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第2話 250cc4気筒の初出場と苦闘の転戦
初出場の1959年に,マン島TT出場だけで終ったのは失敗であったと悟ったのは,2年目に出場してみて気づいたことでした.
初出場で谷口が6位入賞,125cc級のチーム賞を獲得こそしたが,優勝争いのトップグループに入っての成績ではなかったのです.この年のトップクラスとしては,MVアグスタ,MZの各チームでしたが,彼らには遥かに及ばない実力しかなかったのです.その欠陥としては,やはりエンジンパワーの不足が第1番で,操縦性の悪さが2番目の欠陥でした.
このふたつの欠点をもったレーサーで,他のレースに出場してみてもどうにもならない.それより1日も早く日本に帰り,再設計,試作テストをして良いレーシングマシンに改造することだ,と考えたのです.そんなわけで,125cc級のレースが終った翌々日,われわれ一行は500cc級のレースも見ずにマン島を離れました.生れて初めて見た,世界の強豪のべらぼうな速さに舌を巻いて,マン島を後にしたというのが実際のところでした.
1年目は日本人ライダーだけで出場したのですが,日本人ライダーは素晴らしい素質はもっている,しかしマン島のクリプスコースに馴れるには,やはり3年は連続しなければ無理である.その後において日本人ライダーの上にも,優勝の可能佐が出てくるのではないか、ということを感じました.
このほか,レーシング部品については,最初国産のものを予定し,プラグ,チェン,ブレーキライニングなども国産のもので走ろうというプランで行ったのですが,マン島に着いて走ってみて,全然駄目なことがわかりました.結局,全部あちらのものを使用せざるを得なかったのです.そして,各部品メーカーのサービスの良さには全く驚きました.朝から晩まで,そばにつきっきりで面倒をみてくれるのです.日本ではとても想像できないことでした.
マグネトやキャブレターは国産を使用したんですが,正直なところ,果してこれで良いのかどうか,をハッキリつかめなかったのが実情でした.そんなために,2年目になってから,1年目に出なかったキャブレターのトラブルが生じたりしたのです.くり返していうようですが,あとのレースも出ておれば,このトラブルの原因もつかめて,2年目にはもっとスムースに走れたと思います.マグネトもうちのエンジンは他社のものと比較して高回転なため,特製でないと駄目でしたから,耐久性について不安はありました.ショックアブソバーは,各ライダーの好みに合わせてスプリングを強くしたり弱くしたりの日本製でしたから,一概にはいえませんが,そのコースにマッチした状態であったかどうかは,これも出場経験1年でほ不十分でした.
操縦性は,結論としては高速時でのカーブの操縦性が悪かったのです.直線路での操縦性はむしろ良すぎたのです.このふたつはウラハラの関係があるので当然のことですが・・.荒川のテストコースでカーブの安定性をテストした程度では,とてもチェックできないのです.というのは,われわれが想像もしないような高速でカーブを切らなければならないからです.結局,フロントフォーク回りの横剛性が足りないということでした.
1年目のフロントフォークはボトムリングでしたが,この欠陥を補うための2年目には,テレスコピックに改めました.もちろん,ボトムリソグで横剛性を強くすることは可能なんですが,設計上目方が重くなってしまうのです.・・ジレラやBMWなどのように重量車では,少しぐらい目方が重くなったとしてもかまわないのですが,125cc級では,わずかずつの目方でも貴重なため,軽くて横剛性を増せるテレスコピックフォークを採用することにしたわけです。
カウリソグも風洞テストをやった結果,F.T.Mの規定内におさめ,あのタイプのものが出来上がったのですが,実際に走ってみて,不完全であることがわかりました。これも早速2年目から改装しなければならないので,改めて風洞テストにはいることにしました.その結果,年々空気抵抗が減っております.
燃料タンクの形状も,1年目と2年目では大きく変わりました.日本人ライダーや外人ライダーのライディングポジションを参考にして,高速時に無理がないようにすることをポイントとして改めることにしました.
エンジンは1年目から4サイクルのフォアバルブ方式だったのですが,NSUのレンマックス,レソフォックスの設計者もいっているように,技術というものは新規なアイデアで飛躍的に佐能向上を図ることはできない.基準を固めたひとつひとつの積み重ねによってのみ可能である,という考え方に同感する点があったので・根本的な設計変更はせずにひとつひとつを改良しながら,性能向上を図ってゆくというオーソドックスな方法で進めたわけです.フレームにも改良を要する面があったので,これにも着手することにしました.
このほか,ライダーについては,外人ライダーの起用ということもあったのですが,当時はこのことは全く考えなかったというのが実際です.それよりも,なんとしても高性能のレーサーを作り上げることのほうが先決である.良いレーサーさえ出来れば,外国の一流ライダーからだって乗車希望が出てくるに違いない。まず,どんな苦労をしてでも,レベルの高いレーサーに改造することが第1だと考えていました。レース中の使用燃料についても,デリケートな神経を使うべきですが、1年目ではそれどころではなく,燃料のことなど,頭の中にはありませんでした.
数え上げると,数限りないほどの欠点や失敗を背おい込んで日本に帰ってきたのですが,それからがまた大変な年でした.1960年のG.P.レースが開幕されるまでは約1年の歳月があったのですが,この間にはたして,これだけのことをやりとげられるだろうか,と頭をかかえ込む位,たくさんのテーマが私の頭の中には一杯につまっておりました.
1959年の6月中旬に帰国したのですが,休む間もなく,125ccレーサーの改造を進めるかたわら,新規に250ccレーサーの設計に入ったのです.この250ccレーサーは,この年の8月に開催されることになっていた,浅間火山レースに出場すべく準備を進めることにしました.
250ccを4気筒にした理由としては,まず,125ccの2気筒エンジンを作製してみて感じたことがその土台となりました.世界でも125ccレーサーで2気筒なのは,わがホンダのほかにはドカティぐらいのもので,当時としてはめずらしい存在だったため,注目を引いたのは事実でした。1気筒あたり62ccの容量があるのだから,これを4気筒にすれば250ccになる。250ccレーサーで4気筒というのも少ないから,この方式でゆけば,また世界の注目を浴びられるし、1気筒当り62ccエンジンならば,われわれも作りなれているので,ことが楽だ.だが難点なのは4気筒のため構造が相当複雑となることだが・・という観点から,4気筒250ccレーサーを設計することにしたのです。帰国して早々に設計に入り,その年の浅間火山レースには走らせることが出来たのですから、わずか2ヵ月ぐらいで設計試作をやつたことになります(ホンダの設計試作は大体この位のスピードが標準である).
また,単気筒にした場合,バルブやピストンが大きく重くなるので,高速回転にしてパワーを出すことがむずかしい.そこへゆくと,62ccエンジンでのパワーアップについては基礎研究も終っているので,このエンジンを4つ合わせる方法のほうが危険性がないのではないか,という考え方だったのです.
試作1号車を,大急ぎで浅間火山レースに間に合わせて走らせました.とにかく,走らせることがまだ無理な試作段階だったのですが,成績は割り合いに良好でした.結果としては,1960年G.Pレースに出場予定のレーサーを,浅間でテストかたがたレースをやったことになったのですが,この時のテストデータに基づいて,そのあと,今一度試作をやり,その後に出来上がったのが1960年250ccG.Pレーサーであったのです.ですから,浅間で走ったものとは全く異なってしまいました.みなさんの中には,あの4気筒は浅間用に作製したものではないかと思われた人もあると思いますが,そうではなくて,最初からG.P海外レース用に設計されたものなのです.
このような経路をたどって,60年には125と250の両クラスに出場することになったのですが,その準備のために浅間火山レース終了後は専念しました.1年日の2倍のレーサーを,しかも6つのG.Pレースに出場させるのですから,ことは大変です.まず方針として,第1陣はマン島,オランダ,ベルギーまでとし,第2陣はドイツ,アルスター,イタリアの各レースを担当することにしました.もちろん,ライダー,整備員ともに2分したのです.
この方針で出場するには,どうしても1年目の2倍のライダーも必要になってくるので,ライダーの補充をすることになったのです.海外のライダーには経験も深く,優秀な人も多いのですが,こちらから話しを持って行ったのでは契約金も高いことをいうだろうし,何といっても日本製レーサーなのだから,日本人ライダーの養成を考えることが正しいと考え,その方針にそってライダーを補うことにしました.
1年目に出場した鈴木義一,谷口尚巳,田中禎助のほかに,田中健二郎,島崎貞夫,佐藤幸男の社内ライダーの起用を考えました。しかし,これではまだ不充分なので,外部から高橋国光と北野元の2人を入社させ,チームに加えたのです.私は,出来るだけ日本人ライダーで進みたかったので,これから先も引き続いて出場できることが先決と考え,ライダーの年齢はなるべく若い人を起用するようにしました.それと,まだレーサーが性能面で自信がなかったので,いわゆる”一発屋”的ライダーでなくて,じっくり安定性をもって完走するという“堅実派”ライダーを多く,チームの中に加えるようにしたのです.
そして,出来得れば,外人ライダーのうちから,希望者が出てきて乗りたいといったら,これを“一発屋’’ライダーとして,走らせてやろう.だが,外人ライダーとの契約は現地交渉の方法で,しかもライダー側からの呼びかけを待とう・・という方針で臨んだのです.
1959年も忙しいうちに終り,1960年になったのですが,毎日繰り返しているエンジンのパワーアップも,どうしたことかまだ満足すべき数字が出てこないのです.1年目は17馬力程度で出場したのですが,MVやMZに比べると,著しいパワー不足を感じましたので,250ccの4気筒の試作に並行して,125ccのパワーアップにも真剣にとりかかってゆきました。
われわれが研究していると同じように,MVやMZも研究しているだろうから,前年を相当に上回る性能にしないことには,2年目も残念ながらトップグループには入れないという予測を立てていたので,来る日も来る日もエンジン性能だけを改めてゆきました.
1960年の春も近づいた頃,125ccで19馬力,20馬力の線に近づいてきましたので,内心,明るい希望を抱くようになってきました.しかしこの頃,思いもよらない悩みがまた生じたのです.それは,1960年のマン島TTは,すべてマウンテンコースを使用して行なうというレース主催団体であるA.C.Uの発表です.1年目にわれわれが走ったクリプスコースは使用しないことになってしまったのです.同じマン島だから,コースもそんなに相違はなかろうと思う方もあるかもしれませんが,マウンテンコース(1周60.7km)とクリプスコース(1周17.36km)とは,その形状も全く異なり,ライダーテクニックも全くちがうのです.この発表を聞いた私は,唖然としました.これはシマツタと思いました.
マン島に行っていながら,マウンテンコースを走る必要がなかったわれわれはクリプスコース専門に勉強し,練習を積んでいたのです.マウンテンコースは自動車で観光を兼ねて一回りしただけなのです.だから,出場2年目というレッテルこそ貼られるが,実際には初出場と変りのないような状況になってしまったわけでです。それに加えて日本から,わがホンダチームのほかにスズキチームも初出場することになったので,こちらは追われる立場になりました.
監督の任にある私にとっては,1960年の初頃から,この大きな負担に頭を悩めました。マン島のコースが変更になった対策として,至急に考えを変えてゆかねばならない事項もあるので,これだけ余分なことが増えたのです.世界で一番むずかしいといわれているマウンテンコースをスムースに走るにほ,コース馴れのした外人ライダーでなければならないので,適当な人があったら契約してもよい・・と思っていた矢先,オーストラリアのトム・フィリスから乗車希望の手紙が来ました。ちょうど出発の2ヵ月前の2月頃だったと思いますが,彼の希望通りマン島TTだけに乗ってもらうことにしたのです.
約9ヵ月の月日を費して作り上げた60年型G.Pレーサーを,4月上旬に船積みし,出場第1陣はイギリスのマン島へ波ることになりました.マン島に着いて昨年と同じような練習が始まったのですが,初めてのマウンテンコースでしかも長距離でシビアなコースのため,1年目では出つくさなかったトラブルが出始めました.とくに250ccレーサーのキャプレターの不調,高速走行時のミスファイヤーなどが出てきました.日本にいる時,荒川コースで1月,2月の寒い時期に,ずい分苦労してテストを一所懸命にやったのですが,荒川コースのスピード程度ではチェックできないトラブルが生じてきたわけです.
話は前後しますが,イギリスヘ渡って間もなくジョン・ハートルから乗車希望が参りました.ところが彼はモビルオイルと契均ができており,その有効期間中であったので,わが方との契約はモビルオイルの反対によって不成立に終りました.ホンダチームもモビルオイルを使用していれば問題はなかったのですが,オイルはカストロールと契約をしていたので,ライバル同士でもあって,スムースな話し合いができなかったわけです.
ジョン・ハートルは自分が乗れないのは残念である.その代り信頼できるライダーで自分の友人であるボブ・ブラウンを推薦するということで,ブラウン選手との交渉に入りました.マン島でブラウンに会ってみると,非常に立派な心をもった人で,契約金のことなぞどうでも良いではないか,私がホンダに乗って,幸い立派な成績をおさめたらその時話し合っても遅くない−,ということでした.しかしそれは別として最初にこちらの意向で契約はさせてもらいました.
彼がはじめてホンダ250ccレーサーに乗ったのはマン島の軍用飛行場でした.まず,テストをしてみて,気に入れば乗るという条件で飛行場へ行ったのですが,乗ってみて,すぐその場でOKしてくれました.それから練習に入ったのですが,前に述べたミス・ファイヤーについても,彼はさまざまの対策をたて,協力してくれました.
ブラウンは自分だけが走るというのではなく,メカニックにも詳しく,その上,日本人ライダーを弟のように指導してくれました.例えて申しますと,自分が先に立って走り,その後ろを走れとリードしたり或いは日本人ライダーを先に立て,その後ろについてその走法を見てコーチしたりしてくれました・監督である私にとっては,このブラウンの有形無形の協力はどの位プラスになったかしれません.
125ccレーサーについてほ,マン島へ釆て走ってみるとまだパワーが不足であることがわかりました.あれだけ協力をして,あれだけのことをやったにもかかわらず,まだ馬力が足りなかったのですから,責任者の私にとってみれば,全く復難な心境になりました.しかし,これもまだ自分の努力が足りないのだ,と自分自身をいさめたり,はげましたりしてレースに臨むことにしました.
250ccレーサーは初出場でもあり,耐久性についていくつかの疑問が出てきました.公式練習に入る前にそれ等の欠陥が発見できたのですが,設計変更を必要とすることでしたので,そこに問題があったのです.ミス・ファイヤーやギヤトレーンのトラブルのため,補修部品は使いはたし,東京から急いで送ってもらっても間に合わない.その間に設計変更をした試作品を荒川テストコースではテストする−という状態でした.
これ等の設計変更をした新しい部品は第2陣のドイツG.Pからようやく間に合ったのです.
250ccの1960年の成績をみると,マン島TT以後次第に悪くなり,第2陣に交替したドイツG.P以後は尻上がりに良くなってきました.この原因はそのためだったのですが,ドイツ以後は,ようやくトップグループに入ってレースをやれるところまで性能を向上させることができたのです。
125ccレーサーは,1960年の全レースを通じてトップグループに入ることができたのですが,前にも述べたようにパワーの不足があと一息足りないというところでした.1年目には17馬力でしたが,2年目には19〜20馬力,回転数は13,500位のところまで向上させたのに,競走してみると,MV,MZに負けてしまったのです.彼等のパワーは22馬力ぐらいはあったと思います・その僅差が,やはり優勝できなかった原因でした.1年目の時の彼等の性能は20馬力で170km/hぐらいという予測を立て,そのレベルまでアップすれば,何んとかゆけるということで目標をたて,荒川のテストでもそこまでのことは確認していたんですが,やはり1年の間に彼等も向上していたのです.自分の向上したことはハッキリ承知していたのですが,相手の向上はわからなかったために,この差が出てきたというところでしょうか.
以上のようなレーサーであったのですが,最初から2年目で優勝することは望めることでもないし,考えてはいませんでした.しかし,トップグループには何んとか喰い込みたいなあ・・ということ・で出発したのですが,走った結果から,レーサーに点数をやると,125ccでは90点,250ccでは前半が悪かったので80点,後半はトップグループに喰い込んだことでもあるので90点はやれたと思います.そして,ドイツG.Pでは,田中健二郎が250ccで3位になったので,チームの士気は想像以上に上がり,イタリアG.Pまでには,何処かで頭をとりたいという希望が出てきたのです.
これに平行して考えねばならないことは,ライダーの事故のことです.第1年目にほ,全員が殆ど無キズで帰りましたが,これに比べて第2年目には事故が続出したのです.レーサーのトラブルもさることながら,尊い人命については常日頃慎重に考えておったにもかかわらず,オランダではトム・フィリス(彼に代ってジム・レッドマンが初めてホンダに乗った)と,谷口と田中禎助の負傷,ドイツではブラウンの死,アルスターでの田中健二郎の重傷というように,思わぬ事故が続いて起きてしまったのです.
田中健二郎は長い療養生活の結果,今日では一人歩きができるところまで回復したので,われわれも喜んでいるのですが,伺んといっても気の毒なのはボブ・ブラウンの死です.ドイツG.Pで練習中に生じた事故でしたが,ヨーロッパには“ライダー・キラー’,という言葉があり,特にヨーロッパ大陸の各レースになると,1周の距離も短いので,周回遅れも相当に出てくる.それとテクニックのあまり感心しないライダーも中に含まれているので,こういう選手と走行中に接触しないように,余程注意しないといけないのです・このようなライダーのことを“ライダー・キラー’’と形容しているのですが,注意しなければいけないと日本人ライダー達にコーチしてきたブラウン自身が,周回遅れのライダーと接触して,尊い生命を失ってしまったのです.
自分の経験から,持っているテクニックのすべてを惜しみなくわれわれに与え,気持よくコーチしてきてくれたブラウンが,突然として起きた事故のために,30歳の生命に終りをとげたことは,どう考えても惜しいことでした.2年目の全レースを通じて,私に与えたショッキングのうちでは,最大でしかも最も悲しむべき惨事でありました.
彼の死は,わがホシダチームにさまざまな刺激を与えました.自重しないといけない・・その反面,ブラウンなき後は,余程しっかりやらないと,強敵MV,MZに喰い下がってはゆけないという二つのことでした.この張りつめた気持は田中健二郎の250cc 3位入賞という輝かしい結果となって現われ,アルスターにおいてはトム・フィリスが250ccのトップであるカルロ・ウッビアリのMVに,わずか2秒差で喰い下がるという健闘を見せるに至ったのです.
田中健二郎はドイツでの健闘の余勢をかって,アルスターでも上位を走っていたのですが,惜しくも転倒して右足に重傷を負ってしまいました.彼は当時のことを,あとわずかでトップに立てるのだが,そのわずかがMVには及ばなかった.結局そのわずかをカバーするためにはテクニック以外にないので,コーナーでもギリギリまで無理をしてしまう結果となった.そのためにあのような事故を起してしまったのだと語っています.全く彼のいう通りでして,ドイツG.Pで不良部品の交換をした後は,MVとの性能差は紙一重のところまで追い上げることができたのです.
オランダで怪我をしたフィリス,谷口,田中禎助にしても同じことでした.マン島で発見できたレーサーの欠陥をカバーしてゆくには,結局自分のテクニック以外にないと考えた結果,どうしてもあせりや無理があったための事故だったのです.
私は大切なライダー達に,レーサーの不備からくる心のあせりを与えたことは大変申しわけないと思い,3年目の1961年こそ完全無欠のレーサーをつくるから,あと1年だけ我慢してくれ,と心の中で手を合わせたものでした.3年目こそ不安なく安心して乗りこなせるレーサーを作ると堅く心に誓いました.
ドイツ以後は250ccのエンジントラブルは解決したのですが,今度はフレームの欠陥が出てきたのです.エンジンが快調になったので高速走行が可能になってきたら,フレームの欠陥から“後輪の尻ふり”という現象がでてきました.これはフレームの設計をやり直さなければ解決しないことでしたので.翌年に見送る以外には対策がありませんでしたが,その原因をはっきりつかめたのは幸いでした.
このほか,第1陣の整備員の諸君には大変な苦労をかけたのです.続出するトラブルに休む問もない整備が毎日続きました.陰にかくれたこの努力は,言葉でいい現わせない程のものでした.
また,マン島が終ったら,すぐ,オランダヘ向けてレーサーを発送しなければならないので,ライダーも含めて全員がコンテナへの積み込みをやるという状況で,全く祝盃を上げる暇もなく,国から国へと移動してゆかねばならない忙しいレース日程でした.
このような辛酸をなめて,ヨーロッパ各地のG.Pレースとはどういうものであるかの概略が,出場2年目にしてようやくわかったのです.
ボブ・ブラウンの死,田中健二郎の3位入質と重傷,250cc4気筒の初出場・・・など,多くの話題や悲喜をまき起こしながら,6月から9月にかけて4ヵ月問の長期にわたり,イギリス,オランダ.ベルギー,ドイツ,イタリアの5ヵ国を巡っての苦闘も終りました.そして,1年目に比べれば,想像以上の多くの知識と経験と自信とを一杯につめ込んで,懐しの日本に帰ってきました.
社長以下社内の人々は,初年度と同じような温い気持でわれわれ一行を迎えてくれたのですが,すでに3年目を目指しての闘いが開始されている私にとってみれば,その責任がますます大きくなるのを自覚するのみでした.
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