日本GP2位の片山・優勝の
  Ivy・3位の伊藤光夫
日本GP2位の片山
TTレ−スで初めてマトモに
 走り、3位のAnderson
RT66マシン
 海員ストで開催の遅れた第8戦のTTレ−スでは、プラグかぶりの原因は、新装着の「コンロッド大端強制潤滑用のメカニカルオイルポンプ」以外には考えられないとして、オイルポンプをはずして出場した。AM11時スタ−ト予定が、山手が濃霧のため、3時間遅れのPM2時となった。結果はAnderson・Perrisとも本年初めてまともに完走し3・5位(片山義美は公式練習でパンクし転倒負傷で欠場)、ヤマハのIvy・Read・Duffが1−2−4位、ホンダのHailwood・Bryans・Taveriが6−7−8位だった。Anderson・Perrisのノ−トラブル完走で、今まで悩まされてきたトラブルの原因は「オイルポンプ」にあったことが明白になった。だが具体的に何が問題だったかという究明はせず、日本GPには50・125ccとも「オイルポンプ」を外しての出場となった。なお、このレ−スを最後にPerrisが引退することになった。また、元スズキのライダ−藤井敏雄(カワサキで単身転戦していた)が公式練習で激突死するという不幸があった。
 第9戦のイタリアGPはスズキ不参加。Taveri・Bryansが1−2位、Ivy・Readが3−4位で、ホンダのメ−カ−タイトル、Taveri(ホンダ)の個人タイトルが決定した。
 ホンダの参加しない第10戦の日本GP(初の富士スピ−ドウエイ開催)はヤマハ・スズキ・カワサキの2ストロ−ク・水冷・2気筒マシンでの争いとなった。結果は、ヤマハのIvy・本橋明泰・Read・湯沢康治が1−4−5−6位、スズキの片山義美・伊藤光夫・Andersonが2−3−9位、カワサキの安良岡健・Simmonds・Vincentが7−8−10位で、初めてホンダ以外の車に乗った谷口尚己(カワサキ)はリタイアだった。なお、このレ−スを最後にAndersonが引退することになった。
 第1戦スペインGP(27周)は、1・2周の順位はAnderson・Ivy。3周目Anderson・Anscheidtともピストン焼付でリタイア。Perrisはこの後トップのIvyに続き、Bryans・Taveriを押さえていたが、6周あたりから点火系不調となり遅れはじめ、レ−ス後半にリタイア。結果はIvy・Taveri・Bryans・Readの順。
 第2戦西ドイツGP(17周)は、優勝Taveri・Bryans・Read・Perris・Anscheidt(1周目プラグかぶりでPit In)の順。AndersonはReadと3位争いをしていたが、8周でプラグかぶりでPit Inしリタイア。元スズキの藤井敏雄がカワサキで初出場したが、スタ−トでひどく遅れ、その後6位まで追い上げたがトラブルでリタイアした。
 第3戦オランダGP(14周)は、片山義美が序盤3位にいたが、チェンジレバ−の作動不良のため5周でリタイア。結果は優勝Ivy・Taveri・Read・Anderson・本橋明泰・Duffの順。Andersonのマシンは、シリンダ−スタットボルトが2本折損していた。Perrisはプラグかぶりで2回Pit Inし12位だった。カワサキの藤井敏雄はカワサキの藤井敏雄はリタイア。
 第4戦東ドイツGPは、優勝Taveri・片山義美・Ivy・Read・Perris・Bryansの順。Perrisのマシンは、シリンダ−スタットボルトが1本折損していた。Andersonは、ピストンが軽い焼付を起こし1周遅れだった。カワサキの藤井敏雄はリタイア。
 第5戦チェコスロバキアGPは、優勝Taveri・Bryans・Ivy・Anderson・Perrisの順。Andersonは2周でトップに立ったが、プラグかぶりでPit In。片山は1周してプラグかぶりでPit Inしリタイア。Perrisは最終ラップにラジエタ−がパンクしピストン焼付。カワサキの藤井敏雄は最終周6位でリタイアだった。
 第6戦フィンランドGPは、優勝Read・Taveri(1、2位は同タイム)・Bryans・Anderson・片山の順。Andersonは、プラグかぶり。片山は、プラグかぶりでPit In(リングも膠着)。Perrisは両ピストン焼付リタイア。カワサキの藤井敏雄は7周目6位でリタイア。
 第7戦アルスタ−GPは、優勝Taveri・Bryans・Read・Robb(ヤマハ)・Anderson・Perrisの順。ヤマハは水冷4気筒マシンを持ち込み、公式練習で走らせたがレ−スには出場しなかった。Andersonは、プラグかぶりでPit In。Perrisもプラグかぶり。片山もプラグかぶりでリタイア。Ivyはロ−カルレ−スで転倒負傷し欠場した。カワサキの藤井敏雄は不参加。
 スズキの出場マシンは、RT66で、2気筒水冷のRT65を性能アップし、RK66と同じく、コンロッド大端を強制潤滑するためのメカニカルオイルポンプを新たに装着したマシンであり、 ホンダは5気筒マシン、ヤマハはスズキと同じ2気筒水冷マシンで、日本メ−カ−三つ巴で選手権を争うこととなった。
 いざ開幕してみると、プラグかぶりに悩まされた。しばらく走るとだんだんガスが濃く?なり、プラグかぶりを起こしてしまう。そうかと思うとピストン焼付を起こす。原因が掴めず、まともにレ−スを終了することがないような状態で第7戦のアルスタ−GPまで終わってしまった。性能面でも、ホンダ・ヤマハに若干劣っているようだった。なお、アルスタ−GPに、ヤマハは水冷4気筒マシンを持ち込み、公式練習で走らせたがレ−スには出場しなかった。
 尚、第8戦のTTレ−スのAnderson、最終の第10戦日本GPのAnderson・伊藤光夫が、ボア×ストロ−クを 「44.5φ×40 」に変更した新開発の「RT66Y」で出場した。この「RT66Y」は、出力では「43φ×42.6 」の「RT66」より若干上回ったが、ピストン焼付対策で苦労したエンジンだった。
(2)1勝もあげられなかった屈辱の125cc
日本GP:2位Anscheidt
   と3位Anderson
日本GP:3位Anderson・
優勝片山義美・2位Anscheidt
イタリアGP:優勝の
   Anscheidt
TTレ−ス:3位Anderson・
優勝Taveri・2位Bryans
西ドイツGP:優勝の
   Anscheidt
スペインGP:最高ラップ
を出したが2位のAnscheidt
RK66 マシン
 出場マシンは、RK66で、2気筒水冷のRK65を性能アップし、コンロッド大端を強制潤滑するためのメカニカルオイルポンプを新たに装着したマシンであった。
 第1戦のスペインGPは、Taveri・Bryansが1・3位、スタ−トで遅れ最高ラップを出して追い上げたAnscheidtが2位、Andersonは4位。
 第2戦の西ドイツGPは、Anscheidt・Andersonが1・3位、Bryans・Taveriが2・4位。
 第3戦のオランダGPは、Taveri・Bryansが1・2位、Anderson・Anscheidt・片山義美が3・4・5位、BSの森下勲がヨ−ロッパのGPレ−スに初出場し、6位。昨年のイタリアGPで骨折し欠場していたDegnerが、このレ−スからカムバックしたが精彩なく7位。
 海員ストで開催が遅れた第4戦のTTレ−スは、出走車が17台と少なく同時スタ−トとなった。スタ−トから7マイル地点での順位は、Anderson・Taveri・Bryans・片山義美。しかしまもなくAndersonは軽いピストン焼付で後退。17マイル地点では、Bryans・Taveri・片山義美・Anscheidt・Anderson・Degnerの順。2周目片山義美・Anscheidtもピストン焼付を起こし脱落。結果はBryans・Taveriが1・2位、Anderson・Degnerが3・4位で完敗。このレ−スを最後にDegnerはスズキから去り、レ−ス界から姿を消すことになった。
 第5戦のイタリアGPは、Anscheidt・Andersonが1・4位、Bryans・Taveriが2・3位。メ−カ−タイトルは、ここでホンダに決定。AnscheidtとTaveriの個人タイトルは最終の日本GPに持ち越された。
 第6戦の日本GPは、ホンダが欠場。片山義美・Anscheidt・Anderson・伊藤光夫のスズキが1−2−3−4、BSのRobb・Findleyが5・6位。健闘の元スズキのBS森下勲は2周目転倒リタイア。この結果、2位となったAnscheidtが念願の個人初タイトルを獲得した。
(1)何とか個人タイトルを死守した50cc
(3)その他の特筆すべき事項

Degner、Anderson、Perrisの引退

 DegnerがTTレ−ス50ccを最後に引退した。1961年のスエ−デンGP後亡命し、1962年スズキに加入、1962年のTTレ−ス50ccでスズキに初の優勝をもたらせ、彼の活躍でスズキに初の50ccメ−カ−タイトルをももたらせた功労者である。1963年の日本GP250での大火傷、1964年日本GP125での復活優勝などが深く記憶に残る。彼の詳細紹介については、『デグナ−の追想』をご覧下さい。

 Andersonが日本GPを最後に引退した。1961年のTTレ−ス250ccでスズキに加入し、チ−ム全員から「アンちゃん」と親しまれ、1963年以来チ−ムの大黒柱として大活躍し、1963年には、50cc&125cc、1964年には50cc、1965年には125ccと4つの個人選手権を獲得している。彼の詳細紹介については、『アンダ−ソンの追想』 をご覧下さい。

 PerrisもTTレ−スを最後に引退した。1963年のベルギ−GPからスズキに加入し、Andersonをよくサポ−トし、1963・1965年の125ccメ−カ−タイトル獲得に貢献した。1962年の全日本選手権、雨中の125ccでのRobbについでの2位、1963年日本GP125ccでのRedmanと競り合っての優勝が印象に残る。ほかに1965年東ドイツGP・チェコスロバキアGP125ccで優勝を飾った。非常にもの静かな、夫婦仲の良い、奥さんに優しい英国紳士だった。

・元スズキのライダ−藤井敏雄がマン島で激突死

 藤井敏雄は、鈴木誠一・久保和夫の率いる名門「城北ライダ−ス」より1962年にスズキに入社し、メカニックとして、またマシン開発ライダ−として活躍した。1965年の日本GP50ccレ−スでは、序盤戦Taveri・BryansとTOP争いを演じたが、惜しくも転倒リタイアした活躍が記憶に残る。日本GP後の11月スズキを退社し、1966年の第2戦の西ドイツGPから新開発の「カワサキ125cc水冷2気筒マシン」でメカニックはなく単身で、GPを転戦していた。完走は一度もなく、苦しいレ−スのようではあったが、ヨ−ロッパの一人旅を結構楽しんでいるようにみえた。第8戦のTTレ−スの8月26日の公式練習中、Ramseyで塀に激突し死亡するという不幸な事故が発生した。カワサキからは大槻さん?という技術者の方が視察に見えていたが、遺体の日本への返送等の手続きをお手伝いするよう、渉外担当者に命じた記憶がある。日記帳の8月27日には「藤井敏雄の遺体返送の件で多忙」とだけ書かれてあるが、具体的に小生が何をお手伝いしたのかは覚えていない。事故後、衝突現場に花を捧げに行ったが、レ−スコ−スから大分離れ、どうしてこんな所に激突したんだろうとと思った記憶がある。9月1日50ccレ−スが終わり、その夜、夜行船便でマン島からリバプ−ルに向かったが、船上で暗いマン島を眺め、冥福を祈ったことが脳裏に残っている。

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                       1966年ドイツGP(野田健一さん提供)



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 1966年は、250ccの参加は幕を下ろし、50・125cc2クラスのフル参加を目指して準備を進めた。
 外人ライダ−としては、Degner・Anderson・Perrisに昨年の日本GPより加入のAnscheidt、日本人ライダ−としては、片山義美の布陣で望むことになった。しかし、Degnerは、昨年のイタリアGPでの左足骨折のためオランダGPより復帰したが、オランダGPとTTレ−スの50ccのみに出場した。片山義美は選手権レ−ス開幕前のマレ−シアGPで転倒し鎖骨骨折、オランダGPからの出場となった。

 1966年は「ホンダの年」だった。50ccは2気筒でTaveri・Bryans、125ccは5気筒で、同じくTaveri・Bryans(TTレ−スはHailwoodも出場)、250ccは6気筒でHailwood・Redman(ベルギ−GPでRedman負傷後は新加入のGraham、Redmanはこの怪我がもとで引退)、350ccは4気筒でHailwood・Redman、初挑戦の500ccは4気筒でRedman・Hailwood(Redman負傷後はHailwood一人)とマシン・ライダ−とも最強の布陣だった。
 この結果、Solo5クラス全てのメ−カ−タイトルを獲得した。Solo全クラス制覇は、1958・1959・1960年の3年連続という、MV-Agustaの大記録があるが、当時は50ccはなく、4クラスだった。
 個人タイトルも125ccがTaveri、250cc・350cc両クラスをHailwoodが獲得した。50cc個人タイトルは、TaveriとスズキのAnscheidtの争いで、タイトル決定は最終戦の日本GP(初めて富士スピ−ドウエイで開催)に持ち越されていたが、ホンダは全クラス不参加で、Anscheidtが獲得することになった。Taveriは1962・1964・1966年の125cc個人タイトルは獲得しているが、50ccのタイトル獲得はなく、大きなチャンスだったのに、残念のことだったと思う。また、500ccは、第3戦のベルギ−GPでRedmanが負傷したため、代わってHailwoodが乗ることになり、第5戦チェコスロバキアGP・第7戦アルスタ−GP・第8戦TTレ−スの優勝で、最終戦(第9戦)のイタリアGPで、HailwoodとAgostini(MV)のいづれか優勝した方が個人タイトル獲得ということになったが、Hailwoodはエンジントラブルでリタイアし、タイトルを逃した。メ−カ−としては、ホンダが9戦中5勝、MVは3勝だったが・・。
 また、Redman欠場後のHailwoodは、250・350・500ccに出場したのである(FIMの規定では、一日に500km以上のレ−スには出場出来ないと定められ、アルスタ−GPは3レ−ス合計距離が536kmとオ−バ−するため、250ccは出場しなかった。もっともこの時点では、250のタイトルは、メ−カ−がホンダ、個人はHailwoodに決まっていたが・・)。中でも、チェコスロバキアGPは、激しい豪雨の中で、250ccクラス9周125.468km、350ccクラス11周153.350km、500ccクラス13周181.200kmの3クラスを走り、すべてのレースに優勝したのである。神話ともなったこのレースは、今も私の記憶に深く残っている。この『一日のレ−ス距離は500km以内というFIM規定』について、私は後年まで知らなかった。この規定を頭に置いた場合に納得いかないことがある。それはTTレ−スである。TTレ−スは3日間にわたって開催され、第1日目がサイドカ−&250、第2日目が125&350、第3日目が50&500である。本年のTTレ−スにHailwoodは125・250・350・500の4レ−スに出場した。即ち、第2日目の125&350の両レ−スに出場しているのである。125の3周、350の6周の合計距離は約540kmとなり規定違反ということになる。このことが納得いかない。何はともあれ、伝説のライダ−Hailwood一人の超人的な活躍で、ホンダに250・350・500の3っのメ−カ−タイトルをもたらし、自らは500のタイトルを惜しくも逸したが、250・350の両タイトルを獲得したのである。

それにしても、何故ホンダは、Taveriに個人タイトルを諦めさせてまでして、日本GPを欠場したのだろうか?。

 ホンダの公式ホ−ムペ−ジに、過去掲載されていた『レーシングの源流』の中の、この件についての二つのペ−ジを紹介するので、参考に ご覧下さい。

第11話「空前の全クラス制覇・常しえの夢飛行」の中の関連記事

富士スピ−ドウエイ開催に「異議をとなえたホンダ」

 また、1967年1月号の「某雑誌」には、次のような記事がある。『ホンダは「富士スピ−ドウエイコ−ス(特にそのバンク部分)の安全性が確認されていないので」欠場したわけである。なるほど至極ごもっともと言える理由である。大義名分として納得できるものだ。しかしホンダ欠場の本当の理由は、別のところにあることも確かだ。ホンダが巨費を投じて建設した鈴鹿サ−キットとの関係である。』・・・これらが、ホンダの言う「巷間の次元の低い噂」を指すのであろう。何にしても、Taveriの「悔しかった気持ち」は十二分に解る。
[1966年世界選手権レ−ス(ホンダがソロ全5クラスを制覇)]