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 50cc T.T. 伊藤光夫(スズキ)が勝つ
 Degner 79 m.p.h 以上のラップレコードを立てる


 50ccレースでは2台のKreidlerに対して6台のSuzukiでSuzukiの勝つチャンスは、可能性以上、確実、或いは殆ど確実であった。 しかしチームメイトAlberto Paganiがファーストラップでリタイヤーした後、Suzukiのライダー達に対して、ただ一人の挑戦で見せたGeorg Anscheidtの真のガッツは、以前はくすぶっていたように見えたレースに火を着けた。33エントリーのうち、たった18台がスタートした、付け加えると、その中には女性ライダーは居なかった!
エキサイティングな展開を期待した人は殆ど居なかった。しかしAnscheidtやAlberto Pagani, Hugh AndersonおよびErnst Degner(Suzuki)のリーダー達が、道路上に互いに群がって、コーナー毎に必死になって互いに抜きつ抜かれつしたことは、エキサイティングそのものであった。
 積極的なAnscheidtは、Ballaugh Bridgeを通過する際Andersonを空中で抜こうとさえ試み・・そして実際に抜いた! しかしPaganiは山の上でプラグが不調になり、Bungalowまでプッシュしてきた、そして後になって見学に回った。これでAnscheidtがスズキチームに挑戦することとなり、彼はレース中全ての場面で全力で挑戦した。
 きつい山の登りでは、12速を正確にコントロールしてKeppel Gateまでにはっきりと100 yardリードした。 しかし反対側の下りでは、スズキ車はスピードの差の利点を見せて、AndersonはAnscheidtの後ろにくっ付いてグランドスタンドを通過した。
 Degnerは約100yard後ろにいたが、Glencrutchery Roadの疾走の仕方を見ると、明らかに努力をしていた。
 Degnerのファーストラップは、彼が昨年記録した以前のレコードより7.4s速かったことは意外ではなかった。 もっと驚くべきは、最初の6人がきれいに昨年の記録を破ったことである・・そしてこれはスタンディングスタートで立てられた。冬季にどんな開発が行われたのだろう?
 このラップの終わりでは、最初の6人は1分以内の差に入っていた。Degnerのチームメイト伊藤光夫に対するリードは僅かに0.6sである! Andersonは伊藤の後ろ7.6s、Anscheidtはさらに9.8s後ろに居た。しかしGeorgは新人の森下勲(Suzuki)を有り余るほどの13.4sリードしていた。スズキの最後は市野三千雄であり、彼のチームメイトの後方ほんの20.2sであった。
 これらのすべての事でコース上の残りのライダー達を目立たなくしたことは、不思議ではない。第7位の男、o.h.c. Hondaのプロダクション・・このレースの唯一のフォーストロークに乗るIan Plumridgeは第6位の男に28.6s離されていた!
 自分でチューンしたKreidlerに乗るHarry Crowderは、Laurel Bankで転倒したが、怪我はなかった。クラッチの滑り、ギヤーの抜け、早過ぎる点火タイミング及び焼き付きが原因で、非常に遅いファーストラップの後、Bert Fruin (Fruin Dartela)は、ピットへ惰性で帰ってきた。
 第2ラップ中ずっと、リードする3ライダーはコーナー毎に順位を入れ替えた。 Keppelの近くで、AndersonはむきになっているAnscheidtを振り切ろうとする無益な試みで、突進しDegnerを抜いた。しかしCronk-ny-Monaの登りで、Anscheidtは再び追いついた。
 Signpostで二人のスズキライダーは身を起こして、ブレーキを踏んだ。Anscheidtが飛び込んで追い抜き、それから身を起こしてブレーキを強く踏んだ。第5位の森下はSignpost出口の土手を強打し、もうちょっとで彼自身及び観衆に心臓麻痺を起こさせるところであった。
 素晴らしい! セカンドラップのタイムが掲示され、ファーストラップの順位はそのままで、最初の5人全部が新しいラップレコードを破った! Degnerは先の記録を14s以上縮めた。
 最終ラップのGlen Helenまで、Degnerが先頭でAndersonが後尾にくっ付き、Anscheidtが依然としてすぐ後ろにくっ付いていた。しかしこのトリオに忍び寄っていたは、伊藤であった。 Glen Helen通過時たった100 yards後方に居た彼は、リードを奪うためBarregarrooの急坂でDegnerを抜き・・コース上では3位となった。
 恵まれないDegner! Sulby Bridgeまで全力で疾走したが、イグニッショントラブルで後退した。サスペンショントラブルに悩まされたAnscheidtはペースを落とし、伊藤は山への登りで抜き去った。伊藤は身を起こし笑顔でチェッカーフラグを受けた・・史上初めての全日本製(車、ライダー)のT.T.勝利・・DegnerはWaterworksまで転がしてきたが、そこでリタイヤーした。
 上位5人の平均速度は、昨年のラップレコードをあっさりと破った。この事は、6位のIan Plumridgeがブロンズレプリカさえ取る資格が無かったほどの速度であったことを意味する。
[1963年6月20日発行の「Motor Cycle」誌のTTレース 50cc の記事]
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日本GP初登場の
ホンダTwin 4Valve
日本GP50表彰台
Anderson・Taveri・
増田俊吉
ベルギ−GPで
初優勝の森下勲
アルゼンチンGP優勝の
Anderson
オランダGP優勝の
Degner
第9戦の日本GPは、初登場のホンダ2気筒4バルブマシンのTaveriが圧倒的に速く優勝、Anscheidtは2周までTaveriに次ぎ2位だったが3周目トラブルリタイア、結果はTaveri・Anderson・増田俊吉・市野・島崎貞夫・伊藤・Degner・Robb・谷口尚己の順。どうしてTaveriのマシンのみが飛び抜けて速いんだろう。これでAndersonの個人タイトルが決定した。どうも鈴鹿では勝たしてもらえない。なお日本GPには、ト−ハツ(31φ×33・空冷2気筒・ピストンバルブ)で、Simmonds・安良岡健が出場した。
 かくして、昨年につづき1963年も、メ−カ−・個人タイトルとも獲得して終了したが、Kreidlerで孤軍奮闘のAnscheidtに冷や冷やさせられた年だった。
第5戦のオランダGPは、Degner・Anderson・市野・森下・伊藤が1−2−3−4−5位で完勝、Anscheidtは6位。
第6戦のベルギ−GPは、スズキ5台とAnscheidtの一団となってのレ−ス。最終のヘヤ−ピン(ゴ−ル前500m)にAnscheidtがTOPで入ったが、森下・Degnerが抜いて、森下・Degner・Anscheidt・Anderson・伊藤の順でゴ−ル、森下勲が初優勝を飾る。市野は点火不調で8位。
第7戦のフィンランドGP
は、AndersonがTOPであったが、転倒。結果はAnscheidt・伊藤・Anderson・森下の順。
第8戦のアルゼンチンGP
は、Anscheidtが公式練習で転倒し欠場。結果はAnderson・Degnerの1−2位でメ−カ−タイトルが2年連続スズキに決定したが、AndersonとAnscheidtの個人タイトル争いは最終の日本GPに持ち越しとなった。
125表彰式で:
左より、神谷安則・清水正尚・櫛谷清・伊藤光夫・
俊三社長・Degner・伊藤勝平・Schneider・Anderson
125の1-2-3でチ−ム賞Degner・
鈴木俊三社長・Anderson・Perris
125優勝のAndersonの表彰
新記録のラップタイム
を出したDegnerの表彰
50優勝の伊藤光夫の表彰
表彰式 (50ccと125ccの両方を掲載します)
留守部隊の時はいつも
社長に電話する筆者
 伊藤光夫優勝の入電は、小生の日記帳では6月14日の「午後9時AP通信より入電」と書いてある。電話を受け、「ミッちゃんよくやった。バンザ−イ」と叫んだ記憶がある。
 余談だが、翌15〜16日(土・日)はレ−ス担当の「研究三課」の慰安旅行で湯河原・箱根に行ったが、小生はなにがあるかわからないので、行くのを取り止めた。日記によると、当時の鈴木実次郎常務(前社長)より金一封、鈴木修部長(現社長)より洋酒の差し入れがあったと書いてある。
 小生は、この時留守部隊として日本に残っており、マン島には行っていなかった。留守部隊の時は、レ−ス開催日、ヨ−ロッパとの時差を見込んで夜に会社の守衛所に出かけ、AP通信や選手団からの電報の入電をいつも待っていた。当時はまだ国際電話など簡単につながる時代ではなく、電報の時代だった。レ−ス結果が入電すると、勝とうが負けようが故鈴木俊三社長の家に電話で報告することになっており、結果が悪い時には、電話するのに気が重く、つらかったことが今も記憶に残っている。そして、故社長はどんな夜中でも、すぐに電話に出たことを覚えている。
《伊藤光夫の追想記》

1963年は私にとって最良の年でした。26才を迎え、1月に結婚、2月のアメリカGP(デイトナビ−チ)優勝と、幸先の良いスタ−トが出来た年でした。
 迎えたマン島TTレ−スは4年目であり、過去の成績はともかくとして、マン島TTを制することが最大の目標でした。
 プラクティスでは、マシンの調整と共に、時間の許される限り、コ−ス(1周60.725km)を熟知する事に専念し走り続けていました。
 レ−ス当日は早朝4時半に、そっと一人部屋を抜け出し、車で2周ほどコ−スコンディションの確認を行いました。この事が当日のスタ−トプレッシャ−を柔らげてくれたと思います。
 6月14日午前11時、ゼッケンNo.1のSchneider(スズキ)とNo.2のAnscheidt(Kreidler)がスタ−ト、10秒後No.3のPagani(Kreidler)とNo.4のAnderson(スズキ)、20秒後No.5のDegner(スズキ)、続いて30秒後 No.8の私がスタ−トしました。
 1周目の順位は2位で、TOPとの差は0.6秒だということを、1周半まわったSulby Straightのサインボ−ドで知りました。(SchneiderとPaganiは1周目リタイア)
 2周目は若干遅れたものの(2位でTOPとの差は3.0秒)マシンの調子は上々、先にスタ−トした集団を前方に確認できました。この集団に追いつけばタイム差は勿論なくなる。私より後にスタ−トしたマシンのことは考えず、前の集団を追走しました。
 バラクレ−ン(Ballacraine)からカ−クマイケル(Kirkmichael)までは最も危険な区間とされ、ブラインドとなる岩山をサイドに狭いロ−ド、荒れた路面と危険な区間で、全てのライダ−が安全を見込み、若干スロ−ダウンする区間である。最終ラップ、私はこの区間を夢中で前の集団を追いかけました。この区間を通過し、直線に入ると、集団はもう目前に迫っていました。ここだとばかり、一気にDegner・Anderson・Anscheidtを追い越し、コ−ス上でのトップにたつことが出来ました。後はマウンテンを登り、そして下り、マシンをいたわりながら、ゴ−ルすることに集中して走りきり、無事に念願のTTウインナ−となることができました。
 ご存じの通り、マン島はサ−キットと異なり、公道であるため、練習やテストは全く出来ず、オフィシャルプラクティスのみに限られ、許された時間内で調整しなければなりません。私は幸いにもマン島に居住の往年の名ライダ−Mr.Geoff Dukeにコ−スの走り方・取り方の指導を得たことが大きな勝因と思っています。
 ちなみにMr.Dukeは350ccで1951・1952年、500ccで1951・1953・1954・1955年と6回の選手権を獲得。またマン島TTでは、350ccで1951・1952年、500ccで1950・1951・1955年と計5回の優勝者であります。
読むことが出来る
くらいに拡大します
FernleighHotelのティアーさん、
    娘さんも一緒に
表彰台の2位のAnderson・
優勝の伊藤光夫・3位のAnscheidt
2周までTOPで新記録の
ラップタイムを出したDegner
伊藤勝平・2位のAnderson・
優勝の伊藤光夫・3位のAnscheidt
優勝の伊藤光夫のゴ−ル、
後は3位のAnscheidt(Kreidler)
優勝の伊藤光夫
RM63
車番 ライダ−名 1周 2周 3周
順位 タイム 順位 タイム total time 順位 タイム total time
 8 伊藤光夫  2 28.51.8.  2 28.39.6. 57.31.4.  1 28.39.2. 86.10.6.
 4 Anderson  3 28.59.4.  3 28.39.6. 57.39.0.  2 28.58.4. 86.37.4.
 2 Anscheidt  4 29.09.2.  4 28.40.0. 57.49.2.  3 28.52.8. 86.42.0.
14 森下 勲  5 29.22.6.  5 28.49.4. 58.12.0.  4 29.04.2. 87.16.2.
10 市野三千雄  6 29.42.8.  6 29.38.6. 59.21.4.  5 29.46.2. 89.07.6.
36 Plumridge  7 35.11.4.  7 34.23.6. 69.35.0.  6 35.11.4. 104.46.4.
  Ivy  9 37.03.2.  9 36.57.6. 74.00.8.  7 37.06.4. 111.07.2.
16 Simmonds  8 36.47.2.  8 35.57.2. 72.44.4.  8 52.59.6. 125.44.0.
 5 Degner  1 28.51.2.  1 28.37.2. 57.28.4.  R  ―  ―
 
日本人でTTレ−スただ一人の優勝者
         伊藤光夫
第4戦はTTレ−ス。昨年は2周のレ−スだったが、今年から125と同じく、3周のレ−スとなった。1周の順位は、Degner・伊藤光夫・Anderson・Anscheidt・森下勲・市野三千雄で、Degnerと伊藤の差は僅か0.6秒。初めて50cc出場のSchneiderは、ピストン焼付でリタイア。2周の順位も1周目と変わらず、Degner・伊藤の差は僅かの3秒。最終ラップ、伊藤はピッチを上げ、9.5哩のGlen Helenでは、スタ−ト時差を修正してTOPとなる。間もなくDegnerのマシンは不調(コンロッド大端の保持器破損)となり脱落。レ−ス結果は伊藤光夫・Anderson・Anscheidt・森下・市野の順で、伊藤光夫が「日本人初のTTレ−スウインナ−」となった。レ−ス後 分解チェックしてみると、伊藤・Anderson・森下のエンジンは、ピストンリングが膠着気味で、危ないところだった。その後、1977年から、TTレ−スは選手権レ−スから、はづれることになったが、1976年までに他の日本人の優勝はなく、伊藤光夫が、「最も伝統ある、マシンにとってもライダ−にとっても、最も過酷なTTレ−ス」での「日本人ただ一人の優勝者」ということになり、TTレ−スの歴史に名を刻むことになった。
フランスGPのDegner
・Anscheidt・市野
西ドイツGPの森下
・Degner・Anderson
スペインGP
Anderson2位
第1戦のスペインGP(14周)は、Andersonは7周でTOPのAnscheidtを抜き11周までTOPを維持したが、再びAnscheidtが先行し、僅差でAnscheidtが優勝、Anderson2位,3位はDerbiのBusquets、4位に森下勲。Degner・伊藤光夫・市野三千雄はマグネトトラブルでリタイア。
第2戦の西ドイツGPは、Anderson・森下勲・Degner・伊藤光夫・市野三千雄が1−2−3−5−6位、Anscheidtは4位だった。
第3戦のフランスGPは、ひょうが降ったあとの最悪のコンディションの中で開催された。レ−スは最初からAnscheidtがTOPを譲ることなく優勝、Degner・市野三千雄が2・3位、Anderson・伊藤光夫は転倒リタイアした。
 1963年のRM63は、RM62とBore×Strokeは同じだが、エギゾウストはフロント方式からリヤ−に変え、気化器口径をM20からM24にアップし、ミッション段数を8段から9段に変更し、出力も大幅に向上させた。2ストロ−クエンジンの出力は、言うまでもなく、エギゾ−ストパイプの形状が大きく影響するが、実験を進めるのに、フロントエギゾウストより、リヤ−の方がやり易いことが最大のメリットである。
(1)50cc:伊藤光夫マン島で日本人初優勝、2年連続両タイトル獲得
 1963年は、昨年に引き続き、50・125・250cc3クラスのフル参加を目指して準備を進めた。
 外人ライダ−としては、昨年から契約のDegner・Anderson・PerrisにSchneiderを加え、日本人ライダ−としては、伊藤光夫・市野三千雄・森下 勲の布陣で望むことになった。
[TTレ−ス伊藤光夫優勝、50・125ccダブルタイトル獲得]