R C 物 語(その2)
マン島への旅立ち
ホンダTTチームが羽田空港を出発したのは,器材積み出しの1ヵ月後,5月3日だった.
メンバーは河島喜好監督,関口久一整備主任,ライダーの鈴木義一,谷口尚巳,田中禎助,鈴木淳三,マネージメント担当,飯田佳孝,“渉外役”ビル・ハントなどが加わっていた.
関口久一は,中島飛行機で長年航空エンジンを手がけ,この人が最終調整を担当したエンジンは絶対に信頼できるといわれた,”超名人”だった.推す人があってホンダに迎えられたのは,技術研究所発足の年,1957年である.ライダー達は,ホンダスピードクラブのメンバーだった.メンバーのひとりは,1枚の写真を携えていた.このすこし前,映画“妻の勲章”の撮影中に元箱根で事故死した僚友,秋山邦彦の遺影である.あのモンデイアル参考車テスト時代からマン島をめざして苦労をわかちあった彼,TT出場メンバーとして決定後に世を去った彼の,果たせなかった夢をかなえたい.彼の遺志と共にマン島を走りたい.そういうチーム員の思いが,この1枚の写真に結晶していた.
メカニック陣には,すでに浅間で経験を積んだ腕利きがそろっている.後日,マネージャーになる秋鹿方彦も整備工場から呼ばれて1957年浅間火山レースで島崎選手車を担当して以後,レーシングメカニックとしての技術をみがいてきた.
現地に持ち込む資材のうちには,かなり大量のスペアパーツ,工具類が含まれていた.さらに梅ぼし,米,即席めん,せんべい,たる詰めの味噌まで入っている.これは女房役をつとめるマネージメント担当者のこまかい心遣いだが,その当時の海外渡航事情をしめす品目でもあった.
この日の羽田空港は,久しぶりのレーシングチーム歓送でにぎわった.ブラジル遠征から数えて5年目,送迎ロビーも5年前のローカル空港以下がともかくも国際ターミナルらしい寡囲気にかわっている.
送り出す人びとの意気込みも,5年前とは比べものにならなかった.今回こそ,本当に世界の檜舞台,一流中の一流レース,マン島TTへの出立である.すでに発送済みのマシンも,前回の素朴なR125と違い,ホンダ独特の設計による純血グランプリレーサーである.
しかし,チームメンバーの胸の中は,決して明るい希望だけで満ちていたわけではない.
エンジニアは,理屈と数字でモノを判断する.ムード的判断,根拠のない楽 観的判断にできるだけ流されまいとつとめる.理屈と数字の向こうには,経験/ノウハウの世界があることも知っている.その目で判断すれば,ホンダのマン島TT挑戦は,不安に満ちていた.RC141の馬力ひとつをみてもそうだ.世界のトップレベルに追いすがったといっても,まだあと一息の開きがある.冷静に判断すれば,そしてマン島という未知の“試験場”を想えば,不安は当然だった.
この日,本田社長自身も藤沢副社長と連れ立って歓送者たちのひとりに加わっていた。空港ロビーで派遣チームに贈ったはなむけの言葉では,こう強調した.
「今年は,まだなんといっても1年目だ.気楽な気持でやってきて欲しい.決して無理をせず,全員が元気で帰ってきて欲しい」
ライバル車とホンダ車の数字的な差を冷静につかんだうえでの言葉である.それを承知の上で,1年でも早くマン島レースの実態を全員が身をもって知れば,1年早くライバルに追いつける.それが初出場の主旨である.本田社長もエンジニアだった.
河島監督は,緊張しているチーム員の肩の荷を軽くする社長の心遣いだと,この言葉を受け取った.それでも,未知への挑戦心と,かすかな希望とに混じった不安感は消えなかった.
ロンドンに飛ぶ機中.河島監督は,隣席の関口主任が書きものをしているのに気づく.
見るともなく目が向くと,夫人への手紙らしかった.「−これからは,まったくお先真っ暗で,ただ努力あるのみ・・・」ふとそんな文字が目に入った。この人も同じ気持ちなんだな,と河島は思った.
事実,マン島には不安以上のものが持ちうけていた。
苦難・レース前1ヵ月
この年のマン島TTレース開催日は,6月上旬,ホンダの出場するライトウェイト125ccレースは初日の3日に行われる.
ホンダチームがマン島の宿舎,オンチャンにあるナースリホテル(初出場チームにふさわしい名前)に入ったのは,約1ヵ月前の5月上旬である。
まだ,どこのチームも来ていない.マン島一帯,ダグラス市にさえレースの気配もない.これほど早い現地入りは,TTレースの長い歴史にも例のないことだった.
しかしホンダチームにとって,この1ヵ月の期間は,見たことも走ったこともないコースを学ぶ期間だった.一度も本物のサーキットを走ったことのないマシンを熟成する期間だった.一度も経験したことのない(同行のビル・ハントは別として)外国暮らしに慣れ緊張をほぐす期間だった・そのためには1ヵ月でもまだ足りないくらいである.
この1ヵ月の間に,ホンダチームのメンバーは,いくつもの難問にぶつかり,いくたびも気持のしぽむような辛苦を味わった.マン島のコースそのものの難しさも想像をはるかに上廻っていた.次から次へと曲率の違うカーブが連続しているし,登り降りもはげしい.あるカーブなどは,路面が逆にキャンパー(カント)で,普通に走れば間違いなく振り飛ばされる。初体験のライダーにとって,ここは不気味で怖いようなコースというのが実感だった。
ホンダチームの練習タイムは,過去のレース記録とくらべてかなり遅かった.しかもタイムは,なかなか向上しない.
タイムに足カセをはめたのは,技術的な経験不足だった.例えば高速カーブでのエンジン回転不整,コーナリング時の操縦性不適,ブレーキ能力不充分・・・.原因をつきとめてみると,エンジン回転不整は燃料系に問題があることがわかった。コーナーリング不安定はサスペンションとフレームの剛性不足のためだった.
すべてレーシングマシンとして根本的な性能にかかわる問題である.しかも,そのどれもが,単純なカーブで平担な荒川コースをいくら走ってもわからない、苛酷なマン島で初めて気づかされた問題だった・ブレーキの不満も,下り坂で急制動を繰り返すマン島コースを走ってみると,この程度で充分と判断していたのである・エンジン回転不整も,高速度のきついカーブで大きいG(左右加速度)を受けたとき,初めて表面に現れた。この原因は,関口主任らの努力で,キャブレターのフロートチャンバーにあることをつきとめた.コーナーのGとエンジン振動とで燃料油面が変動したり波立ったりするので,定量の燃料供給が不能になるのだ。この問題は現地の応急対策で取りあえず解決した.
第1回マン島遠征の整備チームは,これ以外にも現場の気転でさまざまな問題を解決した。中でも伝説的なエピソードは,ガスケット吹き抜けに悩まされた末、アルミのやかんを買いこみ,その底を切り抜いてガスケットを現地製作してしまったてんまつである.
また,練習を見に集まってくる人たちに,HONDAのネーム入りキャップやバッジを贈って,チームのPRにつとめるというささやかな努力もあった.
エンジン関係の問題は,新開発品の到着でひと息ついた.チームを送り出してのちも研究所のメンバーは,毎日ベンチにかじりついて出力/信頼性の確保に苦慮しつづけていた.その対策がようやく実を結んだのだ.
しかし操縦性問題の根本的解決は現地の手に負えない.今回は,このままでいくだけだ、そのかわり最大限のデータを集め将来の基準をつくろう.その範囲でベストを尽くし全車完走をめざそう−それが結論だった,
マン島の1ヵ月は,来る日も来る日もマシンとクリプスコース17.3kmとの格闘でたちまちのうちに過ぎた.そこでホンダチームは,再び衝撃を受けた.ちょうどレース開催日の前週,ようやく乗り込んで来た他チームの練習走行をまのあたりに見たときである.
ホンダと同じ125ccクラスに出場するMVのタルキニオ・プロビーニ,カルロ・ウッビアリ,MZのタベェリ,デグナー,フエーグナー,“デスモ’’ドゥカティで個人出場のへイルウッド・・世界のトップクラスのライディングは,水ぎわ立っていた.一流ライダーの駆る一流マシンとはこういうものか.ホンダチームの人びとは,ただ呆然と見とれた.エンジン出力の問題,ライデイング技術の問題だけではない.操縦性,ブレーキングなどマシン全体のバランスが一段上だった.エンジンの始動性や加速の吹け上がりまで違っている.
それは,モータースポーツ‘‘鎖国”状態の“極東”から,いきなりレース文化最先端の真っ只中に投げ込まれたカルチャーショックだった.
河島監督は,打ちのめされるような衝撃の中で,こう感じていた.
「こういう本当のマシンもライディングも知らずに,自分はグランプリレーサーを設計した.それをまともにテストできる場所もないままで,いまマン島に来て,こういう手ごわいライバルとレースをしようとしている.自分たちは井の中のカワズだった.ホンダはそういう苦難に満ちた計画を選んだのだ」
しかしショックから立ち直ると,決意も新たに本田社長あての手紙を書いた.「自分たちは,ただの井の中のカワズでは終わりません.どうか来年も再来年もレース出場を続けるようお願いします.どうか3年下さい・自分たちは3年間で大海を知るカワズに成長してみせます」
出場各チームと前後して,報道関係者たちも相ついでマン島に集まって来た.ホンダチーム内部の厳しい自省とは別に,現地の報道は東洋からの珍客をむしろ暖かい目と好奇心で迎えた.
−ホンダの出場準備は一点非の打ちどころがない.マシンはみごとに仕上げられている,その2気筒エンジンはスイス製腕時計のように精巧だ・ヨーロッパレーサーのコピーどころか,独創的な設計をいくつもみることができる−
これは本田宗一郎の基本的な考え方がかち取った讃辞だった・“他人の知恵はもらいたくない”と,”一番苦難の道を選んできた”から,こういう車ができたのである.それはホンダが世界のトップレベルの仲間入りをするきっかけとしても,重要なことだった。オリジナリティのない作品で,たとえ好成績をあげても,レース界に貢献したとは認められないだろう.
その反面,ホンダの弱点を鋭く突いた評価もあった.
「フレーム,ステアリングヘッド,サスペンションの設計が剛性不足,操縦性無視である.タンク形状が悪くライディング姿勢が高すぎる.前後異径タイヤは時代遅れだ.レーサーのエキゾーストパイプをクロームめっきするとは何というムダなことを・・・」.
これらは国際級のレースも走る場所もない日本から初出場した,全く未経験のホンダにとってやむを得ない弱味ではあった.
初出場・チーム賞獲得
公式練習・予選の間を通して,ホンダチームのタイムは,ひどくゆっくりとしか縮まらなかった。プロビーニ,タヴェリ,デグナーらの外国チーム選手は,あっさりと8分20秒〜40秒のラップタイムにおさめた.
ホンダのライダーたちは,それより1分ほど遅い9分台まで詰めた.練習周回が不足だったわけではない.ライダーのテクニックが外国チームの一流ライダーたちに遠く及ばなかったわけでもない.練習中に薬指を傷つけた鈴木義一選手は別として,谷口尚巳選手はフルラップ15周,延ベ3時間近い周回をこなしていた。クリプスコースの中で,グレイニバーのコーナーを抜ける同選手のライディングは,第一級と評価されたほどである.
すべては,ホンダのマシンにとっても,ライダーにとっても,マン島体験が初めてだったということで尽きるだろう.
レース当日,6月3日,水曜日・ライトウェイト125ccクラスのスターティンググリッドで第1列と第2列は,ワークスチームのMVとMZ,そしてへイルウッドらのドカゥティ組が占領した.ホンダチームは,予選10位に食い込んだ鈴木義一以下,第3列と第4列に並んだ.
午後1時にスタートを切った34台の出走車のうちで,たちまち一団を抜け出し首位争いをくりひろげたのは,プロビーニとウッビアリのMVアグスタ,タヴェリとデグナーのMZ,そしてへイルウッドのドゥカティ.予想どおりの展開だった.ホンダのライダーたちも,チームで予想したとおり着実に走っている.予選タイムの順位なみに,10位あたりから以後に食い下がり順調な周回ぶりである.ただしホンダチームからマシンを借りて個人出場したビル・ハントは,2周日のバラコーアで振られて転倒,前サスペンション破損のためリタイヤした.ここはライダーたちに嫌われている逆キャンバ−コーナの難所である.
車番8の谷口は9位.7位を確保しようとしのぎを削るチャドウィックのMVとヴィラのドゥカティの後方につけていた.谷口のライディングを英誌は“superb”(絶妙な,最上級の)と形容した。
この位置は谷口/ホンダにとってラッキーでもあった・間もなく谷口選手は上位車の脱落で8位となる.そして最終盤,第9ラップになってツバ競り合いを続けていたヴィラ(ドゥカティ),チャドウィツク(MV)が2車とも一瞬で消えた.ドゥカティのスピンを,極度の接近のためMVが避けきれなかっためだ。これで谷口/ホンダは6位に上がった.彼は,またトップと同周で快走を続けている.
レース事務局のPA放送は“はるばるトーキョーから釆たタニグチ/ホンダが入賞圏に入った”ことをアナウンスし,観衆もどよめきでこたえた.
この問,鈴木義一は第1周の14位から7位まで順位を詰めていた.田中禎助は,トミー・ロブ(ドゥカティ)を終盤で抜き去って8位を手に入れ,すでに数百メートルのリードをとっている.初めのうち谷口のうしろ,10位にあった車番17の鈴木淳三は,ビットイン/ブレーキ修理で15位に落ちたが,再出走後,順位を盛り返している.
ライトウェイト125ccクラスのレースは,MVアグスタ/クルキニオ・プロビーニが,クリプスコース10周・173.6kmを1時間27分25秒2で走り切って優勝を決めた.2位はプロビーニに05秒6遅れたMZ/タヴェリ.3位,同じく2分19秒遅れたドゥカティ/へイルウッド.
ホンダチームの最上位は1時間34分48秒でゴールインした6位谷口,彼から2分遅れて7位鈴木義一、ここまでがプロビーニと同ラップ,10周完走.続いて8位田中禎助.そして11位にはピットインの遅れを取り返して鈴木淳三が入った.
その結果,谷口が6位までに与えられるシルバーレプリカ,鈴木義一,田中髀浮ェ7〜10位に与えられるブロンズレブリカを得た.さらに“マニュファクチャラーズチーム”としてエントリーした谷口,鈴木義一,鈴木淳三3車が全車とも規定時間内に上位完走できたので,チーム賞も授与されることになった。
チーム賞は,125ccでMV,MZ両チームが逃し,250ccレースで受賞チームがなかった獲得の難しい賞である.それはホンダへの最良の贈り物となった.この賞はホンダRCレーサーの高い信頼性と,チームの適切な作戦の成果を何よりも以上に証明するものだった.
ホンダチームでは,レース前,1車が10位以内に食い込めばよいと予想していた。5年前のブラジル遠征を記憶している日本のファンは,もっと悲観的にみていた筈だ.しかし現実の収穫は,どんな予想にも勝るほどのものだった.
マン島TTから3日後の6月6日,通産省ではホンダのチーム賞受賞にからめて,異例ともいえるコメントを報道関係に発表した。−これは一企業の業績だが,国産2輪車がこれで世界水準に達し,日本製品の今後の輸出にも明るい見通しが立った−という主旨の内容である。
一般の人びとにとって,それは想像外の夢だった。そういう時代の到来に確信を抱いたのは,本田社長ただひとりだったかも知れない。しかし・それは数年で現実となった1959年マン島TTレースは,一個人の壮大な“夢”の現実に向かう大胆な第一歩だった。
“助走”時代のフィナーレ
ただ1回のレースで,ホンダほど大きい収穫を得たメーカーはなかった。精神的な面はむろんとして,技術面での収穫もそれに劣らぬものがあった。
高速操縦性 ライバルとの性能差,実際的なレース技術,−それはマン島という苛酷なコースをレース速度で走ってみて,初めてつかめた貴重なデータである.1年早く出場すれば,それだけ早くライバルに追い付けるという判断が,早くもこういうかたちで実を結ぼうとしていた・手探り同然だった設計・開発の焦点で,これで大幅に絞ることができるだろう。
翌1960年シーズン用のマシンは,マン島遠征チームの帰国とともに設計をスタートした.
その焦点は,マン島の収穫をフィードバックしたエンジン/フレーム設計の再検討である.並行して第3回浅間火山レース対策も始まった。
8月22〜24日に開催された浅間火山レースの話題は,先ずホンダ250”フォア”RC160のデビューだった.ホンダでは,レース出走に先立ち,写真と簡単な諸元を記したリーフレットを一般配布するほど,このマシンのデビューに積極的な姿勢をみせた.
RC160Eエンジンは,シリンダー寸法の44×41mmをはじめ,バルブ駆動方式や細部の基本設計も125ツインと同じ4気筒拡大版のユニットである・最高出力は35ps/14000rpm,エンジン重量は125ツインの32kgに対し58kgとされていた.点火方式ほRC141/142のカムシャフト駆動(直結)マグネトー点火に対し,RC160のほうは高電圧(16V)バッテリー点火である.
シヤシー/サスペンションの基本構成も125のものとかわらない.ホイールベースと車重は,RC142より45mm, 37kg大きい1,310m,124kgとされている.
8月23日に開催の耐久250ccレース(16周・149.716km)に出走したRC160は観客に強烈な印象を刻みつけた.
午後,浅間特有の霧につつまれたサーキットを.佐薩幸男,島崎貞夫,鈴木義一,田中健二郎,田中禎助のライディングによる5台のRC160は,ほとんど一団となって支配した.水しぶきをはね上げ.ライダーはゴグルをかなぐり捨て,追いすがるヤマハYDSを遠く振り切って疾走を続けた.これまで耳にしたことのない4気筒16バルブエンジンのエクゾースト音と,視界100m以下の霧の壁から現われては消える姿が圧倒的な迫力だった.
ホンダRC160は,車番163島崎選手車をトップに出場全車が完走し,1〜5位を独占した.
それは,世界最初の250cc 4気筒16バルブGPレーサーのデビューにふさわしい成果だった.それは,マン島TTを目指しながら結局は出場を果たせなかったRC160の経歴を飾るべきデビューの場であり,栄誉ということになった.
また,これが,長い助走期間のフィナーレであり,同時にレース史上例をみないほど短期間の覇権獲得に向かう序曲ともなった.
10カ月後.1960年マン島TTレースに,ホンダチームは,1959年の教訓を盛り込み完全に設計を一新したマシンをひっさげて乗り込んだ.
1960年マシン・RC143,RC161−エンジン典型の誕生−
1959(昭34)年マン島TT初出場の期待に勝る成果が,レース計画に一段とはずみをつけたようだった.
ホンダは翌1960(昭35)年シーズンに向かって,125cc/250cc両クラス出場と,マン島以後の選手権グランプリにも挑戦することを決定した.さらに,その成果は時代の動向にもマッチして一種の波及効果さえ生んだ.
スズキが1960年マン島TT出場を公表したのである.この計画は,ホンダの刺激を受けて急速に具体化したものと伝えられている.
1960年用のホンダRCマシンは,125cc/250cc両車ともRC141/142,RC160と大幅にかわった設計になった.この時期のホンダ製品には,きわだった設計面の特色があった.その一面は,良いと信じた基本構想を守り続ける姿勢である.同時にその反面には,細部設計をあくことなく改良し続けてやまない傾向があった.後者は市販モデルも例外ではなく,“ホンダ名物設計変更”とよばれるほどだった.
1960年RC系両車のかわり方にも,この個性が表れていた。RC143(125cc)とRC161(250cc)が先行車から受け継いだのは,DOHC,マルチシリンダー.上下分割一体ブロックのエンジン,ドライブトレイン基本構成と,バックボーン型のフレームである.これらは,その後も継続されRC系の個性にもなった.
ただしフレームの設計は基本構成こそ前年と大差ないが,ステアリングヘッド強化,前端エンジンマウント変更,バックボーン径増大、形状修正などの改善策をもりこんである.バックボーンの曲げ半径も前年型より大きくとってある。マン島での収穫を生かした剛佐向上のための新設計である.
このころ本田宗一郎,河島喜好のもとで直接フレーム/車体設計にあたっていたのは,かつてブラジル遠征に同行した馬場利次だった.浅間レーサーを手がけ,この後にはRC系フレームの典型を確立し,Flにもたずさわったエンジニアである.もちろん本田社長は,ほとんど連日研究所にあった.あふれるアイデアで設計チームの陣頭に立っていた.試作工場やテストベンチのかたわらに座り込み,対策案のスケッチを床に描くこともあった.
サスペンションのほうは,やはりマン島の経験をいれて,従来のボトムリンクを横剛性のとりやすいテレスコピックフォークに一新した.
サスペンション設計の斎藤馨担当員は,レース仕様フォークの内製に当たってボトムケース材質・接合方法.オイルシール,フォークブリッジ/ステアリングステム材質・結合方法など,数多い問題点を解決しなければならなかった。その過程で,例えばローレット圧入と抜け止めのカシメつけを組み合わせたボトムブリッジ/ステム結合部が実現した.この圧入しろの確定など,工法の面では試作工場をあずかっていた閑口久一の協力があった.
1960年用エンジンはフレーム以上に大きくかわった.特に顕著な変化は,従来の直立シリンダーを,35度前傾させたことである.
前傾の影響はRC161の外観にも表われた.一度見たら忘れられないほど印象の強い,タンク下のえぐりがそれである.
この形状とシリンダー前傾は,ヘッド冷却の強化,キャブレターヘの冷風導入(=充填効率向上)を考慮した措置と思われる.また前傾シリンダーは,ホンダ式バックボーンの構成にも好適だろう.
RC160Eは,4気筒であるための諸問題−カウリング内部気流の整合とか,中央部2気筒の吸気改善などに苦労があった.浅間出場車の装備した特殊型の2気筒一括吸気ファンネルにも,その一端がうかがわれる.
“ツイン”のRC143Eは,DOHC駆動に前年型と同じ垂直シャフト/ベベル方式を採用した.ただしシャフト立ち上がり位置は,冷却に有利な後方に移された.
“フォア’のRC161Eほ,DOHC駆動系を全ギアトレイン方式に一変し,ドライブトレインを新しい配置に改めた.
新方式の出力取り出しは.従来のクランクシャフト端でほなく中央部,No.2,3気筒の中間で行われる.この配置によってクランクシャフトの負荷が軽減され,変速機まで含んだ伝達経路の整理でエンジン幅の抑制や全体のコンパクト化もできる.
関連してカムシャフト駆動ギアトレインも中央部に設けられた.出力取り出しとカムギア系の中央配置には.パラ“フォア”の先輩格MV500/350という前例があった.しかしホンダのレイアウトはMVと違っている.
RC161Eの配置では、ギアトレインの起点を後退させ.前方のヘッドに向かって斜めにギアを連ねてある.この設計ならば,No.2,No.3シリンダー間にギアトレインを挟む設計よりエンジン幅を狭められるし,中央の冷却空気通路にもゆとりができる.二次的には中間ギアを補機騒動に使える利点もある.RC系ではマグネトー駆動に活用している.
このギアトレイン構成は,その後.50ccを除くRC系レーシングエンジンの標準設計となった.2輪空冷エンジンだけではなく,Flの水冷V12(1964/65年シーズン用・RA271E/272E)にさえも譲り渡された.そういう意味まで含んで,RC系エンジンの“原型”はこのRC161Eで生まれたといってよいだろう.
しかも,ギアトレインと駆動系レイアウトだけが,このユニットのホンダ的個性ではなかった.一見しただけでも,オイルパンの形状.フインの処理やへッドに対するオイル供給系の新工夫など,いくつもの特徴が目についた.最後のオイル系は,“不確実”な耐圧ホース接続をやめ,フインの奥にドリルした孔にメタルパイプを通す独特の凝った設計をとっている.これも以後のRC系に共通の“標準設計”となった.
このとき.世界のランキングを求めるホンダに必要な技術的突破口が,ひとつ開いた.
これを最初に感知したのは,もしかすると1960マン島でTTでRC161Eと初対面したライバルの技術者だったかも知れない.
ただし,このときは,まだ素他のよいカタチができただけである.ある新システムが本来の生命を得て動き出すまでには,親身の手当てと,辛苦の時間を必要とする.この新ギアトレインも,間もなく現地で苦しい期間をすごすことになった.
1960年チーム,ブラウン,フイリス加入
1960年シーズンのチームライダーは,やはりホンダスピードクラブ(HSC)のメンバーが中心となった.HSCは河島喜好の主導で佐藤市郎,鈴木義一,木川秀行,飯田佳孝らの有志が結成した社内組織だが,1960年シーズン出場に先立って社外にも人材を求めた.新加入のチームメンバーは高橋国光,北野元である.
高橋国光は,1958(昭33)年8月,モーターサイクリスト誌の提唱により浅間で開かれた全日本モーターサイクルクラブマンレースに出場して名をあげた.劣悪なコース状況のもと,BSA350ゴールドスターを駆って大排気量車を蹴散らし.冴えた走りを印象づけた.
北野元は、1959年の浅間にやはりクラブマンライダーとして出場,125cc,250cc両クラスで立て続けに優勝したのち,招待出場のウルトラライトクラス(125cc)耐久レースでも“ワークス”マシンを相手にとって3つめの優勝を手に入れる.この時18歳,“彗星のようなデビュー”とさわがれた.
もし“浅間ヒーロー物語”が書かれるなら両選手は間違いなくメーンキャラクターとなるだろう.
出場2年目の特徴は.外国人ライダーの起用だった.それが緊急の重要事項になった主因は,主催団体ACUから1960年マン島TTのコース変更が通達されたことにある.1960年のレースは,軽量クラスでもマウンテンコースを使用する,1959年のクリプスコースでは行わないというのだ.
マン島をほぼひとめぐりするカタチのマウンテンコースは1周60.7kmもある.コース形状の複雑さ,むずかしさは,1周17kmのクリプスコースの比ではない.
初出場の際,あれほどしつこく攻めたクリプスコース各コーナーの研究も,こうなれば役に立たない.出場2年目もゼロにもどった初出場同然ということになる.
その打開には,すくなくともすでにシニア/ジュニアクラスの出場経験をもち,長丁場のマウンテンコースを知っているライダーを招くことが近道だ.
その結果,先ずコンタクトをとった外人ライダーの仲介でオーストラリア出身のボブ・ブラウン,そして1959年末から1960年春にかけて折衝したトム・フィリスがチームに加わることになった.フィリスもオーストラリア生まれでブラウンの後輩筋にあたり,シニアでは同郷チームを組む間柄である.
ボブ・ブラウンは,“マンクス”500で出場した1959TTシニアでサーティース(MV).アラステア・キング(ノートン)を追って3位を得ている.フィリスのほうも,やはり“マンクス”で同じレースに出場し16位で完走はしたのだが,受賞タイムリミット(優勝タイムの120%以内)を僅か28秒はみ出したためプロンズレブリカを貰いそこねた.しかし故郷のメーンイベントではプラウンを下した優勝経験もあるし,メカニック出身なのでマシンのこともわかる有望なライダーだった.1960(昭35)年現在,ボブ(ロバート・N)ブラウン30歳,トム・(トマス・B)フィリス26歳.
まだクラブマン気質の抜けないボブは,契約間題についてもあっさりしていた.
「契約金の金額など,どうでもいいじゃないか.ホンダで実際にレースに出てみて,もし好成蹟をあげられたら.それから話し合ったって遅くない・‥…」
そんな感じだったという.
彼もメカニック修業をつみ,自分で“マンクス”の面倒をみた経験はトム以上だから,メカニズムには強かった.
外人ライダーの参加で,マシンのシフト/ブレーキペダルの左右逆転が必要になった.このシーズンに実施されたシフトペダル対策は,リンケージによる右側への伝達である.リンケージのクロスシャフトはバックボーン後部下端のエンジンマウント部分を貫通している.ただし翌シーズン以降は,セレタターシャフトのセレーション端を最初からギアボックス両側に備えた本格的な対応設計が採用されるようになった.
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