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第3話 世界初制覇と思い出のライダー

 苦闘の転機ともいうべき1960年は終り,いよいよ勝利をわが手中におさめねばならない,3年目にあたる1961年がやってきました.

 昔からの諺に“石の上にも3年”ということがありますが,1つの事業を軌道にのせるには最低3年ぐらいの辛抱が必要なことを教えているのでしょう。この諺にならったわけではありませんが,初出場した1959年に,これから先勝利を得るまでには少なくとも3年はかかると考え,2年間はその基礎づくりのために心をくばり,残された1年間は,今までに勉強して自分のものにした全部の実力をぶっつける年であると肝に銘じていました.

 1960年の場合勝利と敗北との差はほんのわずかの差になっていました。125cc級では強敵MVやMZとの馬力差は,1〜2馬力くらいなのですが,この僅かの差のために,彼等を打ち負かしてトップに立てなかったのです。どんなに歯ぎしりして頑張っても,わずかのパワー不足が,勝負の世界ではハッキリ結論を出してくれたのです.

 勝利をわがホンダチームのものとしなければならない大変任務の重い3年目を迎えるにあたって,私たちレース関係者は今までにも増した緊張感に包まれていました。そして,まず手がけたことは250ccレーサーでは耐久性を増すことに主眼をおいて1961年型G・Pレーサーの研究を進め,125ccレーサーでは,あとわずかのパワーアップをはかるために設計変更に取りかかりました.

 250のほうは,60年の後半のレース結果から性能面ではMVやMZにも劣つていないことがわかったので,むしろ・耐久性の心配をなくすことのほうが大切でした。125のほうはこれは逆に,耐久性では心配ないが,性能面ではどうしても他車よりあと一息のパワーが足りなかったのです.それとミッション系統のトラブルもあったので、これの改良も合わせて考えました.パワーの不足については,エンジン機構上の問題があって詳しいことは申すわけにはゆきませんが,1959年,1960年の2年間にわたって使用した形式とは別のものを試作して研究に入ったのです。実際のことを申しますと,昨年(1961)の春,荒川テストコースで記者公開をした125ccレーサーエンジンは,この新設討によって生まれたものが塔載されていたのです。

 ところが,その後テストを繰り返してゆくうちに,従来のエンジンよりパワーこそ上回るけれども,耐久性に疑問があることがわかったので、これと併行して研究を進めていた従来のエンジンの改良型を1961年も塔載して出場することに再び変更になったのです・こんな具合で,125ccのエンジンについては,3年間,頭を痛め苦しみ続けましたが,やはり最近に手がけたエンジンメカニズムは間違いではなかったという結論を,この年のレースの結果から確信を以って得たのでした。

 これまで1961年G.Pレーサーの完成を目ざして進んだのですが,大まかにいうと,125ではエンジン関係,250ccではフレーム関係の改良を大幅に断行したことになります.

 ご承知のように船積みをして日本から送ったものが,ヨーロッパのレース場に姿を見せて出走できるまでには,最低60日間は必要とします.ですから,スペインG.Pの行なわれた4月23日に間に合わせるにほ,それより2ヵ月前の2月20日頃には日本から船出してないと間に合わないということです.

 昨年の2月頃は,まだ盛んにあと一息,いま一歩という具合に,両クラスのレーサーのチューニングアップを,ねじり鉢巻でやっている最中で,とても船積みどころではありませんでした.それに,1961年G.Pレース作戦として,やはりマン島TTレースに勝利を得ることを目標としていたので,マン島に主力を注いだためもあります.

 マン島TTレースの開催される6月12日まで,残された期間を1日といえども無駄にせずに,性能向上を押し進めてゆこうという方針であったため,それ以前に開催される他のG.Pレースには,それ程の重点をおかなかったためもあったのです.とにかく,過去2年間,われわれの頭と体で得たすべての力を1961年マン島TTレースに注ぎ込み,世界の強敵を相手に真正面から決戦をいどんだのです.

 私はチーム監督として,徽力な存在でしたが,過去7年間にわたるレース経験を,1961年マン島TTレース決戦のために培かってきたといっても申し分のない程,私の心の中は燃え上がり,その点は赤々と力強く燃え続けていました.過去2年間,世界選手権G.Pレースに出場して教えられた数えきれない程の経験は,この年,この時のためにこそ役立たせるのだ,と自分の心にいいきかせながら,荒川コースと研究室を往復し,来る日も来る日も性能の向上と首ったけになってすごしていたのでした.

 ちょうどそんな時の1月中句に,突然として発表されたイタリアMVチームの引退声明は,われわれには大きなショッキングでした.レース目標とライバルがあってこそ,その出場の意義と価値があるのですが,われわれが目指した打倒MV,このよきライバルが引退するとなると,当面の敵はなくなるわけですが,しかし,その引退声明をよく読んでゆくと,こにくらしい文章がつけ加えられているではありませんか.

 それは“われわれMVチームは引退するが,もし,われわれが樹立した記録を破るものが現われた時は,再びモーターサイクルレース界にカムバックして,わがMVチームはその記録を更新するであろう.そして,そのための研究と努力は,レース界から引退しても引き続いてやっていく”という声明文の個所でした.私は,わがホンダチームの人々とともに,この声明文を読みながら,再び新しいファイトを燃え上がらせたものでした。

 “よし,MVが出てこなくても良いじゃないか.MVはなる程強かったし,立派なメーカーチームであった.そしてわれわれの大先輩である.この大先輩が残した立派な記録は,世界モーターサイクルレース史上に厳然と輝いている.この輝けるMVの記録!これこそ,わがホンダチームが目指すべき目標である.この記録更新を目指して奮闘しよう.今年中に記録更新が不可能であったなら来年,来年もまた無理であったら再来年でも良い.どんなことがあっても,このMVの記嫁は打ち破ろう!とお互いに手を握り合って励ましあったのです.

 このMV引退と前後して発表されたのが,カルロ・ウッビアリの引退声明でした.MVチーム最高峰としてだけでなく,世界軽量級のトップライダーとして人望も優れていた彼が,MVの引退と呼応するが如く姿を消してゆくことは,同じ目標を定めて闘うわれわれにとってはいいようのない淋しさに似たものを感じさせましたが,反面幸運でもありました.

 だがしかし,MVが引退し,カルロ・ウッビアリも姿を消したとしても,まだまだ強敵はいたのです.東ドイツのMZチームです・同チームは2サイクルのロータリーエンジンを搭載し,2サイクルエンジンレーサーでは,世界のどの車よりも速いという高性能のものでした.特に125ccレーサーは見事な安定と性能が発揮されていましたので,当然1961年も,すてがたいライバルであったのです.ライダーでは,E・デグナーという軽量級ではカルロ・ウッビアリに匹敵する選手もいて,わがホンダチームにとっては,大いにマークされる存在であったのです.このほか,日本からもスズキチームのほか,ヤマハチームも初出場することになったのは,すでに皆さんもご承知の通りです.

 さて、客観情勢は以上のようであったのですが,1961年初頭からのレース作戦にしたがい,マン島TTレースで全力を発揮させる体勢を固めることにしました。具体的に申しますと,マン島TT以前に開催される,ドイツG.Pでは幸いホッケソハイムコースで開催されたので,平坦で直線の多い荒川コースに似たコース条件のため・エンジン性能がどのくらいあるかをテストするに好都合でした。引続いて行なわれたフランスG・Pでは,コースが起伏とカーブが多く,ちょうどマン島コースに似ているため,フレーム関係の耐久性や操縦性をテストしました。このように足固めをしたわれわれ一行はマン島攻略を目指してイギリス入りをしたのです.

 話は前にもどりますが,1961年のライダーをきめるについては,外人ライダーと日本人ライダーとに区分しました.一部では外人ライダーに重点をおいた人選であるという声もありましたが,われわれとしてはそういう考えは全くもっていません。例えて申しますと,外人でもトム・フィリスとジム・レッドマンは南ローデシア人,マッキンタイアはスコットランド人,タベリはスイス人,へイルウッドはイングランド人というようにその国籍はわかれています.そこへゆくと日本人は高橋,北野,谷口,島崎,田中の5人もいるのですから一番多いことになります。各国籍のライダーが入り交じって出場するところに国際レースの意味もあるのですから,外人ライダーに偏重したとか.日本人ライダーを軽視したとかいう考え方自体がおかしなことなのです.

 ライダーの選出については以上の基本事項をもとにしてやりました.トム.フィリスとジム・レッドマンほ,1960年からの関係もあり,引続いて契約しました。マッキンタイアは,イギリスのデーラーから推薦があり,現役ライダーとしては世界ナンバーワン格の人でもあったので,ホンダチームというより,個人出場の形式で契約をしたのです.マイク・へイルウッドは,1960年にもヨーロッパホンダ(本田技研ヨーロッパ支店)を通じレーサーの貸与をうけ,イギリス国内のレースで走っていたのですが,引き続き1961年にも貸与形式で出場したいという話がヨーロッパホンダからあったので,これを採用しました.タベリは、われわれも個人的には知っていたのですが,直接,彼から手紙で乗車したい旨の申込みがあったので,過去に3回も世界チャンピオンを獲得?した立派なライダーでもあり,早速契約したようなわけです.また,日本人ライダーについては,今までの各ライダーの実績を参考にして1陣,2陣,3陣と分けて選出しました.前から何回も述べたように,1961年のマン島TTはどんなことがあっても勝つという方針でしたので,ライダーの陣容も以上のようにしました・レーサーの船積みも全部完了し,第1陣のメンバーとともに日本を後にしたのですが,出発の時にすでに勝算ほありました.社長にも“今年は勝ってみせます!”と申したところ,社長も“3年目だからなあ”とだけいいましたが,マン島での勝利は自信をもっておりました.しかし,MVの残した記録更新までは自信がなかったが,125ccではMZのデグナー,250ccではMVのホッキソグだけをマークすれば,間違いなくわがほうに有利なレースとなると判断していたのです.

 お陰さまでレースの結果は,予想もしなかった新記録の続出と,上位をわがホンダが独占するという,マン島レース史上にも輝きを残すだけの立派な成果を得られたのでしたが,これだけの記録更新は当事者である私にも想像ができないことでした.

 自分の作ったレーシングマシンが,果たしてどの程度性能を発揮するものか,それは毎年のことながら,狭い荒川コースのテストだけではハッキリ摘むことができず,ヨーロッパの本番のレース場で走ってみて初めて判定が下るという状態でしたが,出場2年目までは,荒川コースの記録がこうだからヨーロッパでもこの位は大丈夫だろうと推測していたのが実際でした.ところが3年目には,荒川コースのテストデータを遙かに上回った好記録が出たのです.最初からそれだけの性能ほあったのに,荒川コースでは掴むことができなかったのだと思います.

 そんな状況だったので,記録更新ということは願ってはいたことでしたが,あれまで大巾に打ち破れるとは思っていなかったのが実際です.ですから,社長や社内の人々にはマン島の勝利には自信がある旨を述べましたが,外部の人々には,一切このようなことは述べずに日本を発ったわけです.

 MVより個人出場したゲリー・ホッキングは,ライバルでこそあれ立派なライダーでした.マン島TTの際にも,彼は250cc車のチーム編成にあたって,トミー・ロブと高橋との3人で南ローデシアチームを組まないかと申し入れを行ない,この3人で南ローデシアM.C.Cとしてクラブチーム出場をしたのです.レース結果は,トム・フィリス,ジム・レッドマン,マイク・へイルウッドの3人組に凱歌が上がったのですが,ライバルという感情と国境を越えて,高橋にチーム編成を呼びかけたあたりは,やはり立派なスポーツライダーであると感心させられました.

 MZのE・デグナーとは,言葉も通じないということもあり,彼はメーカーチームの一員であるという制約もあったりして,あまり親しく接する機会がなかったのですが,操縦のむずかしいといわれる2サイクルロータリーバルブレーサーを,よくも巧みに敏速に操作できるものだと驚いておりました.彼の走り方を見て,腕で乗るのでなく,いわゆる頭で乗るライダーの典型であると感じました.

 ライダーの話しが出てきたので,初めて世界制覇をやりとげたこの年のホンダのライダーについての思い出を語ってみましょう.

 まず,トム・フィリスですが,ちょっと見ると乱暴な乗り方をするように見えるんですが,ホンダに乗り初めて2年間1度の事故もなく,何時も安定したペースでレベルを上げてきています.性格ほ極めて温和しく素直な人間で,口数も少いけれど,一歩一歩,努力してゆく堅実味のあるライダーでした。こういう努力が昨年(1961)彼を125ccのワールドチャンピオンたらしめた原因だと思います。ホンダのレーサーが優秀であったというだけでなく,彼の勉強の成果によるところが大きいと思います.ホンダに乗る前から,彼は世界選手権レースに出場はしていましたが,無名に近いライダーだったのです.それがホンダに乗ると共に,彼は一所懸命努力を重ね,やがて世界の王者を勝ちとったのです。今から2〜3年前に,トム・フィリスが軽量級の世界選手権者となると予言できた人は一人もいなかったはずです.それ位日立たない存在の彼が,ライダーとしては世界最高のチャンピオンの座についたのですから,努力を大いに認めてやるべきだと思います.

 ジム・レッドマンはその容貌が示す通り地味なライダーでした.そして一かどの理論家でもありました.例えば日本人ライダーと一緒に練習していても,他のライダーはなかなか自分のコースの取り方とか,その是非については語りたがらないものですが,彼はそうではなく,“俺はこういうように走ったが,お前はこのコースをとった云々”という具合で,なかなか親切でもあり,好感のもてる人でした.あまりパアッとした成績は得られなかったが,何時も平均したタイムと安定した走り方をするライダーでした.

 タベリは,昨年のドイツとフランスのG.Pには,あまり熱心に乗車を希望するので,レーサーの貸与形式をとったのですが,その熱心さには驚きました.過去の彼のレース歴からしても世界一流中のライダーであることには間違いないと折紙をつけていたのですが,練習熱心であることにおいては全く驚きました。ドイツG・Pのホッケンハイムコースでも,他のライダーは気軽に考えて練習をしないようなところでも,彼は繰り返して練習をやり研究をやるという熱の入れ方でした.

 昨年は1961年度レーサーがちょっとしたトラブルのためにあまり好成績が出ず,むしろ1960年型のほうがよく走ったのであるが,彼はその1960年型で5位に入りました。ゴールした彼は私のほうに歩を運び,“私の練習が足りないために,不成績で終ったことを申しわけなく思う”という意味のことを述べ,心から自分自身の力の足りなさを悔んでいました.彼はマン島以後は正式契約をして出場したのですが,何時もこういう調子でわれわれに接し,自分をおごらず,たかぶらず,謙虚に真面目に練習を続けてゆく態度には頭の下がるものがありました.
 マッキンタイアは,わが社のイギリス代理店をやっているアームストロソグ(往年の名ライダーとして有名)から話しがあって契約したわけですが,イギリスでは最高の人気と実力があり,しかもジョン・サーティーズの引退後は世界のライダー中最高のキャリアの持主といわれている彼と契約できたことは,ホンダチームの士気の上にも大いにプラスになりました.

 彼の人相から受ける印象は,傲慢無礼なとっつきにくい気むづかしさを思わせますが,実際に交じわってみると,大変に物腰の柔らかな謙虚な心の持主でした.250ccの最高ラップ99.58マイルという驚異的な記録を出し,あと半周でゴールという時にオイルタンクのトラブルで脱落したのですが,私たちにはさぞ彼がプンプンしてあたりちらすのではないかと思っていたところ,それとは全く反対の態度で,“とにかく嬉しいレースだった.このような記録が出るレーサーに乗せてもらったことを大変喜んでいる”これが,優勝を目前にして不運にも破れ去った直後に,彼の口から出た言葉でした.そこには何の不平も不満も未練もない,スポーツマンらしい記録に挑み,しかも堂々と押し進むという男らしさしか見られませんでした.

 このほか,彼はメカニック面でも幾つかのアドバイスをしてくれました.これは主にフレーム関係ですが,彼の言にしたがって,第3陣のレーサーからは改造をした個所がありました.彼はさすがにベテランだけあって,練習も殆どやらず,レーサーの調子を見るために,チョコッと走っては練習タイムを更新するという有様で,この点他のライダー達には見られない王者の貫禄を感じさました.

 昨年(1961)はマイク・へイルウッドの黄金の年ともいうべき年でしたが,あれだけの好記録を一人で樹立するとは正直のところわれわれも想像はしませんでした.順当にゆけば、125トム・フィリス,250ではマッキンタイアかトム・フィリスが優勝という予想でしたので,彼の活躍には実際びっくりしたのです。彼はあれよあれよという間に21歳の若さに“もの”をいわせて125と250の両種目に優勝し,その余勢をかって500ccにもノートンで優勝したのですから.

 しかし,彼はまだ年齢も若いせいもあるのか,世間知らずのボンボンといった点が多く.ライダー達の間ではあまり好評ではないようでした.彼がこれからのライダー生活において,この点をどのように向上させ,スポーツマンシップを保ってゆくか,実力のあるライダーだけにその自重次第でまだまだというところでしょう.

 さて,日本人ライダーのほうですが,高橋国光についてほ今更トヤカク述べることはないと思いますが,彼は世界的なライダーとしてそのトップクラスをゆくライダーだと思います.現在のところ,他の日本人ライダーのすべてがそのトップクラスになるための最後の壁が残っていると思いますが,彼だけは完全にその壁を破っています。

 この壁を破ったという技術の上だけの感じでは,高橋よりも北野元のほうが時期的には早かったのですが,北野はマン島で練習中に負傷するという事故もあって,壁を破ったその実力を発揮するチャンスを失ってしまったのです。

 島崎貞夫は身体も小振りで,気持の上ではレースそのものを知りつくしたという感じのライダーです.レーサーを仕上げてゆくメカニックの詳しさ,チューニングアップの見事さという点ではピカイチのライダーです・レースに勝つためには細かいところに気をくばる彼のようなライダーがいてこそ,立派なレーシングマシンが出来上がるわけです.この点,彼の技術はほめてやるべきものがあります.

 田中禎助はあまり目だたないライダーですが,根性もあり,まだまだ固まったとは思われません.ライダーとして未知数の点がありますので,今年(1962)の彼の走りっぷりによって結論が出てくるように思われます.彼はこれから先にぶつかる壁を,どのように克服するかによってきまってくるでしょう.まだまだこれから先が楽しみなライダーの一人です.

 谷口尚巳は1年目の1959年から3年間引続いて出場しているわけですが,彼の絶項の時はやはり1959年当時でした.ライダーとしては下り故にありますが,島崎と同じようにレーサーを仕上げてゆく面では,欠くことの出来ない才能をもっています.彼はライダーとして起用されないとしても,そういう面では大いに活躍できる人物です.

 以上国内,国外のライダーの横顔を思い出しながら,彼等が果たしてくれた活躍の一断面を述べたわけですが,要するに,これ等のメンバーの組み合わせが,一団となって記録を目指して努力した結果,幸いにして世界制覇が実現できたのです.しかし何時かはわれわれの記録も誰かの手によって破られる日もくることでしょうが,また,自分の記録を自分自身によって更新できる間は,たゆまずに勉強してゆきたいと思っています.

 申しおくれましたが,61年の125ccレーサーは22馬力ぐらい,250ccレーサーは45馬力ぐらいだと思います.荒川コースで125ccの最高速の実測では178km/h,250ccは225km/hぐらいでした.ホッケソハイムではギヤレシオが荒川と異なっていましたが,250ccは230km/hをオーバーした時があると思われます.

 海外レースに出場して3年目に,初めて世界選手権の獲得が達成できたのですが,この3年間,曲がりなりにも監督をつとめさせてもらったことを私は最初に喜びました.レースそのものは私も好きなんですが,好きだからといってそういう仕事を与えられるとは限りません.とにかく,あまり成績もよくなかったにもかかわらず,約5年以上の長い歳月にわたって,レース部門の職場を与えてくれたことを感謝している次第です.これも,レースについては人一倍理解ある本田社長を初めとする会社の幹部のお陰だと思っています。昨年帰国した時も,羽田まで社長と常務が出迎えてくれ,私の手を堅く握ってくれましたが,その握手の堅さ加減で,社長も口ではいわないが喜んでいてくれるんだなとわかり,3年間の肩の荷を下ろしました.

 レースに出ることは,ホンダがモーターサイクルを生産してゆく限り続けてゆくべき必要性のあることだと思います.まだまだわれわれも登りきれない峠が沢山あるのですから,これから先も,研究所にこもり,レース部門の仕事は続けてゆきたいと願っています.

 3年間を通じて得たことは,生意気な形容かもしれませんが,人間は目標さえしっかりしておって,その手段を誤らなければ,何とか実現できるものだなァということを感じました.私のような愚かな者だから3年もかかったのかもしれません.もっと有能な人が監督の任にあれば,ホンダの世界制覇はもっと早かったかもわかりません.


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