷されてからは後進の指導が中心となり、4輪転向後は日産自動車のワークスドライバーとして、ホンダ時代の愛弟子であった高橋国光や北野元を4輪に転向させて、トヨタやタキ・レーシングが擁するポルシェ、ローラといった強豪とやりあうことで、日本のモータースポーツのレベルアップに大きく貢献されました。引退後は、当時最も人気のあった、富士グラン・チャンピオン・シリーズ(富士GC)のテレビ中継で、解説者として活躍されました。

 筆者が健二郎さんと初めてお会いしたのは、1959年第3回浅間火山レース前の合宿中のことでした。健二郎さんたちホンダチームはRC160(250cc4気筒4バルブマシン)をひっさげて浅間へ乗り込んできました。練習の合間のことでした。私のところへ彼がやって来て「スズキの中野さんはおたくですね」と。そして、薄い煙がたなびく浅間山を眺めながら、結構長い間何やら話をした思い出がある。あとで考えて、どうして彼が私を訪ねて来たのかは、いまだにわからない。翌年の1960年、私はマン島TTレース初出場のため訪英したが、健二郎さんは後半戦の西ドイツGP以降レースに出場のため渡欧されたので、欧州でお会いすることはありませんでした。・・・ご冥福をお祈り致します。



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