

スズキがホンダを倒す
水曜日の朝、早起きの人たちを小雨と霧が迎えた。
エンジンのウオームアップが実施されたが、ライダー達がスタート位置に向かおうとした時、土壇場で"スタート30分延期"の爆弾宣言があった。
その後、12.30p.m.までもう一度延期された。しかし、12.30が過ぎた。ライダー達はやきもきし、オフィシャルは協議し、やっと突然に"スタート4分前"のサインが出た。
12.52に最初のライダーTommy Robbが押しがけで出て行った。緊迫感が消滅した。
驚いたことに、スタートラインでの長時間の待機の後、49出走者はトラブルも無くスタートした。唯一の例外は、オーストラリア人のJack Ahearn(Ducati)で、ピットでの調整のためコースを押して戻った・・彼は旗が振られる前に燃料コックを回すのを全く忘れていた!
コールドエンジンでのスタートはトラブルの原因となり、Mike DuffのBultacoの回転計はBallacraineに至る前に回らなくなり、また高橋国光(Honda)はKirkmichaelに向かう途中で遅れだした。
Sulbyまで、スズキに乗るHugh Andersonはコース上、及びレースをリードした。彼はチームメイトFrank Perrisを15sリードしていた。AndersonとPerrisの両者は、充分Hondaの脅威外に位置していた。
山での恐ろしい霧は、ひどく視界の妨げとなり、AndersonはBlack Hutで土手に当たりそうになり、他の数箇所でも道路縁への乗り上げをかろうじて回避した。
しかし遅れることなく、Keppel Gateまで自身のペースを守った。霧の山から4人のライダーが数珠繋ぎそのもので影のように疾走していた・・Hondaのライダー達、Jim Redmann、Luigi Taveri及びTommy Robbは後ろにくっ付いたスズキのDegnerと接戦中であった。
Degnerはこの時、Andersonに15s遅れて修正した時間では2位であった。
ものすごい4人組はスタート地点通過時依然としてくっ付いていた。しかしコース上ではAndersonに40s遅れていた。段々に遅れていた高橋は、下を指さしながらピット地点を通過した。
Keppelでの順位は正しかった。この周の終わりでのAndersonのDegnerに対するリードは、公式タイムで18sに拡がったが、DegnerのPerrisに対するリードは、たった3.8sで安全圏にはほど遠かった。そして、もしこれを接戦だと考えるなら、PerrisとLuigi Taveri(Honda)の差1.2sを何と表現するか? RedmanはTaveriの後方10.2s そしてスタンダード生産モデルのRobbはRedmanの後ろ22.8sで6位に居た。
Honda車は調子よく走っていたが、最高速で約10m.p.h.スズキ車に劣っていた。
焼け付くような熱戦
猛烈な第2ラップの走りで、AndersonはLuigi Taveriの1962年の記録を破り、その過程でDegnerに対するリードを安全な50sに拡げた。これら2人の後ろの順位は、Bert Schneider(Suzuki)が6位のRobbを抜いた以外は、変わらなかった。
既に乾燥路面となり、Andersonは24m 47.4s, 91.32m.p.h.で回り、1962年の記録を約1.2m.p.h.上回った。
1周目のもやと部分的に濡れた路面のため、この才能ある若いニュージーランド人はレースレコードを記録することが出来なかったが、事態を複雑にしたのは、彼が低いギヤーを使い過ぎた事と、ジェットが大き過ぎた事で、このため約500r.p.m.回転が落ちてきた。
山路沿いでは、批評家達が目玉をぎょろつかせてストップウォッチを眺めていた。 Perrisはもっとリードを拡げ得たがどうか?非公式な記録では、彼はDegnerを5sリードし、2位であった。Taveriが前方にちらりと見え、Taveriに追いこうと心に決めた。そうして実際それを成し遂げ、並んでフィニッシュラインを通過した。
Degnerは、2台のホンダが修正タイムではずっと後方であることが分かっていたので、フィニッシュを確実にするため、ペースを落とした。しかし彼が分かっていなかったのは、チームメイトPerrisがTaveriに追いつくため拍車を掛けていた事であった! これがPerrisが第2位を掴みえた事情である。
そしてHondaを徹底的に打ち負かしたのは、Schneiderが最終ラップでRedmanを5位から引き摺り下ろした事である。
Degner救急車へ
Perrisはレ−スを止めて
救出を手伝う
RZ63U
世界選手権レ−スの250ccには、1961年はRV61で、1962年はRV62で出場したが、いずれもトラブルばかりであった。1963年も出場を計画し、2月2日には、RV63を出図し製作手配を終えた。RV61・RV62・RV63ともに「空冷・2気筒・ロ−タリ−バルブ」であった。RV63の製作手配後の2月12日、RT63をベ−スとした「水冷・スクエア−タイプの4気筒」のRZ63を新設計することが決まり、3月8日には出図し、これにより、RV63の製作は中止した。そして4月25日には1号機の組立が完成、29日にはベンチテストが開始された。しかし、初めての4気筒だけに多くの問題が発生した。マグネトの飛火性能の問題、ケ−ス・ミッションオイル温度上昇、ミッションブリ−ザ−吹き出し、ミッションギアトラブル等・・・。当初の計画は、第3戦のフランスGPからの出場を目指していたが諦めることとなった。多くの問題点の対策の目途が何とか立って、改良型のRZ63Uを出図できたのは、7月中旬、そしてベンチテストが開始出来たのは9月25日だった。10月1日にはPerris・Schneiderが来日、鈴鹿で3回のテストを重ね、日本GPに初登場することになった。2回目のテストでは、Perris・Schneiderともに転倒し、Schneiderは怪我のため、日本GPに欠場となった。公式練習タイムはRedmanが2分31.9秒、Readが2分32.9秒に対し、Andersonが2分35.1秒。出力ではホンダ・ヤマハに劣っているとは思わないが、重量・ホイ−ルベ−スが長いことなどからの操縦性の悪さで、マシン性能としては大分劣るようだった。レ−スは、スタ−トしてすぐの、第
3コ−ナ−(S字手前の右コーナー)出口でDegnerが転倒、一時失神していた彼は顔に大火傷を負ってしまった。後ろからスタ−トのPerrisはDegnerの救出を助けリタイア。レ−スはRedman・伊藤史郎・Readの息詰まる大接戦が最後まで続き、伊藤史郎は0.1秒差でRedmanに優勝を奪われた。Anderson・長谷川弘・Provini(モリ−ニ)はセカンドグル−プで4位争いをしていたが、最終ラップ長谷川の転倒に巻き込まれAndersonもリタイアし、初登場のRZ63Uは全車リタイアということになった。
(3−1)250cc:日本GP初登場のスクエア・フォ−でDegner転倒し大やけど
Degner転倒し炎上
以上のように、比較的楽々とタイトルを獲得したような感があったが、コンロッド大端部の焼き付きが多発しており(材質はア−ムスブロンズ)、TOPを走っていても、我々レ−ス担当者は、いつトラブルが起きるかわからず、ゴ−ルするまで冷や汗のかきっぱなしだった。第1戦のスペインGPから、第9戦のフィンランドGPまでに、延34台が出走し、リタイアした車が13台、このうち何と8台が、コンロッド大端部の焼き付きでリタイアしているのである。第2戦の西ドイツGPから第9戦のフィンランドGPまで破竹の8連勝を飾ったが、西ドイツGPで優勝したDegner車、オランダGPで優勝したAnderson車をレ−ス後、分解してみると、大端ロ−ラ−保持器(リテイナ−)はすでに破損していたような状態だった。このため、1963年後半は、「コンロッド大端部の焼き付き対策」に明け暮れることになった。宇都宮機器鰍祚TNの協力を得て、非常に多くの種類の試作・テストを重ね、保持器の材質にBeCu(ベリリュウム・カッパ−)を採用することで、とても万全とは言えないが、まあまあの成果を得ることができ、最終第12戦の日本GPにはこれを使用した。
初登場のホンダ125
4気筒4バルブマシン
表彰式のPerris
日本GP125の表彰台
Redman・Perris・Degner
日本GP125優勝の
Perris
最終第12戦の日本GP(20周)には、ホンダ125cc4気筒が初登場した。レ−スは5周まで、AndersonとRedmanのTOP争いが続いたが、6周目Andersonのエンジンの調子が落ち、後退する。後はPerrisとRedmanの激しいTOP争いとなり、最後はPerrisが4秒差で優勝を果たした。なおDegnerだけが、6月下旬に試作手配し、開発を進めていた水冷エンジン(RT63A)で出場し3位になったが、まだまだ開発途上のものだった。4位以下はRobb・Anderson・伊藤光夫・砂子義一だった。ヤマハは空冷単気筒で両側にロ−タリ−バルブを配したマシンで、砂子・本橋明泰・長谷川弘・大石秀夫が出場したが砂子が7位となっただけだった。なおト−ハツ(43φ×43・空冷2気筒・ピストンバルブ)で、本田和夫・Simmonds・安良岡健が出場した。
フィンランドGP
125優勝の
Anderson
アルスタ−GP
125優勝の
Anderson
ベルギ−GP125
優勝のSchneider
オランダGP125優勝
のAnderson夫妻
第5戦のオランダGPは、Anderson・Perris・Schneiderが1−2−4位、Taveri・高橋国光・Robbが3−5−6位だった。
第6戦のベルギ−GPは、Degnerが前半独走だったがコンロッド大端焼付、結果はSchneider初優勝、2位がAnderson、Taveri・高橋国光が3−5位、4位はBultacoのVisentiだった。
第7戦のアルスタ−GPは、Anderson・Schneider・Perrisが1−2−6位、Taveri・Robb・高橋国光が3−4−5位だった。
第8戦の東ドイツGPは、Andersonの独走優勝、Schneiderは最終ラップまで2位だったがエンジン不調となり3位、MZのShepherd・Duff・Musiolが2−5−6位、Taveriが4位だった。ここでメ−カ−タイトルは初めてスズキに、個人タイトルもAndersonに決定した。
第9戦のフィンランドGP(28周)はAnderson優勝、Perrisは17周までAndersonとTOPを争ったがコンロッド大端焼付、Schneiderも20周目3位だったがトラブルリタイア、Taveri・Redmanが2−5位、MZのShepherd・Szaboが3−4位だった。
第10戦のイタリアGPは、タイトルの決まったスズキは不参加、Taveri・Redman・高橋国光が1−2−3位。
第11戦のアルゼンチンGPもスズキ不参加、Redmanが優勝。
Morini単気筒を駆るProviniとホンダ4気筒のRedmanによる個人&メ−カ−タイトル争いは全10戦のうちの9戦を終わって、有効得点は共に42点で両タイトルとも最終の日本GPに持ち越しとなった。
プラクチスタイムはRedmanの2.31.9に対し、Proviniは2.35.5。レ−スはRedmanとヤマハの伊藤史郎・Readの争いで、Proviniはじわじわと離され4位に終わり、個人タイトルはRedman、メ−カ−タイトルもホンダに決定する。
最後までホンダRedman
とタイトルを争ったMorini
単気筒を駆るProvini
. |
レ−ス名 |
個人得点 |
メ−カ−得点 |
Provini |
Redman |
Morini |
Honda |
1 |
スペイン |
8 |
6 |
8 |
6(Redman) |
2 |
西ドイツ |
8 |
4 |
8 |
6(Robb) |
3 |
TTレース |
― |
8 |
― |
8(Redman) |
4 |
オランダ |
4 |
8 |
4 |
8(Redman) |
5 |
ベルギー |
4 |
0 |
4 |
3(Taveri) |
6 |
アルスター |
6 |
8 |
6 |
8(Redman) |
7 |
東ドイツ |
― |
4 |
― |
4(Redman) |
8 |
イタリア |
8 |
6 |
8 |
6(Redman) |
9 |
アルゼンチン |
8 |
6 |
8 |
6(Redman) |
10 |
日 本 |
3 |
8 |
3 |
8(Redman) |
(3−2)250cc:モリ−ニのProviniとホンダのRedmanのタイトル争い
●1963年は50cc・125ccのメ−カ−・個人の世界選手権を獲得し、我々レ−ス担当者は当然のこと、全スズキグル−プが歓喜にわいた年だった。10月4日には、浜松市体育館で盛大に「世界選手権獲得祝賀会」が行われた。〔10月4日現在には、125ccのメ−カ−・個人(Anderson)のタイトルは決定していたが、50ccは両タイトルともまだ決定しておらず、2日あとの10月6日のアルゼンチンGPでメ−カ−タイトルが、11月10日の日本GPでAndersonの個人タイトルが決定した。〕
尚、250ccはホンダが3年連続、個人タイトルはRedmanが2年連続獲得。350ccもホンダが2年連続、個人タイトルはRedmanが2年連続獲得となった。
1955、1957、1959年の淺間レ−ス、1959年のホンダTTレ−ス初参加、1960年のGPレ−スで活躍し、ホンダスピ−ドクラブの主将として、またホンダレ−シングマシンの開発に大きな功績を上げた鈴木義一さんが事故死した。ホンダスポ−ツ500でリエ−ジェ・ラリ−に出場し、1963年8月28日ユ−ゴのルブリヤ−ド近くで 事故により死亡した。
(4)鈴木義一(ホンダ)の事故死
日本GP250の競り合い:
Redman・Read・伊藤史朗
ベルギ−GP250
優勝の伊藤史朗
TTレ−ス250 2位の
伊藤史朗とRedman夫妻
TTレ−ス250
2位の伊藤史朗
TTレ−ス250cc(6周)でヤマハ伊藤史朗は惜しくも優勝を逸し、2位で、「TTレ−ス日本人初の表彰台」に上がった。6月10日であった。初日のレ−スがサイドカ−と250cc、1日おいて、第2日が125ccと350cc、また1日おいて、第3日が50ccと500ccのレ−スが開催された。50ccで伊藤光夫が優勝するより4日前に伊藤史郎が表彰台に登ったのである。レ−スは、1周は伊藤史
朗・Godfreyのヤマハに続いてRedman、伊藤とRedmanの差は13秒。2周目Godfreyは遅れ、伊藤・Redmanの順で差は1.8秒。3周はRedman・伊藤で差は18.8秒。ここで給油でピットイン、Redmanは30秒、伊藤は55秒でスタ−ト、伊藤はRedmanより25秒のロスだ。4周はRedman・伊藤で差は48.6秒。5周はRedman・伊藤で差は35.4秒と縮まる。最終ラップは更に伊藤が8.2秒差をつめたが及ばず、Redmanが優勝、27.2秒遅れて伊藤が2位だった。ピットイン時のタイムロス25秒が悔やまれた。
続くオランダGP250ccでも、Redmanに次ぐ2位。次のベルギ−GP250ccではGPレ−スで初優勝を飾った(RedmanはオランダGP125ccで転倒し、鎖骨骨折で欠場)。ベルギ−GPでは、50ccの森下勲の優勝に続き、日の丸が2回上がったのだった。
(3−3)伊藤史郎(ヤマハ)の活躍
[1963年6月20日発行の「Motor Cycle」誌のTTレース 125cc の記事]
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車番 |
ライダ−名 |
1周 |
2周 |
3周 |
順位 |
タイム |
順位 |
タイム |
total
time |
順位 |
タイム |
total
time |
4 |
Anderson |
1 |
26.19.2. |
1 |
24.58.4. |
51.17.6. |
1 |
24.47.4. |
76.05.0. |
15 |
Perris |
3 |
26.41.8. |
3 |
25.31.6. |
52.13.4. |
2 |
25.11.6. |
77.25.0. |
9 |
Degner |
2 |
26.38.0. |
2 |
25.29.6. |
52.07.6. |
3 |
25.24.0. |
77.31.6. |
8 |
Taveri |
4 |
26.43.0. |
4 |
25.45.8. |
52.28.8. |
4 |
25.36.2. |
78.05.0. |
10 |
Schneider |
7 |
27.27.2. |
6 |
25.49.2. |
53.16.4. |
5 |
25.26.4. |
78.42.8. |
6 |
Redman |
5 |
26.53.2. |
5 |
25.49.2. |
52.42.4. |
6 |
26.02.2. |
78.44.6. |
2 |
Robb |
6 |
27.16.0. |
7 |
26.23.2. |
53.39.2. |
7 |
26.21.8. |
80.01.0. |
7 |
高橋国光 |
8 |
27.34.8. |
8 |
26.21.2. |
53.56.0. |
8 |
26.10.2. |
80.06.2. |
|
Bryans |
11 |
28.31.6. |
9 |
27.40.8. |
56.12.4. |
9 |
27.47.4. |
83.59.8. |
表彰式の写真は 1ペ−ジ
にあります
TTレ−ス125で1−2−3:
左から重野重雄・神谷安則・Degner・
岡野総監督・Anderson・清水監督・
永田 選・Perris・伊藤勝平?
喜びのAnderson夫妻
TTレ−ス125のDegner(3位)
TTレ−ス125のPerris(2位)
TTレ−ス125優勝の
Anderson
TTレ−ス125出場の左から
Degner・Schneider・
Perris・Anderson
第4戦のTTレ−スは、エントリ−は79台であったが、出走は53台。ノンスタ−トの目ぼしいのは、MZのShepherd・Szabo、MVのHailwood、EMCのAvery・Inchley、ヤマハの伊藤史郎・長谷川弘・砂子義一などだった。11時スタ−トが悪天候(霧)のため、大幅に遅れ、0時52分にやっとスタ−トとなった。1番手はRobb、10秒後Anderson、20秒後Redman、30秒後高橋国光とTaveri、40秒後DegnerとSchneider、70秒後Perris。
1周目中間点のSulbyの順位は、Anderson・Degner・Perris・Taveri・Redman・Schneider・Robbの順(スタ−ト時差を修正した順位)。
1周終了時の順位は、Anderson・Degner・Perris・Taveri・Redman・Robb・Schneider・高橋。高橋のマシンは不調らしく、エンジンを指さして、2周目に入っていった。霧のためLap
Timeは良くない。AndersonとTaveriの差は23.8秒だ。2周目に入ると天候も良くなりLap
timeも大幅に良くなる。
2周終了時の順位は、SchneiderがRobbを抜き、ほかは変わらず。AndersonとTaveriの差は71.2秒と広がる。
最終LapもAndersonは快調にとばし独走で優勝。Perrisは40秒前にスタ−トしたTaveriを見かけて懸命に追いかけゴ−ル寸前で抜いた。このため、Degnerを抜き、2位となる。3位はDegner、続いてTaveri・Schneider・Redman・Robb・高橋の順。なお、ト−ハツのSimmondsが15位(87分37.8秒)だった。かくして、Anderson・Perris・Degner・Schneiderで1−2−3−5位の完全優勝を果たした。(スズキ125ccのTTレ−ス優勝は、これが最初で最後である)
フランスGP優勝の
Anderson
第1戦のスペインGPは、ホンダ2気筒マシンのTaveri・Redman・高橋国光が1−2−3、4位はEMCのInchley。公式練習タイム1位のPerrisは1周目コンロッド大端焼付、Andersonは5周目までTOPグル−プにいたが、これまたコンロッド大端焼付、Degnerは1周目EMCのAveryの転倒に巻き込まれ転倒と全滅だった。
第2戦の西ドイツGPは、Degnerの独走の優勝、2位がAnderson、MZのSzabo・Shepherdが3−6位、ホンダのTaveri・高橋国光が4−5位だった。
第3戦のフランスGPは、Andersonの独走の優勝、Perris・Degnerが4−6位、Redman・Taveri・Robbが2−3−5位だった。
ノ−トに残っている
RT63エンジンの
計画図
RT63
1963年の125ccRT63マシンは、昨年鈴鹿の「第1回全日本選手権」で、Andersonが出場した試作車(空冷2気筒・フロントエギゾウスト)のRT63Xをベ−スに、新開発したRT63(空冷2気筒、43φ×42.6、8段ミッション、リヤ−エギゾウスト)の圧倒的な速さで、メ−カ−・個人(Anderson)の両タイトルを獲得した。
(2)125cc:圧倒的速さで初の両タイトルを獲得