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          福田貞夫さんの昭和30年度(1955年度)の日記ー2

昭和30年(1955年)

十月二日(日)雨。古橋君の寮にて(東京都新宿区)
二時三十五分の湘南電車で東京まで行く。浅間レース合宿練習のためである。台風二十三号が接近しているとの報道あり。浜松駅で古橋家光君と会う。丁度良い所で会ったものである。東京まで一緒に学校時代の話、現在の生活状況等話しているうちに東京駅に着く。まだ雨が降って居た。ブラックシャドーへジャズを聞きに行く。

十月三日(月)雨。安中角尾旅館にて
昨夜は古橋君の寮に泊めてもらったので宿泊料が大分助かった。朝七時五分寮を出る。会社(白子工場)へと着いたのは八時二十五分。十時出発と云うのですぐ支度をする。途中ベンリーの故障多く熊谷で昼食を食ったのは二時頃であった。諏訪部、義一ちゃと小生三人だけとなり、諏訪部の車調子悪く小生だけ先に行ったが途中で駄目になってしまい安中で泊まる。

十月四日(火)雨後曇。北軽井沢A合宿所にて
安中の旅館を発ったのが八時五分。雨は相変わらず降り続き、道路は最悪の状態である。途中何度もエンスト。その度にプラグキャップを掃除する。碓氷峠の下で止まった時はもうだめかと思ったが、里芋の葉を前(エンジン)へ付けて走る。水をはじくので案外良かった。以後快調。午後の練習の一周目にクランクシャフト焼付という重大事が起る。

十月五日(水)曇後晴。北軽井沢A合宿所にて
昨日は午後の練習に故障が多く、ロット折損が二台も出る。そのため練習車が不足となり小生はドリーム号に乗る。これは最初からスピード感に慣れるために是非やらなければならないと社長からも云われて居たそうである。午前中は練習無し。午後局部的に二組に分れて行う。毎日ドリームに乗って居る人達は格段の差がある。二分ぐらい離される。それでもベンリーよりは速い。

十月六日(木)雨。北軽井沢A合宿所にて
朝から一日中全くコンスタントに雨が降る。風は全く無し「そぼ降る小雨」と云うにふさわしい降り方である。起床は七時頃であった。練習が無いので室内でマージャンに夢中になる者、本を読む者、金振りやる者、種々様々である。十一時、柔軟体操。明日も雨らしいと云うので草津へ遊びに行くといって五・六人出掛けた様である。

十月七日(金)曇
早朝まで雨が残り練習出来ず。起床は八時頃であった。こちらへ来て満足に練習出来た日はまだ一日も無い。天気の良い時はエンジンの故障と全く駄目である。草津へ遊びに行った連中が案外早く帰って来た。八時半頃である。午後も練習は無し。現在ベンリーの練習車が三台しかないために補欠選手である小生には恵まれない。

十月八日(土)晴。北軽井沢A合宿所にて
浅間レース局解散
久し振りに快晴。浅間山がくっきりと秋の空に白煙を吐きながら眺められる。午前中に軽く練習。午後は二時から五時まで小生はドリームに乗って練習したが調子悪く焼付寸前まで行ってしまった。途中レース練習中止の指令が警察より出る。午後八時四十五分ついにレース中止が発表される。選手及関係者皆がっくりした表情。

十月九日(日)晴後曇。箱根湯本水明荘にて
浅間レース一時中止という発表があったので、すぐ帰る様本社より指令がある。朝九時、名残惜しんで北軽井沢の地を出発、ドリーム号にまたがって一路埼玉工場へと向う。途中エンジンの故障、交通事故等で遅くなり工場着が午後二時三十分。本社埼玉の運動会が豊島園で開催して居ると云うので観に行く。三時半埼玉を出発。一路浜松へと向う。途中江ノ島を廻り箱根湯本にて宿泊する。

十月十日(月)雨時々曇
昨夜は少々酒を飲んだのと温泉に浸かったのでぐっすり良く眠れた。朝風呂に入り旅館を出たのが九時であった。箱根を越す前までは雨が降って居たが以後は止んで居りドライブには持って来いの天候である。芦ノ湖で小休止。みやげ物を買う。沼津あたりから又小雨が降り出して来た。静岡で車の故障で二時間遅れる。掛川、掛塚、天竜で祭りがあり、人出が多い。掛塚、浜松で遊んで帰る。帰宅十時四十分。

十月十二日(水)晴
浅間レースは日時及びコースの一部を変更して再開するとの報あり。
昨日の雨もすっかり上り秋晴れの気持ちの良い朝を迎えた。電電公社納入車の稼動テストを午前中小生一人で行う。制動と燃料消費量のテストを午前中かかって三台について各々のテストも行ったが制動距離は三台ともぎりぎりの線で止まる。
浅間レースが又開催される様な事を耳にした。今度はコースを少し変えて群馬県側だけを通り十一月三・四日だそうである。

十月十三日(木)晴。社会党統一
先日北軽井沢から帰る時には、年内にレース開催は不可能であろうと云われてがっかりして帰ったのであるが、今日の発表によると十一月の四・五日の両日、先のコースの長野県側を除外した道路で行うそうである。で明日の十四時三十五分の湘南電車で出発する様命令あり。明日出発して来月のレース当日まで帰らず練習するのだそうである。約二十日間と云う長い期間である。

十月十四日(金)曇時々晴
午後二時三十五分の湘南で出発せよとの出張命令が来たが、取り消しになってしまった。まだ警察とモーターサイクル協会との折合がつかないらしい。現状ではレースが開催されるのかも判らない状態である。午後から雨が降って来た。この前の出張の時は雨が降って車が走れなくなり全く懲りた。取止めになったのはかえって幸だったかも知れぬ。

十月十七日(月)晴。裏山音頭発足
昨日の疲れがまだ抜けきらない。今日から裏山の祭りである。休もうと思ったが明日休む事にして今日は出る。浅間レースの埼玉側の選手鈴木淳三、高橋郡司両君が来て居る。レース車が二台出来たが完検コースを試運転中二台共故障して動けなくなってしまう。転倒者が三人出る。夜は裏山音頭発足披露会を盛大に催される。

十月十九日(水)雨
六時五十分頃母に起される。眠いが眠っている訳にはゆかない。会社へ着くともう浅間山レース車が試運転をしている。小生も午前中乗る様に云われたので乗ってみた。雨が降って居り路面がつるつるすべる。第二周目の北側のカーブにて転倒左手小指をすりむく。午後はあっちへこっちへ廻る。中々手が痛む。

十月二十日(木)雨。台風第二十二号接近
朝のうちは雲の切れ間さえ見え、晴れるかに見えたが台風第二十二号が接近して来ているとの事。風雨が激しくなって来た。レース車試運転のため、いつもより三十分早く家を出る。小生が乗って二周目にもうクランクが焼ける。以後レース車の組立及び整備を行う。手がかなり痛む。合宿練習も始めるまでには何とか治したいものである。三時終了(台風のため)

十月二十一日(金)晴
昨日までの雨もすっかり上り、濃紺とでも云いたい様な空の青さだった。今日もレース車の組立及び試運転と中々忙しい。昼休み土橋、坂上、西尾、西村さん達と写真を撮ろうと云うので清水織物の附近まで行く。坂上さんなど男の人と二人で写真を撮ったのはこれが始めてだよ等と云っていた。浅間レース合宿出発が二十五日とほぼ決まる。

十月二十二日(土)晴。選手権試合第五戦巨人九対五で勝つ
レース車七台中二台が今日十時頃出来上る。富士登山レースの時の苦い経験もあるので今度こそ優勝してホンダの面目を保とうと優勝への熱意は固い。三時頃から約一時間エンジンのテストを行うも異常なし。これでエンジンに対する自信もついたと河島課長も云って居られた。残業を九時までやってやっと車体の方が出来上る。

十月二十三日(日)晴。休出
浅間レースも後十一日にせまった。本来ならば今日は休みであるのに出勤する。藤井選手が出場出来ないと云う様な話を聴いた。だから小生が出場する可能性は濃くなって来た。明日中に軽井沢へ着く様にと社長より命令があり、明日の朝早く浜松を出る事にする。野田さんに手紙を書こうと思って居たが書く時がない。又、株主総会委任状も出さなければならなかったが出す時がなくなった。

十月二十四日(月)曇。北軽井沢にて。日本選手権巨人勝つ四対〇
起床四時二十五分。すぐ家を出る。オートバイに乗って行ったが途中オーバーヒートしてしまい危うく遅れる所だった。朝飯も食べなかったので駅弁を買う。磐田駅で宇田、上野駅で高橋君と一緒になる。碓氷峠を越すとさすがに肌寒く、山の紅葉がすばらしい。沓掛まで乗ってタクシーで北軽井沢まで途中ラジオで聞いたが巨南戦は四対零で巨人が勝った。

十月二十五日(火)曇時々晴。北軽井沢にて
起床六時半。今日から又合宿練習に入る。前三回にわたって練習したコースが変更になり、今までにない険悪なコースである。午前の練習は練習車が少ないため乗られない。午後からは三周半廻った所でエンスト。何かと思ったらガス欠である。牧場で山本富士子と北原義郎がロケーションに来ていた。車の調子は中々良い。

十月二十六日(水)雨。北軽井沢にて
起床は六時と云う事になって居たが、雨が降って居たので練習は休む。手紙を書いたり本を読んだり麻雀に興じる者、花札をする者、将棋をする者様々である。神谷、高木課長が東京に帰り何か淋しい様な気がする。野田に手紙を書いたが出す時がない。明日の朝にしようと思っている。株式の委任状も書かなくてはならない。

十月二十七日(木)晴時々曇。北軽井沢にて
練習車が二台しか無いため思う様に練習が出来ない。午前中はノーストップで四周する。吹き返しが激しく調子が出ない。でも下り坂では八〇〇〇回転ぐらいは充分出る。上り坂もこのくらい出ればとつくづく思う。ヤマハ・コレダが中々良いタイムを出している。今日の午後七時にベンリーレース車九台が着く予定であるが十時現在まだ着かない。

十月二十八日(金)曇時々雨。北軽井沢にて
レース車七台が昨日遅く着く。待ちに待った車が遂に来た。アイドリングのつもりで軽くコースを一周する。中々調子が良い様である。この調子ならば充分ヤマハ、コレダ、メグロに対抗出来ると思う。午後から本格的な練習に入ろうとしたが雨が降り出し止むを得ず休む。レース開催日まで後一週間しかない。早く道路状況及び車をマスターしなければならない。

十月二十九日(土)晴。北軽井沢にて。寄書届く
昨夜は遅くまで起きて居た為眠い。まさかこんなに晴れるとは思わなかった。午前中四周午後四周コースを走ったが中々調子が良い。これならばある程度まで行けるんじゃないかと自信が出来た。でも前フェンダーのステー折損及びセンターシャフト締付ナット脱落二回が出る。庶務係一同へ手紙を出す。プリンスが夜十時到着する。

十月三十日(日)晴。北軽井沢にて。誕生日
今日は小生の誕生日である。これでもう二十一になった訳だ。全く早いものである。やはり今日まで日記を書いて来た事が無駄では無かったと思う。そして最も充実した年であった様な気がする。そして運命を決する日が五日後に迫って居る。もちろん全力を尽す。幸運も祈らずには居られない。ヤマハの車も良いが選手もうまい。小生より一枚上である。しかし熱と努力でぶつかるつもりだ。

十月三十一日(月)晴。北軽井沢にて
昨日に続いて今日も寒い。浅間山も白く雪に被われている。十時頃から雪と霜柱が解けてすべって仕方ない。八号車エンジン故障のため動かず。エンジンの三号車を取り付けたがこれ又調子悪く動かない。当々今日一日中練習出来ず。不足気味なのが増々不足してしまう。困ったものだ。牧場の頂上に登ってみると北東に田代湖がみえる。全然景色が良い。

十一月一日(火)晴。北軽井沢にて
コース内の練習は禁止されているので、今日は車の整備に当る。ドリームの連中はアイドリングのつもりで田代湖の方に出掛けた。八号のエンジンが中々出来ない。前ホークも油が洩ってしまって仕様がない。整備の連中が埼玉、浜松を含めて二十名と云う多きにのぼる。管理の永田君がサンヨーと衝突し重症を負う。

十一月二日(水)晴。北軽井沢にて
いよいよレース開催日が迫って来る。出走番及びナンバープレート番号の発表がある。小生は二十五番、メグロと同時スタートでその前にコレダ、ヤマハが居る。午前の練習中、第一周は割合調子が良かったが、二、三周目に入ると力がぐっと落ちる。コンプレッションが少ない。バルブが突き上げて居る。午後もロックアーム締付ボルトがゆるんで居た為一本折れる。

十一月三日(木)晴。北軽井沢にて
浅間の晩秋は寒い。起床がつい遅くなってしまう。ふとんの中のぬくみから抜けるには余程の決心が要る。小生の八号エンジンの調子悪く、スペアのNo3と交換する。最初のうちは中々調子が出なかったが、三時頃ようやく調子が出る。明日は公式練習があるのでどうしても今日までには整備して置かなければならない。練習中転倒する。腔内を切ってしまった。

十一月四日(金)晴。北軽井沢にて。公式練習
ついに来るべき時が来た。十時公式練習開始。先ず二五〇cc級より始める。ドリームが断然早い。続いて一二五cc級。やはりヤマハが速い。スタートの時エンスト少々あわててしまった。エンジンの調子は上々、明日に備えて軽く走る。三五〇cc級、五〇〇cc級もドリームが強い。ベンリーが一番苦戦だろう。仁山会より寄書が届く。勝敗は別にして、全力を尽す!

十一月五日(土)晴。北軽井沢にて

第一回浅間高原ロードレース開催

250cc . 125cc
1  ライラック 1  ヤマハ
2  ドリーム 2  ヤマハ
3  ポインター 3  ヤマハ
4  サンヨー 4  ヤマハ
5  パール 5  コレダ
6  ドリーム 6  コレダ
. 7  コレダ
8  ライラック
9  ベンリー
10  ベンリー

朝早く目が覚め、今日のレースが気になってもう眠れない。二五〇cc級ではドリーム完勝かと思われたが故障に次ぐ故障で、二、六、十位に辛うじて入る。続いて行われた一二五cc級ではベンリー号調子悪く又もや故障続出。ヤマハ、コレダにしてやられた。小生のは最初から、てんで悪く、二・三周と二回ピットに入り三周目から調子が出たが時すでに遅かった。

十一月六日(日)晴。甲府春日旅館にて
浅間レースも今日で終わりである。あんなに期待し又期待されたこのレースもホンダの惨敗に終り河島課長及び市川次長、整備員の人達、それから社長初め会社の人達に本当に申し訳なく思う。朝九時半北軽井沢を発ちプリンスにて帰る。軽井沢、韮崎、八ヶ岳を通り甲府に着く。昇仙峡へも寄る。軽井沢ではもう紅葉も落ちてしまったが昇仙峡は今が最もきれいな時であろう。

十一月十日(木)晴
JC型切替のため仕事がない。一日に五、六台出来て来るのでは全く仕方なしである。JC型の燃料消費量も計ってみる。大石、山下、小生と三人で始める。最も良いのが66.5km/l、最も悪いのが49.2km/lであった。定時終了後、鶴家で浅間レースの残念会がある。竹島所長、河島課長等出席され、和やかな空気の内に終る。

十二月二十七日(火)晴
今年も余すところ四日である。かえり見れば長い様で短い一年であった。でも様々なことを経験した。正月に琴平参り。二月「火の爆走」の応援。京都見物(五月)現金五千円をすり取られる(八月)富士宮へ出張(八月)富士五湖めぐり(九月)浅間レース出場(十一月)と、中でも特に印象に残ったのは浅間レースである。


昭和31年(1956年)

一月五日(木)晴
年頭の挨拶があるので出社する。藤沢専務が来られた。JC切替が昨年中に完遂されたこと、ジス表示許可の工場になった事、富士・浅間レース等について話があり昨年の基礎の上に立ち今年こそは充実の年である様にと今年の抱負を語られた。
午前中で終り、映画を観る。「赤い山」レコード「ショージョージ」を買う。

二月十四日(火)晴
今日も暖かい良い天気であった。浅間レースが五月頃開催される予定であるという報がある。昨年は飛んだ苦杯をなめてしまった。今年こそは昨年の汚名を返上したい。諏訪部、秋鹿兄君がプロレーサーになるそうだ。五月には浜松にもオートレース場が出来、その選手を今養成して居る。その中に諏訪部君等が入って居る訳である。

二月二十四日(金)晴時々曇
近頃性能試験係の連中が盛んにグランドレースの練習をしている。これらの人は皆プロ選手又はプロを目指している人達である。小生にもプロレーサーになったらどうかと言う人も居るが、せっかくここまで来たのであるから又これから未知の新しい道へ進もうとは思はない。その仕事は文字通りスピードに命を賭ける危険な仕事である。今歩いて来た道を一歩一歩前進して行こうと思う。

二月二十六日(日)晴
起床は九時半頃。やはり日曜日はいい。しかし何となく「憂鬱」である。何の計画も無く只行き当たりバッタリの生活は全く嫌になる。近頃は自分で自分が判らない。余りにも生活が単調である。何か刺激が欲しい。松菱劇場へ「ベニーグッドマン物語」を観る。出ようとした時高柳に逢う。又松竹の「泉」を観る。

二月二十七日(月)曇時々雨
今にも雨が降り出しそうな天気だったので傘を持って家を出る。しかし雨以上のものが降って来た。「みぞれ」である。我々にとっては正に最悪の天気である。午後二時頃からレース用のエンジンを組む。部品が中々集らないので非常に手間取る。エンジンはあと半日もやれば出来上るはずである。後は車体に載せれば良い訳だ。

二月二十八日(火)雨後曇
日常生活をもっと愉快に楽しく過す方法は無いものだろうか。生活が単純過ぎるのだろうか?それとも生活意欲が無い為だろうか?何かこう不安定な気持ちである。自分のこの気持ちを理解し希望を持たせてくれる様な友達が欲しい。
今日の生産台数は百台と云う最近の最高である。定時終了後山口宅に行ったが留守だった。

二月二十九日(水)晴
棚卸実施で会社中生産中止で忙しい職場もあれば閑な職場もある。小生たちは後者であろう。レース車を午前中に組み終り又新しく一台組み始める。熱処理室の煙突の過熱で火事騒ぎが起る。しかし大事に到らず消し止める。街に出てズボンでも買おうかと思ったが止める。山口宅へも寄ろうとしたがバスから降りるのが面倒だったんで止める。

三月一日(木)晴
待望の春が遂に来た。今年の春こそは、と毎年思うからであるがさっぱりである。「求めよ!しからば与えられん」との諺があるが中々そうは行かない。今月度は二千台の目標で生産するだから日産平均八十台。午後からレーサーを組む。これで全部で四台出来た訳である。四月には岡崎にアマチュアレースがあるそうだが未だに正式の発表はない。

三月二日(金)晴時々曇。レース選手柔軟体操始る
レース選手の柔軟体操を今日から始ると云うことである。埼玉から木川氏が見えられ、指導してもらう。今日は各自夫々の体力検査を行うとのこと。体操なんて浅間レース以来何もやっていないので体中が痛む。定時終了後ギターを習いに行ったが先生の祖母さんが亡くなられたとの事。のち映画「誰が為に鐘は鳴る」を観て帰りが遅くなり葵寮に宿る。

三月三日(土)晴時々曇
やはり他人の家は休みにくい。中々眠れずうとうとしてる間に朝になってしまった。三月だと云うのに朝夕は冷える。社内ではシリンダー、ピストンの組違いから全部組替えなければならないと云う事になってしまい、てんてこ舞いである。三時から又も体操をやる。体はますます痛くなるばかりだ。高柳にダンスパーティーに誘はれたが疲れているのでことわる。

三月五日(月)晴
会社が何処かへ引越す、と云う話(らしき)も何時しか消えてしまった矢先、又々再燃して来た様な気配である。先ず労組であくまでも反対の態度に出、会社自身もそうやすやすと立ち退かないだろう。今日一日中全てうららかな良い天気であった。レース練習車も出来上り、調子も良い。三時から行われる体操がつらい。

三月八日(木)晴
起床が七時十五分であったので朝飯を食べてすぐ家を出る。今日はいつもより寒い様だ。午前中ビス検、午後から又レース練習車の調子をみる。今度は小生のが調子が悪くなってしまった。点火時期が少し遅過ぎた。又クラッチが滑って駄目だ。残業一時間後すぐ帰宅、昼休み 文さ から電話ある。音楽部員全員集合し写真をとる。

三月九日(金)晴。組合大会
今日も比較的寒い日であった。いつもの通り仕事にかかり二台目の二周目に、どうしたはづみか南側コースの内側のレンガに乗り上げ転倒してしまった。左足のヒザと足の腿を「捻挫」したらしい。後になって非常に痛む。午後二時から臨時組合大会を開く。これは執行委員長及び書記長が非組合員となったので、その補充選挙を行った。

三月十二日(月)雨後晴
池野さんが今日も休んだので事務をとる。雨が降って居り小寒いいやな天気である。その雨も午後には止み、晴れ間さえ見えて来た。月、火、土とレース選手のトレーニングを行うそうである。足が未だ完全に治って居ないので全力を出す事が出来ない。鉄棒の「け上り」ぐらいは早く出来る様にならなければ。

三月十六日(金)曇
午前中ビス検と云う事になっていたが部品欠品のため組立出来ず、電電公社納入車の最後の点検をする。午後レース練習車のテストをする。クラッチのS.P.を六本にする。又オイルが上らなかったので点検する。点火時期も調整し調子は上々である。定時後ギターを習いに行く。

三月二十三日(金)晴
自衛隊の一般公開が今日浜松の航空基地にあると云う。午前中ジェット機が三・四回飛んだだけだった。
四月八日に岡崎公園でアマチュアオートレース開催されるがそのレースに出場するや否やを会社より伝達あり。出場車が未だ出来ていないので車が出来れば出場する事にする。

三月二十七日(火)晴
岡崎のレースの件は小生と宇田君は出場を取りやめる(出場車がないため)。諏訪部、秋鹿君は出場するそうだ。昨夜遅かったので眠い。工場周辺の桜もつぼみがふくらんで早い所では開きかかって居る。後一週間もすれば満開になるだろう。残業後ギターを習いに行く。帰路バスが途中でエンコして動かなくなり丁度通りかかった観光バスに乗り帰る。

三月三十日(金)曇のち雨
朝家を出る時は、よもや雨は降らないと思ったが、遂に十一時頃から降り出した。全くこの天気には嫌になる。十一時からレース用のキャブレターのテストに出る。浅間レースの時には十馬力余、出ていたのが今日計ってみると七・六馬力しかない。又キャブの方も余り芳しくない。

三月三十一日(土)曇。農発VN発表会開催
日記を書き始めて今日で丁度一年になる。本当に長い様で短い一年だった。今日も未だはっきりしない天気である。桜の花も五分咲きと云ったところ。明日の日曜は天気が良ければ花見客が大勢出るだろう。小生は花見としゃれたいがどうもその様な気分になれない。オートバイで花見も良いだろう。


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