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2005年3月1日弁天島の観月園(スズキの保養所)で「宮崎健太郎記者」の取材を受けたが、その記事が3月末発売の「Classic Motorcycling 第2号」に掲載された。



      黎明期の世界GP50ccクラスを制したスズキ・2ストロークシングルの系譜

 SUZUKI 50cc SINGLE CYLINDER Grand Prix Story

 `62年から世界ロードレース選手権として発足した50ccクラスの、記念すべき初代王者に輝いたのは、前年東独から西独(当時)へと亡命したかつてのMZチムのエースで、この年よりスズキチームのエースとなった、エルンスト・デグナーだった。以来`64年シーズンまで、スズキ製単気筒50ccグランプリは、最小の50ccクラスでクライドラー、ホンダなどのライバルを退け「最強」の地位を保ち続けた。当企画は、それらスズキ単気筒50ccグランプリバイクと、その傍流たる市販レーサープロトの足跡を辿るものだ。

  ・text/Kentaro Miyazaki 宮崎健太郎
  ・photo/Yasushi Takakura 高倉 康/T.T.verlag
  ・取材協力/(株)スズキOB::中野広之、神谷安則 & 鯉住健治 齋藤健次 宇野順一郎

SUZUKI RM62/63/64

 軽量・シンプル・高出力ーー空冷2ストローク単気筒というレイアウトが持つこれらの美徳を武器に、RM62/63/64は3シーズンに渡り世界のサーキットを支配した。


「Classic Motorcycling」
第2号
RM62 シーズン中盤のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)の決勝、L.タベリ(ホンダ)をリードするデグナー。T.T.からスタートしたデグナーの連勝は、次戦西ドイツまで続き、この4連勝がタイトル獲得への大きな貯金となった。

スズキ初のT.T.制覇

 スズキチームにとってマン島T.T.初挑戦の年である`60年に、世界GPにて権勢をふるうこととなるスズキ50ccレーシングの胎動はスタートしていた。とはいえ、当時はまだ世界GPに50ccクラスが開設されておらず、その開発のターゲットはクラブマンレースをはじめとする、国内ロードレースにおける勝利だった。
 当時の国内ロードレース50ccクラスでは、トーハツ・ランペットCAがその速さを誇っており、スズキ開発陣の目標はすなわちランペットの打倒であった。`60年11月に企画された、新50ccエンジンの機種名は“RM”だった。
 取材で間違いなく「RM」と伝えたが、なぜか記事では「RMA」になっていた。以下「RM」に修正する。

 2ストローク単気筒(41×38mm)、ロータリーディスクバルブ、5段ミッションという諸元が与えられたRMの性能目標は7ps/10000prm。しかし、開発当初は5.5psほどの出力しか得られず、自らが掲げた目標値をクリアできたのは`61年9月末のこと。すでに、この年のビッグイベントである第4回クラブマンレース(ジョンソン基地)は7月に終わっており、同50ccクラスは発表間もないランペットCA2改と、その市販レーサー仕様CR50が1〜7位を独占していた。RMのデビューレースは、クラブマンレースからちょうど3ヶ月後に迎えることとなった。当時、愛知県津島市ではバイクレースが盛んだった。スズキチームは完成間もないRMを、10月22日のレースに出場させることを急遽決定した。そして決勝レースにて、RMは強敵ランペット勢を退け。見事デビューウィンを飾ったのである。
 一方、その`61年に欧州では、世界的なモペッド人気を背景に成立したFIM公認の50cc欧州選手権が開かれていた。津島市でのRM勝利から約1週間後の10月28日、FIMは初年度から賑わいをみせた50cc欧州選手権の成功を受け、翌`62年は格上げするかたちでの世界GPに50ccクラスを加えることを秋季総会で決定する。
 それ以前より、スズキは50ccクラス新設の情報をFIMから得ていたが、RMの開発を下地とするGP用マシンの企画が固まったのは11月末。RM62と名付けられたレーサーの図面が出図されたのは、翌`62年の1月8日と遅かった(先に参戦が決まっていた125、250cc用レーサーの開発が優先されたためである)。
 RM62は3月27日に第一号エンジンが完成したが、出図から完成までの間の2月15日に、急遽ボア×ストロークが変更されるといういきさつもあったという。国内レース規定はコンマ以下の排気量分は50ccを超えることを認めていたため、当初RM62は40×40mm=50.25ccで設計されたが、GP50ccクラスの規定がまだFIMから伝わっていなかったこともあり、あらゆるケースに備え40×39.5mmとストロークを落とし、49.62ccと50cc以下に収まるようにしたのだ。
 4月19日に欧州に送られたRM62は、5月初旬に開かれる初戦スペインGPに、充分なテストをこなせないまま臨むこととなった。バルセロナでのGP史上初の50ccレースは、前年欧州選手権を制したH-G.アンシャイトとクライドラーのコンビネーションが勝利。RM62勢は市野三千雄が7位に入るのがやっとで、デルビ、ホンダなどのライバルにも遅れをとった。次戦フランスGPもクライドラーを駆るJ.ヒューベルトが勝利。3台のホンダがこれに続き、鈴木誠一、伊藤光夫、E.デグナーらRM62ライダーは、5〜7位の座に甘んじた。
 ライバルたちとの差はわずかなれど、1.2戦続けて雌伏を強いられたスズキに光明が差し込んだのは6月のこと。第3戦の舞台マン島T.T.公式練習にて、デグナーが全参加者中の一番時計をマークしたのだ。直前に日本から届いたエンジン、排気管などの“改良部品”の効果もあり、デグナーがRM62を初めての表彰台、しかも頂点に導いた。この勝利は、スズキ初のT.T.優勝でもあり、戦後初の2サイクルによるT.T.レース優勝という、幾多の快挙を同時になし得たものだった。

RM62
 この撮影車両は、スズキ本社に保管されているRM62である。モノクロ写真は`62年に撮影されたRM62のストリップ。シート後端に記された「M2-…」は、RMの「M」、62の「2」それぞれの末尾で、スズキ製他クラスのGPモデルも、このような方式で型式が表記されている(最後の11と6は、シリアル番号)。
 アルミバレルに鋳鉄スリーブを焼きバメし、ピストンには独マーレ社の鍛造ピストンを使用。この使用は単気筒RMシリーズの共通の仕様だった

RMの栄光と、単気筒時代の終焉

 マン島での勝利以降、デグナーとRM62は好調の波に乗り、西ドイツGPまで4連勝をマーク。その後アルスターGP125ccクラスでの転倒負傷、クライドラーやホンダなどの盛り返しもあって、タイトルの行方は最終戦アルゼンチンまで持ち越されるが、優勝H.アンダーソン、2位デグナーの順でアンシャイトを押さえ込み、初年度のタイトルは個人(デグナー)・メーカーともに、スズキが手中に収めることに成功した。
 王者としてライバルからタイトルを防衛する立場となった`63年シーズンは、後方排気採用、キャブレター口径のアップ、ミッション9速化などの改良が施されたRM63が投入された。このシーズンも打倒RMの筆頭になったのは、小排気量スペシャリストとして名高いアンシャイトとクライドラーだったが、エースのデグナーを脅かす勢いで成長したアンダーソンが、シーズンを通して好調を維持。全9戦中で優勝2回(西ドイツ・アルゼンチン)、2位4回と安定した成績を残し、スズキの2年連続個人(アンダーソン)・メーカータイトル獲得に貢献する。また、アンダーソン以外のライダーでは、デグナー(オランダ)、伊藤(マン島T.T.)そして森下勳(ベルギー)がそれぞれ1勝ずつ挙げており、スズキという一台勢力に、孤軍奮闘し3勝したアンシャイトとクライドラーが立ち向かう、という昨年から同模様の勢力図が、より鮮明となったシーズンでもあった。
 単気筒RM最後の年となる`64年シーズン開幕前に、開発陣は初めての“2気筒”50cc、RM64X(31×33mm)の試作に着手している。2気筒化計画は`64年シーズン中も継続したが、GPの実戦に投入されたのは、ショートストローク化されたエンジン(41.5×36.8mm)を搭載することで、従来型を上回る出力を示した単気筒のRM64だった(2気筒RKシリーズのデビューは翌`65年に持ち越されることとなる)。
 シーズンの流れは、序盤の4レースで3勝を挙げた前年度王者アンダーソンがつかんだ。しかしスズキのT.T.3連覇を達成したマン島から、ホンダDOHC4バルブツインに乗るR.ブライアンズが調子を上げ、アンシャイト+クライドラーに代わる格好で、スズキの独走に待ったをかけることとなる。マシントラブルによるリタイヤ(オランダ)や他クラスでの転倒欠場(西ドイツ)とアンダーソンが停滞する間に、ブライアンズは3勝をマークし勝ち星をタイとした。しかし、最終戦前のフィンランドGPで、ブライアンズは5週目まで首位をひた走りながら、マシントラブルによるリタイヤを喫して万事休す。その後アンシャイトとの接戦を制したアンダーソンが4勝目を挙げ、自身の個人タイトル2連覇を達成。また、スズキは初年度からの両部門タイトル連覇記録を3に伸ばしたのだった。
 `65年シーズンは、初戦からかねてより開発を勧めていた2気筒のRK65が投入された。それまで50・クラスに関しては、日本GPとマン島T.T.主体で活動していた観のあったホンダが、いよいよこの年から本腰を入れて王者たるスズキに挑戦を開始。2・4ストローク2気筒によるタイトル争いは熾烈を極めたが、4年目にしてついにスズキは、両タイトルをホンダに明け渡すこととなった。
 なお、栄光の単気筒RMの最後のグランプリは、同年初戦のアメリカGP。ただひとりRM64のハンドルを託された越野晴雄が、3台のRK65に続いて4位に入っている。

RM63
`63年マン島T.T.のパドックに並ぶ、スズキのファクトリーライダーとRM63たち。左より伊藤光夫(優勝)、森下勳(4位)、H.アンダーソン(2位)、市野三千雄(5位)、B.シュナイダー(リタイヤ)、そしてE.デグナー(リタイヤ)
 鯉住氏が所有する未再生のRM63。フレーム番号M3-8は森下勳選手用に欧州に送られた車体だ(搭載されているM3-11は、そもそもはデグナーのスペア用)。`63年シーズンに森下はベルギーGPで見事優勝を飾っているが、もちろんこの車体は「そのもの」だ。
 RM63エンジン最大の特徴は、リヤエキゾースト(後方排気)を採用したことだろう。そのほか、キャブレター口径が拡大され(24ミリ)、そして変速機段数が1速多い9速となっている。
鯉住氏が所有の RM64(TR50エンジン搭載)
RM63のオーナー、鯉住氏が所有するRM64(TR50エンジン搭載)。走行写真は、`98年の鈴鹿ヒストリックレーシング・デモ走行時の勇姿だ。
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           続く                     Menu へ