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                             R C 物 語(その5)

RC113“ツイン”、RC146”フォア”登場―第1回日本GP―

 もちろん,ホンダは出場態勢の整理をしたものの,技術開発を中止したわけではない.その間もRC系担当者達は,水面下で次期マシンの用意を進めていた.緊急の対象は,ホンダがまだタイトルを取れない50cc,2ストロークの脅威が切迫している125cc,軽量の両クラスである.

 細部技術では,極度の高回転化にともなう点火ミス対策,かつ駆動損失低下に有利なトランジスタ点火方式の開発があった.軽量化対策ではカウリングのFRP転換が行われている.開発の成果は,シーズン最終レース,11月の日本GPで明らかになった.

 このレースに出場したホンダRCマシンは全クラスともトランジスタ点火を採用,軽量クラスの2型式はFRP製カウリングを装備している.それ以上に話題をよんだのは,50cc,125cc両クラスの新開発マシン登場だった.

 そのひとつは,ここで初登場・初優勝して“休止中”の50ccクラスにシーズン唯一の得点を記したRC113,DOHC4バルブ“ツイン”である.他の一型式は,“老年期”に入ったRC145“ツイン”と交替する125“フォア”のRC146,中央ギアトレインをもつ250“フォア”の縮小版である.
 両車は,小排気量における2ストロークの有利性に,徹底した多気筒化,高回転・高出力で対抗するホンダの活路だった.RCl13のボアは33mm¢,RC146は35mm¢.そのヘッドに10mm余のバルブとプラグを配列してある.ミニチュア版”マルチ”の誕生には,NGKの協力によるミニチュア版8mm¢白金電極プラグの完成が必要だった.

 軽量化フレーム,エンジン/シヤシー部分のマグネシウム/チタン合金材多用による重量低下もいちじるしい。直系発展型RCl14(1965年)まで含めて重量の経過をしるしてみる.

RC110:57kg,RC112:62.5kg,RC113:53kg,RC114:50kg,RC145:103kg,RC146:87.5kg.RC113は,前年の50“ツイン”より9.5kgも減量し,50単気筒より軽くなっている.前輪に装備した特異なキャリバー型ブレーキは,本田社長の提案による軽量化対策である。

 鈴鹿のパドックに初めてRCl13が搬入されたとき,ヤマハの新契約ライダー,フィル・リードにキャリバー型ブレーキの感想を求めると“まさにファンタスティックだ!”と目を丸くしてカメラにおさめた.このファンタスティックなメカニズムは,50ccマシンの場合レース中のブレーキング回数とブレーキ負荷が少いことを考慮の上で採用された.

 250ccクラスは,RC164のレッドマンにヤマハRD56の伊藤史朗とP・リードがからみ,最後の一瞬まで勝者のわからぬ熱いレースをくりひろげた.結果はホンダがヤマハに僅か0.1秒,ほんの数メートル離して優勝と250クラスのタイトルをつかんだ.グランプリ史で10年に一度見られるか見られぬかという真のレース,鈴鹿サーキット史を飾るひとこまだった.体調をくずしていたプロビーニは,このハイペースに追いすがれず4位に甘んじた.ホンダとレッドマンは,メーカー/ライダーとも,モリーニとプロビーニに2点差でタイトルを獲得した.

 125ccクラスの新鋭RC146は,予選でタベリがポールポジションを取り,レースではレッドマンが再三トップに立って駿足ぶりをしめした.成績上はレッドマン2位,ロブ4位,優勝はスズキのものになった.だが,このマシンが高い潜在性能を持つことは明らかだった.翌シーズンの軽量クラスは,再びホンダに有利な展開をみせるのではないか,多くの人々がそう思った.

1964年−RC165・250“シックス”

 50“ツイン”と125“フォア”は,1964(昭39)年のサーキットで,その期待にこたえた.

 鈴鹿に出現した当時,両マシンの出力ほ,非公式的な値でRC113E:12ps/17500rpm,146E:27ps/16000rpm前後かと伝えられていた.L当たり出力はすでに200ps/Lを上回っている.

 RC146は,“64年の第1ラウンド,USGPを欠場,第2ラウンドのスペインGPから出場すると同時に目のさめる活躍を始めた.RCl13のほうは,なかなかトラブル期を脱出できず,芽を出すまでに時間がかかった.いずれにせよ鈴鹿から1964年シリーズ登場までの間に,両車ともさらに若干のパワーアップをとげていた.ライバルのスズキは,日本GP当時,RM63(50cc):12ps/12000rpm,RT63−U(125cC)27ps/12000rpm程度とされた.これは1964年後期タイプで,それぞれ12.5ps,30psまで高めたといわれる.相手として充分以上の実力である.もっともレーシングマシンの数値は,個体差があり,情況に応じた変化もあり,微妙なものだから,どんな場合にもおよその参考値とみたほうがよい.

 RC146は,シーズン初出場のスペインGPでタベリ,レッドマンが乗り,スズキを含むライバル全車を周遅れにして1−2フィニッシュをきめた.以後フランスGP,マン島TT,オランダTT,西ドイツGPと立て続けに5優勝をあげた.そのすべてのレースでベストラップを記録する,申し分のない勝利だった.

 そこでわずかに風向きがかわった.選手権シリーズは,しばしばライバル同士の開発力レースであり,交互にその結果の出るシーソーゲームになる.ホンダRC146の性能に手を焼いたスズキは,7月下句の東ドイツGPにパワーアップ版の改良型マシンを送り込みようやくホンダを2位,3位に退けた.続いて2週間後,8月上旬のアルスターGPでも同じ結果が出た.

 しかしホンダの得意芸“多気筒化”が生んだ125“フォア”の潜在能力は高かった.第10,11ラウンドに当たるフィンランドGP,イタリアGPでスズキを破り,最終ラウンドの日本GPを待たずに125ccクラスのチャンピオンを確定した.1963年に失ったタイトルの奪回である.

 そこで,またもやライバルの巻き返し策が姿をのぞかせた.日本GPにスズキの搬入した125“ツイン”は水冷エンジンを備えていたのである.これまでの空冷2ストローク方式は冷却むらで複雑なポートまわりが歪みやすく,高回転化がむずかしかった.むらなく冷やせる水冷こそ2ストローク高回転・高出力化の決め手とされた.

 スズキチームは,この“対抗車”をデグナーに与え,タベリに1.2秒差をつけ,チャンピオン決定後とはいえ貴重な優勝を得た.

 一方,50cc“ツイン”のほうも“走れる”状態に仕上がると,125cc”フォア”に劣らず好成績を重ねた.マン島TTに登場の際はライバルに上下を挟まれての2位に甘んじたが,次のオランダTTからは精気を吹き込まれたように3連勝をあげた.これで大勢としてほぼ互角,ホンダやや先行気味の形勢である.125ccと同じようなシーソーの振れは,ここでもまた現れた.スズキは,東ドイツとフィンランドの両GPで2勝を返し,早ばやのチャンピオンを確定してしまう.ホンダにとっては,シーズン序盤のトラブル克服期間にUS,スペイン,フランスGPを逃していたことが痛かった.だがタイトルは別として,ホンダの収穫は大きかった.ホンダの高回転4ストローク技術が,ここで小排気量2ストロークの有利性佐を遂に追いつめた,あるいは間もなくそれを凌げる可能性がみえてきたのだ.

 250ccクラスは残念ながら逆だった。前シーズンの125”ツイン”と似た情況が,この年の250“フォア”を見舞っていた.

 250ccのRC164は,1962年の”典型”確立後3シーズンを経たマシンだった。その間にエンジン再設計,4〜5psの出力向上,15kgほどの重量軽減をおこなったが,もう250ccの“4気筒”としては限界が近かった.

 その弱味を2ストロークのヤマハに捕らえられた.250ccのヤマハRD56は,スズキやMZど同じロータリーディスク式バルブや排気系同調の技術を成熟させていた。しかもこのシーズンほフィル・リードという有力なライダーが乗っている.

 ホンダRC164は,上昇期のライバルを相手どってマン島TT,オランダTTの優勝を抑えた。マン島でのRD56は“実に速いがマン島向きのスタミナを欠く”と評された。ホンダ250“フォア”にはスタミナがあった.その後のレースでも,“老骨”のRC/レッドマンは,気鋭のRD/リードを相手に粘り強く頑張り続けた。どのレースでもリードの背後に,ぴったりとレッドマンがつけて僅差でゴールに飛び込んだ.しかし,それが限度だった.

 もちろんホンダでは,かねてから対抗策を進めていた.その成果がイタリアGPで突然に姿を現わしたRC165、多気筒化・高回転を求めてやまぬホンダの意志が凝縮したような,前代未聞の250cc並列6気筒である.

 直列(並列)6気筒は,理論的に最も動的バランスがよく振動の少ない配列とされている。ホンダ“シックス”も,“フォア”より振動が少なくなったため,フレームを軽くすることができた.ライダー達には疲れが減ったとよろこばれた。250“シックス”は,のちにボアアウトした350ccクラス版(297cc)もつくられ,へイルウッドの250cc/350ccタイトル獲得の原動力となった.RC系エンジン中の一傑作といってよい.

 しかしデビューレースの際は,まだ十分に仕上がっていなかった.初めのうち楽々とトップに立っていたが中途で並ばれ,最後は尽きて3位に落ち,ヤマハ/リードの優勝を許した.その結果,ホンダはこれまで3連覇をとげていた250ccのタイトルを初めて失った.けれども日本グランプリには,サンプのフイン形状などが異なる設計変更タイプが登場し,レッドマンの手で初優勝をあげた.

 R C系マシンがシーズンを終えるころ,この年に登場した最初のホンダFl,RA271も3回の選手権GP出場を終えていた.Flのほうは,まだ入賞にほど遠い情況である.

 同じころ,アメリカでは,アメリカホンダによる‘‘You meet the nicest people on a Honda”をキャッチフレーズとするキャンペーンが未曽有の成功をおさめようとしていた.ホンダに乗ったお洒落なファッションの人たちの広告が,高級自動車誌やタイムやライフなどに連続掲載された.その一隅には必ず”写真のファッションはC・カプリオッティによるホンダのための作品”と記してある.モーターサイクルを,そういうクラスの人たち,今ならブランドにこだわる人たちの乗りものとして捕らえたのである.

 それが”乱暴者”以来しみついた無法なブラックジャケットのライダー像を一変し,新たなマーケットを開拓した.RC系マシンがグランプリ挑戦を始めたころアメリカに渡った川島喜八郎アメリカホンダ支配人らによる長年の努力の賜物である.

 しかもこのキャンペーンは,ホンダがレースで名声をあげた時期に,レースで売る安易な道をとらなかった.アメリカの空気を呼吸し,セールスに苦労しながら,ふとしたキッカケで掴んだヒントをもとに,想像外の買い手層を掘り起こした。その見事さもまたレース技術に通じるホンダの行き方だった.

1965年―最初の50cc選手権獲得―125cc“5気筒”デビュー―

 1965(昭40)年は宝石のように精巧な50cc“ツイン”の,予想にたがわぬ活躍で始まった。RC115は西ドイツで優勝してのち,スペインGP 2位,マン島TT,オランダTTで2連勝,最後に日本GPでダメ押しの優勝を追加した.

 出力回転数21000rpm,約280ps/Lレベルまで高めた4ストロークDOHC“ツイン”は,ようやく2ストロークをしのぐことができた.ホンダはRC115で待望久しかった50ccチャンピオンを手に入れた.

 RC115Eエンジンは35.5×25.14mm,S/B比0.71というRC系随一のオーバースクェア寸法を採用している.DOHC駆動ギアトレインは,初期のRC112Eと違って,他の”フォア”や“シックス” と同様,クラッチ軸から斜め上方に前送りするレイアウトで冷却向上をはかった.冷却に対する努力は,ヘッド通風を重視したカウリングの前面エアーインテーク形状,深く密なフインをカウリング外に突出したオイルサンプ形状などにもうかがわれる.

 50ccの勝利に対し,前年好成漬をおさめた125ccクラスのほうは,再び苦しいシーズンを過すことになった.最大のライバルは,水冷化で甦り,いまや30PSを超えたとされるスズキRT65であり,アンダーソンとペリスの両ライダーだ.ホンダ125“フォア”はマン島で2位を得た以外,最終の日本GPまで上位入賞のチャンスをつかめなかった.

 この場合も,すでに研究所のスタッフは後継マシンの開発と取り組んでいた.そのホンダならではの不思議な作品ほ,ほどなく日本GPのパドックに現われて人びとを驚かせた.

 RC148とよばれるその125cc車は,かつて2輪で使われたことのないDOHC並列5気筒エンジンを装備していた.124.42cc(35.5×25.14mm)のシリンダー寸法でわかるように,RC148Eエンジンは,50cc“ツイン”をベースとしている.2ストローク対抗策として,一層の出力向上と多気筒化が挨討されたとき,本田社長の「それなら(成功作の)50ccを2台半連結すればよい」と提案したのが発端だった.RC148Eは,その途方もないアイデアを”5気筒=1気筒削った6気筒”と考えることで現実化した.したがってクランクシャフトは6気筒と同じ120度位相,点火間隔は1本プラグを外した6気筒と同じであり,点火系にも6気筒型を使うことができた,

 高回転・高出力を求めてやまないホンダの希求は,こういう奇想によって,125ccエンジンを34ps/20500rpm,270ps/Lに到達させた.

 このシーズンの250ccクラスは,不調というより,むしろ不運だった.RC165“シックス”が初めて出場した西ドイツGPのころは,まだ次から次へと出るトラブルに悩まされていた.その間にヤマハRD56勢はボンダ不出場のUS,ついで西ドイツ,スペインと優勝を稼いでいる.ホンダは,フランスGP 2位あたりで調子を上げ,マン島TTで優勝(ヤマハ/リードはクランクシャフト折損で棄権),さらにベルギー,東ドイツGPと2連勝をあげたところで,上昇気運の形勢互角に持ち込んだかとみえた.

 そこで“運”が離れた.レッドマンがアルスターGPの350ccクラスで転倒・負傷し,しばらく出場不能になったのだ。

 この事故は,ホンダの350ccクラス4連覇のタイトル決定にも,いくぶん影響を及ぼした.

 1965シーズンの西ドイツGPでデビューしたMVの新鋭DOHC 12バルブ3気筒が,レッドマンの不在に乗じて得点を増し,タイトレ決定を日本GPに持ち込んだのである.もしこのレースでMV/アゴスチーニが優勝しへイルウッド2位,ホンダ/レッドマンを3位以下にすれば,タイトルはMV組が握る。ホンダ/レッドマンが2位で入れば,ホンダ組のものという状況である。MVチームは,有名なアルトゥロ・マーニに率いられ,4台のMV350“トリチリンドリ”を鈴鹿に運び入れた.

 レースではアゴスチーニがスタートから飛ばして逃げ込みを図ったが,途中で電気系トラブルのため潰れた.それまでレッドマンを抑えていたサポート役のへイルウッドが代って首位に立つと,その位置をおびやかされることなくゴールまで走り切った.

 2位を得たホンダは,得点上MVとタイだが,優勝数の多さでタイトル獲得が決まった.

 レッドマンは,レースの数日前に完成し,予選で試走をすませている新開発マシン,R C174“シックス”を使わなかった.その点からみると,このタイトル獲得は,堅実なRC172を選んだホンダチーム,レッドマンの作戦勝ちともいえるだろう.この時点でRC174のプラクティス試走タイムは,僅かとはいえ状態のよいRC172に劣っていた。しかしレースでは粕谷選手がRC174に乗って3位に入賞している.エンジンの信頼性に問題はなかったわけである.

 へイルウッドは,この日本GPの250ccクラスで初めてホンダ“シックス”に乗った.彼が指摘したのは操縦性とフレーム剛性の改善が必要ということだつた。エンジニアたちは,これまでレッドマンからそういうクレームを聞いたことがなかった.

 へイルウッドは「それなら実際に日で見て確かめてほしい」と主張する.結果は彼のいうとおりだった.ヘアピンでも,スプーンでもへイルウッドの乗る”シックス”は不安定な動きをはっきりとみせた.スプーンのアウト側で観察中のスタッフは,思わず後ずさりしたほどだった.限界ぎりぎりまで攻めるへイルウッド特有のすさまじいライディングが原因である.

 しかもへイルウッドのバンク角は,レッドマンより一段と深かった.彼が乗ると,レッドマンのバンキングに合わせて設計されたカウリングやテールパイプが路面に接触してしまう.新たに“へイルウッドライン” と称する基準を設け,テールパイブの配列などを設計変更しなければならなかった。

 1965年シーズンは,結果だけをみると必ずしも満足できるものではなかった。けれども,“不運”の部分を除いて実質を分析すれば,次シーズンへの希望を読み取ることができた.

 RC114にはじまったマシンの世代交代はRC165,そしてRC148,RC174と続いて全クラスを完了したことになる。

 ホンダは,新開発500ccマシンの提供を条件に含んで,マイク・へイルウッドと1965(昭41)年シーズンの契約をかわした。従来のようなクラス限定スポット契約(1965日本GPでもへイルウッドは250でホンダ,350でMVに乗っている)ではなく,専属チームライダーとしてである.

1966年・全クラス制覇達成

 へイルウッドの加盟でホンダ全クラス挑戦への役者はそろった.軽量クラスがタベリとブライアンズ,重量クラスがレッドマンとへイルウッドという役割である.

 1966年シーズン用のマシンにも不足はなかった.50ccのRC116”ツイン”は実用レーシングエンジンとして前代未聞の回転数21500rpmで14ps以上の出力をもつ。125ccクラスはRC148”改”のRC149“ファイブ”,250ccクラスはRC166”シックス”,350ccクラスはRC174”シックス”(297cc)/RC173“フォア”,そして500ccクラスが新開発のRC181“フォア”である.

 RC181Eは489.94cc(57×48mm),1シリンダー当たりの排気量122.48ccはRC系エンジン全型式を通じて最大である.

 初期のRC系エンジンの圧縮比は,10.5だったが,1966年用は小排気量クラス用で12:1,350cc/500ccで11:1に高められ 燃焼研究の成果をしめしている.また一時期 全クラスともピストン型バルブ式に統一されていたキャブレターが,小排気量クラス用で再び全開時の流路抵抗が小さいフラットバルブ式となったことも注目される.

 このシーズンのマシンの特徴は,50ccを除く全車が,カウリング両側にオイルクーラーを装備したことである.エンジンの高回転・高出力化が進むにつれて発熱量が高まり,ライダーの火傷さえ懸念されるほどになっていた.オイル系の温度上昇過大,パーコレーションも問題だった.水冷に転換せぬかぎり,オイルによるエンジン内部の熱交換促進が重要課題になっていた.クーラー装備は,サンプのフイン強化に続く,その対策である.

 クーラーの装備方法は,飛行機のものを連想させる凝った設計をとり,パイプ接続箇所に飛行機用部品で脱着の容易なエアロクイップを使っている.

 このシーズンの成績で最も出足のよかったのは,RC166“シックス”/へイルウッドの頑張った250ccクラスである.緒戦スペインGP以降,このコンビは立て続けに7連勝して7月下旬のチエコGPで早々とタイトルを確定してしまった.

 ライバルのヤマハRD56/リードのコンビではRC166に追いすがれず,水冷V4を救援に出しても事態はかわらない.ホンダのコンビはタイトル確定後も平然と勝ち続け,マン島TT(この年は開催が8月末に遅れた)を含む3優勝をあげている.

 350ccクラスも殆ど同じ状況で終始した.RC174/へイルウッドは8月のアルスターGPにおける6勝目でチャンピオンになった.MVのアゴスチーニが優勝できるチャンスは,ホンダがリタイアするか,イタリアのGPのように欠場した場合だけだった.

 このシーズン,例年どおり最終ラウンドとなる日本GPは,開催地をホンダのホームグラウンドのような鎗鹿から富士スピードウェイにかえていた.ホンダチームはこれに異議を抱き,6月中旬になって日本GP不出場を表明した.

当然,どのクラスも日本GP以前,イタリアGP終了時点でチャンピオン確定に必要な得点をあげていなければならない.

 50ccクラスの個人タイトルで得点の不充分なタベリは,日本GP出場を強く希望したが,結局はチーム方針ということで説得された.

 タベリはイタリアGPの50ccで3位・6点しかとれなかった.しかも個人得点で彼を追うスズキのアンシャイトが優勝。8点を追加してタベリとの点差を詰めた.最終決定は日本グランプリにおけるアンシャイトの成績待ちとなった.アンシャイトは富士スピードウェイで2位入賞。6点を手に入れ,タベリの得点を2点しのいで個人タイトルを獲得した.だがホンダのメーカー選手権獲得のほうは,イタリアGPでプライアンズが2位に入ったとき,ゆるがぬものになっていた.

 個人タイトルをMVのアゴスチーニにさらわれた500ccの場合は,五分の不運がはたらいていた.当初RC181で2優勝をあげたレッドマンがベルギーGPの転倒で腕を骨折し,戦列を離れたのが第一の痛手だった.それからは,へイルウッドの奮闘により3優勝と2位1回の得点を加えてメーカー選手権を決めた.しかし,ここで優勝すればへイルウッドの個人タイトルも確定できるイタリアGPで,ベストラップを記録しながらRC181のクランクシャフト折損という不運に襲われたのである.350ccクラスと同様,ホンダがリタイアしなければMVにチャンスはないとされていたクラスだけに残念なことだった.

 ホンダのメーカー選手権の中で,125ccクラスだけは確定が遅れていた.RC149のポテンシヤルからみれば,既に決まっていてもよかったのだが,吸気系の不調でマン島TTを落としたことがペースを狂わせていた.

 しかしルイジ・タベリのRC149がモンツア11周を34分57秒8で走り切ってチェッカーフラッグを受けた瞬間,秋鹿監督はじめチーム全員の待ち望んでいた結果が出た.

 この瞬間,ホンダのメーカー選手権ソロ全5クラス制覇の夢が現実のものになったのである.それは,長い道程ののちに達成した,モーターサイクル世界チャンピオンシップ史上まれな快挙だった.

RC時代のピリオド―1967年―

 1966年は,1959年マン島TT出場に始まるRC系のマシンの歴史で最高のピークとなった.しかしホンダのレース関係者たちが,よろこびにひたっていられる時間は長くなかった.翌1967(昭42)年には,50cc,125ccの出場を取り止めレース活動を縮小することが決定された.それにともなってタベリとの契約ほ1966年シーズン限りで終わることになる.

 秋鹿方彦は監督の職務としてタベリにその旨を伝えなければならない.初め国際電話で話したとき,レース継続の意志が強いタベリは納得しなかった.秋鹿監督はベルギーに飛び,一夜飲み明かしながらの話し合いで,ようやくタベリの気持ちをかえさせることができた.
 ホンダは,1967年シーズンの250cc,350cc,500ccクラスに,RC166,RC174,RC181,ライダーがへイルウッドとブライアンズの陣容で出場した.RC系の最後期モデルは,各型ともチタン材,マグネシウム材による軽量化設計が徹底していた.RC166など6気筒にもかかわらず初期のRC163”フォア”より16 kgも軽い114kgにおさめてあった.

 ただし85ps以上のパワーを負うRC181だけは,さすがに重く150kgを超えていた.これはへイルウッド流のライディングに応えて,一見ホンダRC系と思えぬほどの補強パイプを通し,各接合部に多数のガセット板を配して剛性向上につとめた結果でもあった.

 しかしへイルウッドは,なお操縦性改善の余地多しと彼の主張するRC181を駆って,驚異的なラップ新記録,レース新記録でマン島TTシニアを制した.このときのラップ記録175.05km/hは,その後10年間破るものが出なかった.へイルウッドは250cc,350ccでも優勝“トリプルクラウン”に輝いた.さらにホンダで得た3優勝によって彼のTT累計優勝は12回となり,名手スタンレィ・ウッズによる10回優勝の記録を更新した.

 この年のライバルは,250ccでヤマハのリードとアイヴィー,350cc,500cc両クラスでMVのァゴスチーニだった.彼らを相手どって,ホンダ/へイルウッドは各クラスとも有利な形勢でレースを進め,メーカー,個人とも250cc,350ccクラスのダブルタイトル獲得に成功した.

 新規参入の500ccクラスだけは,カナダGPの優勝によって,この時2位に入賞したMV/アゴスチーニと同点にもち込んだ.しかし得点内容の差でタイトルは惜しくもMVの手に渡った(優勝同数.2位ホンダ2回,MV3回).

 10月15日の第5回日本GP 350ccレースで,マイク・へイルウッドのホンダRC174がチェッカーフラッグをかすめ,ゴールラインを走り過ぎたとき,ひとつの時代が終わった.

 そのときチームのメンバーほまだ知らなかったが,RC系マシンによる“第1期”グランプリ挑戦活動は,これが最後となった.

 ホンダは,1968年シーズンの世界選手権シリーズ不参加を企業方針として決定した.間もなくそれを伝えられたレース担当者たちのショックは大きかった.現にRC181と交替する500“シックス”ディスクブレーキ装備車の計画は進行中だった.グランプリのパドックでは3気筒50ccや125cc“シックス” によるホンダの飛躍さえうわさされていた.1967年シーズンも満足してよい成果をあげている.−レース担当者にとっては,そういう時期だったのだ.

 かつて,浅間のレースを“敗北”で終えた日,本田社長はレース後のコースをじっと見詰めていた.暗かった空が雪まじりになり寒さが身を刺してくる中で,コースに目を据えたまま身動きもせずに立ちつくしていた.周囲のスタッフたちは,だれも声をかけることができない.

 そんな長い時間ののち,本田宗一郎は突然言った「負けたことは仕方ない.やるしかないな!」

 1967年は,そのときから10年後にあたっていた.その間に,ホンダは4ストロークのエンジン効率と回転数を2倍に引き上げ,”マルチ”シリンダー,“マルチ”バルブの技術を完成するという2輪レース史上で最も顕著な業績を刻印した.また選手権本格挑戦後の実質8シーズンに,ホンダは合計18の世界チャンピオン,140のグランプリ優勝を勝ちとり日本メーカーのグランプリ界進出,世界市場進出のリーダー,刺激者としての役割を果たした.その中で今のホンダを支える技術と人が育てられた.

 今振り返ってみれば,その10年後のピリオドは,“やるしかない”ことを,ただひたむきに貫き,成しとげ,“夢”を現実としたあと,打たれるべくして打たれたピリオド―ひとつの時代の終結告知に不可欠のピリオドだった.

(本稿を纏めるにあたっては,飯田佳孝氏,秋鹿方彦氏,馬場利次氏,斎藤馨氏にお世話になりました.各氏に対して改めて御礼申上げます)


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