モトクロス世界選手権レ−ス(1965〜1980年)
日本のモ−タ−サイクルレ−スの黎明期である1950年代の浅間レ−スや1960年代の
WGP の記事は殆どホ−ムペ−ジ上に公開されておらず、そのことが私のホ−ムペ−ジ開設のきっかけとなったのであるが、もう一つの
GP 「モトクロス世界選手権」の当時の記事となると皆無と言ってもよいのではと思う。
スズキが「モトクロス世界選手権」に挑戦しはじめたころの
「私の記憶」と
「4っの記事」を紹介することとする。
@『私の記憶』(私は、1965年と1966年はロードレースを担当しながら、モトクロス車の開発も担当した)
A1970年に発行された『スズキ 50年史』に掲載されている1965〜1969年の記事。
B1990年に発行された『スズキ 70年史』に掲載されている1970〜1984年の記事。
C1981年に講談社から発行された『われらがスズキ・モーターサイクル』に掲載されている1965〜1980年の記事。
D1985年7月、中日新聞に連載掲載された『鈴木自工物語』の中の記事。
@『私の記憶』から
スズキが「モトクロス世界選手権」に初挑戦した1965年と翌1966年には、私も関与していたので日記帳を紐どきながら、思い出したことを述べてみることとする。いずれにしても、ロードレースで手一杯であり、余分な業務命令で「気乗りのしない」、「片手間」の仕事だったという記憶である。
1965年のいつ頃に「モトクロス世界選手権」への挑戦の計画が決定したか記録になく明らかでないが、「RH65(250cc)」の図面が完成し出図したのは1965年5月19日前後であった(5月18日に図面を検図と日記帳に記載あり)。7月1日にエンジンの組み立てが完成しベンチテスト開始。7月9日に城北ライダーズの久保和夫・鈴木誠一・久保兄・矢島金次郎とスズキ関係者で朝霧高原でテストを実施、RH65
と T20改造モトクロスレーサーとの比較テストしている。7月15日に
久保和夫・鈴木誠一とスズキの輸出部員1名が羽田を出発し、19日にマシン(RH65 と T20改造モトクロスレーサーの両マシン)を発送した。久保和夫が7月25日の
スエーデンGPに出場したが1周目にトラブルリタイア、トップマシンのCZ・Greeves・Husqvarna
との性能格差や RH65 のその他の問題点の状況から、次のフィンランドGPに参加して帰国することに決定した。8月1日の
フィンランドGPでは1周目転倒しリタイア。そして8月9日には帰国し、12日にスズキ本社で報告会を実施した。
1966年の基本方針が決まったのは1965年11月15日だった。その前に、CZで1964年250ccチャンピオン、1965年ランキング2位の J.Robert と数回の契約交渉をもったが、これは打ち切り、久保和夫、小島松久の日本人ライダーで再挑戦することに決定した。その後は、振動対策・2排気ポートシリンダーを採用しての性能改善に努力した記憶である。こんな最中(さなか)の1966年1月には、レース部門の人員縮小の人事が発令され、レース部門の御大だった清水正尚課長を始め神谷安則・鈴木清一などが生産車設計部門に転出することになった。3月10日には RH66エンジンが組み立て完成し、ベンチテスト開始。完成車としては3月18日組み立てが完成し竜洋テストコースで初走行テストを実施。3月20日には小島松久が「モトクロス中部地方選手権レース」に出場し、250ccクラスとオープンクラスで一応優勝、4月3日には香川県五色台で開催された「第3回モトクロス日本GP」で小島が優勝、矢島金次郎が3位、久保はリタイア。4月14日には、久保・小島が「鈴鹿サーキット」でテストを実施。以上のような国内のテストを経て、4月18日に
久保和夫・小島松久とスズキの輸出部員1名がマシンとともに羽田を出発した。初戦は4月24日の
ベルギーGP、5月1日の
スイスGP、5月15日の
西ドイツGP、5月22日の
オランダGPに参戦し、5月26日帰国した。そして5月30日スズキ本社でRH66の問題点について討議を行った。
1966年10月の日本GP直前の9月下旬、組織変更で「レースグループ」は、「世界選手権ロードレース担当部門」と「国内レース&世界選手権モトクロスレ−ス担当部門」に分割されることになり、モトクロス車の開発は私の手から離れることになった。
1967年は、ロードレースを引退した
Andersonと小島松久の2名が RH67 で挑戦したが、トラブルに悩まされ完走することは出来なかった。
【1965年のモトクロス世界選手権(250cc)出場の記録】 |
月日 |
レース名 |
久保和夫 |
7月25日 |
スエーデンGP |
1st race |
1Lap目トラブルR |
2nd race |
不出場 |
8月1日 |
フィンランドGP |
1st race |
1Lap目転倒R |
2nd race |
不出場 |
【1966年のモトクロス世界選手権(250cc)出場の記録】 |
月日 |
レース名 |
久保和夫 |
小島松久 |
4月24日 |
ベルギーGP |
1st race |
クラッチ不良でレース終了5分前にR |
3周遅れの20位で完走 |
2nd race |
不出場 |
3Lap目 接触でマフラーが はずれR |
5月1日 |
スイスGP |
1st race |
公式練習でフレームにヒビが入り不出場 |
7Lap目 ピストンリングノック折れでR |
2nd race |
不出場 |
不出場 |
5月15日 |
西ドイツ |
1st race |
練習中にフレームにクラック発生 不出場 |
1Lap目7位だったが キャブ不調となり 8LapでR |
2nd race |
不出場 |
不出場 |
5月22日 |
オランダGP |
1st race |
不出場 |
キャブ不調となり 6LapでR |
2nd race |
不出場 |
不出場 |
【1967年のモトクロス世界選手権(250cc)出場の記録】 |
月日 |
レース名 |
小島松久 |
Anderson |
4月2日 |
スペインGP |
1st race |
第1コーナーで接触転倒、足首打撲 |
― |
2nd race |
不出場 |
4月9日 |
スイスGP |
1st race |
13 Lap目、ダウンチューブクラック発生でR |
5 Lap目、ダウンチューブクラック発生でR |
2nd race |
不出場 |
不出場 |
4月16日 |
フランスGP |
1st race |
不明 |
不明 |
2nd race |
不明 |
不明 |
A『スズキ 50年史』より
1970年に発行された『スズキ 50年史』に掲載されている1965〜1969年の記事である。誰が執筆したものか知らないが、1965年に久保和夫・1966年に久保和夫と小島松久が、ヨーロッパに出かけたことは知らないのかな?。この記事からすると1967年に初挑戦したと勘違いしているようだ。
【モトクロスレースへの参加】
昭和40年(1965年)各地の世界選手権ロードレ−スの50ccおよび125ccの両クラスで、H.アンダーソンやE.デグナーが、はなばなしい成果をおさめてスズキの名を世界に知らしめていたころ、ヨーロッパでは不整地を走って勝負をきそうモトクロスレースが、徐々にさかんになり、一方、国内でもモトクロスレースが、一部の若者のあいだで人気をよぶようになったきた。このころスズキは、
250ccのモトクロスレーサーとして、2気筒のT20を使用していたが、低速トルクを必要とするモトクロスでは、単気筒のほうがよく、重量も軽くなるので、新たに開発をはじめ、RH65が誕生した。これは、国内のレースに出場したものの、種々のトラブルが発生して好成績をおさめることはできなかった。
明けて
昭和41年(1966年)も前年同様に、
ロードレース部門の片手間の仕事として開発がすすめられていたため、レーサーの改善に見るべきものがなっかった。そこで同年の10月に、
モトクロス部門をロードレース部門と切り離して、独自に開発をすすめるべく組織をかえ、これととりくんだ。
昭和42年(1967年)にはRH66を基本として改良をおこなった結果、国内のレースではいちおう好成績をあげられるまでになったので、
いよいよヨーロッパの檜舞台に出場することになった(?)。しかし、実際にモトクロス世界GPレースに参加してみると、レースの規模や内容が国内のそれとはひじょうに異なり、国内のレースでは考えられないようなトラブルが続出したうえ、レースなかばに転倒事故でライダーが負傷し、レースの継続が不可能となったため、中止のやむなきにいたった。
この年のレースでの貴重な経験をもととして、7月より1968年用のレーサーRH68の設計がすすめられて10月に完成し、11月からテストが開始された。エンジンおよび車体の性能追求と耐久性の向上をめざして連日テストがくり返された。鈴鹿サーキット内のコースは、主としてフレームおよびサスペンションの耐久性がテストされた。一方ライダーのほうは、世界の檜舞台で活躍するためには、日本人ライダーでは技量、体力ともに不じゅうぶんでむりなため、当時モトクロス世界GPのランキング3位であったスエーデンのO.ペテルソンを選んだ。彼はスエーデンのハスクバーナー・チームのエースであるH.ハルマンのセカンドライダーとして活躍しており、特に安定性あるライダーとして評価されていた。開発当初のスズキにとっては、まずレースを最後まで完走できるということが先決であり、そのためにはペテルソンはよいライダーといえた。
明けて
昭和43年(1968年)3月、人車ともに一新してモトクロスGPに参加、スペインGPを振り出しにベルギー、チェコ、フランスと各レースに参加した。
約40台の出走車中わずか1台のスズキ車は、まさに孤軍奮闘であった。国内におけるかなりのテストにもかかわらず、いろいろのトラブルが発生したが、これらをよく克服して、ベルギーおよびオランダでは、ともに2位の成績をおさめ、ヨーロッパでのスズキ車への評価を一新した。
ペテルソンはシーズンの後半が強いということで、かなりの期待がもたれていたが、スエーデンの国内選手権レ−スで、他車と接触転倒し、左足骨折でついにレース参加を中止せざるをえない事態となった。したがって、この年は15レース中7レースしか出走できなかったため、年間通算ランキングは7位にとどまった。車としてはチェコのCZ、スエーデンのハスクバーナーについで3位であった。
昭和44年(1969年)は、前年の経験をもとにして、性能および耐久性の向上をはかるとともに、車重の軽量化に意を用いて開発をすすめた。2月に総合テストを終了し、ふたたび
ペテルソンと契約し、4月よりモトクロスGPに参加した。ペテルソンの足の回復がおくれたため、前半のレースではあまり調子が出ず好成績が得られなかったが、後半よくがんばり、年間通算得点71で3位になり、車としてはCZについで2位となった。一方、国内においては久留米市でおこなわれたモトクロス日本GPレースに125ccおよび250cc両クラスで優勝し、モトクロス・スズキの名をいちだんと高めた。
ライダーの技量と車の性能の占める割合が、ロードレースでは3対7程度であるが、モトクロスレースでは7対3程度といわれている。従来のロードレースがスピードを競い合うレースであったのにたいし、モトクロスレースは、これにレジャーとしての楽しみと、アドベンチュアの面白味を加えた特長のあるレースで、一般のオートバイ利用の変化とも関連して、レースはモトクロスに移る傾向がある。最近オートバイの利用は、用途別に多様化する傾向をみせ、全体的に需要は安定化しつつある。おのなかで大型スポーツ車も新しい需要を開拓して将来の伸びが期待されているが、モトクロスレースはその発展に大きく寄与するものと考えられる。
当社はさらに
昭和45年(1970年)には新たな若手ライダーを加え、世界選手権獲得をめざしての努力をつづけている。
B『スズキ 70年史』より
1990年に発行された『スズキ 70年史』に掲載されている1970〜1984年の記事である。
【モトクロスの偉業】
スズキの二輪車が世界的な注目をあびたのは、昭和37年(1962年)のマン島TTレースでの優勝が初めてであったが、1970年代以降からモトクロスレースが盛んになり、スズキもまたテスト的に世界選手権に参加してきた。
モトクロスの250ccクラスではJ.ロベールが「スズキRH」で参戦、1970年から3年連続優勝し、その後、J.ジョベが1980年と1983年に個人選手権を獲得して、メーカー選手権をスズキにもたらしている。
また500ccクラスでは、R.デコスターが、1971年から1976年までの間に5度の個人選手権を握り、1982年にはB.ラッキーが栄冠に輝いている。
125ccクラスは、1975年から世界選手権として発足、これにG.ライヤーと、前年の全日本エキスパート・ジュニア・チャンピオンである渡辺明が「RA」と命名された125ccモトクロスレーサーで参加した。
「RA」は、改良に改良を重ねて1970年に誕生したマシンで、国内では当時このマシンの右に出るものはないといわれていた。この「RA」が、世界の檜舞台でどのような成果をおさめるかが問われるわけである。
1975年の世界選手権では、G.ライヤーが24ヒート中14ヒートに優勝、圧倒的な勢いで世界選手権を制覇した。翌1976年もG.ライヤーがチャンピオンに輝き、1977年には、渡辺明が再び加わり、第1戦と第2戦で、G.ライヤーとトップ争いを演じ、優勝を分けあった。第3戦、渡辺明は大転倒して左ひざ骨折という不運にあったが、G.ライヤーがヤマハのロンドと死闘を展開、ついに選手権を手中にした。
1978年、再起した渡辺明がチャンピオンに輝き、翌1979年にはH.エバーツが「RA」で選手権を制し、彼はこののち3年連続チャンピオンの座を占めたのであった。さらにそのあとを受けて、1982年、1983年とE.ゲボースがチャンピオンとなり、スズキの「RA」の優秀さはゆるぎないものとなった。
スズキはその年をもってレース活動から撤退することに決めていたが、1984年の世界選手権にあたって、M.リナムディーが強く「RA」による参加を希望、スズキからの貸与によって参加した。しかし彼は、内臓疾患が判明して手術を受けることになり、参加したのは第4戦からであった。ところが、「RA」を駆ったM.リナムディーは最終戦を残す時点でトップとの差を30ポイントまで追い上げ、奇跡的な逆転をなしとげ、選手権を勝ち取ったのであった。
こうして、モトクロス125ccクラスで、個人選手権、メーカー選手権を10年連続で獲得するという前人未踏の記録が打ち立てられたのであった。その10年間、「RA」はパワーアップはもとより、操縦の安定性も著しく向上し、V10から得たノウハウは、その後もスズキ二輪車の性能向上のために生かされていったのである。
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