1965年本文は、2ペ−ジに分けます
日本GPで優勝の
Anderson
イタリアGPで優勝の
Anderson
フィンランドGPのPerrisと
Anderson。優勝は
Anderson
アルスタ−GPで優勝の
Degner
チェコGPで優勝の
Perris
東ドイツGPの表彰台
優勝のPerris
東ドイツGPで優勝の
Perris
オランダGP:ヤマハDuff
を追う片山義美・Anderson
第12戦の日本GP(20周)には、9速ミッションにしたRT65を準備しAndersonと越野晴雄が出場、Perrisと片山義美は「RT63改A」で出場した。なお「ホンダは5気筒マシンが初登場」、ヤマハは水冷2気筒で出場した。レ−スは、1周目途中まで片山がTOPで走っていたが、ピストン焼付で脱落。1周順位はAnderson・Redman・Taveri。2周目TaveriがTOPにあがり、その後Andersonを徐々に引き離し、7周では6秒の差となる。10周目からは、逆にAndersonがTaveriとの差を縮め始め、15周でTOPにたち、その後は徐々に差を広げ優勝した。3位はBryans、4位はIvy。出遅れたPerrisは5周目5位まで上がってきたが、プラグカブリでピットインし7位に終わる。越野は、序盤よく健闘したが、5周目4位で転倒しリタイアした。Readはスタ−ト悪く、中盤には4位にまで上がってきたが、10周目R。TTレ−ス・オランダGPで優勝したヤマハ勢は、何故か公式練習でもレ−スでも振るわなかった。
かくして1965年は、1964年に失った125ccのメ−カ−・個人タイトルを奪回することができた。
第6戦のオランダGP(14周)は、公式練習1位のAndersonがスタ−トでなかなかエンジンがかからず大きくおくれる。ヤマハのReadが快調にとばし、TTレ−スに続き優勝かと思ったが13周目不調となっておくれはじめ、最終ラップにリタイア。優勝はヤマハのDuff、2位片山義美、3位には最高ラップをだして追い上げたAnderson、4位ヤマハIvy、5位ホンダTaveri。ヤマハマシンは、なぜかTTレ−スと異なり空冷2気筒エンジンだった。第7戦の東ドイツGPから第11戦のイタリアGPはホンダ・ヤマハとも出場せず、相手は水冷単気筒マシンのMZだけとなった。
第7戦の東ドイツGPは、Andersonがモトクロスで負傷のため欠場し、ただ一人出場のPerrisが優勝。
第8戦のチェコスロバキアGPは、最終ラップまでTOPだったAndersonが転倒し、Perrisが東ドイツに続き優勝、ここでメ−カ−タイトルがスズキに決定した。
第9戦のアルスタ−GP(11周)は、Degnerが優勝。Andersonは2周目1位だったがリタイア、Perrisは1周目リタイア。両マシンともコンロッド大端の焼付。
第10戦のフィンランドGPは、優勝Anderson、2位Perris。Degnerは不参加。
第11戦のイタリアGPも、優勝Anderson、2位Perris。Degnerは独走体制の2周目スリップ転倒し左足骨折。このため1966年オランダGPにカムバックするまで欠場することになった。なお、ここでAndersonの個人タイトルが決定した。
車番 |
ライダ−名 |
1周 |
2周 |
3周 |
順位 |
タイム |
順位 |
タイム |
total time |
順位 |
タイム |
total time |
7 |
Read (Yamaha Twin) |
1 |
24.03.6. |
1 |
23.46.4. |
47.50.0. |
1 |
24.12.6. |
72.02.6. |
4 |
Taveri (Honda 4) |
4 |
24.14.4.. |
3 |
23.56.2. |
48.10.6. |
2 |
23.57.8. |
72.08.4. |
15 |
Duff (Yamaha Twin) |
2 |
24.06.4. |
2 |
23.55.8. |
48.02.2. |
3 |
24.34.4. |
72.36.6. |
10 |
Woodman (MZ 単) |
6 |
24.31.8. |
6 |
24.34.4. |
49.06.2. |
4 |
24.34.6. |
73.40.8. |
17 |
Anderson (Suzuki Twin) |
10 |
26.49.0. |
9 |
23.44.4. |
50.33.4. |
5 |
23.34.6. |
74.08.0. |
19 |
Bryans (Honda 4) |
8 |
25.11.2. |
7 |
24.42.6. |
49.53.8. |
6 |
24.50.2. |
74.44.0. |
30 |
Ivy (Yamaha Twin) |
7 |
24.34.4. |
5 |
24.02.6. |
48.37.0. |
7 |
26.24.4. |
75.01.4. |
21 |
Degner (Suzuki Twin) |
5 |
24.15.0. |
4 |
24.07.4. |
48.22.4. |
8 |
32.43.4. |
81.15.8. |
11 |
片山義美 (Suzuki Twin) |
3 |
24.09.0. |
8 |
25.48.8. |
49.57.8. |
R |
. |
. |
初登場でTTレ−ス優勝を
飾ったヤマハ2気筒水冷
TTレ−スで最高ラップを
出しながら5位となった
Anderson
第5戦のTTレ−スには、「ヤマハの水冷2気筒マシン」が初登場した。公式練習はDegner(24.03.0.)、Anderson(24.06.2)、Read(24.23.2.)、Taveri(24.41.6)、Perris(24.43.4)、片山義美(25.03.6)の順。昨年の日本GPよりスズキに加入の片山は西ドイツGP前のシンガポ−ルGPで転倒負傷し、TTレ−スが今シ−ズン初出場である。レ−スは、Andersonが1周目途中までTOPであったが、マウンティンでプラグ交換し優勝の望みは消えた。Andersonは2周目のベストタイム(新記録)、最終ラップはさらにタイムを縮め最高ラップタイムを出したが5位。片山は、第1周はTOPのReadに5.4秒差の3位と健闘していたが、2周目ミッションのカウンタ−シャフト曲がりのため遅れ、最終ラップにパンクでリタイア。公式練習タイムがTOPだったDegnerは、3周目エンジン不調(ドライブスプロケット歯欠け)で8位に終わる。Perrisは、1周目コンロッド大端焼付でリタイア。優勝は初登場のヤマハの水冷2気筒に乗るRead、2位ホンダ4気筒のTaveri、3位ヤマハ水冷2気筒のDuff。4位は素晴らしいタイムで走りきったMZのWoodmanだった。Andersonのプラグトラブルがなければ、彼の楽勝のレ−スだったのに・・・。また、2日前の250ccで初めてヤマハに乗ったIvyが125ccにも空冷2気筒で出場し、7位となった。このIvyが、来シ−ズン以降大活躍することになるのである。
フランスGP優勝のDegner
スペインGP優勝のAnderson
西ドイツGPのAnderson・Degner。
優勝はAnderson
アメリカGPのAnderson・
Perris・Degner。
優勝はAnderson
1964年は思わぬ誤算で125ccタイトルの獲得をできなかった。1965年の125ccは、1964年日本GPで本格登場した「水冷2気筒マシン(RT63改A)」で参戦し、ホンダ4気筒と選手権を争うこととなった。
(2)125ccタイトルをメ−カ−・個人とも奪回
第1戦のアメリカGPにはホンダ不出場で、Anderson・Degner・Perrisの1−2−3。
第2戦の西ドイツGP(13周)は、Anderson・Perris・Degner(2位だったが、9周目ピストン焼付で転倒し再スタ−ト)の1・2・4位、3位はBultacoのTorras、5位はMZのWoodman。ホンダ4気筒のTaveri・Bryansはトラブルリタイア。
第3戦のスペインGP(27周)は、Anderson・Perrisが1・2位、3位はMZのWoodman。Degnerは2位だったが、ミッションのカウンタ−シャフト折損でリタイア。Taveri・Bryansは又もトラブルリタイア。
第4戦のフランスGPは、Anderson・Degner・Perrisの1−2−3、4位はMZのWoodman。Taveri・Bryansは、またまたトラブルリタイア、ホンダさんの4気筒マシンはどうしたんだろう?という感じだった。
BSで出場の森下
スズキ新加入のAnscheidt
日本GP:Bryans・藤井敏雄・
Taveri(前半戦TOPグル−プ
で健闘したが6周目転倒)
ベルギ−GP:Bryansを
追う優勝したDegner
第6戦のオランダGPは、Bryans・Taveriのホンダが1・3位、Anderson・伊藤光夫・Degnerが2・4・5位。
第7戦のベルギ−GPは、Degner・Anderson・伊藤光夫が1・2・4位、Taveri・Bryansが3・5位。ベルギ−GPを終わっても、メ−カ−・個人両タイトルとも決定せず、最後の日本GPに持ち越されることになった。メ−カ−タイトルは日本GPで優勝した方がタイトル獲得、AndersonとBryansの個人タイトル争いは、日本GPでAndersonが優勝しても、Bryansが4位以下でないと、Andersonはタイトルは獲得できず、Bryansが大いに有利である。
両タイトルをかけた最終の第8戦日本GP(14周)は、5周までTaveri・Bryans・藤井敏雄でTOP争いを演じたが、藤井は6周目転倒、Andersonは1周目5位、3周目4位、6周目3位、11周目遂にTaveri・BryansのTOPグル−プに追いつき、一時はTOPにもたったが、最終周スリップ転倒で万事休す。結果は、Taveri・Bryans・伊藤晶のホンダが1・2・6位、伊藤光夫・Anscheidt(日本GPよりスズキに加入)・市野三千雄が3・4・5位で、タイトルはメ−カ−がホンダ、個人はホンダのBryansに決定した。1962年以来、スズキをおびやかし続けてきたKreidlerの名ライダ−Anscheidtが本レ−スにスズキで出場したが、これは日本GPでどうしてもホンダを破り、メ−カ−タイトルを獲得したかったからである。9月上旬、Anscheidtに「日本GPにスズキに乗る意志があるか?」との問い合わせをしたが、即座に「OK」の返事が届いた。しかし、初めて乗るマシンで大きな期待をするのは、当然のことながら無理だった。そして、日本GP終了後、来年度の契約をして帰国した。なお、本GPにBS(ブリジストン)が水冷2気筒エンジンで参加し、元スズキライダ−の森下勲(1965年2月20日退職)が前半7位と健闘していたが6周目転倒リタイアした。
かくして、初登場の水冷2気筒RK65マシンはタイトルをとることができず、シ−ズンを終了した。
車番 |
ライダ−名 |
1周 |
2周 |
3周 |
順位 |
タイム |
順位 |
タイム |
total time |
順位 |
タイム |
total time |
1 |
Taveri (Honda Twin) |
2 |
29.13.6. |
1 |
28.01.6. |
57.15.2. |
1 |
28.00.2. |
85.15.6. |
9 |
Anderson (Suzuki Twin) |
3 |
29.20.4. |
2 |
28.22.0. |
57.42.4. |
2 |
28.26.4. |
86.08.8. |
11 |
Degner (Suzuki Twin) |
4 |
30.15.6. |
4 |
28.59.4. |
59.15.0. |
3 |
28.55.0. |
88.10.0. |
20 |
Mates (Honda) |
6 |
34.42.6. |
5 |
34.14.0. |
68.56.6. |
4 |
34.44.8. |
103.41.4. |
17 |
Plumridge (Derbi) |
9 |
36.28.0. |
7 |
35.15.3. |
71.43.3. |
5 |
35.22.1. |
107.05.4. |
26 |
Griffiths (Honda) |
11 |
37.02.8. |
9 |
36.33.4. |
73.36.2. |
6 |
37.06.8. |
110.43.0. |
14 |
伊藤光夫 (Suzuki Twin) |
1 |
29.01.4. |
3 |
30.11.0. |
59.12.4. |
R |
|
|
10 |
Bryans (Honda Twin) |
5 |
32.21.4. |
R |
|
|
|
|
|
6 |
市野三千雄 (Suzuki Twin) |
|
? |
8 |
? |
73.01.4. |
8 |
|
中止命令 |
TTレ−ス1周目TOPで連続
優勝を逸した伊藤光夫
TTレ−ス2位のAnderson・
優勝のTaveri・3位のDegner
第5戦のTTレ−スは、エントリ−は37台だったが、ワ−クスのAnscheidt・KunzのKreidler(Kreidlerは先のフランスGP出場を最後にレ−ス活動休止を表明)、Derbiの3台、ホンダの谷口尚己が欠場などで、出走は23台。悪天候で30分遅れて11時30分スタ−トとなったが、コ−スの条件はまだ悪かった。1周目伊藤光夫が2位のTaveriを12.2秒離してTOPだったが、2周目エンジン不調(コンロッド大端焼付)となり、2度目のTTレ−ス優勝を逸する。優勝はTaveri、エンジンの調子が余り良くなかったAnderson・Degnerが2・3位。市野はクランク室へのミッションオイル吸い込みで、最初から不調だったが、ゴ−ル僅か前で、次の500ccレ−スに差し支えるため、レ−ス中止命令を受けた。スズキは1962年以来、3年連続TTレ−ス優勝を続けたが、4年連続優勝はならなかった。
RK65
スペインGP優勝の
Anderson
アメリカGPの
Degner・Anderson
RK65
ノ−トに残るRK65の
先行テストエンジン
RM64YUの計画図
50cc2気筒は、1963年3月にRM64X(31φ×33)として開発に着手、12月にはBore×Strokeを変更したRM64Y(32.5φ×30)、1964年1月には更に改良を加えたRM64YU(32.5φ×30)として開発を進め、1965年にRK65として、初戦アメリカGPより出場することになった。
(1)50ccタイトルは初めてメ−カ−・個人ともホンダへ
第1戦のアメリカGPは、ホンダ欠場で、Derbiとの戦いだった。Degner・Anderson・市野三千雄・越野晴雄のスズキ1−2−3−4で、5位がDerbiのRoca。(越野晴雄だけがRM64で出場)
第2戦の西ドイツGPは、ホンダのBryans・Taveriが1・2位。Andersonは中盤までエンジン不調だったが、その後快調になり追い上げて3位。4位伊藤光夫。5位DerbiのNieto。6位KreidlerのAnscheidt。Degnerはコンロッド大端焼付R。
第3戦のスペインGPはAndersonが優勝、Bryansが2位。3位はDerbiのBusquets。4位Taveri。5位Anscheidt。伊藤光夫はキャブオ−バ−フロ−によるプラグカブリで7位。Degnerも同トラブルでR。
第4戦のフランスGPは、ホンダBryans・Taveriが1・2位、Degner・伊藤光夫が3・4位、5位はDerbiのRoca。Andersonはタンクキャップ不良でピットインして6位。
RK65
1965年も、50・125・250cc3クラスのフル参加を目指して準備を進めた。
外人ライダ−としては、Degner・Anderson・Perris、日本人ライダ−としては、片山義美・伊藤光夫・市野三千雄の布陣で望むことになった。しかし、片山義美はヨ−ロッパ初戦の西ドイツGP前、シンガポ−ルGPで転倒負傷したため、TTレ−スからの出場となった。尚、Kreidlerのレ−ス活動休止にともない最終の日本GPから、Anscheidtがスズキに加入することになった。
50ccレ−スが1962年に世界選手権レ−スに加わって以来、1963年、1964年と3年連続メ−カ−・個人の両タイトルを独り占めしてきたが、1965年に初めて両タイトルともに、ホンダ及びホンダのBryansに奪取され、初のノ−タイトルとなった。
125ccは、メ−カ−・個人(Anderson)タイトルともに、奪回することができた。
[1965年世界選手権レ−ス]