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アゴスチーニとMVワークスは多くのレースで2位以下をラップ遅れにし、まさに独壇場のレースを続けていた。観衆の興味は激しいデッドヒートを繰り広げる他のクラスに向けられ、500ccクラスには最高峰クラスでありながら独特の孤立感が漂っていた。 |
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ウェットコンディションの予選で2分24秒01をマークした木山+NR500は、2番手の平忠彦を2秒30引き離して、フロントロウを奪い取っていた。それはまた、故隅谷守男選手以来7年ぶりのホンダマシンによるポールポジションの獲得でもあった。 予選が終わった木山さんをつかまえたボクはちょっと興奮ぎみに声をかけた。いつも物静かな木山さんは珍しく高揚した感じで言った。 木山さんの顔には、ひとつの仕事を成し遂げた安堵の表情があった。とにもかくにも、NRはポールを獲得するまでに至ったのだ。シェイクダウンテストから2年。NRはグランプリサーキットでは苦悩のレースを続けていた。
翌1980年にも、NRは結果を残せない辛いシーズンを送っていた。GPデビューから丸1年が経った80年のイギリスGPで片山さんが15位完走を果たすが、当時の得点圏は10位であり、ポイントを獲得することは出来なかった。その80年には、カワサキがKR500による参戦を開始し、遂に日本の4メーカーが500ccクラスで相まみえる図式が整った。日本製マシンに果敢な挑戦を続けていたモルビデリはそのチャレンジに終止符を打ち、ロッシはRG軍団の一員として500ccクラスに挑み、ランキング5位となっていた。 NR500は、81年に入っても第1戦オーストリアGPで13位完走を果たした後、3戦連続でリタイヤが続いていた。木山選手の鈴鹿200kmにおけるポール獲得は、そんな状況が続いている最中の出来事だった。 6月14日、鈴鹿200kmの決勝は雨のレースとなった。ポールを獲りながら、始動性の悪さで押し掛けスタートを大きく出遅れた木山+NRは、木下恵司+後方排気TZ500や河崎裕之+RGΓ500をはるか後方から追う展開となった。 鈴鹿200kmレースは、夏の鈴鹿8時間耐久の前哨戦として全日本の中に組み込まれた長距離レースだった。しかし8耐に出場するマシンによって争われるスーパーバイク1000ccクラスが鈴鹿200kmのメインレースとなり、本来のスプリントペースでレースを戦う国際AB500ccクラスが8耐の予行演習的な給油を行なう義務づけはなくなっていた。 それでも、2ストローク勢は当然のようにレース中に給油をしなければその200kmという距離を走り抜くことは出来なかった。21周目に木下が、23周目に河崎が給油のピットインを終えると、我慢の追撃を続けていた木山さんはついにトップに躍り出た。それは500ccクラスにおいて、4ストロークが2ストロークをリードする、歴史的瞬間だった。 |
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70年代中盤にMVアグスタがワークス活動を終えて以来、グランプリにおける4ストロークマシンの活躍を見ることは出来なくなっていた。76年の最終戦西ドイツGPで、雨の決勝レースに旧型MVを走らせたアゴスチーニが優勝して以来、4ストロークマシンによるメジャーレースにおける勝利を見ることは完全に出来なくなっていた。 グランプリと全日本を同列で語ることは出来ないにしろ、とにかくNR500は4ストロークマシンとして、確かにレースをリードした。そして木下に2秒の差をつけ、悲願のウィニングチェッカーを受けた。ピットの歓喜の大きさは、それまでの苦労を物語っているかのようだった。 いつもは穏やかな表情を崩さない木山さんの喜びようも半端ではなかった。ウィニングサークルにマシンを停めてスタッフと抱き合い、「やった~、やったぞ~」と声をあげる彼の姿に、NR500初優勝の重みを知ることが出来た。興奮の収まらない木山さんは脱いだヘルメットをグランドスタンドに投げ込んだ。彼の喜びは、それほど大きかった。 そのレースを見つめ続けていた片山さんに感想を聞こうと思ったが、彼は小さくうなずいて無言でその場を去った。その表情には、超一流ライダーとしての新たなる決意がみなぎっているかのようだった。この時ほど毅然とした片山さんを、ボクは見たことはなかった。 鈴鹿200kmから2週間後の第6戦オランダ/ダッチTTで10位をキープした片山+NRは、惜しくも最終ラップにリタイヤとなった。第7戦イギリスGPで、フレディ・スペンサーが5位のポジションを走るも、これまたマシントラブルでチェッカーを受けることは出来なかった。NR500のチャレンジは、事実上この1981年で終了した。 |
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翌82年にもNRはグランプリを走ったが、ホンダはすでに2ストローク3気筒のNS500をデビューさせ、フレディ・スペンサー、片山敬済、マルコ・ルッキネリの強力な布陣を整えていた。ロン・ハスラムのライディングで挑戦を続けていたNRは、第7戦ベルギーGPで11位完走を果たしたが、ついにグランプリでポイントを獲得することは出来なかった。 | ||||||||||||||||
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1970年代の、2ストロークマシンによるグランプリレースという重い扉をこじ開けるために作られたNRという鍵は、凝りに凝った鍵だった。凝りすぎていて上手く鍵穴に入らない事もあったのかもしれないけれど、鍵職人たちはしっかりと鍵の作り方を身につけて、NSやNSRという次世代の鍵を作ってみせた。
「ま、人と同じことをやってもつまんないですからね」 |
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