ホンダ河島喜好監督 ヤマハ長谷川武彦監督 スズキ清水正尚監督 いわた・げん(神田頼樹)氏
パントマイム

長谷川●1961年初遠祉のとき、イギリスのヒースローで女性のBBCかどこかのインタビューを受けた。いきなり英語でベラベラしゃべられ全然わからなくて「I am strager here」とか言ったのをよく憶えている.いきなり空港へ下りたらインタビューて驚いた。
河島●そりゃ出かけるのにチームが英会話の練習でしょ。読み書きは山来たって、会話なんて出来ない。何にも聞き取れないし、しゃべれない。
清水●そんな悲壮感じなかった。英語が出来んからイギリスへ行けないでなく、フランス、ドイツの国境で通訳してもスムーズに通れない。彼らは自国語で話すから英語ができる営業マンが付いてもわからない。伊藤光夫君が行くと通してくれる。どうしたと聞くとガスケットくれ子供にバッジが欲しいと言うから置いてきた。ガスケットは、帽子のこと。会社の宣伝の帽子2つか3置いて国境を通過した。
河島●2年目の1960か、ベルギーのフランコルシャンで販売店の人がハイここですとホテルまで送ってくれた。入ったはいいが、フラマン語、あるいはフランス語。誰もしゃべれないわけだ。食事をしなければならない。修理をするのに部品、オイルが欲しいウエスが欲しいとなる‥ そうしたら島崎(ライダー=故人)が全部身振り手ぶりで全部通じるわけだ。器用な男がいるもんだなと、パントマイムで全部用が足りちゃうわけ。下手な日本人の通訳なんて役に立ちゃしない。
司会●皆さんにとって三年間1100余はその倍以上であった。それだけの凝縮した時間の結果であると。だから倍のエネルギーが集中できた.
長谷川●毎日、毎日が本当に朝から晩までレースのことばかり考えていた。それがすべてだ.だから今考えてみると、本当によくやれた、でも楽しかったなというのが実感だ。
司会●最終的に金銭的な不自由をしたことはなかったのか。現場の責任者として。
河島●いや−どっかから持ってきてくれた。
長谷川●どうしたのかね−、あれは。 まあ無事に過ごせた。
河島●まだまだ輸出産業ではないから、外貨を会社が持っていなかった。何かうまい具合
に回っていたんだな。無責任な監督だったが(笑)。
長谷川●いや−ボクもそうだった(笑)‥.金に心配したことはなかったな。
河島●でも個人に渡される金は決まっていた。だから仲間でそれを取りっこはしたが。髪を刈りあったり、洗濯器でクリーニング代をセーブしたりしたが、ひとり2000ドルではおみやげも買えなかった。
司会●3年目に念願の世界のトップに立つ。それ以前には国内のバイク産業が淘汰の時期だったという背景があるが、その時期、一番強力なライバルはトーハツだった。結果としてギャンブル性の高い世界GPに出場して、しかもドイツ系の技術を学習したものが勝ち残って・・・これは結果だが。トーハツをどういう立場で見ていたか。
河島●戦前派だから。憶えているのは課長時代に財務を憶えさせられる勉強会のときにトーハツの財務諸表などを分析しろという課題が出て、トーハツ、ダイハツのような会社にホンダは成りたいのであると−。課長会の研修会で宿屋に3日缶詰でやらきれた。あのころは設計課長でも財務のことを勉強させられた。
清水●トーハツはとくに意識はしなかった。意識はホンダさん、ホンダさんを負かそうと。負かせば世界一だと。
長谷川●トーハツさんもガスデンさんも元がビリアスで、その実態がすべてわかっていたので、特別に意識することは無かった。
清水●遮二無二に突っ走った3年間だったが、振り返るとメーカー全体のチームワークの結果、総合力なんだと思う。モノをつくるには基礎実験がある。車体の強度実験も色々ある。(エンジンも)リードバルブにするかロータリーバルブにするか、基礎実験し計算してどこにどういうものを使うか、そういう全てのものがあってこそ、優れたレーサーが出来たと思う。だからみんな一生懸命やった、悔いのないように、遮二無二頑張ったという裏には会社全体の組織、各すそ野の部門部門で一生懸命やってきたと解釈してもらいたい。
河島●そう、会社全体の応援があったと思う。
長谷川●当時のチームはそれはど厳密な役割分担はなかったと思う。それぞれがベストを尽くし、不測の事態には、お互いがパッチワークで助け合い、結果的に一体感であったことは事実だ。全社的なサボートがあった。どこかの部品が壊れても明日までに何とかやろう、徹夜してもやるぞと、そういうバックアップの体制が全社的にあった。我々の行動をみんなから注目されているんだという気持が意識の中にいつもあった。

世界の頂点に駆け上った市販車

司会●その後、レースの現場から離れて皆さん各分野に異動して活躍することになるが。
長谷川●昭和41年、「今日からトヨタ2000GTの自動車部長をやれ」と言われて、これまた全く未知の世界へぶち込まれて往生した。しかし、欧州のスポーツメーカーやカロッツェリアの生産方式を勉強でき、また2000GTの生産に貢献できたことは、欧州を知ったGPレースのお陰だった。
司会●河島さんはスポーツトラックのようなものをやられたとか。
河島●いや、結局3年で(レースを)やめて、その後34歳で取締役になり埼玉製作所長を命ぜられ、作ることになったのがT360だった。ボクの責任ではないが4気筒4キャプのエンジンで、S360の4気筒4バルブの同じエンジンをトラックに載せるんだから走るの走らないのって(笑)。楽しく製作所長をやった。その後、狭山(製作所)を作ったので、製作所長を歴任といった感じだった。
司会●清水さんはいつごろ?
清水●レースは1965年までで1966年から量産車へ。最初はT200欧州向け、その後すぐ500。そしてバーデイー50、バンパン90、GTシリーズ380、550、水冷3気筒GT750、ロータリーRE5。そのときは第一設計部長だった。
 あと、市販レーサーRG500が,1976年から,1982年まで7年間連続メーカーチャンピオンを獲得している。俊三社長から鈴木実次郎社長にかわり欧州偵察で市販レーサーを要望しているから作るよう指示があった。
 最初の1976年に70台作った。その後1984年まで500台作った実績がある。1962年に50cc選手権を取り1963年は50、125のチャンピオンになった。250以上はホンダが取り、何としても重量級500ccの世界選手権タイトルを取りたいという思いがあった。10数年後にやっと目的が達成された。その後「ワシは2サイクルで頑張ったからお前は4サイクルで頑張れ」と構内にバトンタッチした。
司会●レースを離れた立場から見た2輪の世界をちょっとお話しいただきたい。WGPに勝ったことが日本が世界でトップになる直接的な要因−技術的優越性がプロモーションになり世界のトップ踊り出た。色々日本に有利な風が吹いていたこともあるが、既存の欧州メーカーを押しのけて世界ナンバーワンになった。レーサーを除いて市販車という面で見ると750がひとつのマイルストーンになると思うのだが。各社とも750を競って作った。これが、既存の欧州メーカーに対してはノックアウトブローになった。これは歴史の事実だが、河島さんの立場でCB750Fourを見ると。
河島●2輪レーサーは4輪と違って、そのまますぐ実用車につながる。ちょっと乗りやすくすればいいということ。その程度だった。Flとか4輪のレースは車体が別だから。実用車に合わないわけだ。CB750に関しては全然技術屋から離れていたので、市販車としてやっとモノになったかと。
 今でもよく言うが、2輪のレーサーは音がデカイだけであとはすべて実用車と同じ性能を持っていなけれはいけないわけだ。燃費、始動性、サービスしやすい構造でなければいけない。これは今でも通用すると私は思っている。
司会●スズキさんの場合はGT750、2スト3気筒を経てロ−クリーエンジンが間に入り4ストロークのGS750となる。その辺の経緯は?
清水●大排気量を求める市場のニーズからT500を開発し更にGT750水冷3気筒を発表した。2サイクルは、250以上無理だと言われた、熱負荷・高速操縦安定性の問題をレーサー開発技術ノウハウで克服できた。ロータリーエンジン、4サイクルのうち、市販の要望と排気ガス対応のため開発されたロータリーエンジンは、石油ショックで短命に終わったが多くの技術的収穫があった。
司会●4サイクルも、しかもホンダのCB750の平軸受けに対してGSはコロ軸受けだった。
清水●谷田部やスズキのテストコースとシャシーで耐久テストを徹底的に行った。クランク軸の焼き付き、虫食いというのか、これ(の開発)を徹底的にやった。後発メーカーだからトラブルがあっちゃいけない。レーサーの8時間耐久に習い、走行も連続して徴底的にやった。その途中で私は工場のはうへ担当が変わっていったので、その後の様子は自分では把握していないが。
長谷川●私はちょっと現場を離れて全般を見るようになって−。
司会●ツイン(TX750)もあまり上手くいかなくて−。
長谷川●そうそう、4気筒があって、これをやっても皆さんと同じだし、ツインはツインであると、何かちょっと新しい軸を出そうと考えていたときに、アメリカでツインか4気筒かで大もめにもめた。アメリカ市場へのクルマということで。ロスでずいぶんガタガタやった。それじゃ3気筒でどうだということになった。コンパクトで面白いものになる。ラベルダもあるしと3気筒開発に踏み切ったわけだ。当時トヨタ2000GTをやっていて、4ストロークはまた別のラインでやっていたので、相互の協力も多少あったと思う。
司会●“斬り込み部隊”が社運を賭けて世界の頂上へ登り詰めると、日本のイメージが“富士山、芸者から、がらりと変わった。
長谷川●1960年代初期、日本車がヨーロッパで市販された当初は、馬鹿にされた。ボクが今でも憶えているのは「日本車が来たら、まずサスペンションを外して遠くへ思い切り投げろ」と、そう言う言葉があった。ということは車じゃない。レースでは勝てたが、市販車ではまだまだ。とくに乗り心地とかは−250以上の車を作ったころだ。エンジンはいいが、車体の基本、例えば石畳を高速で走り続けるるようなテストもしていなかったので、車としての完成度は低いなと思った。日本車は、まずエンジンありきだった。
司会●河島さんは、初期のころからエンジン馬力だけではということを言っておられた。
河島●だから車体設計の経験はなかったけれど車体設計屋を自分の部下にした。速く走るのがエンジンだけならベンチテストでどっちが馬力が出たかで終わりだ。いかにブレーキをかけるか、いかにカーブを速く曲がるかだから、車体だよ、と。
清水●確かに1960年、最初のマン島に行ったときにライダーの市野が直線コースでステップに足を乗せておけないと言う。足がズレてしまった。その原因はサスペンションだった。今おっしゃったように、車体設計時の、操安性のためには、やはりサスを重視しようと変わっていつた記憶がある。
河島●あのころプラグとサスペンションとタイヤとチェーンは、それはもう国産品ではダメだった。今は素晴らしいですけどね。
長谷川●とくに2サイクルはひどかった。ちょうど機関銃の弾帯のようにベルトのところに何本もプラグをはさんでいた。
河島●チェーンもひどかった。
長谷川●チェーンはレイノルズ、ガソリンはシェル(が定番)、タイアはエイヴオンだった。
清水●2サイクル混合用にアメリカの自動車用モーターオイルを使っていた。ビードルとか、ロイヤルトライトンを8:1の混合で使っていた。シェルのL.ELLISが「オレのところのスーパーMを使え20:1でいい」と。半信半疑でJARBY飛行場の滑走路を借りてテストし、すぐ使うことにした。
司会●その時期に各企業とも途方もない急成長で大きくなっていった。その中にあって、仕事をしていてどんな変化を感じたか。
長谷川●いろんなことをやらざるを得ない立場で、2輪ではクレーム対策。アジア、アメリカではその対策も違うし、市場をもう一回勉強して、この市場にはこのスペックにしないとクレームが多いとか、そういう勉強だった。それから現地で工場を真剣に造ったりと、段々そういうところをやっていった。
司会●その急成長の中で会社としての効率が急に失われたり悪くなったりといった変化をどう見ていたか。
河島●公式的には不満は言えないが、3社とも大会社になった。だから昔のことを押しつけてもダメだ。社会がまずそうなっていないから。日本ももうちょっと困れば変わるんだろうが、今でもバブル崩壊を感じていない人が多い。
清水●私は波瀾万丈なサラリーマン生活を過ごしていた。実用車を手がけ、台湾に行き、海外関連会社をやった。その中で、鈴木式織機をやったときに、その改善をレース活動で培ったテクニック、手法を手本にした。レースの手法は人とモノ造りのお手本になっているなと思うし、それが成功したと自負している。
 全員が一つの旗の下に結集して一人一人が責任を果たす。計画というのは押し進めるのではなく、全員が理解した上で総意でやっていくというのが一つの目標だ。モノを作るのは、レーサーでも何でもそうだが、疑問を持つことは必要だ。亡くなった岡野さんが「すべて物事は疑問を持ってやる。レーサー造りはすべてに疑問をもってやれ」と言っていたがそのとおりだ。潜在する創意を刺激して新しいものの見方が生まれ、そこから問題意識も生まれて新しい技術が生まれていくんじゃないかなと。あとはやる気を持ってやる。

世代を越えて受け継がれるレース精神

司会●どの世代でも年寄りは「今の若い者は−」と言うのは古今東西変わらない人類の営みの一部だが、それでも一言−というと?
河島●時代が変わっちゃったから言いようがない。
長谷川●昔も今も変わらないのは、命令されてやってみようというのではなく、自分が面白いとか、やってみようと自分が決めることだ。自分が、よし、これにのめり込んでいけと思ったら、上の命令なんか関係ない。
 ボクはレースのときがそうだった。これは自分が興味があってやるわけだから、勝ち負けは当然あるが、実際のところはそうだ。だから徹夜だって平気で出来るし、これを命令でやったらとてもじゃないができない。人の目を掠めて楽をしたいなんて微塵にも思わなかった。そういうスピリット、姿勢がレースをやった人に共通する。
 今レース以外のところで何だこんな若者がとも思うが、彼らは彼らなりのものがあると思う。これを我々がもっと理解してやらなければいけないし、お互いにコラボレーションを通じて、昔の良いところを受け継いでもらいたいという思いはある。
司会●いわゆる現場/現物主義とバーチャル世界の融合点は見出せるのか。
長谷川●バーチャルですべてが行けるのかと言えばそうはいかない。デジタルとアナログの両方がなければいけないし、自然界では両立している。
司会●今の人たちは徹夜で手を油で汚してというのはとんでもないというか−。
長谷川●そうでもないと思う。余りに一般論過ぎる。中には一生懸命やっている若者もいる。今の若者はと批判するのは何百年も昔からそうだ。年寄りはみんな言う。もっと謙虚に見てやらなければ。
清水●ところでMoto GPを見てどうでしたか。
河島●ひところに比べ入場者数も減り、若者の関心も大分変わった。もっともレース自体も変わった。ライダーも良いスポンサーを見つけるための成績という意識−コマーシャリズムヘの偏差が著しい。
長谷川●その結果、単純にお金がかかり過ぎる−。市販車とか一般の純粋なスポーツ心で参加型のレースとか、もっと上手くやるベきだ。
司会●河島さんが社長になった直後、もっと間違いを少なくしなくてはというのが特に印象に残っているのだが。
河島●本田宗一郎の99%の失敗の上に立つ1%というのだが、ちょっと多すぎる(笑)99%は。だが、あのころの99%の失敗、あるいはレースにムキになった、そのときに培われた精神力、ノウハウも含めたものが、その後のホンダの危機、欠陥車問題とか、排ガス対策や、最近では燃費問題とかを遮二無二やりこなす原動力となった。
 やはりレーシングスピリットだ、技術面で見た場合には。とにかくやらにゃしょうがないからやるんだと。やることに自分の人生を賭ける技術屋がたくさんいればできる。マスキー法など環境問題でもそうだったが、いくつかの危機に瀕したときに、そういうものの対策のもとになるのは、命ぜられたからやるのではなく、オレがこれをやらなきゃしょうがないんだということを実行する連中の集まりだったから、できたわけだ。
司会●その“1%”であるスーパーカブ、とくに“アメホン”の「Nicest People on HONDA」キャンペーンについてひとこと−。
河島●良い商品を営業さんが、わかりやすくお客様に伝えてくれた。
司会●清水さんは台湾赴任時代に海外から日本を見てどう感じました。
清水●日本で新車を発表するのと同じ時期に、台湾にも新車が欲しいと、そうでないと台湾は伸びていかないということだけで、それをいかに日本からこっちに持ってくるかという、ただそれだけだった。
河島●今はそれの逆になった。10年くらい前にもう現役を退いていたので光陽(KYMCO)の社長が私に個人的に「河島さん釆てください。あのころは教えてもらいましたが、今はホンダに対等、あるいは部分的には越してますよ。これがご恩返しです」と言われた。ホンダも部分的には負ける技術を持っている。奢ればすぐに追い越される。
 日本の2輪業界が良かったのは早くから海外へ生産施設を持てたことだ。大きな資本をかけなくてもいい2輪の気楽さだ。4輪メーカーは出ていない。でかい専用船を作って海外へ運ぶだけで、海外で作っているのは2輪メーカー、特にこの3社は早くからやっているわけで、これは大きな違いだと思う。で、その元になったのが何かというと、レーシングチームがあったということ。外国のことをよく知っている、日本の常識は海外へ行ったら通用しないということをレースを通じて向こうで生活する中で感じて肌身で悟った。これはレース活動から得た貴重な教訓のひとつだと思う。
司会●日本にとって幸運だったのは、VWビートルなど廉価な4輪の出現により、欧州の2輪市場が下り坂にあった。そこに安くて、高性能、魅力があるマシンを持ち込み、2輪市場活性化をした。それによって潤った人たちも多い。それは明らかにプラス。マイナス面は自国の企業がかなり難しいところまで追い込まれた、イタリア以外は。
河島●イタリアは立派だ。ほとんどゼロに等しいところまで日本勢が潰したが、今は2輪メーカーが20社もある。
司会●日本車の欧州進出は”黄禍”(Yellow Peril)という偏見に満ちた表現が代表するが、フランスを含む欧州2輪界にとっては、むしろ活性化の成分が多いと見ている。オリビエ氏ほか、欧州の関係者の気持はそのとおりだと思う。その後35年余の現在、中国が世界一の生産国として、日本の最盛期の倍以上の生産をしている。日本が耕した市場に入り込んで、上のはうは欧州勢の復活。アジア製が低価格市場に進出している。
長谷川●そのとおりだ。
司会●こうした現状を踏まえた上で、これからの日本のモーターサイクルをどうすべきだと考えるか?
河島●日本の場合には、ホンダもそうじゃないかと思うのだが、2輪よりも4輪のはうが高級だという意識がある。高級、値段も高いし、技術的にも高級だというような感じがある。私は2輪も4輪もやったが、どうしてもそういう感じがある。例えば、役員会とか幹部会などでも売り上げの7〜8割が4輪となれば、また投資金額も大きいので、そちらに重点を置かざるを得ない。でも、技術の原点、会社の原点は何かというと2輪だと。じゃそっちのはうにもうちょっと力を入れたらどうだということになる。2輪の素晴らしさを多くの人に理解してもらえる努力を、もっとしていかなくては。
司会●ホンダにとっての2輪は原点だが、少なくとも現時点では、経済的にはむしろ足を引っ張る存在? ヤマハは“軸”と呼ぶ選択肢を伸ばし、増やしている。ボートとか船外機とか。
長谷川●最近、APECのビジネスフォーラムでメキシコヘ行き、向こうの経済人と話をする機会があった。現在、急激に4輪企業が世界のあちこちへ工場を造っている、GM、フォード、日本のメーカーもそうだ。で、投資の問題とか、近未来のモータリゼーションとなると4輪が主になってしまう。だが、2輪の効用を忘れていないか、と私はよく言う。
 あるボリューム、数が売れても、道路を主にしたインフラの問題が追従していなければ必ずスタックする。エネルギー問題がどう改善されても2輪には敵わない。4輪ばかりで10年経った後の国の状況を考えると、後悔する状況に陥らないか? 人間の移動手段には4輪あり、2輪あり、自転車もある。これらを巧いコンビネーションで、エネルギー、環境問題を主にした総合的な見地、国策として考えていかなければいけないのではないか。
司会●現実的に欧州の2輪市場はレジャー志向が圧倒的に強いが、その一方で大都市中央部からの4輪の締め出し、2輪奨励という動きがある。ロンドン中心では、4輪から通行料を取るという法律が施行された。
長谷川●だから2輪の効用の見直しをもう1度各国のレベルでやるべきだ。都市内交通にはバランスが必要だ。4輪だけというのはあり得ない。
清水●私が2輪を担当していた当時、会社の軸足は4輪に置かれていた。道路行政を含めた環境全体を少しでも2輪に向けて欲しいと思った。
河鳥●4輪では失敗が許されない、会社が潰れてしまうから。だから力を入れざるを得ない。2輪のほうはイタリアの例じゃないが、壊滅状態になっても、ここ20年でまた20社も出来てしまう。まだ小回りが利く。4輪での失敗は会社の存続に関わるから、2輪に回るお金が少なくなるわけだ。でも、予算が少ない2輪のレースのはうが、沢山金を使っている4輪のFlより結果を出しているから面白いものだ。

                  
                    
本田宗一郎社長        川上源一社長        鈴木俊三社長

司会●“初陣”の話に戻って、マン島TT挑戦直前、それぞれ直属の上司の、思い出に残る言葉はないか?
長谷川●「レースは勝たなけれは意味がない」というのはGPチャンピオンを取った直後に川上さんの自宅でP.リードと一緒にお昼をご馳走になったときに、言われた。もっと前に、浅間のときから、雰囲気でレースには勝たなけれはいけないと身にしみてわかっていた。なにしろベストを尽くせと。
河島●あまり憶えがないが、浅間時代にヤマハさんに負けで悔しがっていたことは事実で、一緒に技術研究所で仕事をしていたから、十分すぎるくらい本田社長の気持ちはわかっているから、直前に何か言われたという印象はない。やるしかないと、そんな感じだ。
清水●最初のGPレースに出たときに、ホンダさんが速くて2サイクルじゃダメで4サイクルをやろうというムードがあった。ところが俊三社長が頑として押し通した、2サイクルを完成させようということで、なかなか4サイクルをやらせてもらえなかった。
 浜名湖走行テストに鈴木俊三社長も一緒に参加した。未舗装、ヘルメット、眼鏡もない時代、ほこりを立て社長の前を走るたびに再三どなられた思い出がある。
 1961年マン島レースで入院した。惨敗で皆、意気消沈し元気なく次のダッチTTの日が詰まっているから、50ポンドと航空キップを置いて、マン島をチームが去ろうとしたとき俊三社長が「病人を一人で置くとは、何事だ。何もせんでよいから飛行機の旅さえ出来れば一緒に連れて帰れ」という話を聞いた。また、ハンブルグから帰るときエアフランスに偶然乗っていた。機内では座席までやってきて面倒と思いやりのある言葉で励ましてくれた。一生忘れられない。その反面、厳しかった。決めたら押し進める。浅間が終わりマン島へ出ると決めた。1961年社長の目の前で惨敗し撤収を決めた。1962年もマン島に出ると決めたのもすべて俊三社長だった。社長の思いやる心や信頼関係は企業色になっていると思う。
司会●1950年末から1960年代初期、奇跡の復興を遂げた日本経済の“牽引車”になったモーターサイクルの、しかもその最先端に立った方の貴重なお話を、しかもお三方一緒でいただき、大変感謝します。今後とも、ウルサおやじと言われるのを承知の上で、ガミガミとおっしゃって、物を進めていただきたいと思います。
 神風ではなく、本当に自分の命を賭け、人生をつぎ込んで積み上げだ1960年代日本モーターサイクルの足跡は、今後も繰り返し評価し続けねはならないテーマだと思います。機会がありましたらメーカーの垣根を超えたOB会などの機会を通じて、またお目にかかれたらと思います。今日は長時間、本当に有り難うこございました。

                     


               
その1へ                          Menu へ