1989年三樹書房発行の『グランプリレース 栄光を求めて 1959〜1967』から
R C 物 語(その1)
神田重巳
TTレース用第1号実験車
1954年は,スタンリー・クレイマー製作の映画「乱暴者(あばれもの)」の封切られた年であった.マーロン・ブランド主演のこの作品は,後年の「イージイライダー」に続くモーターサイクルライダー映画の先駆である.ブランドやリー・マーヴインら登場キャラクターの反抗的な革ジャンパー姿は,一種のライダー風俗,ライダー気質のイメージとして社会に受けとられた.数年後.ホンダは,全く新しいイメージを押し出したキャンペーンを展開,この“乱暴者”イメージを打破しモーターサイクルの新しい世界を開拓することになる.
けれど当時の日本では,この映画の批評にさえいささか見当違いの解釈が出るような状況にあった.
この映画に登場する“乱暴者”たちの反抗は,遙か後年のへルズエンジェルズ的というよりも,ある意味で現在のホンダが車名に“レブル”を選んだ気分に近い.それを当時のある映画評は,こう見た.・・モーターサイクルの排気音には不安があり,いらいらした20世紀の象徴でもある.この映画は,ライダーたちが“自分らの発する騒音で気が変になり,ある町で大あばれ”したのだ・・・。
そのころの一般社会は,モーターサイクルライダー(もっとも映画は特殊なグループを対象に捉えたものだったが)と無縁だった.モーターサイクル生産が好況とはいえ,また“実用車”以外のモーターサイクルも,一般社会とはかなり縁遠い存在だった.
ひとつにはモーターサイクルの価格が高かったこともある.この年の初任給は8,000〜1万円程度,妻子ある30歳前後のエンジニアで1万5,000円程度の月収だった.モーターサイクル価格は,トーハツPK:9万円,ベンリィJA:11万2,000円,ドリーム4E:18万円,ライラックドラゴン:22万5,000円.今日の自動車よりも買いにくい高額商品である(余談.前年に本放送を開始したTVのセットは,17インチで17万5,000円.そして,カケそば1杯30円).
ホンダが,TTレースへ,本当の意味での”世界の檜舞台”へ現実の第一歩を踏み出したのは,そういう時代だった.
そういう時代だったから,”宣言”には,本田宗一郎が“一生見続けようと思う”といった夢が満ちていた.少年のような純粋な覇気が,そして透明なロマンチシズムが,あふれていた.
しかし,それだから常識的に判断すれば乱暴きわまる宣言に思えた.設計担当の河島喜好でさえ”社長は大変なことを吹いてくれた”とうろたえ,前途が心配になり,恐ろしくもなってきた.
この人は,1947(昭22)年3月,本田技研工業の前身である本田技術研究所に入社後このときまで7年間,社長の身辺にあり,技術の上で苦楽をわかちあってきた.本田社長の気心も,それなりにつかめていた.それでも即座にはこの宣言を受け止めきれなかった.
「私は社長に”本当に出るんですか”と聞くと,“どんなことがあっても出る.ぐずぐずしていては(世界のモーターサイクル技術に)置いていかれる”というような調子で」叱咤激励された
.
ここまで言われても,なお半信半疑の部分は消えなかった.当然であろう.そのころのわが国には,国際水準のロードレースサーキットもレーシソグマシンもない.それどころか,世界選手権グランプリの現状に通じた人,実際に見た人もほとんどない.
レーサーの製作に当たって即刻必要となる関連部品も手に入らない.本田社長がヨーロッパから持ち帰った参考品は,長い歴史に培われたものだ.ひとつひとつに,多数のノウハウが込められている.対抗できる性能の部品を得るまでには,経験の蓄積が必要の筈だ.
レーサーのみの問題ではない.国産“実用車”は生産台数こそ増加し,メーカーは30余社を数えるものの,製品の技術水準は少なくとも世界から10年,いや20年遅れているかも知れない.
しかもモーターサイクル業界全体も,本田技研自体も,決して無条件で順調無風の好況にあるとはいいきれなかった.すでに一部ではデフレ不況のかげりがみえ始めていた.本田技研では,先の工作機械大量購入の資金繰り後処理に苦しんでいた.市販モデルの一部にはキャブレター系のクレームが出た.年頭全面広告のトップを飾った野心作,スクーター“ジュノオ”の生産立ち上がりも順調とはいいかねた.
TTレース挑戦の強固な意志は,そのような“逆境’’の中でも,着実に具体化されていった.10月には,社内にTTレース堆進本部が設けられた.
間もなくTTレース用試作車第1号シヤシーが完成した.本田社長,馬場技師を中心に設計された試作シヤシーは,インテルラーゴ用R125と一変した構成を与えられている.
フロントサスペンションは,アールズフォーク,強度上有利だとして当時ヨーロッパ製レーサーで採用するものの多かった方式である.メーンフレームは鋼管ダブルクレードルで,スイングアームのリヤサスペンションを備えている.
その形態や構成は,1954年シーズン用GPレーサーの典型そのものだった.
この車の写真は,1955(昭30)年春,市販新型車ペンリィJB,ドリームSB(350cc)とともに公表された.その説明文には「設計部の総力を挙げて試作中の,TT用レーサーの第1号が完成,あらゆる角度からテストしています.これは車の強度,ステアリング(操縦性),乗車姿勢,カウリングのテストのみを目的としているので,これでも素晴らしい加速とコーナーワーク,そして150km/hの最高速度を記録しています」とあった.
ただし,写真撮影時には,まだエンジンが借り物だった.市販4E型(220cc)エンジンを素材として,潤滑系やキャプレターなどを改修しただけである.「現在,試作中の250cc(OHC)のエンジンが完成すれば,最高速度の200km/h突破は確実です」説明の末尾にはそう付け加えてあった。
第1号車は東京近郊,立川付近でテストされた・テストライダーは主に秋山邦彦が担当した.
その間,大倉商事を通じて購入したイタリアのモンデイアル・ワークスマシンが到着した.モンデイアルは,1951(昭26)年,TTレースに125cc(ウルトラライト)クラスが新設されたとき,圧倒的な速さで1〜4位を抑えたメーカーである.このマシンのシヤシー関係にそれほど新しい感覚はない。しかし・ギアトレイン駆動DOHC,ヘアピンスプリングを持つユニット模造の単気筒エンジンは,出力と信頼性の高さで群を抜いていた。
モンデイアルでは,以後数シーズンにわたって一層の改良を加えたが・次第にNSUやMVに押され気味となり,工場チームの解散を決定した。ホンダが入手したのは,その放出マシンである。
ホンダの技術陣ほ,このマシンによって,一流ファクトリーレーサーの性能を体感することができた.その結果は,またしても衝撃的だった。実際に走らせてみたモンデイアルレーサーは予期以上に速かった.エンジン出力は予想値を上回っていた.1954年TTレースでウルトラライトクラスで優勝したNSU“レンフォックス”125の最高出力は15〜18psとされた(これは本田社長がNSUの技術者から聞いた数値である).モンデイアルも当然このレベル,15ps近辺とみてよい・ホンダによるテストの結果は,それがかけ値なしに現実のものであることをしめした.排気量当たり出力で120ps/L,これはホンダの到達目標値より20%も高い.
TTレーサー計画は,出発点から見直さねばならなくなった・当然,宣言に記した1955年の初出場は見送られるだろう.
第1回浅間火山レース・1955年
1954(昭29)年の”宣言”から1959年の初出場までTTレース出場計画は,苦しい坂を一歩一歩踏み固めながら登った.本田氏がマン島で痛感したとおり”前途には遠い道程”があった.この5年間は,それまで“放置されていた”レーシング技術の基本的研究を”徹底的に,一歩一歩ときわめて”進む年月だった.
ホンダチームは,この1955年に開催された第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(以下“浅間火山レース”と記す)を不本意な結果で終えた.
このレースは群馬県・浅間山麓の北軽井沢をスタート/ゴール地点として行われたスピードレースである。1周19・2血のサーキットは2級国道146号(長野原)線,浅間牧場内の私道,隣接の町村道を一時閉鎖して使ったが,全経路とも砂利・砂のダート路面で,舗装部分は全くない.
浅間に開催地の決定をするまでは,東京都青梅市付近,岩手県盛岡市近郊,山中湖周辺なども侯補にあがっていた・浅間に決まった当初は,マン島マウンテンコースにも比べられる40km余の堆大な走路が構想された.それがコース管理等の問題で23kmに縮まり,最後は19.2kmに落ちついた.1950年代の道路だから,国道とはいえ“極悪非道’’であり,いみじくも外国人に“道路予定地”なみと指摘された劣悪な路面である・ヨーロッパ流の完全舗装サーキットとは似ても似つかない.スクランブル/トライアル/ダートコースなみだった.
その公道をレースに使うことも問題となった.結局は,レース走行時間や平均速度などのデータを一切公表しない条件で許可になった.日本の,ロードサーキットによるスピードレースは,こういう素朴な情況のもとでスタートを切ったわけである.
ホンダでは,125cc,250cc,350cc,500ccの全クラスに出場した.出場車は,すべて市販モデルの性能向上型で,既に完成済みのTTレース用試作車は姿をみせなかった.コース情況から推して当然の選択である.
125ccクラス車はベンリィJ,250ccはドリームSA,350ccと500ccクラスはドリームSBをベースとした・各車ともシヤシー基本構成を市販モデルと同じプレスバックボーン,テレスコピックフォーク,スイングアームの組み合わせを保った.
エンジンは,ベンリィJRZの場合,市販J型のOHVの圧縮比6.8を9.0に高め,最高出力7ps/6,000rpmを9〜10ps/7,500rpmに向上した。
250ccクラスのドリームSAZは,圧縮比7.5を9.0,最高出力12ps/5,800rpmを17〜18ps/7,000rpmに上げた。また350ccクラスのSBZは市販SBの出力14.5psを20ps以上にチェーンしたもの,500ccクラスのSDZは,SB型345cc(76×76mm)を4mmボアアウトで382cc(80×76mm)とし上級編入をはかったものである.
ホンダチームは,スタート地点近くの民家に現地ベースを設け,早くから合宿トレーニングに入った.ウルトラライト125クラスで最大のライバル,前年から2輪に参入したヤマハ発動機のメンバーは,その斜め向かいの浅間養狐園に根拠地を構えた.前評判は,エンジン出力でホンダが勝り,操縦性でヤマハが勝る,総合判定ではホンダがやや優勢のあたりかとみる向きが多かった・現実にベンリィJRAの出力は,ヤマハYAを1psほど上回っていた。
しかし,11月5日に行われた125cc,250cc両クラスとも結果はホンダの苦杯だった.
この日,9時00分から30秒間隔,2車同時出走のインターバルスタートを切った250ccは出走27車のうちドリームSAZは,参加12銘柄中で最も多い5車を数えた.ライダーは谷口尚巳,中村武夫,野村有司,鈴木義一,そしてブラジル遠征の大村美樹堆である。
黒フレーム,赤タンクのドリームSAZ各車は,コースに出るや,たちまちめざましい走りぶりで先行のライバル車を抜き去った.2周目に入るとき大村,野村,鈴木の3車は早くも一団のトップグループをつくり,他車を3分以上引き離している.しかし,この快走も次周から急速に崩れた・ホンダ勢は,クラッシュ,バッテリー脱落,スロットル不調などのトラブルに相次いで見舞われる,
4周77kmを走破し,インターバル時差を修正した着順でドリーム組は2位大村,6位中村という結果である.優勝は予想外の新人・伊藤史朗のライラック,チーム賞は4位・7位で入った中島/大野組でモナークがもち去った.
その日午後の125ccクラスは,出場27車のうち,ホンダ・ベンリィJRA6車,ヤマハYAl・5車,コレダSV(スズキ)5車,後年のグランプリ界を思わせる三つ巴が見られた。このレースは,着順でみるかぎりホンダにとって一層苦い結果となった.
出力の優位と軽量性を兼備した赤タンクのJRA編隊は,午前中のSAZと同様,日をみはる快速で走り出したもののレース中盤から急激に調子を乱した。結果は,1〜4位にヤマハ,5〜7位にコレダが並んだ.そして8位ベビーライラックに続く9位がホンダ勢最高の成績だった.
JRAの敗因はオーバーチューニングとみられる.エンジンは基本OHVのにとって限界的な高回転・高出力化対策をしてあった.特別チユーンの強出力型もあったという.
シヤシーの軽量化も著しかった・4ストローク/プレスフレーム車ながら,共に2ストローク/パイプフレームのヤマハ(85kg),コレダ(93kg)より軽い80kgで仕上げた。市販車から20kgも肉を削ったのである.浅間の極悪路では,これらの弱点として表れた.
ホンダにとっては,チーム賞の獲得(9位・諏訪部昌志/14位・高橋邦義組)と,翌日の成績とが救いになった.
11月6日,午前9時55分に始まるジュニア350cc/セニア500cc(混合出走)レースで,ホンダは両クラスに圧勝した.ことに大村選手と佐藤市郎選手のSBZ(345cc),鈴木淳三選手のSDZ(382cc)は,フル500ccのライバルをすべて抜き去っで快走,中村武夫選手のSBZを加えて総合(350cc/500cc)1〜4位,両クラスの優勝,ジュニアクラスのチーム賞を手に入れた.
2日間のレースを通じて,ホンダチームの行なった合宿トレーニングの成果は明らかだった.ライダーたちのレースに対する熱意も注目された.例えばJRAの高橋邦義選手は,動かなくなったマシンを,3km近くも小走りに押してゴールインした.彼は疲労で一時失神するほどだったが,その行為によってチーム賞をホンダのものとすることができた.
マシン面では,高度のチューニング技術と,かなり入念な対策とを認められたが,結果論として小排気量車の信頼性不足も明らかになった.ただし,ホンダ各車の高出力も,このレースの他車と比べてだけの話である。125ccから500ccクラスまで各エンジンの排気量当たり出力は,70〜80ps/Lのレベルにとどまった.これはNSUエンジンの値の1/2を多少上回る程度でしかない。つまり250ccSAZなら125cc“レンフォックス”に”勝てる”かもしれない・・・勘定になる.ホンダ側の数字が,極めて特殊なアサマ用エンジンのものであることを考慮しても,世界水準は,まだはるか彼方にかすんでいた。
第2回浅間火山レース・1957年
世界への飛躍をめざしたホンダの,国内における苦しい準備時代は、なお続く.
第1回浅間レースの後,ホンダでは一層レース部門の強化に力を注いだ。
その一環として社内ライダーの育成をはかるホンダスピードクラブが生まれた.高速ライデイング技術の研究と,さらに緊密なチームワーク態勢を確立することが,その主旨である.
一方,開発面ではレーシングマシンの研究・設計を担当する技術部第2研究課が新たに組織された.初代課長は河島喜好である・
ホンダは,このような新体制で第2回浅間火山レースに臨んだ。
第2回のレースは,2年後の1957(昭32)年に,新設の浅間高原自動車テストコース,9.351kmの専用サーキットで開催された。1956年が見送られたのは,コースの竣工が間に合わなかったためである。
新設コースは,長いストレート,50Rやヘアピンを含む各種のコーナーを持っGPサーキットなみのパターンを与えられた。しかし路面は舗装していない.火山灰地の路盤状態,真冬の気温差が大きいことなど,舗装の耐久性にとって悪条件が多く,工事費との兼ね合いで省かれることになったのである。ホンダでは,進行中だったTT用エンジンの設計を切り替えて,浅間レーサー計画に取り組んだ.この年の出場車は,125ccクラス:C80ZF,J4,250ccクラス:C70Z,350ccクラス:SBZ-B,C75Zの5車種となった。
C70Zは,SOHCツインで,その年の8月に発売されたC70ドリームのレ一シングヴァージョンである.フレームは市販車の銅板プレスを鋼管バックボーンに変えた完全な新設計,エンジンと変速機(変速段数変更,4→5段)も全面的に手を加えてある.C75Zは同一基本構想による排気量増大型である.
C80ZFは,SOHCシングルのエンジンを,C70/75Zと類似のバックボーンフレームと組み合わせてある.このエンジンは,特徴ある角張ったフイン形状をはじめ各部の基本造形をみると,C70ツインを2分割し片側シリンダーを独立させたものという印象が強い.その点から,未発表の新型ベンリィ原型モデルをレーサーに仕立てた車と判断する向きが多かった(しかし、翌1958年7月に発売された新ベンリィはSOHCツインであり,型式もC80ではなくC90となっていた).SBZ−BとJ4は,市販型プレスフレームをベースとした.前回浅間レース出場車の発展型である.
この年のマシンは,3年前のTTレース第1号実験車で起用した進歩的なダブルクレードルフレームを,なぜか捨てた.C80ZF,C70Z,C75Zの新設計3車のフレームは、すべて鋼管を弓状のバックボーンに成形し,エンジンのヘッドと変速機ケース後端でパワートレインを固定する構成である.フロントサスペンションも,TT実験車のアールズフォークではなく,ボトムリーデイングリンクを使っている.
この組み合わせは,ライバル勢で一般的なテレスコピックフォーク/ダブルクレードルに対して格別有利とはいいにくい.浅間の路面ではとくにそうであろう.
なぜ,こういう方向を選んだのか.その一因は,生産モデルC70との関連だろう.そして,その奥にはNSUを相手とする対抗意識も感じられるのだ.
マン島TTで強烈な刺激を受けて以後,ホンダにとってNSUは,後を追い,いつかは追い越さねばならぬ強力なライバルだった.いな,当時の状況でみれば,ライバルというよりも,段違いの実力を持つ大先輩である.不敵にも新入りのホンダが,そのチャンピオンの胸に全力でむしゃぶりつこうとしていた.
その意識は,ときとして市販製品の感覚にものぞくことがあった.この時期には,ホンダが“今やNSUに次く世界第2の2輪メーカー”であることを,広告コピーで謳いさえしている.
第2回浅間レースに先立ってホンダでは,草軽電鉄・北軽井沢駅の近くに現地整備基地を新築した.ヤマハも同様の“工場”を基地・養狐園の敷地内に建設した.この年,主要出場チームのレース出場態勢は大がかりなものになった.ホンダ,ヤマハ両チームの現地配備人員は,ライダーを含めて最盛期40名前後にのぼった.
チーム規模が大きくなると,補給を含むバックアップ態勢の確立も望まれる.しかしこのころは,はなはだ素朴だった.クランクシャフトをかついで列車で運ぶ,エンジンをバイクの荷台にくくりつけて深夜の碓井峠を飛ばしていく,そんな光景も決して珍しくなかった。
トレーニングが激しくなると,ホンダチームでは不調車や不動車が急増した.対策が追いつかなかった.そのためにトレーニング量も不十分になるほどだった.
その緊急事態の中で,トラブルシユーティングや対策設計・加工に追われながら,レースでは何が重要かという基本思想が,最も初歩的な段階からひとつずつ見えてくる.第2研究課をはじめ関連部署のスタッフは,ほとんど連日徹夜の状態でレースに臨んだ.
それにもかかわらず,第2回浅間火山レースは,またしても“完敗”に近かった。
もっともレース第2日,10月20日のジュニアクラス350ccは,まだしも救いになった.鈴木義一,佐藤市郎,谷口尚巳選手らが上位に連なり,チーム賞を得ることができた.とはいえこのクラスは,当初から予想されたドリーム独占レースである.軽量クラスの不振を償えるほどの成果とはいえなかった。
前日,10月19日の125ccクラス・12周(112.312k皿)では,ヤマハが1〜2位を抑え,べンリィC80ZFの最上位は3位水沼平二選手でチーム賞も逃がした。
250ccクラス・14周(131.014km)レースは,有力な2選手の脱落にもかかわらずヤマハ3事車一団となってレースを制圧,ほとんどその態勢でゴールに飛び込んで1〜3位を独占した.ドリームC70Z勢の最上位・加藤三郎選手車は,かなり引き離されての4位に終わった.
優勝車と加藤車は,距離で2km以上,レース時間で1分26秒,平均速度で1.3km/hの差があった.
このレースで使われたホンダ各クラスのエンジンは,すでに100ps/L,10,000rpmあたりの水準に手が届いていた.ボア×ストローク54×54mm(C70Z,C80ZF)で平均ピストン速度17m/sec近辺となる.
世界の第一級エンジンとの間には,まだかなり水があいている.だが,宣言後2年間の成果としては長足の進歩だった.
125/250ccクラスにおけるホンダとヤマハのエンジン出力は,出場車中でずば抜けた高水準に達していた.しかしホンダは,重量の面でヤマハよりつらい立場にあった。単純な構成の2ストロークエンジンと,復難な4ストロークOHCエンジンの差である。C70Zの車重121kg,エンジン重量47kgに対して,相手のYDAは約100kg,38.5kgとされていた.
ホンダにはサスペンションやフレーム剛性とか操縦性の問題もあった.しかし、このときはまだ表面に浮かんでこない。その幾分かは,浅間コースの特殊性が覆いかくしていた。しかも当時のホンダは,ひたすらエンジンを追い求めていた。何よりも先に,マン島で度肝を抜かれた150ps/Lの世界水準をものにしなければならない.
マン島TTへの長い助走期間は,まだ続く.
企業・技術の飛躍期.
マン島TT出場準備は,浅間火山レースの翌日から,本田社長の雷とともに再開された・「われわれも,出来ることなら国内レースに立派な成蹟をあげてから海外レースに出場したかったのですが,負けてから泣きごとをいっても始まらないことだし・是が非でも馬力のある故障のないエンジンを製作しようと決意し,不眠の実験を続けました・・・」(河島喜好)
苦い教訓のひとつは,あまりにも多くの新構想,対策設計を次々に投入し続けたことだった。そのためにレースが実験場になった.故障車の続出やトレーニングヘの支障もそこから生まれた。”走れない”マシンは,ライダーの信頼感にまでも影響を及ぼした.
しかも,当時のホンダは4ストロークエンジンを手がけてから,まだ日が浅かった.最初の4ストロークエンジン,ドリームE型の発売は1951(昭26)年10月,それから6年しか過ぎていない,4ストロークの急所もまだ的確には捉えていなかった.
基礎研究の積み重ねがない,エンジン関係の測定設備も不十分,4ストロークの問題点であるバルブ系の運動−ジャンピング(開き過ぎ),バウンシング(おどり),サージング(高周波成分の共振)−についてもまだ認識が浅かった。そういう状態で,圧縮比向上,オーバーヒート抑制,バルブ軽量化などを“チューニング”的な技法で追い駆けてきた.問題ごとの改善対策を必ずしも基礎理論まで掘り下げてはこなかった.ときには,むしろ機知的な新着想に頼ってその場をしのいできた.−そういう反省があった。
けれども,反省は反省として,ホンダにはホンダの道があった。“TT出場宣言”の文中にも“日本の機械工業の真価を問い,これを全世界にしめす”,そして“日本産業の啓蒙”をはかることが本田技研の使命だとしてある。その旗印をめざして進むからには,どれはど素朴の出発点からだろうと,自分自身の技術を一歩一歩踏み固めて行かなければならない。借り物の技術で,たとえ当面のレースに一足飛びで勝っても”真価”は問えないし,“啓蒙”の主旨にもそえない.
本田宗一郎という人は,その哲学を貫くために,できるかぎりのものに自社開発品,国産品を生かそうとした.
「他人の知恵はもらいたくないんです.そりゃ人の考えたアイデアを借り人まねをしていりゃその時は楽でしょう.・・しかし,我々はいつでも一番苦難の道を選んできた.何故かといえば所詮ひとから教わった知恵は,ほんとうに企業を発展させる知恵にならないからです」(本田宗一郎)
その意気込みはモーターサイクルのみでなく,後年のFlレーサー,市販モデル群にも表れた.それは,時としてエンジニアたちに,常識的な開発作業で考えられぬほど“苦難の道”を歩ませたりもした・結果からみれば,それがホンダのホンダらしさを生むことにもなった.
浅間における2回の“惨敗”も,反面では製品の性能・品質を飛躍させる原動力として生きた,「結果は惨敗ということでしたが,そのお陰で市販車の耐久性や性能はずい分向上させることができました・・・市販車を基本としての出場だったので,この点に対する貢献には大きなものがあった.当時ほこういうことを他人に話すこともできなかったし,また話したところで“負け惜しみをいっている”としか思われないことでしたが,実際には市販車の性能向上にプラスになることを,たくさん発見できたのです」河島喜好は,後年こう語っている.
浅間火山レースの開催された数年問は,ホンダにとって,技術の面でも企業経営の面でも辛苦の時期だった.けれども,それと同時に,あらゆる面でめざましい飛躍をとげた最初の時代でもあった.
企業としてのホンダは,1956(昭31)年から毎年増資をつづけ1.2億円,3.6億円,7.2億円と急速に資本金を延ばし,1957年12月には東証上場会社となった.
生産台数は1955年から国内業界の首位となり,以後2位との差をひろげながらその地位を保ち続けている.技術研究所が白子工場内で独立組織としてスタートしたのもこの時期,1957年6月である.新たな人材も寄りつどい,技術の広がりと深まりに力をかした.
このような体制の充実は,製品の飛躍として表われた.
現実に,この一時期のホンダ製品は,一作ごとに大幅の進歩を重ねていた.
特に1957年秋のドリームC70系,翌年夏のベンリィC90系,スーパーカブCl00系登場は快いショックでさえあった.この各モデルの性能と独創的なスタイルは,日本の愛好者たちを,それまでの”外車コンプレックス”から解放した。僅か3〜4年の間に信頼性から使い勝手までも含めて品格が一変してしまった.中でもエンジン出力の向上にはめざましいものがある.
市販モデルの排気量当たり出力、エンジン効率はこの3年間で約2倍に上がった.
レーシングエンジンのほうも当然これに準じたレベルで出力を上げている.しかしTTレース用実験エンジンの担当スタッフにとっては,それが遅遅としてもどかしく感じられるほどだった.対策設計の図面を描き,現物化し,昼夜を問わずテストベンチで詰めても容易に1psが上がらない.
いくつもの“壁’’が立ちはだかっていた.120ps/L,125ccエンジンで15psの璧を越えたときには,わずかに自信を取り戻した.遠くに小さい光が見えてきた。本田社長は,そこでTTレース初出場の期限を1959(昭34)年と正式に決定した.
だが世界のトップレベルの車とレースするには,正直なところまだ不足である.
技術のレベルが項点に近づくほど,わずかな向上が大きな努力を要求する.そこからは0・5ps,1ps刻みの一段一段が,次々にきびしい璧として立ちはだかった.
やがてホンダの代名詞となるDOHC 4バルブ方式が選択されたのは,そういう開発過程,ひたすら高回転・高出力をめざして壁をにじりのぼる努力の中でだった.
もちろん4バルブの着想がすべてを一挙に解決し,性能を飛躍させたわけではない.また単にバルブの数だけで魔法のエンジンが生まれるわけでもない.
4バルブ方式ほ,この方式でなくてはならない特長をもつ.反面,シリンダーヘッド冷却とか,燃焼問題とか,この方式特有の難しさがある.マン島初出場のころ,まだこういう問題点はすっかり解決されていなかった.
しかし,やがてそれは単なる“4バルブ方式”というよりも“ホンダ4バルブ方式”とでもよぶべき総合システムとして確立された.新しいシステムの完成までには,試行錯誤の過程がある.その袋小路や迷路を突き抜けて新しい次元が開ける・“ホンダ4バルブ方式”も例外ではなかったはずだ.そういう過程のない新方式は,ほとんど“まぐれ当たり”であり,その“歴史”は神話かお伽噺である.
TT初出場・最終段階--最初のTTレーサー--
最初のTTレース出場用エンジンは125ccDOHCツインとなった.ボア×ストローク44×41mm,S/B比0.93のユニットである.この比率は今日の目でみると大きいが,当時としては相当のショートスロークである.NSU250レーサーも最終版でようやく同程度の価に達している.
同様に各シリンダー当たり62ccの“125”ツイン方式も,レーシングエンジンとして異例の“マルチ”シリンダーだった,同類は,”デスモ”ドゥカティの改良型125ツイン(42.5×45mm),同試作250フォアぐらいである.
ホンダは,時代の最先端をゆく,この“マルチ”シリンダーの特質,高回転・高出力を切り札とした.やがて,それに加えて完成した4バルブ方式を駆使し,オールマイティの強味を発揮することになるだろう.
レーサーは,いつも切り札を手の中に秘めている.工作精度・材質,高出力,軽さ,操縦性‥‥‥他社の見逃がしていた技街の熟成とか,他社をしのぐ研究で獲得した一次元上位の技術が,切り札の裏付けになる.
レーシングマシンは,その切り札に賭ける.あるいは,製作者が切り札を握ったとき(握ったと信じたとき)レーシングマシンとして世に現われる.
DOHCの駆動方式は,実験ずみのチェーン/ギアトレインではなく,上下2組のベベルギアセットと垂直シャフトを使う設計である.
クランクケースは6段変速機と一体のユニットブロックで,上下分割式に構成してある.この時代は左右分割が常識であり,シャフト中心で上下に割るホンダ方式は異例の設計として注目を浴びた.
しかし,ホンダがこの方式をとったのは,充分理由のあることだった.多気筒・高回転を狙う場合,従来型の左右分割より上下分割のほうが,先行きはるかに有利である.この設計は,その後のホンダエンジン(4輪のFl用ユニットさえも含めて)で,長く使い続けられるようになる.
完成したエンジンは,最高出力120ps/Lを超えた.エンジン回転を10000rpm,12000rpmと高めていってもバルブジャンピングも起こさず持ちこたえている.
これならば,マン島TTに出しても,まずまず使えると判断された.むろん勝利を争えるレベルには届いていない.
当時のトップレベルは,150ps/Lのレベルに達していた.楽観ぬきの判断で,ホンダに優勝の望みはない.
シヤシー・フレームの基本構成ほ,ひとことでいうと“57年浅間型”の改良版,鋼管バックボーン,前輪ボトムリーディングリンク式,後輪スイングアーム式サスペンションの組み合わせである.
構成は一見するとNSU流にみえる.しかし発想も細部設計も異なっている.考えかたの相違は,フロントフォーク,バックボーン断面積,エンジンマウントの設計に,はっきり表われている.
カウリングは,現在と違って手叩き加工で曲面成形したアルミニウム製である.形状は東大の航空機用風洞で実験してから決定された.
RC141完成車は,ただちに荒川の高速テストコースで,鈴木義一ら社内テストライダーたちによる実験走行段階に入った.
技術研究所の管轄するこのテストコースは,白子工場/研究所に近い荒川の堤防内,河川敷の土地を東京都から借りて1958(昭33)年5月に竣工した。以後1979(昭54)年の閉鎖まで,ホンダ“ワークス”マシンのほとんど全車が,このコースでの処女走行をへて巣立ったといってよい.1962(昭37)年の鈴鹿サーキット完成後,テストの本舞台はそちらに移ったが,Fl各車,RC系各車の初走行には依然として荒川コースが賞用された.
コースパターンは,両端をループで結んだ,ゆるく”く”の字状の往復走路で路面は舗装してある.マン島のマウンテン/クリプス両コースはもちろんのこと,グランブリ開催主要サーキットと比較もできない単純な試走コースである.そこに,このコースの限界があった.
現地のコースを走って極限状況で現れるような現象が,荒川を走った程度では起こらない.しかしRC141の生まれたころ,全体の技術環境は,まだその問題を論議するほどのレベルに達していなかった.エンジニアたちは,現実にマン島のコースを経験してみて,初めて問題の重大さを痛感することになるだろう.
RC141は荒川テストコースの試走で好ましいタイムを記録した.改良すべき部分は,いくつかあった.しかし,このコースを走ったかぎりでは,根本的に重要な問題点も見あたらない.
1958年の末,翌1959年マン島TTレースヘの初出場計画は,本田宗一郎の号令でいよいよ正式最終段階へのスタートを切った.
年が明けて1959(昭34)年1月には,調査室長・新妻一郎と,補佐役として同行のビル・ハントがイギリスに飛んだ.ハントは1958年浅間クラブマンレースで優勝した在日アメリカ人ライダーである.目的は予備調査と事前折衝で,マン島の宿泊施設の確認・交渉,コースの視察,要所の写真撮影も含まれていた。
その間,根拠地・東京側では,マネージメントの関係を担当する飯田佳孝“事務局長”らが,ありとあらゆる出場準備事務の処理に追いまくられていた.この人は,製品の実用試験に関与し,富士登山レースの調査報告書を詳細無比にまとめたあたりから,レース“裏方”としての手腕を認められた・浅間レース時代は,地元との折衝から宿舎手配や賄いの管理まで取り仕切っていた.
海外レースへのレーシングチーム送り出しには,経費外貨の確保から船便の手配まで,前例のないことだけに苦労の連続だったという。
その一方では,技術スタッフたちが,あと1ps,あと0.5p等の出力向上を求めて,正月休み返上で努力を重ねている.しかし最終的な積出し仕様の決定は,なかなか出ない.レース当日から逆算した発送可能の限界期日は刻々と迫ってくる.
ようやく発送できたのは4月上旬,これを逃せば間に合わないという最終ぎりぎりの船便だった.しかも,RC141出場車,スペアエンジン,コース慣熟用と連結用車を兼ねた10余台のペンリィSSなどを詰め込んだ特製大型コンテナ2個は,横浜で船積みできず,次の寄港地・神戸まで追いかけ,ハシケで沖積みするという離れわざである.
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