信じがたい!

 平均時速75 m.p.hプラス 50cc T.T
 Degnerの初めてのマン島勝利


 すごい、信じられない、・・・考えうる最上級の賛辞の2倍にせよ。それでも逸脱することはない;先週金曜日の50cc車の性能は,まったく驚くべきものだった。Ernst Degnerが小さいスズキに乗って不可能と思われる平均時速 75.12m.p.hで彼の最初のT.T.勝利を得ると想像しましたか? それでも彼は成し遂げた。 そしてもうひとつの驚くべき事は・・・33台の出走車のうちリタイヤーはたったの6台だったことである。
 初めての50ccT.T.で最初にスタートするDegnerのスズキが、彼がタンクに、体をぴったりくっ付けて、回転を12,000まで上げた時ほど人々が騒がしかった事はない。他の歴史的な事としては、出走ラインナップに、T.Tシリーズ最初の女性ライダー、Beryl Swain (Itom)が含まれていたことである。Dan Shorey (Kreidler)のように何人かのライダーは足で漕いでスタートした。他のライダーは伝統的な押し掛けをおこなった。しかしKreidler車が12速を使って回転を上げ、HondaやSuzukiより確実に勝った加速で驚いて声も出ない観衆を後にした。
 最初の不運はQuarter Bridgeで起こり、頑固な改造車屋のBert Fruinはエンジントラブルでリタイヤー。残念なことに、Bertの仕上げの美しい小さいDartelaは、唯一の英国製6速車であった。
 しかしながら、Sulby Bridgeの計測では、Degnerが市野三千雄(Suzuki)を15秒リードしていた。 市野から5秒遅れて、Tommy RobbとLuigi Taveriが並んで3位であった。2〜3秒遅れて次に来たのは、Georg Anscheidt (Kreidler)で・・・しかしKreidlerの最も期待されるDan Shoreyはギヤーチェンジの扱いが明らかにより未熟で、ずっと遅れていた。
 マウンテンコースでの練習の不足は、思ったほどAnscheidtの妨げにならなかったようだ。Kppel Gateでは両者間のスタート間隔10秒を詰めたRobbの後塵をはいしていた。彼らがスタート地点を通過した時は両者の差は殆ど無かった・・・しかし既にDegnerは稲妻のように通り過ぎていた。
 素晴らしい。Degnerのスタンディングスタートのラップタイムは、30m 17.8s で平均時速 74.72 m.p.h であった。そしてこのタイムは、1951年にCromie McCandlessがオーバーヘッドカムシャフト F. B. Mondialでの125優勝タイムよりコンマ数秒遅いだけであった。
 DegnerはTaveriを15.2sリードして安全圏にいたが、Taveriと3位のRobbとの差は0.4sであった。 プラクティスのリーダー表に名前が載りもしなかったAnscheidtが、Robbに11.8s リードされ、市野を5.4sリードして、4位であった。6位は伊藤光夫で、チームメイト市野の16s後であった。
 もちろん、これはマン島が経験した最も興味深い技術的な成果であった。そして女性の魅力はどうであったか? 私たちのBerylのファーストラップは、46m 57.4s - 48.21 m.p.h.で、最も遅いタイムではなかった。
 第2ラップのSulbyで観衆がすごく興奮したのは、TaveriとRobbそしてAnscheidtが、殆ど肘を擦らせて、橋の鋭い右カーブを回った時だった。そしてこの状態はマウンテンを横切って、ずっとRamseyまで続いた。AnscheidtはHondaの両ライダーにくっ付いていただけでなく、時々追い越した。最初のラップではRobbの後についてコーナーを回り、正しいレーンを取ることが出来たが、この時は実際に溝にはまった。
 しかしDegnerのレースであった。 この小男のドイツ人は、またもやツーストロークの名人である事を証明した。熱狂的な声援のうちに彼はチェッカーフラグを受けた。トリオは互いの肘が触れ合う状態で、彼のあとでフィニッシュした。しかしスピードが驚異である。Ernstは30分の壁を破った。正確には 29m58.6s であった。そしてこれは 75.52 m.p.h. を意味する。実際、TaveriとAnscheidtの二人のラストラップは75m.p.hを超え、Luigiは75.40で、Georgは75.03であった。
 第2ラップでリーダー達の順位が変わったのは、市野が6位に落ちて、スズキのチームメイト伊藤の後ろになっただけである。12台のワークスマシーンはトラブル無く、すべてフィニッシュした。ちなみにリタイヤーしたのは全部で6台であった。この事実をあなたはどう判断しますか?
[1962年6月14日発行の「Motor Cycle」誌のTTレース 50cc の記事]
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 続いての、第4戦のオランダGP、第5戦のベルギ−GP、第6戦の西ドイツGPとDegnerが破竹の4連勝。第7戦の東ドイツGPは、アルスタ−GP125ccで転倒負傷したDegnerは欠場(そうでなくても東ドイツには入国不可)、KreidlerのHubertが優勝。このレ−スにAndersonが初めて50ccに乗り、2位の伊藤光夫に続き、Taveri・Robbをおさえて3位入賞。当時、このAndersonが1963・1964年の50ccタイトルを獲得するなんて考えもしなかった。第8戦のイタリアGPもDegnerは欠場。KreidlerのAnscheidtが優勝、伊藤光夫が1.1秒の僅差で惜しくも2位。3位Hubert。Anderson・森下が4・5位。6位にTaveri。第9戦のフィンランドGPは雨のレ−スで、Taveri・Robb・田中のホンダが1・2・5位でホンダが初優勝、3位Anscheidt(Kreidler)、4・6位にDegner・Anderson。これにより、メ−カ−・個人両タイトルとも最終の第10戦のアルゼンチンGPにもちこされた。結果はAnderson・Degnerが1・2位、3位にAnscheidtとなり、初めて世界選手権に加わった50ccのタイトルは、メ−カ−がスズキ、個人はDegnerに決定した。
アルゼンチンGP
優勝のAnderson
西ドイツGP優勝のDegner
ベルギ−GP優勝のDegner
オランダGP優勝のDegner
[以下は現地新聞の抜粋である]

・スズキ、ホンダ、クライドラ−の各4台の工場レ−サ−が1台も脱落せずに12位迄を占めたことは、  TTレ−ス 史上前例のないことである。又、出走33台のうち、棄権が8台という高い完走率も珍しいレ−スだった。
・初のTT50ccレ−スは、こうして「信ずべからざる」「嘘のような」「驚くべき」スピ−ドで終了した。
・2ストロ−クエンジンで、TTレ−スに優勝したのは戦前の 1938年ドイツの DKW250ccであった。 2ストロ−ク エンジンは、厳しい マウンティンコ−スでは勝てない ということが、いつのまにかジンク スのようになっていた。ス ズキがこのジンクスを破ったのである。しかも「まったく信ずべからざる」タ イムで優勝したのである。
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2周目 Lap time &レ−ス成績
順位 Name Machine 2周目のLap Time Race Time
1 Degner Suzuki 29.58.6 (最高Lap) 60.16.4
2 Taveri Honda 30.01.4 60.34.4
3 Robb Honda 30.14.2 60.47.6
4 Anscheidt Kreidler 30.10.2 60.55.4
5 伊藤光夫 Suzuki 30.53.8 62.00.4
6 市野三千雄 Suzuki 31.10.8 62.01.4
7 Hubert Kreidler . 62.15.6
8 鈴木誠一 Suzuki . 62.31.8
9 Minter Honda . 64.06.0
10 島崎貞夫 Honda . 64.15.2
11 Shorey Kreidler . 64.49.0
12 Gedlich Kreidler . 70.50.0
1周目の順位と Lap time
順位  Name Machine 分 秒
1 Degner Suzuki 30.17.8
2 Taveri Honda 30.33.0
3 Robb Honda 30.33.4
4 Anscheidt Kreidler 30.45.2
5 市野三千雄 Suzuki 30.50.6
6 伊藤光夫 Suzuki 31.06.6
7 Gedlich Kreidler .
8 Hubert Kreidler .
9 鈴木誠一 Suzuki .
10 島崎貞夫 Honda .
11 Minter Honda .
12 Shorey Kreidler .
公式練習総合順位
順位 ゼッケンNO   Name  Machine 分 秒
1 2 Degner   Suzuki  30.42.6
2 10 Taveri    Honda  31.20.2
3 12 伊藤光夫  Suzuki  31.35.2
4 4 市野三千雄 Suzuki  31.54.8
5 7 高橋国光  Honda  32.13.6
6 8 Robb    Honda  32.33.0
7 5 島崎貞夫  Honda  32.45.0
8 3 Minter   Honda  32.52.0
9 22 鈴木誠一  Suzuki  33.16.8
10 11 Shorey   Kreidler 33.43.8
11 6 Anscheidt  Kreidler 33.49.4
12 9 Gedlich   Kreidler 33.51.0
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左から、筆者・鈴木誠一・市野三千雄・松宮・岡野監督・
Degner・修部長・伊藤光夫・石川・袴田・伊藤利一・神谷
 こうして、スズキは世界選手権レ−ス挑戦3年目にして、しかも、初のマン島TT50ccレ−スで初優勝を飾ることが出来た。その夜は、レ−ス観戦に来ていた現鈴木修社長(当時生産技術部付の部長)とともに、チ−ム全員で初めてVilla Marinaでの表彰式に参列した。
 この年、修部長(現社長)は篠田昭一宣伝課長とお二人でヨ−ロッパの視察に見えており、各レ−スの公式練習が始まる頃になると、レ−ス開催地に来られ、夜遅く迄 マシンの整備をしている我々を励まされ、中華料理店でチャ−ハンをバケツにいっぱい買ってきて、差し入れしてくれたりもした。また、パリ−のホテルで、私の部屋が修部長の部屋の隣りだったことがあった。大きな声で「中野く−ん」と呼ぶので行ってみると、バスに入っており、「背中を洗ってくれや」とのこと。こんなことが印象に残っている。
表彰式
Robb・Degner・Taveri
4位のKreidlerのAnscheidt
優勝のDegner
 2周目のSulbyも修正タイムで、Degner・Taveri・Robb・・・・の順位で通過(詳細デ−タ−は紛失して不明)。松宮氏が電話でSulby通過の状況をピットの岡野武治監督(次長)に伝え、電話を切らず、Degnerのゴ−ルを待つ。十数分後「Degner無事ゴ−ル」の連絡。Degnerがゴ−ル後、Anscheidtが20秒以内・Robbが30秒以内・Taveriが40秒以内にゴ−ルしなければ、Degnerの優勝だ。40秒たっても誰もゴ−ルしない、約1分後(正確には58秒後)Taveri・Anscheidt・Robbが僅差でゴ−ル。『Degnerの優勝だ』。松宮氏が、涙をポロポロ流しながら、小生と神谷さんに握手。小生達も、もらい泣き?で涙が出た。思い起こしてみても、成人後、泣いたことなど記憶になかったし、その後の人生にもない。考えてみれば、仕事で、うれし涙を流せたなんて、幸せなことだと思う。
 Sulby Straightにいる我々は電話でスタ−ト状況を聞いていた。Degnerを始め全車が無事スタ−トしたのでホッとする。Degnerスタ−トから10分余が過ぎ、遠くから排気音が聞こえ始めた。ホンダの4サイクルの排気音だ。遠くに1台のマシンが見え始める。ホンダか?。2サイクルの排気音はまだ聞こえない。近づいてきた、車番2のDegnerだ。やっと2サイクルの排気音が耳に入る。この時のホッとしたこと、今も忘れない。工場レ−サ−が全て通過し、急いでスタ−ト時差を修正する。修正順位は1位Degner、15秒遅れて市野三千雄、さらに5秒遅れてTaveriとRobb、続いてAnscheidt、伊藤光夫、Gedlich、Hubert、鈴木誠一、Minter、島崎貞夫、Shoreyだ。出発点のピットに知らせる。市野三千雄はゴ−グルの調子悪く、このあと残念ながら遅れてしまった。
・Degnerと2位Taveriとの差は15.2秒
・Anscheidtはレ−スとなると、やはり速い
・市野三千雄はSulbyでは2位だったが、5位に後退
 いよいよ6月8日、50ccのレ−スだ。中野広之、神谷安則、ロンドン駐在の松宮昭の3名は、一周約60qのマウンティンコ−スのほぼ中間点のSulby Straightに向かう。ここは、スタ−ト地点にあるピットと電話が繋がっており、情報を交換し、ドライバ−にサイン送るのだ。しかし、2周の50ccレ−スでは、ドライバ−は、半周まわってのSulbyの情報を1周まわってピットのサインで受け、次には、1ラップ終了時の情報を1周半まわったSulbyでサインを受けるという、たった2回のサインなのだ。
 午前11時スタ−ト開始。マウンティンコ−スでのスタ−ト方式は、同時スタ−トではなく、また公式練習タイムには無関係で、あらかじめ決められている「ゼッケン番号」順に2台づつが10秒間隔でスタ−トするのである。11時丁度Degnerがスタ−ト。10秒後Minter、市野三千雄。20秒後 島崎貞夫、Anscheidt。30秒後Robb(高橋国光は一昨日の事故で入院し出場しない)。40秒後Gedlich、Taveri。50秒後Shorey、伊藤光夫。大分間隔をおいて、1分40秒後 鈴木誠一。1分50秒後Hubert(Kreidler)がスタ−ト。(工場レ−サ−以外は省略、尚エントリ−は58台、出走台数は33台だった)
RM62
 意気消沈して、第3戦TTレ−スのためマン島へ。リバプ−ルからマン島ダグラスまでは、フェリ−で4時間半かかるが、強い風と高い波で大きく船が揺れ、ひどい船酔いに悩まされた。Hocking(MV)やHubert(Kreidler)も同じ船だった。
 5月23日、ロンドン駐在の松宮氏から電話が入る。「RM62の性能アップエンジン1台と改良部品2台分が、25日ロンドンに到着する」と日本より電報が入ったとのことだ。25日には、留守部隊長の清水課長より、「性能アップについての詳細」が書かれた手紙が、マン島に着く。26日より公式練習が始まる。28日、待望の「性能アップエンジン1台と改良部品」がマン島に到着し入手できた。性能アップ部品は、シリンダ−とエギゾウストだ。29日から性能アップされた諸元で公式練習にのぞむ。そして6月2日で公式練習は終了。公式練習タイムの総合順位は下表の通りで、トラブルさえなければ優勝の可能性は十分あると期待をもつ。日本の留守部隊よ!!「ご苦労さん、有り難う」。でもTaveri、Anscheidtは不気味な存在だ。スペイン・フランスGPに出ていたDerbi、Tomosはエントリ−してあったが、公式練習に出ず不参加である。
フランスGPでの左より
松宮・市野・Degner・
右端はAnscheidt
スペインGPでの
Degnerと伊藤利一
第1戦はバロセロナのスペインGP。優勝はAnscheidt(Kreidler)、2位Busquets(Derbi)、3位Taveri(Honda)・・・7位が市野三千雄(Suzuki)。第2戦はクレルモンフェランのフランスGP。Anscheidtは1周目リタイア、優勝はHubert(Kreidler)、2・3・4位がHondaトリオ、5・6・7位がSuzuki。そんな大きな性能差はないが、Kreidler・Derbi・Hondaに勝てなかった。125・250ccもトラブルだらけで、フランスGP125ccでDegnerが5位で完走したのみだった。
ノ−トに残っているRM62のエンジン・ミッション計画図
   
Degner契約:左よりDegner・
石川・岡野・鈴木俊三社長
 なお、外人ライダ−としては、昨年のスエ−デンGP後、東独から亡命したDegner、そしてAnderson、Perris、日本人ライダ−としては、伊藤光夫・市野三千雄・鈴木誠一(城北ライダ−ズ)・森下 勲の布陣で挑戦することになった。
 1961年には、初めてFIM(国際オ−トバイ競技連盟)公認の50cc級の国際レ−ス「ヨ−ロッパ杯レ−ス」が開催され、スペイン・西ドイツ・フランス・ベルギ−・オランダ等で、9回のレ−スが行われた。チャンピオンには、クライドラ−に乗るアンシャイトに輝いた。1961年10月28日、パリにおけるFIMの秋季総会が終わったが、この「ヨ−ロッパ杯レ−ス」が格上げされ、50ccレ−スが翌1962年より世界選手権レ−スに加わることが議決された。
 ヨ−ロッパにおける50ccレ−スマシンとしては、Kreidler(西ドイツ)・Tomos(ユ−ゴ)・Derbi(スペイン)・Motom・Itom・Benelliのイタリア車などが活躍していた。
 日本においては、1960年9月の第3回クラブマンレ−ス(宇都宮)や1961年7月の第4回クラブマンレ−ス(埼玉ジョンソン基地)などで、ト−ハツ ランペットが無敵を誇っていた。
 このランペットを打ち負かそうと、新エンジンの企画を始めたのは、1961年の世界選手権レ−ス参加車RT61,RV62の試作車の設計が完了した1960年11月初旬である。機種名は「RM」、単気筒(41φ×38)・ロ−タリ−バルブ・5段ミッションで、性能目標を7PS/10000rpmにおいた。しかし、5.5PS位の性能しか得られず、目標の性能を確保出来たのは、やっと1961年9月末だった。
 当時、愛知県津島市はオ−トバイレ−スが盛んで、丁度10月22日にレ−スが開催されたので、急遽参加を決めた。レ−スは、王者ランペット(玉田、荒井)を退け優勝を飾ることができた。開発に苦労したため、この時の喜びは大変だった。
 この「RMエンジン」が、1962年の50cc世界選手権レ−ス出場車「RM62」のベ−スとなったことは言うまでもない。この「RM」の開発がなかったら、また ランペットを打ち負かすという目標がなかったら、1962年TTレ−ス50cc優勝という快挙は、多分なかったと思う。
 さて、1962年世界選手権レ−スへは、50・125・250ccの3クラスの参加が決まっていたが、125・250ccの開発が優先され、50ccの「RM62」の設計が終わり、出図したのは、1962年1月8日であり、エンジン1号機が完成したのが3月27日だった。ベンチテスト・米津浜テストコ−スでのテストと多忙な日々を送り、4月19日に125・250ccマシンとともにヨ−ロッパに発送した。なお、昨秋以後の出力アップ実験により、8PSを得ていた。そして、我々選手団は4月25日羽田を出発し、本拠地を置くこととした パリ に向かった。
[50ccTTレ−ス初優勝、メ−カ−・個人タイトル獲得]