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          福田貞夫さんの昭和30年度(1955年度)の日記ー1

 福田さんの日記が見つかった。昭和30年(1955年)4月から、昭和31年(1956年)3月までの一年間の日記である。福田さんは一生にこの一年間だけしか日記をつけていないようだ。この間には、昭和30年7月10日開催の第3回富士登山レース、昭和30年11月5〜6日開催の第一回浅間高原レースがあり、ホンダのこれらのレースに対しての取り組み方などが判る貴重な記録である。



昭和30年(1955年)

四月一日(金)曇。皇太子浜松近郊の産業を御見学
日記の書き始めの日が四月馬鹿とは・・・。しかし三十年度は今日からである。会社へ行って皆んなびっくりする様な面白い「ウソ」は無いものかと考えたが中々いいアイデアが無い。浜名湖一周のテストを午前十一時に出発したが道が悪いのと天候が悪いのにはこりた。しかし瀬戸の桜はきれいで、これがせめてもの慰めであった。

六月十一日(土)曇後雨
富士登山レースが七月七日にあるそうである。その下検分に今日ベンリー号二台で富士山二合目まで出掛ける。エンジンは最近組立てられたばかりの前進四段踏込式のものである。小生も行きたかったが、選抜に漏れてしまった。午前中昨日の電電公社納入車の残りのテストを行う。最高速度が規定まで出ず、やり直しがしばしばあったが、どうにか合格する。

七月一日(金)曇後晴。ボーナス出る。山開き、海開き。
富士登山レースに出場する車のテストに今日小生と何人とで行くことになって居たが車が出来て来ないので取止めとなる。それに期日も迫って来ている事も取止めの大きな理由の一つであると思う。それに今日はボーナスの支給される日である。金額は一萬六千円ほど入って居た。これは完全な余禄であり今年の夏も楽しく過ごせると云うものである。各地で海開き山開きがある。

七月二日(土)晴。プロ野球オールスターゲーム パ軍二対〇にて勝つ。
いよいよ真夏の感が深くなって来た。木の葉のみどりも濃く花の色もいかにも夏の色らしく濃くあるいは派手に咲いている。庭を眺めてみるとダリヤ・グラジオラス・キンセンカ・アジサイ等の花が咲き誇っている。
例によって今日も出勤、相変わらず暑い。旅行の話もあちこちから持ち上がって来る。職場単位、同級生関係、同一部員等から。
明日は富士宮まで車を陸送するよう命ぜられる。

七月三日(日)晴。オールスターゲーム セントラル九対四で勝つ。
今日はカメラ部のヌード撮影がある日であるが、富士宮までベンリーを陸送する様命ぜられたので出席できず残念無念。仕方なく朝寝坊をして十時頃会社に出る。十一時二十分前頃会社へ着いたが車が出来て居らず五時頃にならなければ出来ないと云う。五時になっても出来ず午後十二時になっても出来ない。明日の朝まで寝る事にする。結局今日は無為に終わってしまった。

七月四日(月)曇。社会部集会あり(出席せず)。
今日こそはと思って朝四時と六時にそれぞれ電話を掛ける。しかし車は出来ないと云う返事であった。車が出来ないと云う最大の原因はHPの不足である。一二五ccで七HP出そうと云うのである。無理といえば無理かも知れないが、しかし現に七HP以上の車が三台出来ているのであるから不可能な事ではない。八時四十分頃会社へ入る。昨夜は良く眠れなかったので仕事中眠くて仕方がない。定時終了後すぐ帰宅、早く休む。

七月五日(火)雨。出張。
午後零時頃会社から富士登山用レース車を今すぐに陸送して呉れと云って来る。昨日もあまり眠ってないので眠け眼をがまんして会社へ行く。二台で行く事になって居たので柴田君が来るのを待つ。会社を出発したのは午前二時四十分であった。雨が降って居たので顔へ雨が冷たく当り却って眠気をさまして呉れる。富士宮へ着いたのが六時十五分、すぐに休んで午後四時頃汽車で帰る。

七月六日(水)曇
公安委員会より免許証の臨時検査の通知が届く。昨日まで夜中に働いたり又待機したりして通常の日程とは全く掛離れたものであったが今日から又通常に戻る。昨夜は久しぶりでぐっすり眠ることが出来た。九日に富士登山を計画して居たが遠鉄との折合がうまく行かずお流れとなりそうである。この計画の中には富士登山レース観戦も入って居たのであるが・・・。
帰途床屋へ寄って調髪する。十時半就寝。

七月九日(土)晴。浜松で飛行場へジェット機降りる。
四国電力納入車四二台出荷。最近電力会社からの注文がかなり多い。他に東京電力、中部電力、九州電力等がある。富士登山レース車が車検に不合格となり出場不可能かと思われたが、四段ミッションを取外し三段にし、シリンダーヘッドも現在売出中の物を用いて出場する事になる。これでは優勝はおろか上位入賞もむづかしいだろう。音楽部員の旅行、根上高原行きは小生は止める。

七月十日(日)晴。

富士登山レース開催

軽自動(250) . バイク(125)
1   ドリーム 1  ヤマハ
2   ドリーム 2  ベンリー
3  DSK 3  ヤマハ
4  DSK 4  ヤマハ
5   ドリーム 5  ヤマハ

今日は久し振りに休日らしい日を迎えた。九時頃起床、風が西南西方面より吹いて来て二階の部屋を通り抜けて行くので大変涼しい。ギターの胴の部分の「のり」が取れてしまって弾けないのでセメダインとセロテープで治す。室内の配線を変える為の穴をあける部分を先ず穴をあけて置く。ギターを習ってみたが未だ練習曲又は簡単に編曲した曲でないと弾けない。進歩が遅い様である。

七月十一日(月)
今日あたり根上高原へ行った連中はさぞかし高原の気分を満喫して居る事だろう。こちらはそれ所では無い。又例によって暑い。それに十一時頃になると腹が減りだるくて力が出ない。どうした事だろう。もう半月くらい前からである。富士登山レースへ出場した連中が帰って来る。ほこりにまみれ日焼けした顔に疲れの色が濃い。今後の休日に遠乗り会へ行こうと云う話が持ち上がる。

七月二十日(水)晴
柴田、宇田両君が今年十月に開催される浅間山レースに出場のための下検分に行く事になった。自分達の為にも良い出張は全て上司に占められるのは誠に残念である。定時終了後ミサオさんの見舞品を買いに行く。山本有三の「女の一生」「生きとし生けるもの」外を買う。九時頃皆で見舞に行く。今後の休日に又箱根方面へバス旅行の計画がある。

七月二十七日(水)晴
箱根方面の旅行の時の写真が出来る。雨が降って居たせいもありうまく撮れていないのもあった。後ピンの写真が多い様な気がする。距離計を治してから少し狂ったのかも知れない。宇田、柴田両君が今日は帰って来るかと思ったが帰らず。四人では仕事がえらくてしょうがない。早く帰って来てもらいたいものだ。定時終了後映画でも観に行こうかと思ったが、途中 文さ と一緒になる。カメラ屋本屋を廻る。

七月二十八日(木)晴
兄貴が時計を持って行ってしまったので、朝ちょっとまごついた。やはり時計は必要である。こういう時、始めて時計のありがたさを知る。労災保険金を請求すれば、きっともらえる筈だが中々その気になれない。時も経っているし、手続きがめんどうであるからか?
最近特に自分と云うものがつまらない。又何をしても自信が無い。何かしら不安定な気持ちである。何故だろう?

七月二十九日(金)晴。共産党書記長徳田球一氏死亡発表される(1953・10・1)。
柴田、宇田君が帰って来る。これで久し振りに全員揃った事になる。今日も相変わらず暑いが仕事の方は順調に出来る。人が増えた関係もあろう。定時終了後ギターを習いに行ったが、先生は居らず練習は無し。すぐ東洋劇場へ「スピードに命を賭ける男」を観に行く。シネマスコープによるスピードとスリルの感覚は期待以上であり、正にスピードに命を賭ける男ジノを演ずるカーク・ダグラスの演技はすばらしい。

八月五日(金)晴。十月二十八日浅間山レースに出場願を出す。
ラジオの報通り少し暑さが和らいだ様である。昨夜の雨が幾分影響したのだろう。この分でずっとゆけば良いが。十月二十八日に浅間山に於いてオートバイ耐久レースがあるがそのレースに出場願を出す。宇田、柴田君と共に。他に池田、諏訪部、広田、秋鹿、高橋、大村君等が申し込んでいた。昨年の鎖骨骨折の時労災保険で金を請求すればもらえそうだが中々その気になれない。

八月八日(月)晴。浅間レース打合せ。
昨夜寝つきが悪く一時頃まで眠れなかった。そのせいだろう、七時頃母に起こされてようやく目を覚ます。
日曜日の明日というのは何故か調子が悪い。これは毎回である。午後一時から浅間レースの打合せがある。今回の合宿練習は十一日から十七日まで、その目的は選手の決定及び道路状態の確認、チームワークの練習と云う事であった。

八月九日(火)晴
出張が明日と決り、その準備に関係者一同中々忙しそうである。明日出発する選手は健康診断をすると云うので診てもらう。今日は朝から腹の調子が悪く、注意する様に言い渡された。氷は一切飲まない、生水もいけない、天ぷら等油性のものはいけないと云う。定時終了後、山口さんの所へ行ったが留守であった。すぐ帰って明日の支度をする。

八月十日(水)晴。埼玉県北足立郡大和町にて。
朝五時に起床する。心配された天候も朝には、きれいに晴れ上がって居た。住吉工場からプリンスで埼玉工場まで行く途中、箱根、芦ノ湖等を経て三時半埼玉工場へ着く。八時間半も車に乗りっぱなしでは眠くなるやら疲れるやらで大変である。三島まで道路が悪く、ほこりが車の中へ入り込んでワイシャツがひどくよごれてしまった。寮で風呂へ入ってすぐ休む。

八月十一日(木)晴。北軽井沢にて。
浅間レース合宿練習をすべく、埼玉の選手と合流して十二時三十分大和町新倉を出発する。途中小生の乗って居たエンジンの調子悪く(焼気味)どうにかこうにか皆と一緒に行けた。北軽井沢に着いたのは午後四時頃、さすがにこの地方は涼しく浜松の十月頃の気候である。今日は練習は無し、早く休む。

八月十二日(金)晴。北軽井沢にて
起床は割合遅く八時頃であった。朝一回、午後五時頃一回の練習をする。朝の練習を終って日中は休む。マージャンに夢中になる連中、昼寝をする人達、自転車を借りて遊びに出る者、小生も何か良い事が無いものかと柴田君と出かける。宇田、諏訪部君も一緒に行く。自転車を借りて照月湖まで。案にたがわず四人の名古屋の娘と知り合う事が出来た。

八月十三日(土)晴。北軽井沢にて
起床はランニングを約二千米ぐらいやったが、疲れている体にはたまらない。第一周目の練習の時に途中岩にのり上げハンドルを取られ転倒する。左腕の下部に打撲傷を負う。車の方はヘッドライト附近がメチャメチャとなり、やむをえず取り外す。左右同肩が痛む。肌着を脱ぐのが、やっとであった。昨夜はバンガローに遊びに行き、連絡しなかった為に皆に迷惑をかけてしまったが、今日は十一時半までという約束で外出する。

八月十四日(日)晴。北軽井沢にて
五時起床、すぐ練習を開始する。今日も転倒してしまった。これでは体中痛んで仕様がない。局長さんが今日は日曜日だからと云うので草津まで案内して呉れるとの事。バンガローの彼女達も一緒に連れてゆく。“草津良い処一度はおいで お湯の中にも花が咲くよ”と唄に歌われている、その夢が現実となって本当に楽しい思い出が残された。

八月十五日(月)晴一時雨。北軽井沢にて
例によって五時起床。この五時と云うのは登山客を避けるために、こんなに早く練習をする事になったのである。一周ごとのタイムを取る。小生は体が方々痛むので、ドリームの350ccに乗ってゆっくり回る。転倒者が多く完全に走った人は少ないほどであった。他社(キャブトン)でも練習に来て、五台中二台転倒したそうである。車が三台故障で動けなくなり、練習が思う様には出来なくなったので、二人を残して小生たちは先に帰る。

八月十六日(火)晴
昨日の四時二十五分(午後)北軽井沢を発って、帰宅したのは今日の午後五時であった。二十四時間余かかった訳である。名古屋までは友達が多く、何も退屈しなかったが眠いのは致し方無い。東京の方を廻ろうかとも思ったが、照月湖で知り合った名古屋の人達も帰ると云うので一緒に帰る。本当に楽しい出張であった。つらい事もあったが、名古屋支店に寄って、少し休んで二時十五分発の列車で帰る。

八月十七日(水)晴。自宅にて
さすがに軽井沢は涼しい処であると云う事が、この暑さで再確認される。軽井沢の今の気候は、こちらの十月初旬頃の気候である。レースは十月二十六日 二十七日と行われるがその頃はもう霜が降り非常に寒いそうである。出勤してすぐ所長及びレース関係者に報告する。久し振りに皆んなの顔に接する様な気がする。わずか一週間逢わなかっただけなのに。

八月二十日(土)晴
先日の旅費の精算があり四千五百円ばかり入る。この頃の入費は非常に有難い。鈴木淳三氏が見えた。この人も浜松地方の出身者だそうである。先日行われた富士登山レースではドリームに乗り二等に入賞している。定時終了後、大映劇場の「狼」と「浅草の鬼」を観に行く。「狼」の方が断然すばらしく最近の邦画では一番であろう。

八月二十五日(木)晴。給料日
今日の新聞にドライミルクの中に有毒な砒素が入って居り、乳児四人が死亡した事件が大きく載って居た。これは重大事件である。しかも製造元は天下に名の知れている森永乳業である。何故この様な有毒物が入ったかは今調査中との事。昨日遅かったので眠くてたまらない。定時終了後浅間レース出場車の配色はどの様な色が良いだろうかと云う事について話あり。夕方から大分涼しくなり肌寒いほどである。

九月三日(土)晴
久し振りに太陽が見られた。秋とは云え太陽が照るとまだ暑い。来週の月曜か火曜日あたり富士宮へJC型のテストに行くそうである。五・六名で行くが小生もその一員に加えられている。それが終わればすぐ又浅間山へ行かなければならない。中々忙しい日程である。ラケット屋へテニスのラケットに張るガット線を買いに行く。

九月五日(月)晴
JC型テストに富士宮へ明日行くと云う事が今朝明らかになった。性能検査及び完検からで八人で行くのだそうだ。どういう事をやるのか、中々大げさな様な気がする。定時後課内規約の審議をする会の名は「親睦会」と云い、定例会は年四回、会長の任期は六ヶ月等活発な意見が交わされ成立する。今月は忙しそうである。即ち明日発ち、十日頃帰ると又すぐ浅間へ行かなければならない。そして十月始めに又練習があるそうだ。

九月六日(火)曇後雨。富士宮支那中ホテルにて
朝九時に浜松葵工場を出発。JC型No2に乗って行く。途中掛川辺りで雨に降られ雨やどりする間に連中と別れ別れになってしまった。三時四十五分富士宮に到着。すぐ二合目まで道路状況を観に行く。No2車は馬力が少なく、ハンドル重く、前ホークのクッションは悪く、良い所はなかった。

九月七日(水)曇。富士宮支那中ホテルにて
朝目を覚ますと眼前に富士山がそびえ立って見える。八時半出発、二合目まで登る。これが富士山を登ったのが始めてである。第一回目はNo2で登ったが馬力が少なく、ローで一合目までは登れたが、二合目手前でどうしても登れなくなってしまった。午後はNo3で、これは快調である。道路が悪く非常に疲れてしまった。

九月八日(木)曇。富士宮支那中ホテルにて
八時半出発、まず二合目まで登る。一往復目にNo3のチェンホイールのボッチが三本共取れてしまう。二台で四往復をやって終わる。二合目あたりまで行くと非常に涼しく裏山に登ったような気分に浸ることが出来る。五時頃終了。白糸の滝及田貫湖まで遊びに出かける。○○○○の滝も又すばらしい。十二時就床。

九月九日(金)曇時々雨。富士宮支那中ホテルにて
五時起床すぐ出発し、富士山二合目まで登る。所要時間を計ると云うので凸凹の激しい坂道をフッ飛ばす。一回目はNo2で走る。これは馬力が他の車に比較して少なく無事に登る。時間は二十八分四十九秒。二回目は二合目少し手前で転倒。でも怪我はなくほっとした。時間は三十七分二十秒ぐらいであった。午後は秋鹿さんが来られたので小生は休む。全く疲れた。

九月十日(土)曇時々晴。富士宮支那中ホテルにて
いよいよ富士宮とはお別れである。心配された天気も晴れ上がり気分は快適。出発は九時と予定されたが、予定より約一時間遅れて十時出発。途中走行距離を稼ぐため「羽衣の松」を通り「久能山」を経て静岡で一休み。そこで代理店に寄り、車を治し又御前崎方面へ向かったが、ベンリー号JBが走行不能となり、プリンスのファンベルトが切れ、約二時間遅れる。

九月十二日(月)曇時々雨
久し振りに軌道に戻り七時三十五分家を出る。雨が降って居たので長靴を持って行く、途中雨は止み雨具が不用になってしまう。残念である。浅間レースに出場する車が一台出来て居る。中々走りそうである。十四日頃又北軽井沢へ合宿練習に行くとの事。この月はこちらに居る時と半々ぐらいになってしまうだろう。

九月十三日(火)晴
朝少し雨が降ったので傘を持って行った所が、九時半頃から快晴となり傘を持っているのが体裁悪い程である。明日浅間レース合宿練習出発が決定的となる。組立・性能検査その他関係者は徹夜でレーサーを組立て完成させ、明日の昼までに間に合わせるそうである。全く涙ぐましい努力である。

九月十四日(水)晴。東京池袋にて
浅間レース合宿練習に出発のため、大きなカバンをさげて家を出る。午前中仕事する。しかし流れが順調でないので三十台ぐらいしか出来ない。午後二時、シボレーに乗って浜松駅まで乗り付ける。二時三十五分であった。明日の朝までに(八時半)埼玉の白子工場に着けば良い事になっているので宇田、柴田氏と池袋へ泊まる。

九月十五日(木)曇時々雨。北軽井沢にて
昨夜は池袋の安い旅館へ泊まり、八時二十分埼玉白子工場に出勤、そこでベンリーレーサーに乗って北軽井沢まで陸送する。途中に熊谷を少し出た所で、急に車が動かなくなり、皆んなより遅れてしまった。ヘッドカバーを取ってみるとボールボルトが折れて居る。ジープですぐ熊谷まで部品を取りに行って取り付け出発する。それにキャブの中に砂が入りスロットルバルブが動かなくなり治して行く。軽井沢へ着いたのは六時頃であった。

九月十六日(金)北軽井沢にて
起床七時二十分、雨戸を開けると白樺の梢の間から青い空が眺められ澄み切った空気は本当に気分が良い。昨日陸送中故障した車を整備し午前中はそれで過ぎてしまった。山にはもう栗が落ちている。三時から練習開始、第一周はJB型で走ったがオーバーヒートして走らない。そのうちにミッションが全然駄目になってしまった。JCレーサー団も途中でバッテリーが無くなり走れなくなってしまう。

九月十七日(土)晴。北軽井沢にて
今日も晴天なり。朝のうちは非常に冷える。持って来た肌着全部を着てもなお寒い。朝食前に体操、続いてコース 二・三周。鈴木義一君が第一周目に松竹ローケーションのトラックと衝突、入院してしまった。朝飯を食って松竹作品「泉」のローケーションを観に行く。佐田啓二・有馬稲子主演らしい。監督は小林正樹。三時から午後の練習、四周連続に廻る。疲れた。

九月十八日(日)曇後雨。北軽井沢にて
七時起床、例によって体操を済ませてからコースを二周する。やはりJB型よりJC型の方が安定性が良い。今日は日曜日でもあり選手達も疲れているからと云うので午後の練習はない。工藤部長が見える。二時から柔軟体操をやる。筋肉が痛くてやり切れないが終わり近くなると痛みもだいぶ柔らぐ。午後からずっと雨が降り明日の天気が気づかわれる。

九月十九日(月)晴。北軽井沢にて
例によって七時起床。すぐ練習を始める。しかし車五台に選手六名のため一名は休む事になって居り、休む番が今日は小生に廻って来る。牧場から眺める浅間山がなだらかな緑の牧場の向こうに煙を吐きながらそびえ立っている様は誠に見事である。小型自動車協会及び警察及び陸運事務局より視察がある。タンクガス洩れが通算三台出た。注目すべき結果である。

九月二十日(火)晴後曇。北軽井沢にて
朝は快晴なり。本当に気持ちが良い。体操が済んだ後コースを走ったが今日もいけない。ポイント台が動いてしまってコンタクトしなくなって全然動かない。
一台治して走ったがまた動かなくなる。休み時間にバスに乗って「鬼押し出し」まで遊びに行く。寿岩、大岩の大海、誠にすごい眺めである。神谷部長が見える。午後の練習の時クラッチレバーが脱落する。YAMAHAも練習に来て居た。

九月二十一日(水)晴。北軽井沢にて
合宿練習もいよいよ終りに近づいた。今日はJBに乗って走る。とてもJCと同じ様には走れない。ダンパーが無いのとサドルが高いので安定性がすこぶる悪く、ハンドルに必死になってしがみついていなければならない。朝の第二回目を終わって帰路、石に乗り上げホークが曲がり、クッションしなくなってしまって左右に大きくハンドルを取られ転倒する。負傷はなく幸であった。

九月二十二日(木)晴。北軽井沢にて
今日でいよいよ合宿練習も終りである。午前中に牧場を抜いた一周の所要時間を計る。ドリームでは最高が十六分十三秒、ベンリーでは柴田十九分二十九秒、宇田(ブランク)、福田十九分三十六秒、広田十九分五十九秒、大塚二十分五十五秒であった。この記録は絶対他に漏らさない様厳重に言い渡されている。午後は荷造り身支度をして明日に備える。

九月二十三日(金)晴時々曇。河口湖湖月旅館にて
起床六時、長いと思った合宿練習も終った。タクシーを飛ばして沓掛まで行く。河口湖への旅行に参加すべく新宿より中央線で大月まで乗る。旅行参加者は大村、諏訪部、大塚、宇田君及び小生五名である。河口湖に着いたのは五時半頃であったが、連中はまだ到着して居らず。五名でモーターボートに乗って遊ぶ。船津町を挙げての大歓迎であった。花火も打ち上げられるうちに一行到着。

九月二十六日(月)晴。会社より皆勤賞をさづかる & 浅間レース補欠選手に決定。
長らく遠ざかっていた職場へ今日十二日振りに就く。矢張り何となく気分が違う。午前中に五十二台も合格し、全く好調である。午後タンク欠品のため流れず定時終了。浅間レースについての話が十五時第二会議室に於いてある。結局選手二補欠一が浜松より選定された。会社より一ヵ年皆勤賞としてお盆が贈られた。定時後JCテストに瀬戸まで行く。バッテリーが上り暗くて懲りた。

九月二十八日(水)雨後曇
十月一日又も浅間に出張決定。今度は人数が少なく前回の半数以下である。選手は二名補欠一名で整備三名それに河島課長及び市川次長の編成である。雨が降ったり止んだりの天候で遠く海鳴りが聞えて来る。雨の切れ間を見て仕事をする。カッパを着るのは面倒だから皆そうするのである。でも定時までに九十台突破した。預金五万円を預入れる。

九月三十日(金)雨時々曇
十月一日浅間レース合宿練習出発が一日延期された。これでどうやら明日の休みがゆっくり出来ると云うものである。河口湖で撮った写真が出来て来る。後の半分はまだカメラの中に入ったままで早く何とかしたいと思って居たが生憎の天候と仕事で撮る時が無く残念である。定時終了後松菱劇場で「フレンチカンカン」「ドン・カミロ頑張る」を観て帰る。


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