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とって60年代の日本車による華々しいグランプリへの挑戦物語は、もちろん胸躍らせる冒険活劇だったけれど、それはどこか「ゼロ戦開発秘話」とか「われグラマンとかく戦えり」のような、遠い遠い存在の戦記物語的な部分があって、どうも現実感に乏しいのも確かだった。

 それは何故かと考えてみれば、ボクは60年代当時オートバイに乗れる年齢に達していなかったわけで、戦闘機に乗ったこともない小僧がグラマンとの空戦を夢見ているに似ていたからだと思う。そして、70年代に入って免許を取得して、まがりなりにも2輪に乗る喜びを知ってから初めて目の当たりにした冒険活劇物語は、耐久レースにおけるRCB艦隊の活躍にとどめを刺す。

 1976年に耐久選手権に進撃を開始し、連勝を重ねるとともにボルドール24時間というビッグレースを制して挑戦初年度にしてメーカータイトルを獲得するRCB艦隊。しかしその物語の大切な序章は、ボクの中でその数年前からスタートしていた。

に開催されていた「世界選手権・日本グランプリ」は、鈴鹿に大きな遺産を残していた。それは、鈴鹿のコースレコードという、巨大遺跡のようなものだった。マイク・ヘイルウッドが65年の日本グランプリで記録した2分28秒9というタイムは、その後世界選手権が開催されなくなった鈴鹿のコースに、堂々と横たわる絶対的なレコードだった。全日本のレースでは、2分30秒台前半が精一杯であり、当時の鈴鹿には2分30秒の壁があるとさえ言われていた。

 この壁を最初に破ったのが、RSCの隅谷守男選手とCB500改だった。72年の全日本第1戦で29秒9をマークした彼は、第2戦で一気にそのタイムを28秒7にまで縮め、遂にヘイルウッドの大記録を7年ぶりに書き換えて押しも押されぬ鈴鹿コースレコードホルダーとなった。そして翌73年にはデイトナ200マイルに出場して6位に入賞。これは、かなりのニュースだった。

 しかし、時代は2ストローク全盛期を迎えようとしており、隅谷さんとCB500改は次第に活躍の場を失っていった。ヤマハ、スズキ、カワサキの2ストロークマシンがグランプリやアメリカで、そして全日本でも大きな成果をあげつつある時代にあって、隅谷さんとHondaは孤高の4ストロークで自らの行き場を模索しているかのように見えた。

 隅谷さんがHondaに入社したのは、1961年のこと。その年はまさにHondaが世界GPで初優勝を果たし、日本車が初めて世界チャンピオンに輝き、高橋のクニさんがセンターポールに日の丸を挙げた、そんな年だった。そして隅谷さんがHondaの社内チームであるブルーヘルメットに加わったのは、ヘイルウッドが鈴鹿に不動のコースレコードを打ち立てた65年のことだった。

 そんな彼が、レースにおいて世界を目指し、栄光の60年代を再び夢見たとしてもなんの不思議もない。しかし70年代のスプリントレースは完全に2ストローク勢のものへと変容し始めていた。彼とCB500改は出られるレースを失い、74、75年にはレースの結果表にその名をほとんど見せなくなっていた。

 そして、久しぶりに彼の名を見たのは、耐久レースのボルドール24時間への挑戦と、その練習中に転倒し、志なかばで他界するという驚きの訃報だった。75年9月10日のNHKの朝のTVニュースで前日のその出来事を知ったボクは、妙に慎重にバイクに跨って通学の道を辿ったことを憶えている。

 翌1976年、Hondaはまったく新しいRCBというワークスマシンをもって、耐久選手権に参戦することを発表した。そうか、隅谷さんの挑戦の先には、こういうプロジェクトがあったんだ。RCBの先遣部隊として隅谷さんは75年のボルドールにおもむいていたんだ……隅谷さん、思いが実現しましたね……雑誌に載ったRCBのカウルのトリコロールのカラーリングが、隅谷さんのCB500改に良く似ていることを見つけて、ボクはその活躍を祈らずにはいられなかった。
の耐久選手権は、4月25日のオランダから開幕した。しかしこのレースは正式には選手権の1戦ではなく、この年行われる全8戦のうち5戦がタイトルレースで、他の3レースはノンタイトルだった。レースの距離も毎回違うし、出場するライダーやマシンも、聞いたこともないものが多かった。でも、それまで知らなかった世界が拡がり、新たな興味の対象が生まれたことは大きな喜びだった。
1976年 RCB参戦初年度の耐久選手権レーススケジュール
ノンタイトル 4月25日 オランダ・ザンドフォールト600km(ザンドフォールト)
ノンタイトル 5月23日 フランス・ルマン1000km(ブガッティ)
選手権第1戦 6月6日 イタリア・ムジェロ1000km(ムジェロ)
選手権第2戦 7月3〜4日 スペイン・モンチュイッヒ24時間(モンチュイッヒ)
選手権第3戦 8月14〜15日 ベルギー・リエージュ24時間(スパ・フランコルシャン)
ノンタイトル 9月5日 ベルギー・メッチ1000km(公道)
選手権第4戦 9月18〜19日 フランス・ボルドール24時間(ブガッティ)
選手権第5戦 9月26日 イギリス・スラクストン400マイル(スラクストン)
 そして、耐久に出場しているマシンが、バイクに乗り始めてしばらく経ってちょっと背伸びして外車を眺め始めていたボクにとって、とても魅力的に映った。RCBの他にも、フランスの大学教授が設計したというモノコック風フレームを使うシデム・カワサキ。とんでもない造形のカウルを付けたジャポートHonda。ドゥカティやグッチのワークスはいるし、ツインのトライアンフやBMWも決してあなどれない存在であったし、ソノートヤマハのTZ750もいるし、風変わりなフレームやサスペンションもいて、これはもう異種格闘技戦を思わせる興味津々なレースだった。
 開幕戦のザンドフォールト600kmを幸先良く制したかに見えたHondaではあったが、実はエースライダーのジャン・クロード・シュマランがレース2週間前に転倒負傷し、クリスチャン・レオンはロジャー・ボーラーというピンチヒッターとのコンビでそのレースを戦っていた。そして続くルマン1000kmでは、シデム・カワサキの底力の前にRCBは無惨にも敗れ去った。74、75年とボルドール24時間を連覇しているシデム・カワサキは、まさに当時の耐久レースの王者であり、RCBの前に立ちはだかる分厚い壁だった。またルマン1000kmが開催されたブガッティサーキットは、耐久レースの最高峰であるボルドール24時間が開催される同じサーキットでのレースであり、ここでの敗北はそのビッグイベントに少なからぬ不安を残すものとなった。
 しかし、シュマランが復調し、レオンとのコンビを復活させた選手権第1戦のムジェロ1000kmで、フランスHondaチームのRCBは見事雪辱を果たした。それにしても、1000kmを走り抜いたRCBが191周=7時間28分59秒であるのに対し、2位となったドゥカティワークスは同じく191周=7時間30分38秒。3位のシデム・カワサキも191周=7時間31分19秒と、3位までが同一周回数であることは驚きだった。また、イギリスHondaチームのチャーリー・ウイリアムズが転倒。フランスHondaチームのリガール/ギュイリ組はガス欠、ルイツ/ユゲ組はエンジントラブルと、4台出走したRCBのうち無事生還したのは優勝の1台のみという、耐久レースならではの波乱がいくつも散りばめられていた。

 そして迎えた選手権第2戦は、モンチュイッヒ24時間。この年初めてのフルマラソンは、ボルドール24時間へ向けての大事な試金石となる一戦だった。優勝候補の一角であるイギリスHondaチームのウッズ/ウイリアムズ組はスタートでエンジンがかからず1分半も遅れて戦線に加わった。フランスHondaチームのレオン/シュマランも大きく遅れて追い上げを続けるレースとなった。12時間を経過した時点でのトップはグラウ/フェラーリのドゥカティワークス。このフェラーリとは、その後スズキのワークスライダーに出世し、79年にはケニー・ロバーツを苦しめ500ccクラスランキング2位となるバージニオ・フェラーリだった。

 だが、RCBの追い上げは安定し、そしてライバルをジリジリと追走すると、18時間が経過した時点でイギリスチームとフランスチームが1-2位のフォーメーションを築くに至った。そしてここからが、抜群のスタミナと速さを誇るRCB艦隊の実力の見せ所だった。2台のRCBはドゥカティを引き離し、そのままゴール。3位のドゥカティをはさんで、4位には転倒/再スタートから追い上げたフランスチームのRCBが入った。24時間のレースを終えたトップの周回数は747周。前年のドゥカティワークスの記録731周を16周も上回る、新記録だった。

選手権第3戦のリエージュ24時間では、Honda勢のパワーが爆発した。イギリスチームこそ入賞を逸したものの、フランスチームのRCBが1-2位を独占。特徴的なカウルのジャポートHondaが3位。さらにプライベートも加えて6位までをHondaエンジンが独占するという快挙を達成し、本来のライバルであるはずのカワサキ勢は10位入賞が最高位だった。

 ノンタイトルのメッチ1000kmでも1-2-4位を占めたRCBは、満を持してボルドール24時間に挑むはずだった。しかし9月初旬のテストでクリスチャン・レオンが転倒/負傷。シュマランのペアにはGPライダーのアレックス・ジョージが起用されることとなった。RCB勢は全部で4台。これに加えてジャポートHondaにもRCBのエンジンが貸し出された。

 一方、それまで2年連続でボルドールを制してきたシデム・カワサキは、本来の耐久チーム2台に加えてスプリントライダーによるチームを増強させてきた。その1台には若き日のクリスチャン・サロンが乗り、そしてもう1台にはアメリカのAMAロードレースで一番のカワサキ使いと言われたイボン・デュハメルと、後にワークスKRで活躍するジャン・フランソワ・バルデが組み合わされ、やはり4台での必勝態勢がとられた。

 ボルドール24時間の決勝日9月18〜19日は、スペインGPと日程が重なっていたが、RCBとシデムの対決、そしてこれに抜擢された多くのGPライダーの参加もあり、またボルドール24時間の第40回記念大会とあって、なんと14万人の観客を集めるという大盛況となった。予選は、リュイ/ユゲ組のスプリント仕様のRCBが1分44秒7でトップ。ソノート・ヤマハのTZ750が1分44秒8で2番手につけ、デュハメル/バルデのシデム・カワサキが1分46秒の3番手。以下にRCBとシデムが並ぶ結果となった。

 そして午後4時。伝統のルマン式スタートで24時間の戦いはその火蓋を切った。スタートから逃げるのはソノートのTZ750。しかし早くも1時間後には大きく脱落し、変わってトップに立ったのはデュハメルのシデム・カワサキだった。RCB勢はシュマランが2番手に入り、10番手まではシデムとRCBが独占し、ドゥカティワークスのバージニオ・フェラーリが9位に食い込むのみだった。
 RCB勢は、ジリジリとラップタイムを詰めてカワサキ勢に迫るのだが、ピットインのたびにそのタイムをロスし、また差を広げられる展開を続けていた。そこにはやはり、伝統のボルドール24時間の3連覇を狙うシデム・カワサキと、選手権挑戦1年目であるRCB勢との違いがあった。Hondaチームの総監督は、60年代GP挑戦時のチーム監督でもあった秋鹿方彦氏が、そしてルイジ・タベリやマイク・ヘイルウッドのメカニックを務めた吉田正勝氏がチーフメカを担当していた。
 2時間を過ぎたところで、リーガル/ギュイリ組のRCBが他車の転倒に巻き込まれクラッシュ。自力でピットに戻るもののそのダメージは大きく、修復のピット作業を余儀なくされる。また3時間を経過したところで、スプリント仕様のリュイ/ユゲ組がエンジントラブルでリタイヤ。RCB勢は4台のうち2台をトップグループから失って、夜を迎えた。シデム・カワサキは好調をキープし、若さにモノを言わせるクリスチャン・サロンが10時間を経過した深夜2時にトップを奪い、デュハメルが2番手という、絶好のフォーメーションを築いていた。RCBではシュマラン/ジョージ組が2ラップほど遅れて3番手。勝利の金杯は、遙か遠い存在に見えた。
 ここまで選手権ポイントのかかったレースに3連勝し、破竹の進撃を続けてきたRCBは、ジッと耐えてシデム・カワサキの2台を追うしかなかった。秋鹿監督は夜明けを待っていた。明るくなって再びペースが上がる時間帯を待っていた。スプリントライダーがリードするシデム・カワサキに、絶対に何かが起こる。ここまで飛ばしてきたツケが訪れるはずだ。3番手を行くシュマラン/ジョージ組には「KEEP」の指示が出され続けていた。
 そして、秋鹿監督の予想は的中した。2台のシデム・カワサキが、相次いで予定外のピットインを始めた。深夜に飛ばしたサロンのマシンは幾つかのトラブルを併発したようで、一時の快足ぶりはまったく影をひそめてしまった。さらにデュハメルのマシンはジェネレーター部分にオイル漏れを起こし、ピット作業で3ラップを失った。午前11時、スタートから19時間を経過したところで、シュマラン/ジョージ組のRCBが待望のトップに立った。秋鹿監督の耐えて耐えて朝を待つ作戦が、見事に的中した瞬間だった。
 午後4時、大観衆の待ち受けるグランドスタンド前に、シュマランのRCBが姿をあらわした。762周、3214kmを走りきったその車体はひどく汚れていたが、隅谷さんのCB500改から引き継いだそのトリコロールカラーは健在だった。RCBの頭上に悲願のウィニングチェッカーが振り下ろされた。それは、隅谷さんの果たせなかった夢が、1年の時を隔てて成就した瞬間でもあった。
、ボルドール24時間の優勝で年間チャンピオンの栄光を手にした。Hondaは最終戦のスラクストン400マイルも制し、選手権5戦に完全優勝を果たして挑戦1年目でそのメーカータイトルを獲得した。ボルドールで惜しくも2位となったサロンは、その後ソノート・ヤマハに加入し、80年代には500ccクラスのトップライダーとして活躍した。サロンに続いて3位となったデュハメルの息子ミゲールは、父の後を継ぎ91年にカワサキワークスとして、さらに96年にはHondaワークスの一員として来日し鈴鹿8時間耐久を宇川徹とともに戦った。
 RCBの活躍は、耐久レースの世界的な盛り上がりをもたらすこととなり、やがて78年の鈴鹿8時間耐久レース開催への大きな原動力となった。80年からは耐久レースが世界選手権となり、多くのメーカーがこれに参戦。グランプリと肩を並べる人気を獲得するとともに、80年代に入って鈴鹿8時間耐久は日本を代表する世界のトップレースへと登りつめることになる。RCBは、その後941ccから997ccへと排気量を拡大し、DOHCのCB900F誕生と時を同じくして79年にRS1000へとその名を変えながら、耐久やTT F-1の主力機種として活躍を続けた。
 1982年、未曾有の豪雨の中で行われた鈴鹿「6」時間耐久を、かつて隅谷さんの所属チームであったブルーヘルメットが制した。祝勝会のビールかけが行われているRSCの前で、ボクはRSCの社長を務めている秋鹿さんを見つけて歩み寄った。
「隅谷さんがヘイルウッドの記録を破ってから今年でちょうど10年ですね」
「アッという間だったね。彼もRCBも、沢山の思い出を残してくれた。耐久の結果は、いつも隅谷に報告しているよ。今日の結果も喜んでくれるんじゃないかな」
 秋鹿さんは、いつもの優しい笑顔を浮かべて、若きブルーヘルメットのメンバーを見つめていた。
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