R C 物 語(その4)
100万台/年,100億円メーカー
1962(昭37)年4月,アメリカ西海岸のシアトル市で“Century21”万国博が始まった.タイトルに21世紀の世界像をうたい,“宇宙時代の人類”をテーマにかかげたシアトル万国博は,それにふさわしいゲストのひとりとしてソビエトの宇宙飛行士ゲルマン・チトフ少佐を招いた.その折,彼は日本パビリオンでひどく興味をそそられる出品物をみつけた.
日本の先進技術をアピールする工業製品として展示品に選ばれていたホンダRC162,250“フォア”である.カウリングには,前年の西ドイツGPで高橋国光選手が日本人ライダーとホンダ“フォア”にとって最初の選手権優勝をあげたときの記念すべき車番”100”を貼ってある.チトフが満足そうに微笑みながらRC162にまたがっている情景は,トピック写真として世界に流れた.まだアメリカ人宇宙飛行士は軌道飛行を行っていない.その先端的なヒーロー宇宙飛行士と組み合わせてニュース写真ができるほど,ホンダはもう世界的な存在になっていた.
このころ,本田技研ほ年産100万台を超え資本金は100億のレベルに近付いている.マン島TT初出場の1959(昭34)年当時とくらべると資本金は7倍に近い.輸出額も、100億円台に達した.
C70系やC90系のテスト記事はイギリス,ドイツ,アメリカの雑誌に載っていた(その中にはマニア向けの4輪誌ロード&トラックさえ含まれていた)。イギリスではディーラー網がひろがりC72やCB92が好評を博し,年式遅れの中古車も市場で異例の高値を保っている。
ヨーロッパホンダの設立された西ドイツでは,‘‘モトラート”誌がスパのピットで整備中のRC145Eエンジンを表紙に掲げ,RC160系“フォア”が45ps/14000rpm以上を実現したことに焦点を合わせ“180ps/L”のタイトルで技術解説を連載した.RC系エンジンのドラム型タペット直接作動の4バルブ方式,吸気効率向上高回転などがレーシングエンジンの新しい可能性を開拓した.これによってエンジン回転数はさらに高まるだろうとみる,ホンダ思想肯定の論評である(もっとも文中にはNSUが1955(昭30)年に156ps/Lまで達していたことも,ぬかりなく記されている).
初期RC系・180ps/Lの技術
“モトラート”の注目したホンダの180ps/Lは,遠からずホンダの手で200ps/L,220ps/Lへと高められる.ホンダはRC系によって4ストロークDOHCエンジンを,次々と技術の新領域へと導いていった。
しかし,そこに到達するための最も基本的なカタチ,ホンダ的特徴は早くも例えばRC162Eの姿として現れていた.
RC162Eの軽合金シリンダーは,フインひとつをみても,MVを含む従来のGPエンジンと一目でわかるほど違っている.RCのフインは,肉厚が薄く,ピッチが密で,しかも幅広く鋳出されている.そのうえ,このシリンダーブロックは,クランクケース/ドライブトレインのアッバーケースまで一体化した大型鋳製品である.
軽合金ブロックのシリンダー部には,特殊鋳鉄製の上端フランジつきドライライナーを上方より圧入してある.
軽合金製のピストンは,全周スカート・3リング型で,スカート部を特殊な曲面に加工,耐熱鋳鉄のトップリングには硬質クロームメッキをかけてある.クランクシャフトは圧入組み立て式,コンロッドはビッグエンドを分割しないワンピース型,どちらも特殊鋼鍛造材の削り出しである.初期にドライサンプ化した250“フォア”の場合,ベアリング潤滑は,クランクシャフトに機械加工したオイル通路経由で,サンプの底に突出装備したギアポンプが強制送油を行っている.
250“フォア”の“祖型”RC160Eのヘッドは左右2分割で,そのため接合部のオイルシールに苦心を要した。しかし以後のシリンダー/ヘッドは4気筒一体の大型鋳造品に改められた.
ヘッドに装備した各気筒4箇のバルブは,先に記したとおり剛性の高いドラム型タペット直接駆動式である。このタペット/リテーナー/2重コイルスプリングまで含んだバルブ1組の重量は約20g,バルブ単体ではわずか12gにすぎないという.
そこに4バルブ方式の得がたいメリットがあった.後日,ホンダのエンジニアがSAEで発表したレポートほ,単気筒2バルブを2気筒4バルブとすると,バルブの慣性質量が1/2になり,ジャンピング限界rpmが2倍になることを特筆していた。ホンダは,その特筆を生かし,そこまで回しても壊れない機械系をつくり上げようとした.さらに,吸・排気同調,燃焼率の追求,バルブタイミングや点火タイミングの研究まで含み,独特の総合システムとして完成に向かっていた。それはもう従来の単なる4バルブ方式ではくくれない新方式といってよい。先に,あえて”ホンダ式4バルブ”と記したのは,そのためだ.
新方式を完成する過程では,当然,材料の研究や精密加工技術の向上を欠かせない。ホンダは,そういう基礎づくりの重要性に,いち早く着眼すると,すぐ具体的な行動に移していた.
鋳造品を例にとろう。浜松から関東に進出したホンダは,日本有数の鋳物工業地帯・川口から名人芸的な技術を選りすぐって採り入れ,その内製化を実現した。あるときは,砂型の精度向上に必要な最良の鋳砂粘結剤を求めて,若手研究員が海外へ長期派達されたりした。経験ゆたかな研究スタッフもスカウトされた.精密なマグネシウム鋳造ケーシングの実現にも,そのひとり大沢次席研究員の努力があずかっていたといわれる.
しかし,そういう成果が一朝一夕で達成されたわけではない.どのタイプをとっても複雑精巧なRC系エンジン用のブロックには,むずかしい鋳造の克服,歩どまり向上の苦心がついてまわった.レーシングエンジンだから最大限の強度を限界的な薄肉でもたせなければならない。しかもRC系のオイル通路は,本田社長の持論にしたがって外付けホースを使わず,すべてブロック内のドリル加工で処理している.強度低下,油もれをまねく鋳物のスは,ただの1箇所もあってほしくない.そういう完璧性をめざす技術面でのレースだった。
ここに一例としてあげた鋳造部門と同じような日立たぬ努力が,RC関連の全部門で重ねられていた.社内だけではない,部品メーカーも,リング(日ピス),バルブ(日鍛),電装品(国産電機)などについて,同様のきびしい研究開発を迫られた.ときには激論となって衝突することもあった.社内の担当エンジニアであれば,本田社長の“無理”ともみえる目標に思い通りの結果を出せないと,一途な感情のほとばしりを真正面から浴びなければならなかった.コトバがもどかしく,体で怒りをぶつけることも,珍しくはなかったという。
そういう開発の努力が,RC系マシンの華やかな設計とレース成果とを陰で支えていた.それが,やがては企業の技術力として活きる蓄積ともなった。
“RC”を支えた力
このころRC系マシンのレース活動を支える陰の力は,ほかにもあった。いささか唐突に聞こえるかもしれないが,スーパーカブCl00である。
この市販モデルが生まれるきっかけは,ホンダの経営面をあずかっていた藤沢武夫専務の提案だった.―片手で運転でき,乗り降りがラクで使いやすい事,しかも肩身を狭くしないで乗れる車―「そんなバイクを創ってくれないか」その基本企画に本田社長以下の開発スタッフがこたえて,全力投球で創り出したのが1958(昭33)年8月発売のスーパーカブだった。この事は,新しい機能性,実用性によってこれまでにないモーターサイクル需要層を一挙に発掘した。しかもスーパーカブのデザインには楽しい感覚と格調があり,それまでの“実用車”とは一線を画している。1960年には第6回毎日産業デザイン賞を受賞した。選考委員の意見は“失敗や行き過ぎを恐れず,乗り切った”うえで,新材料のポリエチレンを”実に適材適所という言葉の見本のように駆使した努力を特筆していた.さらに「“したいことをしたいようにする.失敗なんてものはない,きっと何か役に立つようになる”という人間の意志と欲望が,ホンダのスーパーカブのデザインの根本になっている」との表現もあった.“デザイン”を広い意味で設計と取れば,それはRC系やRA系レーサーにも通じる”ホンダ哲学”である.
間もなく生産拠点として,三重県に鈴鹿製作所が建設された.この“月産550,000馬力・世界最大のオートバイ工場”をラインオフするスーパーカブは1年たたぬうちに月産5万台レベルを超え,企業としての本田技研を飛躍させた,1960年代,グランプリを席捲したRC系マシンの疾走には,基盤があった。その基盤の中央には,新需要層/新販売ネットワーク開拓まで含めたスーパーカブの存在があった.
RC系マシンを語るとき,スーパーカブ以上にいい落とせないのは鈴鹿サーキットの開設だろう.世界選手権レースを開けるようなコース,本物のロードサーキットを日本に造ることは本田社長の念願だった.その願望に,藤沢武夫専務の構想―それをサーキットであると同時に楽しみながら学べるモータースポーツランドとする,しかもその運営・管理はデイズニーランドからヒントを得たシステムにするという構想―が加わったとき,国際サーキット建設は初めて現実のものとなった.
鈴鹿サーキットの誕生は,日本のモータースポーツ環境を一変させた.モータースポーツ全体のレベルを高め,愛好層の裾野をひろげ,結局はレースに対する社会の見方にもよい影響をおよぼした.もちろんRC系GPレーサー,続くFlは,選手権レース開催サーキットに勝る設定の走路で,出場前の綿密なテストもできるようになった.その恩恵は現在出場しているFlエンジンにも及んでいる.
ホンダは,RC系に始まる国際レース出場活動を,そこまで広い視野で捉えていた.それは単なる宣伝活動というようなものではなく雄大な思想の一表現だった.
鈴鹿サーキットは1962(昭37)年9月に完成した.2ヵ月後,11月3日,4日には,開設後最初のレースとして第1回鈴鹿全日本ロードレース大会が催された.ノンタイトル戦だがFIMのノーティア会長も臨席した.翌年の日本GP開催を前提としたレースである.ホンダチームにとって,このシーズンの出場11レース目にあたっていた.
グランプリ日程とのレース
ワークスMVチームのレース引退声明にも記されていたが,ヨーロッパを駆けめぐりシーズン10以上のグランプリを転戦するのは,きびしい仕事である。
ルイ・スタンレーという人の4輪グランプリ写真集には“はるかな,はるかな帰り道”とキャプションを付けたFl用トランスポーターの印象ぶかい写真が載っている.最終ラウンドのイタリアGPを“惨敗”で終えたBRMチームのトランスポーターが,のしかぶさるようなアルプス山中の小さい村で,故国に向かって教会の前を小さく曲がっていく構図だ.なぜかこの写真を見るたび,グランプリ転戦という作業が,ふつうスポットライトを浴びている出場選手やマシンだけのものではなく,大きな広がりをもった苦労なのだと感じさせられる.
コース上での活躍と名声を支えているのはメカニックであり,事務・設営担当のマネージャーであり,連絡補給担当員であり,さらに日本でフォローする設計・製作・テスト・管理担当者たちである。ホンダは,すでに50ccから350ccまでの4クラスに挑戦している.マシン台数,整備・補給要員は相当な数にのぼる.まして“はるかな,はるかな”日本からの出場である。その苦労はMVチームやヨーロッパのFlチーム以上だった。
そしてレースへの出場は,時間と効率とのレースである。整備担当員は,プラクティスでマシンが壊れればなんとかして翌日のスタートまでに修理しなければならない。秋鹿方彦のように,予選で焼き付いたエンジンを直ちに分解すると徹夜の手作業でシリンダーを磨き上げ,翌日のレースで優勝させた例もあった.
現地側でも,根拠地・日本側でも,レース担当者は,時に残業が月間200時間をはるかに超えるハードなスケジュールをこなしていた.エンジンの前に座り込んだまま眠ってしまうことも珍しくない.つねにスケジュールは切迫していた。テストベンチで好結果が出ると,その新仕様を電報(まだ国際電話の通話状態がたよりないころだ)で知らせ,現地で応急製作することもあった.
レース関係の部署,特に現地のメカニック陣は3日徹夜さえ当たり前のような状況で頑張っていた。日本を,ホンダを背負っているような意気,レース現地に出た以上,たとえ困難にあっても最大限の努力で解決しようという意気ごみが,それを支えていた.
そこには,ある特別な時代背景を抜きにして語れない,ひとりひとりの感情があった。上昇期にふさわしい,熱い気迫が仕事と感情をむすんでいた.
一部には不況の風もないではなかった.しかし,それは人類が初めて宇宙空間を経験した時代だった。日本では,1964(昭39)年の東京オリンピックをめざす動きが既に始まっている.高速道路と新幹線の工事も進んでいる.
モーターサイクルの100万台メーカーとなったホンダでほ,自動車生産への進出,RC系マシンのGP制覇につづく次の“夢”4輪のFl世界選手権レース出場計画も始動している,そういう時期だった.
技術陣と同様,チームに同行のマネージメント担当者にも,もちろん人知れぬ苦労があった。大荷物を抱え国境を越えての移動に必要な諸手続き,宿舎設営はもちろんだが,その都度,チーム全員への支給分を含む通貨の交換など,細かい面倒な仕事が数かぎりなく待ちかまえている.新しいレース開催地に着くと,転戦つづきで日本食の恋しくなっているチーム員の口をまぎらせるため,先ず中華レストランを捜す気配りもあった.
あるシーズンの飯田マネージャーは,転戦を重ねてアルスターGPの開健地アイルランドのベルファストまでたどりついたところで体力も気力も限界に達し,昏睡状態におちいったまま一食もとらず2日2晩眠り続けた.
そういう現地の苦労と並行して研究所側では,本田社長以下が現地からの報告を取り入れた改良型マシンを設計・製作・テストする苦労に明け暮れている.
50cc選手権初年度,苦戦の1962(昭37)年などはレースごと,否,ときには1週間ごとにエンジン/変速機の仕様がかえられた,外に現れた変速段を数だけみても,当初型:6段,6月上旬マン島TT用:8段,6月下句オランダTT用:10段7月中句西ドイツGP用:9段というぐあいである.
1963年―出場態勢の刷新
鈴鹿サーキットにおける最初のレースでホンダはついに50ccツインを試験的にデビューさせた.この無類に精巧な”ミニチュア”エンジンは,よく“インクつぼのような”とか“リキュールグラスに軽くおさまるピストン”などと表現される.実際に49.6cc(33×29mm)の片側シリンダーは・単1乾電池を入れるとほとんど隙間のないほど小さい。ピストンはその半分くらいのサイズということになる.
この時代に,もしホンダというメーカーがなければ,こういうギアトレイン駆動DOHC,最高出力10ps以上/17500rpmの実用レーシングエンジンほ生まれなかったにちがいない.
しかもこの50ツインは,翌年の日本GPで本式に登場する特異なキャリパー型ブレーキを,初めて試験的に装備したマシンだった.ただし,このときはプラクティス中に具合をみただけでレースには使われなかった.このマシンに乗つたトミー・ロブは,好運に助けられスズキ(アンダーソン)に0.2秒の差をつけて優勝した。その結果・ホンダは50cc(RCl12)・125cc(RC145),250cc(RC163),350cc(RC171)と全クラスを制圧することができた.
このころ本田技研は,自動車メーカー参入の基藤づくりを急がれる時期にあつた。最初の市販モデル原型,S360/500,T360はすでに姿を現わしていた.かねてから噂されていた4輪Flのプロジェクトも始動ずみだった.これまでRC系のエンジンや車体を担当していたスタッフの中から,Flや市販モデルの開発担当にかわったエンジニアもある.最初の生産車・T360トラックは1963(昭38)年8月,S500スポーツは同10月に発売された.Flの世界選手権出場は1964年8月2日のドイツGPで始まった.
最初の出場車が装備したRA271Eと,その前段階の試作RA270Eエンジンは,ともに水冷V12だったが,多くの設計構想をRC系エンジンから受けついでいた。4バルブ,ペントルーフ燃焼室,鋳込み/圧入式燃焼室ピース,DOHC駆動ギアトレイン構成,圧入組み立て式クランクシャフト(RA271E),クランクシャフト中央出力取り出しギア,ドライブトレイン軸配置,軽合金鋳造・上下分割ユニットブロックなどが,その主要共通点である.さらに先行RA270Eのヘッド/シリンダー合い口形状とシーリング方法,細かい箇所ではブリーザー接続端(オイルセパレーター)をギアボックス上に置いたところも似かよっている。Flエンジンは一般に大径の複板クラッチを使うが,ホンダのものはモーターサイクル用を思わせる小径・多板式である.RC系エンジンと同様の特殊鋳鉄ドライライナー圧入式の軽合金ブロックは,のちに空冷Flエンジン(RA302E)でも使われた.
試作Fl・RA270の車体/エンジン主担当者は,RC系とかかわりの深い馬場利次,新村公男と伝えられている.
このような情勢が影響して,RC系のレース活動は1963年から1965(昭40)年にかけて,大きいピークを征服したあとの“小康”状態に入った.関係予算やバックアップ体制も,それにともなって縮小された.
整備主任だった秋鹿方彦は,こういうむずかしい時期にチーム監督を命じられた.まだ28歳である.その若いスタッフに重任をまかせるところがホンダだった.
この人ほ監督になるとすぐに,独特のスケジュール表を作った.その表には,5月のスペインGPから11月の日本GPまで全12レースを目標として,マシンや機材の搬出日,現地搬入日,整備期間,所要機材などなど,あらかじめ割り出した必要事項や日程を細大もらさず記入してあった.レースを支える”裏方”にとって,レースとは“時間とのレース”である.この表は,それを効率よくスムーズに達成する,いかにも熟練の整備担当者らしいこまやかな工夫だった.
秋鹿は,これ以後5シーズンにわたって監督の激務を続けることになる.日程表の象徴する緻密な仕事は,RC系を全種目制覇にみちびく陰のカだったにちがいない.
1963年シーズンの出場車は,当面50ccクラスが切り捨てられた.出場態勢も純ワークスから個人チームのカタチに改められた.
ジム・レッドマンは,チームのキャプテン格として,よく秋鹿監督を助けた.
「レースについてもマジメだし,人間的にもすぐれていた.それほど金銭的にもこだわらないライダーだった」という.レースのオーガナイザーに対するスターティングマネーの交渉のように面倒な仕事も,レッドマンほ進んで引き受けた.
このシーズンの使用マシンは,前年型をベースとしたRC145,RCl64, RC171/172である.これらに加えて市販レーサー/プロトタイプを含むCR系―CR110(50cc),CR93(125cc),CR72(250cc)もサーキットに現れた.CR系マシンには高橋国光やタベリも乗った.
レースはデリケートなバランスで成り立っている.わずかに一部のバランスが違うと,全体の形勢が大きく変化することが多い.選手権シリーズになると,いっそうそういう感じがつよい.
ホンダが効率のよいレース出場態勢をもとめて“チーム”の規模を縮小したとき,全体情勢の針が微妙にふれた.
ホンダの抱いた局面整理の意図には,―強力な相手があってこそ技術的な刺激もレースに出場する意義も大きい,それが見当たらなくなった今,その面でのメリットは少なくなった―という考えかたが含まれていた.
けれど,1963年シーズン,ホンダがペースをゆるめたとき,その間隙をつくようにライバルたちが頭をもちあげてきた.
125ccクラスは,ロータリーディスク型バルブ熟成したスズキRT63,2ストローク“ツイン”が強力だった.
250cc,350cc両クラスは,まずホンダの安泰かと思われた.だが幕を開けてみると,ここにもあなどれないライバル達がいた.
2ストロークのMZは,相かわらず健在だった.しかも250“ツイン”の水冷エンジンをものにしたうえ,2年前ホンダにTT初優勝をもたらした男,へイルウッドと契約を結んでいた.
TTレースからはヤマハRD56がホンダ勢をおびやかし始めた.思わぬ伏兵,しかも最強のライバルとなったのは,モリーこ単気筒のプロビーニである.
第1ラウンドのスペインGPで,RC163に乗るレッドマンは,そのプロビーニに優勝を持ち去られた.RC163の出力46ps以上,車重130kgに対し,モリーニは36ps,104kg.ホンダほ10ps以上強力で26kgほど重い.バルセロナの曲がりくねったテクニカルコース,モンチュイッヒ公園サーキットでプロビーニはモリーニの利点を生かし,レッドマンに20秒の差をつけた.それ以後もプロビーニは,西ドイツ,イタリア,アルゼンチンGPでレッドマンを抑えた.
しかし,ホンダ“フォア”/レッドマンのコンビも輝きを失ってはいなかった.マン島TTで優勝後,日本から急遽送られた新エンジンを使い,オランダ,アルスターGPでモリーニ/プロビーニを破った.オランダで1分近くも離されたモリーニチームでは,レース後オフィシャルにアピールを提出した.ホンダ250“フォア”があれほど速いとは不可解である,排気量測定を要求する―向意気のつよいプロビーニらしさが表れたところだ.もちろん計測の結果は“249.64981cc”で問題はなかった.こうした経過で,250ccクラスのタイトル決定は,メーカー/ライダーとも僅差のまま,シーズン最終ラウンドの日本GPにもつれこんだ.
この年のマン島TTでは,ホンダ/レッドマンが250ccと350ccの優勝を取った.50ccと125ccは上位をスズキが占めた.4ストロークDOHCに対する2ストローク/ロータリーディスク方式の優位が,軽量125ccクラスでも顕著になっていた.ホンダは125ccの4,6位にタベリとレッドマンを送り込んだ.50ccでクラブマン出場ライダーのCRが6位を得たのは収穫だった.
250ccのレッドマンは,快調に走っていた伊藤史朗のRD56をビット給油タイムの差で引き離し,ヤマハを2位にしりぞけた。
しかしヤマハはベルギーGPで1−2フィニュッシュをきめ,宿願の選手権優勝とホンダヘの雪辱を果たした。ただしレッドマンは,オランダGP・125ccで転倒・負傷から快復しきれず,このレースは欠場だった。
へイルウッドを得たMZ水冷“ツイン”250も強力だった.地元カルルマルクスシュタツトのザクセンリンクで開かれた東ドイツGPでは1−2−4位を獲得した.ホンダはレッドマン3位,タベリ5位である。
350ccクラスもホンダ独占レースではなく,かなり騒然とした情況が続いた.マン島T Tでは“スクーデリアデユーク”を名乗る新チームが栄光のマシン,ジレラの復活を実現し,ホンダ/MV/ジレラという夢の“フォア”対決が正夢となった.無論,結果は当然のようにホンダRC172のものである.
だがMVとへイルウッドは,それ以後もねばり強くホンダにからんだ.MVにせよMZにせよ,へイルウッドはホンダ対抗策の切り札のようだった.今やホンダは,あらゆる場面で追われる立場,挑戦の標的とされる立場におかれていた.
ここで,あくまでも結果論として,かつ外部の視点でみるなら,ホンダの一歩ペースをゆるめたことがグランプリ全体に新たな活力と興味を与えたといえないだろうか.
もしこの時期に,全社的態勢で多数の出場車を整列させ出場全クラス上位独占のいきかたをホンダが修正していなければ,こういう華やかな情況は迎えられなかったかもしれない.しかもこういう情況の到来で,スズキ,ヤマハなど,ホンダに続くチームも勇気づけられ,はずみもついたように思おれる.それにこの当時は,イギリス誌などが,予算を気にしていてはホンダに対抗できないという類の論調を出していた時期でもあった.
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