ファンタスティックRG(1974)
1974年2月、スズキの竜洋テストコースを、純白とブルーに塗り分けられたマシンが、真冬の鋭角的な陽射しをいつぱいに受けながら走りつづけていた。
ライダーは、長身の体をツナギにつつんだ、あのバリー・シーン。そして何周、何十周と行われたテスト走行が終わり、長い直線を戻ってきたバリーはヘルメットを脱ぐなり、「ファンタスティック!」を連発しはじめた。それは、その時のマシン、スズキRG500の優れた性能への言葉であるのは勿論、バリー自身と、このRGの運命的な出会いを表現する最もふさわしい言葉であったに違いない。
この年74年、スズキはモトクロス250cc、500ccクラスふたつのタイトルを落とし、70年代における最大のピンチに陥っている時期であった。
そしてその苦境のまっただ中で、新たなる挑戦、世界選手権ロードレースの最高峰500ccクラスヘのチャレンジを決定したのである。
それ以前、スズキには大排気量レーサーとして、市販マシンGT750改造の、水冷TR750、GT500改造のTR500、そしてその水冷化マシンがあり、デイトナやマン島TTなどのレースに実績を持っていたが、世界GPの500ccクラスヘの本格的参戦は、まだ具体化していない段階であった。
しかし、休むことを知らないスズキ・レーサーグループは、その頃日本車のいなくなった500ccクラスを荒しまわっていたMVアグスタの独走にストップをかけるべく、新型マシンの開発を急いでいた。
そして完成したRG500のエンジンは、1963年にデビュー以来、悲運のマシンとして静かにその生涯を閉じたRZ63の、水冷スクェア4ロータリー・バルブというメカニズムが採用されていたのである。理想的な吸入タイミングを得ると同時に、エンジン自体のコンパクト化、イコール車体全体の小型化がはかれるというメリットを持ちながら、当時の技術では克服しきれない問題の多かったこのエンジンは、その10年後に形を変えて、新たなる挑戦の時を迎えたのであった。
常勝への胎動(1974)
7年ぶりにロードGPへのワークス活動を再開したRG500は、その初年度から内に秘めたるポテンシャルをあらわしはじめ、上位入賞を開始した。1974年シーズン第1戦、バリーははやくもこのフランスGPで、当時の王者MVアダスタのフィル・リードにつづいて2位入賞を果たしてしまう。
しかし、その後のレースは決して楽なものではなかった。それまで、実に16年という長い間、500ccクラスのライダー・チャンピオンを取りつづけ、66年のホンダをはさんでやはり15年もの間メーカー・タイトルを守りつづけてきたMVの底力は、挑戦1年目でこれを打ち負かせるほど簡単なものではない。
また、73年からワークスマシンYZR500を送り込んでいるヤマハの存在も大きなものだった。テピ・ランシポリ、ジャコモ・アゴスチーニという若手、ベテランの両雄をそろえるヤマハは、MVとはげしいツバぜりあいを見せていた。
対するスズキは、中堅ライダーのジャック・フインドレー、そして若手中の若手バリー・シーンのふたりだ。
このふたりは、第3戦3位、4戦4位、7戦5位、9戦4位、10戦4位と、初年度としてはまずまずの活躍を見せ、年間ランキングでは、フインドレー5位、バリーが6位につけていた。
チャレンジ2年目のシーズンを向かえ、エンジン、足まわりなどに改良をうけたRG500は、確実な性能向上を見せていた。
そしてむかえた1975年シーズン。バリーは、72年以来市販車GT750改造マシンTR750でエントリーしているアメリカはデイトナのレースに出場するため、RGを残し海を渡ったのである。
しかし、このデイトナになにが待ちうけているのか、バリーは勿論のこと、彼をとりまくメカニックやチームの面々にも、そのことはわかろうはずもない。75年シーズン、1気にチャンピオンを狙うはずであったバリーである。
デイトナ200マイルの悪夢(1975)
むかえたデイトナ200マイル・レース。前年予選4位につけながら決勝で惜しくもリタイアとなったバリーは、世界GPへの出場もあってこのデイトナに燃えていた。
しかし、彼はその公式練習中、信じられないようなアクシデントに見舞われてしまうのである。なんと、直線を疾走中280km/hにもおよぶスピードで、後輪タイヤがそのパワーに耐えきれずバーストしてしまったのである。この恐るべきスピードでクラッシュしたバリーは、長い直線路に全身をたたきつけられ、十数箇所にもおよぶ骨折という重傷を負ってしまうことになる。
一方レースの方も、この年からスズキ・チームに加わったテピ・ランシポリが転倒してリタイアし、スズキは散々な結果でこのデイトナを引き上げなければならなかったのである。
ちなみにこの年の予選1位は、後にバリーの最大のライバルとなるケニー・ロバーツであったが、これも決勝ではクラッチ・トラブルでリタイアとなっている。
デイトナで惨敗したスズキ・チームは、挑戦2年目の世界GP500ccクラスでも苦しい戦いをしいられていた。
このシーズン、ヤマハYZR500を駆るアゴスチーニは、前年フィル・リードに奪われた500ccのタイトルを奪回すべく、また彼自身15回目のワールド・チャンピオンとなるため、激しい進撃を見せていたのである。
これに対するスズキは、第1戦フランスGPにノーポイント、第2戦オーストリアGPではランシポリが2位に入賞し、もう一歩のところまで来ている実感をつかみ、、つづく3戦西ドイツでは再び3位につける。
しかしアゴスチーニ、リードらの実力はかなりのところにあったが、優勝を狙うにはもうひとつ決定的ななにかが足らないのである。
そしてバリーはデイトナでの負傷を治療中、といっても、大かたの人々が再起不能と信じてうたがわないバリーのレース復帰はまったく白紙の状態であり、沈痛な雰囲気の中で、シーズンは中盤のイタリアGP、そしてイギリスGPへと、駒を進めていくのだった。
アッセンの奇跡(1975)
第4戦イタリアGP、5戦イギリスGPは、まったくいいところがなく、ともにノーポイント。バリーを欠くスズキ・チームは絶望のどん底におちいっていた。
しかし、その頃バリーは、不屈の精袖力で、再起不能とまで言われた重傷から立ち直りつつあった。彼は後にこう語っている。「ベッドに寝て目を閉じていると、遠くから僕を呼ぶ声がする。RGが僕を呼んでいたんだ」
そして、6月末、デイトナの悪夢からわずか3カ月足らずで、バリーはサーキットに帰ってくるのである。
第6戦オランダGP。このイベントは、ダッテTTと呼ばれマン島TTレースと肩を並べるビッグレースであり、アゴスチーニ、リードらベテラン勢を含め、ライダーたちはいつも以上に闘志をかきたてられるレースだ。
そしてその公式練習に、バリーは片足をひきずりながらやって釆た。驚異の目で彼を見る人々に、バリーは静かにこう言ったのである。「僕は神と、そしてRGに感謝するよ」
レースは、驚くことに、スタートからバリーとアゴスチーニのデッドヒートが展開されていった。
アゴスチー二。それまで14回のワールド・チャンピオンの栄誉に輝き、無数とも言える優勝回数を経験している世界ナンバーワン・ライダー。対するバリーは、チャンピオンどころか500ccクラスの優勝経験は皆無。それもわずか出場2年目のRGに乗る、まだ包帯のとれないライダーである。
しかしバリーは不屈の根性でアゴスチーニにくらいついていた。毎周アゴスチーニのすぐ後方でコントロールラインを通過するバリー。そしてラスト2周、アゴスチーニはスパートをかけ一気にバリーを引きはなそうとした。だがこれにくいさがるバリー。最終ラップ、ふたりはまったく横1列に並んで最終コーナーを立ち上がってきた。観衆は総立ち、チェッカーフラッグが用意される。そしてアゴスチーニが、ずっと後方にいるはずのバリーを確認しょうと首を左に曲げた時、バリーはその真横に並んでいた。ふたりの頭上に打ちふられるチェッカーフラッグ。そして直線を駆け抜けるバリーは、左手で大きなガッツポーズを見せたのだった。
わずか数センチ、バリーのRGはアゴスチーニの前に出ていた。まさに、それは奇跡としか言いようのない、最終ラップ最終コーナーの逆転劇だったのである。
バリーは勝った。デイトナでの重傷を克服し、そして偉大なるチャンピオン、アゴスチーニに勝ったのである。勿論これは彼の500ccにおける記念すべき1勝目であり、出場2年目、16戦目にして得た、RGの初勝利でもあった。
だが、つづく第7戦、ベルギーGPスパ・フランコルシャンのレースで、バリーは思わぬクランク・トラブルに見舞われリタイア。しかし彼にかわってチーム・メイトのジョンニューボルトが2位に入る活躍を見せ、RGの性能がすでにトップクラスにあることを確認する。
そして第8戦スウェーデンGP。ベルギーでのトラブルを解決した新しいクランクが本社から空輸され、バリーのマシンに組み込まれ、彼はこのシーズン2回目の勝利を得ることができたのである。そしてこの勝利は、翌76年シーズンにおける、バリー・シーンの、またRG500の圧倒的な強さへとつながっていくのであった。
常勝、バリー+RG(1976)
翌1976年、バリーはシーズンはじめから驚異的な強さを見せはじめた。
第1戦フランスGP、2戦オーストリアGP、3戦イタリアGPと3連勝、イギリスGPでのノーポイントをはさんで、つづくオランダGPでは再び優勝と、シーズン前半の5戦を消化した段階ですでに4勝、60ポイントの得点でがぜんランキングのトップに躍り出ていたのである。
一方、チャンピオン、アゴスチーニは、その長いレース生活の中で、もっとも屈辱的なシーズンを送っていた。ヤマハから貸し出されたYZR500は、完全には彼の言うことを聞いてはくれず、メインマシンのMVアグスタは、すでに時の流れの中で、その20年以上にもおよぶ栄光の歴史を閉じようとしているのであった。そして彼にとって一番くやしかったのは、それら2台のマシンだけでGPを戦うことの不可能さの中で、市販されたRGを、バリーたちに混って走らせなければならないことであった。ワークス仕様のYZR500とMVを持ちながら、それはすでに市販RGへのライバルではなかったのである。ヤマハのネーム入りのツナギで、彼のメイン・スポンサーであるマールボロカラーに塗られた市販RGを走らせるアゴスチーニの寂しげな姿。それは、無敵を誇ったチャンピオンが、時の流れの中でむかえなければならなかった、静かなる撤退の姿でもあったのだった。
一方、自らの力で500ccクラスに新時代を切り開きつつあったRG編隊は、バリー以外のライダーにも勝利をもたらしていた。第7戦ベルギーGPにジョン・ウィリアムズ、8戦はバリーが制し、9戦フィンランドGPではトム・ヘロン、そして10戦、ジョン・ニューボルトと、RGはすでにその性能を多くのライダーの手によっていかんなく発揮しはじめていた。
だが、500cc最終戦の西ドイツGP。アゴスチーニは雨のこのレースにMVアグスタで一矢を報い、チャンピオンとしての最後の健闘を見せる。しかしこの1勝は、グランプリレースにおける彼の、最後の1勝でもあったのである。
この76年シーズン、500ccのランキング表はRGライダーで塗りつぶされていた。1位バリー・シーン、2位テピ・ランシポリ、3位パット・ヘネン、4位マルコ・ルキネリ、5位ジョン・ニューボルト、6位フィリップ・クーロンと、上位のライダーはすべてがRGに乗っていたのである。
そして翌77年、MVアグスタ・チームはその長きにわたるグランプリ活動から、完全に撤退していくのである。もうどんな方法によろうとも、RG500の牙城をくずすことは不可能になっていたのである。
一方バリーは絶好調だった。500cc全11レース中6レースに優勝するという強さで、2年連続のチャンピオンの座に輝いている。またRGは、その11戦中9戦に勝利を得るという庄倒的な強さを見せ、2年連続のメーカー・タイトルをスズキにもたらしている。
そして注目されるのは、S・ベイカー、J・チエコット、G・アゴスチーニのヤマハワークスを除いて、ランキング表のすべてがRGのものになっていたことだ。市販マシンは、このクラスのすみずみのライダーにまで行きわたっていた。
5年連続メーカー・タイトル獲得(〜1980)
76年、77年とはぼ無敵を誇ったバリーは、1978年シーズン、彼のライダー生活の中で最大のライバルとなるひとりのアメリカ人とめぐり合うのである。
ケニー・ロバーツ。バリーが重傷を負ったデイトナで、ポールポジションを獲得していたアメリカのチャンピオンである。ヤマハは、チャンピオン奪取の期待をこのケニーにたくし、全力を投入して78年シーズンに.いどんできた。
そしてシーズンは、このバリーとケニーの激しいトップ争いに終始したのである。だがケニーは強かった。アメリカのダート・トラック・レースできたえた豪快なライディングは、たちまちヨーロッパのサーキットを席巻し、バリーと互角以上の戦いを演じたのである。
結局、この年個人タイトルはケニーのものとなり、バリーは惜しくも2位。しかしチーム力に厚みを持つスズキは、3年連続でメーカー・タイトルを獲得するのであった。
翌1979年、この年ケニーの最大のライバルとなったのは、若きイタリアン・ライダー、バージニオ・フエラーリだった。だが、ケニーの速さをくいとめることは、このフエラーリ、バリーにしても難しいことであった。シーズン前半、圧倒的な強さを見せてポイントを荒かせぎし、後半不調となるケニーのパターンはこの年もつづいたのである。
そして1980年、スズキのエースはケニーの後輩にあたるヤング・アメリカン、ランデイー・マモラだったが、これまたケニーの前に個人タイトルを取り返すことはできなかったのである。しかし、78年、79年、80年と、RG500はウィル・ハートツク、バージニオ・フエラーリ、ランデイー・マモラといったトップライダーを次々と生み出し、1976年以来5年連続でメーカー・タイトルを守り抜いているのである。
それは、ヤマハのケニーひとりにたよったタイトルのためのレース参加ではなく、多くのライダーによるチーム活動が生んだ大きな成果であるに違いない。
また、グランプリの最高峰であるこの500ccクラスを走るライダーのほとんどが市販RG500に乗るということも、RGの基本的な信頼感をあらわしていると言えるだろう。
RG500、その進化の姿(〜1981)
1974年、RG500がサーキットに姿をあらわした時、ある人は往年の250ccレーサーRZ63を思い起こし、またある人は新時代に向かうまったく新しいメカニズムの流れを感じたに違いない。
そしてRGは、デビュー以来常に変化を受け、へたをすると1戦ごとにさえ各部が改良されて現在に至っているのである。その第一歩は“足まわりで加速”を考えた、サスペンション性能の進歩であった。デビューの年ほぼ直立した状態で取り付けられていたリヤ・ショックユニットは、次の年、下端をリヤ・アクスルシャフトよりも後ろに置くという前傾取り付けとなり、76年には全体に前方に支持される形となっている。このリヤ・ショックの変化は、高度化するマシンの性能を効率的に引き出す、あるひとつの要求によるものであった。それは、後輪が常に良好なトラクションを得るため、ホイールの動きはじめにはソフトに、ぐつと沈み込んだ時にはしっかりとした腰のある、プログレッシブなサス特性だったのである。そのため、リヤ・ショックユニットはその取り付け角度をいろいろに変化させ、種々のトライがなされてきたわけだ。
また、エンジンにも変化が見られる。吸入効率やタイミングのうえで有利なロータリー・バルブを採用したスクェア4のエンジンは、左右幅では並列4気筒に比べ有利となるが、エンジンの前後長では、クランクを前後方向に2本並べるため多少大柄となる弱点がある。RGは、これを後ろ側の2気筒のクランクを前側2気筒の上方に持ち上げ、いわば2階建てのシリンダー配置とすることで克服した。この新型エンジンが、78年から採用となったワークスマシンRGA500のそれである。
次に、79年型RGBから採用されたアンチ・ノーズ・ダイブ・フォークがある。 このANDFは、ブレーキング時のブレーキオイルの圧力によって、フロント・フォークのダンバーを変化させ、すなわちブレーキ状態でフロントが沈み込むノーズ・ダイブをおさえるというものである。
また80年には、サスペンションのプログレッシブ化をより具体的にする、フルフローター・サスが採用されている。 これは、リヤ・ホイール、スイングアームの動きを、リンクを介してショックユニットに伝え、ホイールが一定に作動しても、ショックユニットヘの荷重が2次関数曲線的な増加をみせるようにしたもので、結果的にサスペンションとしての反応は、動きはじめ・・ビギニングをソフトに、最大ストローク付近・・バンピングでは強い反発力を示すものとなっている。
そして今シーズン、それら多くの独自なメカニズムの集大成とも言える“RGΓ500”のデビューとなるのである。
エンジンは2階建てのコンパクト化されたものを、さらに上下、前後方向、また左右幅でも小型化し、そのエンジンをかかえるフレームも小型化、低重心化がなされている。勿論ANDFやフルフローター・サスが装備され、より戦闘カを増したのは言うまでもない。そしてフロントには、左右の切りかえしの軽さ、いわゆるチェンジダイレクションを向上させる16インチホイールを採用している。
このように、RGはそのレース活動の中で、常に何かを追い求め、そして何かを必ず生み出してきた。それが、この変化の激しい現在のレース界において、5年連続やメーカー・タイトルを守りつづけている大きな理由であるに違いない。だが、それもマシンの基本設計という根本的な部分で、RGが優れたものを持っていたという事実を見のがすことはできない。
昨年カワサキがKR500をデビューさせた時も、そしてヤマハの最新マシンOW54、イタリアのモルビデリと次々登場するマシンが、ことごとくスクェア4ロータリー・バルブを採用していることからも、RGの先見性をうかがうことができる。メカニズムに“ベスト”はあり得ないが、それにもっとも近いメカニズムは必ず存在するはずである。
挑戦、そして栄光の果てに
1960年のマン島初挑戦以来、スズキはとぎれることなく、そしてあらゆるカテゴリーのレースにチャレンジをつづけてきた。それは、ロードGP50ccクラスの5つのタイトル、125ccクラスの3つのタイトル、そしてモトクロスGP125ccクラス6年連続制覇、250cc4回、500cc4回のメーカー・タイトル、また、76年から連続5年のロードGP500ccクラスのメーカー・タイトルという具体的な形となって残されてきた。また、60年以来21年間にもおよぶ幾多の世界GPにおいて、実に27個のメーカー・タイトルを獲得し、ノンタイトルは、わずかに6年という事実も、スズキのたゆまない挑戦と、そしてそこに得た勝利の数を表現していると言えるだろう。
1981年、スズキは燃えている。モトクロスGP3クラスヘのチャレンジ、そして勿論ロードGP500ccクラス、また世界選手権となった耐久ロードレース、またGPなみの規模と人気を持つアメリカ国内のモトクロス、スーパーパイクレース等、すべての出場するレースに勝利をつかみとる構えを見せている。しかし、スズキのレースに出場する意味とは、単に“勝つ”ということではなく、その勝利を得るために必要な、本質的な技術を練磨することであり、そしてその蓄積積であるに他ならない。現在までの、幾多のレース活動において、多くの勝利から、そして敗北の中から、スズキは多くの事を学んだ。そうした、自らの向上を求めるための、たゆまない努力は、すでに勝ち負けといったレベルを大きく越え、真に優れたものを追い求める、人間の根源的な欲求とさえ表現できるものではないだろうか。そしてその努力こそ、“実績”というゆるぎない形となって実を結び、我々の手にする1台1台のモーターサイクルに反映されてくるのでもある。
今年、スズキはこれまで獲得した27回のメーカー・タイトルに、よりいっそうの栄光を加えるため、今まで以上に充実した布陣と態勢で、世界各国のサーキットにおもむいていくだろう。それは、ライバルたちへの挑戦であると同時に、スズキ自身に対する終わることのない永遠のチャレンジであるに違いない。
1985年7月に中日新聞掲載の「鈴木自工物語」より
2サイクルで勝つ
二輪第二設計部の神谷安則は、一本のネクタイを大切にしている。色はは紺、人の足をかたどつたマークが織り込んである。一、二度着用したが、それ以来自宅の洋服ダンスに保存してある。
マン島唯一の記念
神谷は、スズキが1960年、初めてイギリス・マン島レースに出場した時、整備員としてチームに加わった。ネクタイは、その時滞在したファンレイ・ホテルの主人テアーさんが「また来年も来なさい」と、プレゼントしてくれたもの。マークはマン鳥のシンボルマークだった。マン島はスズキが世界に向けて挑戦していった原点。神谷にとってネク
タイはその時の唯一の記念の品である。
チームは、神谷のほか監督の岡野武治や清水正尚(チーフ)・中野広之(設計担当)・ライダーの伊藤光夫・市野三千雄・松本聡男ら6人。初めての出場で右も左もわからないスズキチームはテアーさんから「1年目はコースを勉強せよ。2年目はそれを織り込んで復習。3年目こそ勝たなきゃいかん」とアドバイスを受け、それ見事に実現した。
スズキは1959年の第3回浅間火山レースで惨敗、いったんはレース活動からの撤退を決めた。ところがその年の暮れ、浜松から列車に乗った鈴木俊社長は、偶然一緒になった本田技研社長の本田宗一郎社長から「おたくのレーサーはえらくよく走る。マン島レースに出したらどうか」と持ちかけられ、急遽翌年の出場を決めた。日本のメーカーとしては、ホンダに次いで2番日の出場だった。
初めの2年間は思わしくない結果に終わった。しかし1962年、外人ライダー・デグナーを使って50ccクラスで初優勝を飾った。マン島で2サイクル車が優勝したのはなんと24年ぶりのことだった。「マン島で2サイクルは勝てない」というジンクスを、あっさり破った。以来、スズキの2サイクルの自信はゆるぎないものになる。
翌1963年には、社員レーサー伊藤光夫の優勝。日本人でただ一人、マン島での栄冠を勝ち取り、日章旗をマン島の空高くあげた。それを契機にスズキは、世界各地のレースに参加、技術レベルの高さを世界に示している。
強くなった日本車
スズキ製品の販売店永楽モータース社長の永田選は1984年6月、17年ぶりにマン島を訪れた。伊藤光夫が優勝した1963年に整備員の一人としてマン島の土を踏んだころの感動をもう一度味わってみたかったからだ。
経営者は代わっていたがファンレイホテルはそのまま残っていた。朝までレース車の整備をしたことがある整備小屋も残っていた。相変わらずレースが行われていた。当時、トライアンフやノートンといった外国製二輪車が目立ったが、今はどこを見てもスズキ、ホンダ、ヤマハばかり。新たな感動だった。永田は1968年7月、スズキの販売店をつくってスズキをやめたが「レースの思い出は人生の貴重な宝」と思っている。
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1981年 講談社発行の「われらがスズキ・モ−タ−サイクル」から引用したものです。
若干の削除・修正がしてあります。
「われらがスズキ・モ−タ−サイクル」(その2)