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     1989年三樹書房発行の『グランプリレース 栄光を求めて 1959〜1967』から

                       勝利への三年間

                        河島喜好談(1962年)

第1話 浅間の敗北からマン島初出場まで

 私がホンダに入社したのは昭和22年でした.当時は従業員が今の社長まで含めて12名,本田技術研究所といった頃です.月給が1,800円でしたが.親のスネをかじっていた時ですから,月給は大部分焼酎代になってしまいました.その頃から私もレースが好きで,よく仲間と一緒に学校のグランドで草レースを楽しんだものです.

 社長もレースは大好きな人ですから,私もその下で働いている うちに,いつの間にか感化されたのかもしれませんが,社長とも一緒に競走をやったものでした.

 お陰さまで61年の世界選手権グランブリレースでは,125と250の両クラスにチーム優勝することができ,こんな嬉しいことはありません.しかし,まだ完全優勝というわけではなく、今までの記録を全部破ったわけでもないので,まだまだ安心してはおれません.もっと勉強して,立派なレーシングマシンを作り,立派なライダーを出してゆかなければならないと決心しています.今後とも日本のレースファンの人達のご声援をお願いしておきます.

 私がホンダのレース監督になったのは第2回浅間火山レースの時からです.あれは1957年でしたから,今から5年も前になります.ちょうど,今の浅間コースが完成して初めてのレースの時でした.だから内外のレースを通じて監督をつとめたのは5年間ということになります.この5年間,私にして見れば一所懸命にやったつもりですが,ふり返ってみると,未熟なところばかりが目について,改めて,全国の読者のみなさんに語れるような,まとまったものはないのですが,熱心な若いレースファンの人達に応えるという意味で、つまらぬことばかりかもしれませんが,思い出すままに逐次話を進めて行きたいと思います。

 わがホンダチームはご承知のように,国内レースでほいつもヤマハチームに惨敗していました.いわば「出ると負け」という時代がありました.第1回,第2回の浅間レースはそのうちでも苦杯をなめた大きなレースでした.レースに出れば負けるというスランプが続いた時代に,半分は自分の希望で,半分は社長の命令で,レース監督をやることになったのですが,引き受けて,いよいよ乗り出してみると,大変な仕事を引き受けたものだと,考えさせられ,苦しみました.しかし,この仕事は,本田技研の将来を築くためには.誰かがやらねばならないことだ,と心にきめ,ともすると弱音を吐きたくなる心に,ムチ打っては設計,研究,練習を続けました.ところが,第2回の浅間レースは,125,250の両クラスともヤマハチームに敗北し,私は監督としてのスタートで,最大の難関にぶつかってしまったのです.

 あの浅間レースの時の会社の方針としては,レースに勝つためのレーシングマシンを作るより,スタンダード車に手を加えたもので,しかも勝つことを目指したものでした.というのは,負け惜しみでいうわけではありませんが,当時の日本のモーターサイクルは,終戦後の輸送の困難な時に,手軽に運べる機器としてモーターサイクルが発達してきたという,独特な国情でもあったので,いわば輓馬(荷物を運搬する馬)としての存在価値があったのです.だから競走馬としての生れつきではなかったのです.

 しかし,輓馬だからといって早く走ってはいけないというわけではないし,より速くより丈夫なものであれば,これにこしたことはないわけです.こういう結論から,その当時市販していた車をよくしてゆくためには,輓馬であってもかまわないから,それに手を加えて改造して競走馬を育てあげようという考えで,第1回と第2回の浅間ではレーシングマシンらしきものを作っていたのです.

 そして一方では,第1回の浅間の敗北からライダーの養成とチームワークに,すぐさま手をかけねばいけないということを悟りました.社外からライダーを求めれば,適任者もいたかもしれないが,まず自分達で勉強して立派なライダーを育ててゆこうと考えたのです.その結果,ホンダスピードクラブが生れ,私がその初代監督をやることになりました。

 国内レースでは輓馬を改造して出場するという基本方針で,結果は惨敗ということでしたが,そのお陰で市販車の耐久性や性能はずい分向上させることができました.レースこそ負けましたが,市販車を基本としての出場だったので,この点に対する貢献は大きなものがあったのです・当時はこういうことは,他人に話すことも出来なかったし,また話したところで,“レースに負けたから負け惜しみをいっている”としか思われないことでしたが,実際に,市販車の性能向上の面にはプラスになることを,たくさん発見できたのです。

 第2回浅間レースより1年ぐらい前だと思いましたが,本田社長がヨーロッパ旅行から帰ってきて,いきなり,マン島TTレース出場.という声明文を出し,関係方面に配布され,センセーションを捲き起しました。レース部門にも当時から関係のあった私にして見れば,レーサーも出来ていないのに,社長はどえらいラッパをふいてくれたなアーと内心では心配もしたし,恐ろしくもなってきました.

 その当時,われわれ設計者のうちにほ,海外レースを見た人もいないし,また,グランブリレーサーなど,写真で見るしか出来ない頃だったので,どういう設計にすれば,あのような恐ろしい程の馬力やスピードが出るものか,皆目見当さえつかない頃でした.われわれがそんなレベルの時に,社長はいきなり,来年にはマン島へ出場する!と声明を出したんですからピックリしました.

 私は社長に“本当に出るんですか”ときくと,“何でもかんでも出るんだ.グズグズしていれば置いてゆかれる”というような調子で,尻を叩かれたものです.私は尻を叩かれながらも,最初のうちは半信半疑でした.レーシングエンジンを設計し,フレームを作るにしても,どういうようにすれば良いのやら,サッパリわからないのですから−.

 しかし,何とか形らしいものを作り出してゆかなければいつになっても進歩がないので,まず,着手することに決めて設計に入ったのです.第2回の浅間レースの時にはエンジンの図面が半分ぐらい進んでいたと思いますが,このレースのために中断されてしまいました.

 ところが前にも述べたようなレース結果となってしまったので,この上は今まで以上に頑張らなくてはいけないという悲壮な決意の下に,1959年マン島TT出場を目指してレーシング・マシンの試作に全力を傾けました.古めかしい形容をすると,全く臥薪嘗胆(長い間恥辱をしのんで苦労するの意)の毎日が続いたわけです.

 海外レースに出場するための準備は,第2回の浅間レースが終った翌日から活発に再開されたというのが実情でした.この準備を進めながら,私は何故浅間で敗れたか,を毎日考えました.そして敗北した原因を追究し,次の海外レースにおいては,同じケースの失敗は繰り返したくないものだ.そしてレーサーやライダーにも,そういう観点から考え方をしぼって,着々と準備を進めてゆきました.

 第1回と第2回の浅間レースから得たことは,前にも述べたように,ただ勝つだけではいけない.新機構のアイデアがあったら,それを採用してどこまで耐久性があるのかそれをテストしてみよう.そして故障が生じたら,直してトラブルが生じない完全なものに仕上げてゆこう,という,ひとつひとつの積み重ね方式のレーサーで出場してきたため,極端な時には故障車が続出して練習する事すらなかった時もありました.勝ちさえすれば良いという方法はとらず,回り路ではあったがこの路を進んだため,新しいアイデアや新機構の研究は,このふたつのレースを通じて大分やれたのです.しかし,レースである以上,勝たなければいけない,途中で故障して脱落するようではいけない,と考え直し,浅間のにがい経験を基にして,今までの考え方を改めた設計にしてゆきました.すなわち,馬力が足りないこと,故障が絶対生じないこと.エンジン設計はこのふたつを軸として進めました.ところがフレームに関しては,どういうふうに設計したら良いのか皆目見当がつかず,風洞テスト設備もないので,ともかく浅間で走った経験を基にして,このようにしたら良いだろうという予測の下に,設計を進めたのが実情です.

 ライダーの面については,“ホンダスピードクラブ’も生れ,チームワークも整い,士気も大いに上がっていたし,別段心配することはない,このメンバーの中から選抜すれば大丈夫である,監督以下全員が海外レースには未経験なものの集りではあるが,やれるだけやってみよう,と考えていました.それといま一つは,過去2回の浅間の体験からは,ライダーに絶対の信頼感を与えるだけのレーサーを作ってやることが出来なかった.いかに技量が優れているライダーであっても,自分が乗るマシンに一抹の不安を感じていたんでは,絶対に立派なレースは出来ない.何としても,ライダーの信頼のもとに不安なく乗れる車を作ることだ,ということを反省したり,悟ったりしたのです.

 われわれも,出来ることなら国内レースに立派な成績をあげてから海外レースに出場したかったのですが,負けてから泣きごとをいっても始まらないことだし,是が非でも馬力のある,故障のないエンジン製作を目指して,不眠の実験が続きました.

 社長もよくわれわれと一緒に実験室に立てこもり,目を真っ赤にして陣頭指揮をしてくれました.私はそのたびに,早く社長に手を下してもらわずに,こういう立派なエンジンができました,と報告するようになりたいと,頑張って見ましたが,気ばかりあせり,データはいつになっても上がりませんでした.それでも,社長や先輩各位の協力のお陰で,年の暮れ近くには,やっと15馬力まで到達することができました.この当時,125ccエンジンでMVアグスタやMZは,最低18馬力は堅いといわれていたのですから,われわれのレベルは,遠く彼等には及びもつかなかったことになります.

 そればかりでなく,今考えるとナンセンスですが,ヨーロッパのレーサーのデータが発表されているのを見るたびに,125ccで18馬力 250ccで39馬力などという驚く程の馬力数値を,われわれ日本のエンジニア達はカタログ馬力でないか? と疑ったものでした.恥ずかしい話ですが私もその一人でした.しかしレーシングエンジンを自分で手がけてから,彼等のデータを次第に信ずるようになってきました.というのは,125ccエンジンを当初手がけ始めた時は,わずか8馬力そこそこしか出なかったのです.それを約8ヵ月かかって15馬力まで上げることに成功したのです.この事実からして,私は偉大なヨーロッパのエンジニア達に頭の下がる思いがしました.そして,彼等のデータは正しい掛け値のないものであることを,初めて信じた次第です.

 そんなわけで,忙しい思いで1958年は終り,1959年は正月休みも返上して研究室に立てこもって,あと足りない3馬力をどうしたら出せるか,そしてエンジントラブルはどうしたら防げるかを研究してゆきました.その結果2バルブ方式よりも4バルブ方式のほうが,高回転時においても信頼性が高く,トラブルがないことを発見し,この方式を採用することに決定しました.それでも足りない3馬力を上げるためには,言葉でいいつくせぬ苦労が毎日続きました.その甲斐があって,やっと17馬力まで上げることに成功し,このエンジンで初出場,しかも世界選手権レースで一番むずかしいシビアなマン島に初出場するというのですから,どう考えても“心臓の強い”話です.

 1959年のマン島に出場するという正式決定は,15馬力までこぎつけることに成功した年の暮れでしたが,その時の考えでは,“到底優勝なぞは考えられないが,この位のパワーが出れば,そう惨めな敗け方はしないで済むんじゃないか,途中の脱落がなく完走すれば,これによって得る経験は今後のために大きなプラスになる,どうせ出場しなければならないんだし,社長は世界のホンダになるんだ!・・と力んでいるんだから,1年でも早く勉強したほうが良い・・ということで,前の年の暮れも押し迫ってから正式に決定を見たわけです.そして,1959年の1月には出場するための手続き,レーサーの輸送手続きなど,細かいことは何一つわからないので,その方面の調査のため,新妻調査室長とビル・ハント(第1回クラブマンレース国際レースチャンピオン)の両氏がイギリスに渡り,調べて帰ってきました.

 本当はその時私も同道して,コースをよく見て釆たかったんですが,足りないパワーを出すためにそれどころではなかったのです.また仮りにその時,私がマン島コースを見たとしても,見ないよりはプラスにほなったでしょうが,それ程有益ではなかったと思います.というのは,コースを見たぐらいで,どのようなレーサーを作れば良いかとピタリとわかる程,私由身に目がなかったからです。今日でこそ,コースを見れば,このコースを走るためにはこういうレーシングマシンにしたほうが良いとか悪いとかが,ある程度までわかるようになりましたが,あの頃の私では全く“馬の耳に念仏”同様で効果がなかったでしょう.

 話が横道にそれましたが,59年の正月休みを返上してのテストから,2月,3月と苦しい毎日が続きました・あと2馬力 あと1馬力,あと0.5馬力と,データを見つめながら,来る日も来る日もテストの連続でした.われわれ関係者はそのために,陽の目を見ることが少なく,目方もずい分と減りました.しかし,苦労の甲斐あって,データはわずかながらも上昇カーブをたどってゆきました.

 ところが,そんな矢先,思いもかけない不祥事が発生したのです.初出場も決定し,そのライダーも発表されていたのですが,そのうちの一人である秋山邦彦が“妻と勲章”という映画のロケ中,元箱根のカーブでトラックと衝突して死亡するという,最も悲しむべき事件が起きたのです.彼は出場ライダー4名のうちの1人で,鈴木義一,鈴木淳三,谷口尚巳と共に渡英することになっていたのです。このため田中禎助が出場することになったのですが,秋山君の突然の死は,われわれ関係者に大きなショックと悲しみを与えました.

 彼は大変熱心なライダーで,教養もあり,マン島コースについても,あらゆる資料を手元に集めて研究していたのです.そして英会話も出来なければいけないというので,その勉強も欠かさずにやる程の熱の入れ方でした.彼のレース歴は新しいのですが,人に負けたくないというファイトは旺盛な青年で,動作もキビキビしており,海外レースで長年鍛えれば,相当に伸びる素質をもっていたライダーであっただけに,彼の死はホンダスピードクラブにとっても,本田技研にとっても大きなマイナスでした.

 といって,一度去り逝った人が再び生れ来ることはないので,私たち一行は彼の冥福を祈り,彼の遺髪や写真を抱いてマン島へ渡ることになったのです。

 4月上旬のレーサー船積みの前日までかかって仕上げたレーシングマシンを,やっとのことで船に積み,やれやれと一息ついたのもつかの問で,船がイギリスに着くまでには,まだ1ヵ月もかかるのだから,この問に,もっと良いアイデアが生れるかもしれないから一というので,研究は休まずに続けました.そして,この間にも1,2の方法を発見し,部品を作って航空便で送る手配をきめ,マン島での練習もあることですから,われわれ一行13名ほ5月3日に羽田を発ちました.

 羽田まで送ってくれた社長は,「1年目だ,気楽な気持でやってこい.決して無理はせず,全員元気で帰ってこい」と,一行の肩をやわらげてはくれましたが,やはり多額の研究費を使い,長い歳月を費して出来上がったレーシングマシンのことを考えると,いかに社長がレースに理解があるからといって,甘えてはいられません.まず完走,それも全車完走を目指そう.秋山君の不幸があった後でもあるし,チームのうち一人でも事故者を出したら監督として申しわけがないことになる.それからそれと考えは堂々めぐりをし,頭の中は一杯でした.羽田の空を飛び立つと同時に,さまざまなことが胸にせまって,自分の責任の大きさを今更のように考えさせられました.

 飛行機の中で隣りの席にいる関口整備主任(1961年のホンダチームの第3,第4陣の監督)も私と同じ気持のようでした.チラリと見ると奥さん宛に手紙を書いているので,のぞき見をすると“これからは全くお先真っ暗で,ただ努力あるのみ・・”という意味のことを書いていました.

 希望と不安と闘争心と,複雑な感情をチャンボンにしたまま,飛行機はわれわれ一行をマン島へ運びました.着いた翌日から早速コースの下見を開始したわけですが,話を聞いて想像していたのと,実際に見たのとでは大違いで,まずピックリしたわけです.1月に調査に釆た新妻から聞いた話と,私が下見をして感じたこととは全く異なることばかりで,実はとほうにくれてしまったのです.これは,新妻の説明の悪かったのと,私の聞き方の悪かったのと両方であったためですが,マン島に着いた翌日から暗礁に乗り上げた感じでした.
 しかし,そんな泣きごとをいっているわけにもゆかないので,早速,持って行ったスタンダード車で,コースを頭の中に入れるための練習から始めたわけです.この年のコースはクリプスコースといって1周17.36kmのもので,現在使用されているマウンテンコースに比べると約3分の1ぐらいの短いコースでしたが,この短いコースの中にさまざまなシビアな個所があって,レース馴れのしないわれわれには,全く不気味な恐ろしいコースでした.

 私は出発の際,社長からいわれた言葉を思い出しては,あせらないこと,怪させないこと,を毎日頭の中から離さずに,少しずつコースに馴れてゆきました.

 ところがどうやって走って見ても,とても彼等(MV,MZ,ドカティなどの各チーム)が今までに記録したタイムには遠く及ばないのです.ギヤレシオを変更しても,その他いろいろのことをやっても少しもタイムは上がらないのです.しかし,地元のファンたちはわれわれの練習を見て,“ホンダほ有望だ,ダークホースだ”などというニュースを語ってくれると,ついわれわれもその気になったりして,一喜一憂の1ヵ月をすごしたのです.われわれホンダチームのほかには,だれ一人として練習に釆ている者がないのですから,われわれは一体早いのか遅いのかサッパリわからないわけです.ただ目標となるのは今までに残された,過去の優勝ライダー達の記録だけです.その記録には到底及びもつかないのですが,マン島の熱心なレースファンや,自称レース評論家たちが語ってくれるホンダチームに対する批判を耳にはさむと,多少は希望が湧いてきたり,あるいは逆にゲンナリしてしまったりで,監督の任にある私は,精神的にはずい分苦しい1ヵ月でした.

 だが,最初から目指したのは,全車完走!であったので勝つということは全く考えず,来年のために,あらゆるデータをひとつずつ作ってゆくことに専念しました.今年のテストデータが確実でしかも多い程,来年のレース準備は容易なものとなり,今年よりは一段と向上したレーサーを作ることができる−−,こういうようにハラを決めた私は,なるべくこの目的のために,多くの時間を費すことにしました(この翌年にはコース変更され,このクリプスコースは使用されなくなることを知らないで).

 前に述べるのを忘れましたが,完走をねらった理由としては以下のことも含まれています.練習に入ってすぐわかったことですが,初めて作ったレーサーであるから無理もなかったのですが,操縦性がすごく悪いのと,ブレーキ性能が全然駄目であることを発見したのです.パワーのほうも不足ではあっても,他のレーサーと比較して極端に不足しているとは考えられませんでしたが,この操縦性とブレーキ性能の悪いことは,どうすることも出来ない欠陥でした。現地において改良する方法もなく,またライダーテクニックによってカバーできるというような,簡単なことではないのです.ものすごい高速で走行するのですから,僅かの操縦性の悪さやブレーキの欠点も,ライダーにとっては大きな負担となってくるのです.ギヤレシオを変えてみた位いでカバーできることではありません.この二つの欠陥を直すには,日本へ帰ってフレームの基本設計からやり直すこと以外に方法はなかったのです。だから,許される範囲でベストをつくし,まず完走しようという結論になったのです。

 このようなことを発見して練習している間に,レースの開催1週間前になりました.各国から著名ライダーがマン島に到着し,島は次第に活況を呈してきました.軽量級ライダーで当時ナンバーワンといわれた,イタリアのウビアリ,プロビーニ,スイスのタべり,ドイツのデグナーなど,私たちの強敵は次第にわれわれの前に姿を現し,練習を開始しました。

 私は世界一流ライダーの,見事な疾走ぶりをこの時生れて初めて見たのです.グランプリレースも見たことのない私が,グランプリレーシソグマシンを設計し,しかもそのマシンを,ろくろくテストもやらずにイギリスまで運び,この強敵と闘おうというのですから,私達ホンダチームのやっていることが,いかに困難なことであるか,いかにむずかしいことであるかを,この時,私は脳髄まで通る程の強さで感じとりました.

 しかし,私達ホンダチームは日本人です.われわれには日本人の血潮が流れているのです.彼等がやったことを,われわれ日本人に出来ないことはありません.彼等が10年かかって築き上げたレーシングマシンなら,その半分の5年間で完成してみよう,彼等が6年間を必要とするならば,こちらは3年間でつくってみせよう,と私は固く心に念じました.そして,遠い日本からわれわれのことを心配している社長のところへ,私はその決心を書き送りました.

“私たちは初めて世の中に出た井戸の中の蛙であることには違いありませんが,ただの蛙では終りません.来年も再来年も世の中に続けて出して下さい.キット3年先には,世の中や大海を知る蛙に成長することをお約束します.私たちは日本に生れた蛙ですから,他国の蛙などには負けないだけの魂をもっています”

 こんなことを書き送って,今の努力の上に,来年も再来年も,そしてそれから先もずうっと積み重ねてゆける機会を,是非とも与えてもらうことを,社長に依頼したものでした.

 さて,第40回にあたる1959年マン島TTレースは刻々と近づき,各ライダーは尻上がりに練習タイムを上げてゆきますが,わがホンダチームはさっばり上がりません.予想以上に上がらないのです.ライダーや整備の人たちの気持があせり気味になるのを私は,極力抑えるようにしているのですが,ライバルの好タイムが発表されるたびに心の動揺を感ぜずにほいられませんでした.私はそんな時はいつも,社長が羽田を発つ時われわれにいってくれた“無理をするな,全員無事で帰ってこい”・・この言葉を思い出してほ,心を鎮めたものでした.

 そして,初出場の日はいよいよやってきました.6月3日125ccクラスに,谷口尚巳,鈴木義一,鈴木淳三,田中禎助の4名と,アメリカからビル・ハントが個人出場したので合わせて5名のホンダが,マン島クリプスコースに・わが日本製レーシングマシンとして初めてのわだちの跡をとどめ,エンジンはうなりを上げて強敵MV,MZ,ドカティのマシンにたち向かったのです・レースは谷口が6位に入賞という予想外の好成績をおさめ,その上・メーカーチーム賞を鈴木義一,鈴木淳三,谷口尚巳の3名が完走して獲得できました。出発を前に事故死した秋山の写真を胸に抱いた谷口は,よく走り続けました・亡くなった秋山も,草場の影で喜んでいてくれたことと思います。

 初出場としては幸運にも,予想以上の成績をあげ,世界各国から注目されるようになったことは事実ですが,このレースから教えられたことはあまりにも多くありすぎたので,それを全部消化して自分のものにすることに,私は人知れず頭を痛めました.そして,やはり場を踏まねばならない,経験を積まねばならないことを悟ったのです.

 この年はマン島しか出場しなかったのですが,マン島に渡ってみて,これは失敗であったことを悟りました.この年のあと,2,3のレース場の経験を踏んでおれば,出場2年目にあたる1960年には,もっと良い成績が得られたのではないか,とあとからではありますが反省させられました.


            
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