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1966年、大願成就。

 富士登山レース、浅間火山レース以来ホンダのレース活動に関わり続けてきた秋鹿方彦が、GPチームの監督に抜擢されたのは1964年シーズン後半のことだった。富士登山のマシンを陸送したころまだ若手だった秋鹿は、1961年からGPチームにメカニックとして加わり、1963、1964年のチーフメカニックを経て、チーム全体をまかされる立場に至った。

 5クラス制覇を目指す1966年、ホンダはチーム監督の秋鹿を中心に、50cc荏原、125cc山中、250cc永島、350cc鈴木、500cc大城、それに遊軍メカとして高梨、大野、倉地、ノビー・クラークを加えた10人のメンバーでGPに挑むこととなった。この頃すでに整備監督、マネージャーといったポストは誰かが兼任する体制となっており、秋鹿は整備監督とマネージャーの責務もはたさなければならなかった。しかし大変なのは秋鹿だけではない。現在では1台のマシンに3人のメカが付くのが当然とされるが、この陣容では一人のメカが2台のマシンを担当しなければならない計算になる。後にも先にも10人しかいない現地スタッフは、壮大な目標の待つ荒海に向かって漕ぎ出す心境だった。

 秋鹿は、初めて監督を命じられた時点から、彼独自のスケジュール表を作成した。全12戦を戦うのに必要なマシンの搬入搬出日、必要な機材のリスト、各サーキットの特徴や移動のルート。そこにまとめられたレース参戦のノウハウは、最小限のメンバーで最大限の結果を目指すのに欠くことの出来ないスケジュール表だった。

 秋鹿以下、熟達のメカたちの腕にも、不安はなかった。1963、1964、1965年と、厳しいシーズンを戦い抜いてきた秋鹿らの整備技術、現場/現物合わせ=ゲンゴウの鋭さは、いまやGPサーキットの中でも群を抜くものだった。例えば、限られた部品の中から最良の組み合わせを見つけだし、摺り合わせなどの加工を施した上で超精密な組付けを行なうマシン整備の作業で、焼き付いたピストンを補修し最良のクリアランスを実現したり、レース距離に合わせて絶妙なバルブ当たり面の摺り合わせを出すなど、彼らの技はGPにおける職人技の極地に到達していたのも確かだった。

 言ってみれば、この1966年は、ホンダの第1期GP活動の集大成の年でもあった。革新と熟成が高次元でバランスしたマシン群。いかなる条件でもその性能を最大限に引き出す熟達の現場メカニック。そして、掲げられた大目標。ホンダの闘いに迷いはなかった。

 ライダーたちにも、そのことは充分に理解されていた。ヘイルウッドの言葉を借りれば「今年我々は、ホンダのマシンと、メンバーと、そして我々のライディングによって、これまで誰も成し遂げなかった美しい歴史を築く」という気概があった。

 そしてシーズンイン。ホンダ勢は好調な滑り出しを見せた。第1戦スペインGPでは50、125、250ccの3クラス中2勝。続く西ドイツでは5クラスのうち4クラスを制した。中でもヘイルウッドの活躍には目をみはるものがあった。何しろ250、350ccで、まったくの負けなし。結果表には「1位、マイク・ヘイルウッド」の文字が繰り返し記入されていった。この年のヘイルウッドは、まさに円熟の域に達していた。天才と呼ばれて久しい彼ではあったが、その集中力と貪欲なまでの闘争心は、人間がオートバイを操ってレースをするという行為のひとつの究極を見せていた。そんなヘイルウッドのまわりに多くの人達が集った。

 ホンダのチームメイトはもちろんのこと、ライバルチームのライダーも彼のピットに足繁く出入りし、ヘイルウッドを中心としてレース談義に花が咲いた。例えば、新鋭機の整備をしているピットにヤマハのライダーがやってくることなども当たり前だった。

 ヘイルウッドを中心に、ホンダは順調に勝ち星を増やしていった。50、125ccのタベリ。250、350ccのヘイルウッド。そして500のレッドマン。壮大な目標は、目前かと思われた。

 しかし、すべてが順調なわけではなかった。第5戦ベルギーGPの500ccクラス。転倒を喫したレッドマンは重傷を負い、以後のレースに欠場しなければならなくなったのだ。それは、彼を引退に追い込むほどのものだった。それまで全勝だった500ccクラスに、暗雲が立ちこめた。だが、この窮地を救ったのもまたヘイルウッドだった。彼はなんと250、350、500ccクラスの3クラスにエントリーを開始し、以後毎戦3クラスへの出場を続けたのである。GPのレースを、毎戦3クラス戦うことがいかに驚異的であるか、それは誰の目にも明らかだった。

 第7戦チェコスロバキアGP。決勝当日のアウトドローモ・ブルノは、朝から激しい豪雨に見舞われていた。ワンレースを戦うだけでも体力と精神力のすべてを消耗してしまうGPのレース、それも豪雨のサーキットで、ヘイルウッドは3クラスを走った。大観衆はもちろん、主催者、ピットにいるすべてのスタッフ、ライバルチームまでが、彼の激走を注視した。

 そしてヘイルウッドは奇跡を起こした。250ccクラス9周125.468km、350ccクラス11周153.350km、500ccクラス13周181.200km。彼はすべてのレースを制し、さらにすべてのクラスでレース中のベストラップを叩き出した。合計33周460.018kmという、壮絶なレースを闘い終えたヘイルウッドはプレスにこう答えた「僕は、サーキットに遊びに来てるんじゃない。勝つために来てるんだよ」。げっそりとやつれた彼の表情は、しかし限りなく輝いていた。神話ともなったこのレースは、この年のホンダとヘイルウッドの比類なき実力を、余すことなく映し出していた。125ccでも、ホンダは快調だった。タベリとブライアンズは見事ワンツーフィニッシュを決め、豪雨の4レースすべてがホンダのものとなった

 第11戦、イタリアGP。最終戦日本GPを残すのみとなったこのレースで、遂にホンダはすべてのクラスでメーカータイトルを決定した。それは、ヘイルウッドが言った「誰も成し遂げなかった美しい歴史」が築かれた瞬間でもあった。

 世界選手権ロードレース、ソロ全クラス制覇。前人未踏の大記録は、こうして現実のものとなった。しかしその影で、悔し涙を流す者もいた。すでに125ccクラスのライダータイトルを決めていたタベリは、秋鹿監督に最終戦日本GPへの出場を懇願していた。このレースで好成績をおさめれば50ccクラスのタイトルも獲得できるタベリは、個人出場でも何でも良いから出走することを願った。しかし、ホンダの決定は動かなかった。富士スピードウェイの第1コーナー/30度バンクの安全性に異議をとなえたホンダにとって、ライダータイトル欲しさにその決定を翻すことは信義地に落ちる。自らの力がピークを通り過ぎようとしていることを知っていたタベリは、執拗に食い下がった。これが最後の大きなチャンスであることを、彼は理解していた。そして秋鹿も、その悔しさ辛さが痛いほど分かっていた。いつも笑顔を絶やさず、チームのムードメーカー的存在だったタベリがこぼす大粒の涙は、秋鹿の胸に突き刺さった。そしてふたりは言葉少なく一晩を飲み明かし、タベリは静かにすべてを了解した。

 その日本GP。50ccでタベリとランキング争いを演じていたハンス・ゲオルグ・アンシャイトは2位に入り、最終戦でライダータイトルを決定した。また、レッドマンの負傷/引退によってヘイルウッドが後半戦を受け持った500ccクラスも、ライダータイトルを獲得することは出来なかった。しかし、ライダーたちは、レースに負けてライダータイトルを逃したわけではなかった。歴史に「もしも」は通用しないが、ホンダが1966年にふたつのライダータイトルを逃した裏には、そんな事情が隠されていたのだった。

      (以降、略)

空前の全クラス制覇・常しえの夢飛行へ

      (途中、略)

1965年、苦渋のシーズン。

 2気筒のRC115が波にのった50ccクラスは、常にホンダがレースをリードしていった。マシン性能を向上させライダー層に厚みを持たせたスズキの追撃は執拗を極めたが、入魂の2気筒は8戦中5戦を制し、ホンダに初の50ccクラスタイトルをもたらした。

 それに比べ、発表時は話題を独占した125ccの4気筒は、ライバルの前にまったく良いところがなかった。ホンダが4バルブ、多気筒エンジンと、4ストロークを進化させていったように、スズキ、ヤマハの2ストロークも長足の進歩を遂げていたのだ。水冷化、エキスパンションチャンバーの改良、強制潤滑方式の確立、そして多気筒化と、この時期に2ストロークは過去に例を見ない進化の時代に突入していた。ホンダの4ストローク4気筒は苦戦を強いられた。否、苦戦と言うより完全な敗北と言っても良い。何しろ、1961年の第1戦トム・フィリスの優勝以来、この1965年は初めて「年間を通じて優勝無し」という屈辱のシーズンを終えなければならなかったのだ。最高位は、ルイジ・タベリの2位が2回。スズキ10回、ヤマハ2回の優勝の前に、ホンダは125ccクラスの覇権をあけ渡す結果となった。

 250ccクラスも、苦渋のシーズンとなった。熟成の2気筒RD56、新鋭機V型4気筒のRD05を投入するヤマハの前に、ホンダ6気筒は13戦中4勝にとどまり、前年1964年に続いてそのタイトルをあけ渡す結果となった。熟成を進めた6気筒2RC165の性能は決してRD勢にひけをとるものではなく、後半戦の闘いに期待が寄せられてはいたが、思わぬ不運がホンダチームを襲ったのである。残り4戦となったアルスターGPの350ccクラスのレース中、エースのジム・レッドマンが転倒。幸い命に別状のあるような怪我ではなかったが、レッドマンはこの負傷によって数戦を欠場しなければならなくなった。それまで、チームキャプテンとしてホンダの進撃をリードしてきたレッドマンの離脱は、大きな痛手となった。急遽各クラスでのライダーの配置を変更し、戦力をまとめ直しはしたが時すでに遅く、またレッドマンの代役を務められるだけのライダーは、いなかった。

 1965年10月24日、最終戦、日本GP。結果的に1960年代における最後の鈴鹿でのGPとなったこのレースで、ホンダは250ccクラスに再びマイク・ヘイルウッドを起用。50ccクラスでのタベリの優勝と合わせて2勝を挙げることに成功したが、シーズン全体を通して稀にみる苦戦の年であることは否めなかった。

 しかし、その苦戦がホンダチームの不屈の闘志に火をつけた。さらに、もうひとつの強烈なカンフル剤が、チームメンバーの体の中を駆けめぐった。10月24日、日本でGP最終戦が開催されたその日、遠く離れたメキシコから、F1初優勝達成の報が届いたのだ。もちろんその知らせはホンダ全体に限りない喜びをもたらしたが、しかしそれはまた2輪チームにとって「最大のライバル」の活躍の知らせでもあった。外にスズキ、ヤマハ、MV。そして内にF1という、強力な難敵をかかえ、ホンダ2輪チームは奮い立ち、そして過去に例を見ない大目標が掲げられた。

 世界選手権ロードレースソロ全クラスの制覇。漠然とした夢や野望として、MVなども考えたことはあっただろうが、具体的な目標としてこれを掲げ、布陣を引いたチームなど、後にも先にもあろうはずもない。50、125、250、350に加え、500ccクラスは初挑戦となる、5クラスへの参戦。開発スタッフが、苛酷極まりないシーズンオフを過ごしたのは言うまでもない。

■出陣前夜。

 明けて1966年。しかし彼らの目前には、とんでもない障壁が立ちふさがることになる。この年、最終戦の日本GPが鈴鹿から富士へ移されることが決まり、これに異議をとなえたホンダは日本GPへの出場を断念。つまりライバルより1戦少ないレーススケジュールの中で5クラス制覇を達成しなければならなくなったのである。

 50ccには、2気筒を熟成させたRC116を準備した。ボアを1mm拡大してさらにショートストローク化されたエンジンはリミット21,500回転という、驚愕の超高回転を実現していた。250ccは、それまでのRC165が決してライバルに劣らない性能を発揮する確信があり、そのまま6気筒の熟成を進め3RC165(RC165の3型)となった。350ccには前年型RC172のエンジンを高度にモデファイし、熟成をはかった4気筒RC173を用意し、万全の体制を整えた。初参戦となる500cc用には、4気筒のRC181が完成した。それまでの50cc2気筒や125cc4気筒に比べるとやや大味な印象さえ与える単室容積122.48ccのエンジンは、しかし最高出力85馬力以上を発生するモンスターマシンであり、充分なエンジン出力とは裏腹にフレーム剛性の不足や劣悪な操縦性に苦しめられ、開発に手間取ることになる。

 そこには、ヘイルウッドとレッドマンの、ライダーとしての技量の差も大きな問題となった。1966年、レッドマンに代わってホンダのエースライダーに迎えられたヘイルウッドは、それまで他のライダーからは聞かれなかった不満を開発スタッフにぶつけた。

 レッドマンが満足していたレベルを越えたヘイルウッドの要求。エンジンパワーはもちろん出力特性、操縦性、フレーム剛性、さらにはバンク角まで、ヘイルウッドはひとつ上の次元を求めたのである。

 そんな中、125cc用には、前年にデビューさせた5気筒の熟成が進められていた。125cc、5気筒。ショートストローク化された50cc2気筒のRC116と同じボア・ストロークを持つエンジンは、まさにその50ccシリンダーを横に5個並べた格好であり、その姿は250cc6気筒をも凌ぐ偉容を誇った。前人未踏の多気筒化によって想像を超えた超高回転の世界に突入し、レシプロエンジンの常識を越えつつあったRC群は熱対策にも悩まされたが、この1966年型から50ccを除く全車にオイルクーラーが装備され、その安定性と信頼性は大きく前進した。

 ライダーの布陣も、安定していた。50、125にルイジ・タベリとラルフ・ブライアンズ。250、350、500にマイク・ヘイルウッドとジム・レッドマンを配し、そしてホンダは1966年シーズンを迎えた。

1965〜1967
「レーシング」の源流