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年度 . レ−ス名 50cc 125cc 250cc 350cc . 年度 . レ−ス名 50cc 125cc 250cc
1960年 1 フランス ナシ ナシ ナシ . 1964年 1 アメリカ 優勝 優勝 .
2 TTレース ナシ . . . 2 スペイン 2 5 5
3 オランダ ナシ . . . 3 フランス 優勝 R R
4 ベルギー ナシ . . ナシ 4 TTレース 優勝 R .
5 西ドイツ ナシ ナシ . ナシ 5 オランダ R 5 .
6 アルスター ナシ . . 3(AJS) 6 ベルギー 3 ナシ .
7 イタリア ナシ . . 6(AJS) 7 西ドイツ . R .
1961年 1 スペイン ナシ . . ナシ 8 東ドイツ ナシ 優勝 .
2 西ドイツ ナシ . . . 9 アルスター ナシ 優勝 .
3 フランス ナシ . . ナシ 10 フィンランド 優勝 R ナシ
4 TTレース ナシ . 10 . 11 イタリア ナシ 2 .
5 オランダ ナシ . . . 12 日 本 不成立 8 .
6 ベルギー ナシ . . ナシ 1965年 1 アメリカ 2 優勝 .
7 東ドイツ ナシ . . . 2 西ドイツ 3 優勝 .
8 アルスター ナシ . . . 3 スペイン 優勝 優勝 .
9 イタリア ナシ . . 6(Norton) 4 フランス 6 優勝 .
10 スエーデン ナシ . . . 5 TTレース 2 5 .
11 アルゼンチン ナシ . . ナシ 6 オランダ 2 3 .
1962年 1 スペイン . R R ナシ 7 ベルギー 2 ナシ .
2 フランス . R . ナシ 8 東ドイツ ナシ . .
3 TTレース . R . 6(AJS) 9 チェコスロバキア ナシ R .
4 オランダ . . . . 10 アルスター ナシ R .
5 ベルギー . . . ナシ 11 フィンランド ナシ 優勝 .
6 西ドイツ . 6 R ナシ 12 イタリア ナシ 優勝 .
7 アルスター ナシ 5 R . 13 日 本 R 優勝 .
8 東ドイツ 3 . . . 1966年 1 スペイン 4 R .
9 イタリア 4 8 R . 2 西ドイツ 3 R .
10 フィンランド . R ナシ . 3 フランス ナシ ナシ .
11 アルゼンチン 優勝 優勝 . ナシ 4 オランダ 3 4 .
. [全日本選手権] 2 R . .. 5 ベルギー ナシ ナシ .
1963年 1 スペイン 2 R . 6 東ドイツ ナシ 12 .
2 西ドイツ 優勝 2 . 7 チェコスロバキア ナシ 4 .
3 フランス R 優勝 ナシ 8 フィンランド ナシ 4 .
4 TTレース 2 優勝 . 9 アルスター ナシ 5 .
5 オランダ 2 優勝 . 10 TTレース 3 3 .
6 ベルギー 4 2 . 11 イタリア 4 . .
7 アルスター ナシ 優勝 . 12 日 本 3 9 .
8 東ドイツ ナシ 優勝 . 優勝回数 8 17 0
9 フィンランド 3 優勝 ナシ .
10 イタリア ナシ . .
11 アルゼンチン 優勝 . .
12 日 本 2 5 R
1960年アルスターGP350ccで3位となり、初の得点をあげたAnderson。
左から、2位Hartle(Norton)・優勝Surtees(MV)・3位Anderson(AJS)
 Andersonが故国のニュ−ジランド選手権を獲得し、レ−スの本場ヨ−ロッパでロ−ドレ−サ−としての実力を試してみようと、イギリスヘ向かったのは、1960年の春、24才の時だった。1960年には、350・500ccでイギリス国内レ−ス、大陸でのいくつかの世界選手権レ−スにも出場し、遠征1年目としては、まずまずの成績を納めることが出来、マシンを提供くれるスポンサ−の目途もついた。
[ヒュ−・アンダ−ソンの追想]
2002年8月、清水正尚さん一家がニュージランド旅行に出かけ、Anderson宅を
訪問しました。このときの写真集「Andersonの近影(2002年8月)」をご覧下さい
Andersonの全レ−ス成績
非常に温和な性格で、例えメカニックのミスでリタイアするようなことがあっても、決して不満を顔にあらわすようなことはなかった。スズキチ−ム全員から「アンちゃん」と呼ばれ親しまれたが、1966年の日本GPを最後に引退した。引退時30才、オランダGPで3年連続、怪我をして入院した病院の美人看護婦さんの ジャニ− と1963年春に結婚した。
 178p、75sの大きな体を、小さな50ccマシンの中にしずめ、カ−ブでは「内側の膝を大きく開く」独特のコ−ナリングフォ−ム、また、故国ニュ−ジランドの国鳥「キウイ」を描いた真紅のヘルメットが深く印象に残る。今は故郷のニュ−ジランドでモ−タ−スを営み、大好きなモトクロスを楽しんでいるとか。
そして1963年以来チ−ムの大黒柱として大活躍し、1963年には、50cc&125cc、1964年には50cc、1965年には125ccと4つの個人選手権を獲得した偉大なライダ−であった。世界選手権レ−スでの優勝回数は50ccで8回、125ccで17回にのぼり、TTレ−スでも1963年の125cc、1964年の50ccと2回の優勝を飾った。
 1961年のTTレ−ス250ccで、スズキはAndersonを初めて起用した。レ−スにはKing・Driver・Anderson・伊藤光男・市野三千雄・増田俊吉と6名が出場したが、Anderson10位、市野が12位、他の4名はリタイアという結果だった。初めての2ストロ−クマシンに乗り、しかも不安定なスズキRV61を完走(6周360q)させたことは大いに評価できた。
 1962年はスズキと契約はしたが、専属契約ではなく、プライベ−トで350cc・500ccにも出場した。この年、50ccはTT・オランダ・ベルギ−・西ドイツとDegnerが連勝していたが、Andersonの乗る125ccのRT62・250ccのRV62は、トラブル続きで殆ど完走も出来ない状況だった。しかし、2ストロ−クライダ−として最高の技術を持つDegnerに、つとめて ついて走りDegnerの持つ全ての技術を吸収しようと努力した。出走前のキャブセッティングから、プラグ選定。ギア−チエンジ、ブレ−キ、キルスイッチの使用法・・・。乗り慣れてきた大型4ストロ−クマシンに比べ、デリケ−トな小排気量2ストロ−クマシンの操作法を持ち前の鋭い感覚で習熟していった。アルスタ−GP125ccでDegnerは転倒負傷し、東ドイツ・イタリアGPには出場できず(東ドイツは負傷してなくても勿論入国不可だが)、Andersonを50ccに起用してみようということになった。勿論大柄なAndersonに大きな期待を持ってのことではなかったが・・。結果は、期待?に反し、東ドイツ3位・イタリア4位・フィンランド6位・アルゼンチン優勝・鈴鹿の日本選手権ではTOPのDegner転倒、続く市野の転倒後、Robbと優勝を争い0.4秒差の2位と頭角を現してきた。
1963年TTレ−ス
125優勝 愛妻と
1963年TTレ−ス
  125優勝