第4話 FIGP 新天地へ
マシンの紹介
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RA271
『レ−シングの源流』のメニュ−へ

 ロータスコリン・チャップマンから突然の電報が届いたのは、1964年1月。『ロータス・ホンダ』の形で、エンジンサプライヤーとしてのF1GPデビューに備え、実戦用のエンジン、RA271Eのダミーエンジンも、すでに英国のロータスに向けて空輸し、最後の調整に余念がないところだった。電報には、「事情が変わった。ロータスはホンダ・エンジンを使うことが出来なくなった」と書かれていた。開幕戦のモナコGPまで僅か4ヵ月。話は振り出しに戻された。いや、そういう一言でかたづけるには、あまりに切迫した時だった。

 ホンダの挑戦は、船出から大シケの荒海に飛び込む、悪戦苦闘の物語となった。そもそも、駆け出し4輪メーカーでありながら、世界を転戦する最高峰のF1グランプリに挑戦を決意したところからして無謀とも言えた。しかし、高い理想を求めたチャレンジングなそこからの5年間は、求めた夢の大きさに比例した、壮大なエネルギーの発露を見せることになるのだった。

 時は、チャップマンの電報から4ヵ月前に遡る。有力チームにエンジンを供給する方法での参戦を決めていたホンダを代表して、後に監督としてホンダF1と行動を共にすることになる中村良夫は、1963年8月から9月にかけてヨーロッパに飛んだ。フランスのレース雑誌『スポール・オウト』の編集長であったジャビ・クロンバックを案内役に、ブラバム、ロータス、クーパーなど、当時のF1GPを戦うトップチームを訪ね歩くためである。そしてその結果、ジャック・ブラバム率いるブラバムとコンビを組むことを内定する。ブラバムを選んだ理由は、ジャック・ブラバムの研究熱心で真しな姿勢だけでなく、チーフデザイナーであるロン・トーラナックの手堅く実践的な手法に共感したからだった。

 ブラバムとの提携を頭に描いて中村は帰国、宗一郎に打診して、エンジンを供給するチームが決定するはずのところに、突然、来日した男がいた。ロータスの総帥、鬼才デザイナーとして数々の発明とアイデアをF1GPに送り込んだコリン・チャップマンである。ホンダを訪れたチャップマンは、宗一郎の前で、ホンダのエンジンが欲しいと熱く訴えた。2カーエントリーの1台に、ホンダ・エンジンを載せ、ドライバーはジム・クラークマイク・スペンスの二人を適宜振り分けるが、クラークをホンダ主体で考えてもいい、とまでチャップマンは言った。

 チャップマン、ロータス、クラークと言えば、当時考えられる最高の組み合わせである。宗一郎と中村は、チャップマンの熱意に押された恰好で、ブラバムとのジョイント構想を覆し、ロータスとの提携を決定することになった。1963年9月のことである。

 すでに原案が出来上がっていた実戦用のRA271Eの図面を中心に、チャップマンの要請を加味しながら2日間に渡って検討が加えられた。デビュー目標である翌年5月の1964年開幕戦モナコGPに照準を合わせて、12月初旬までに最終型のRA271Eのダミーエンジンをロータスに送った上で、1964年2月にベンチテストを終えた実戦用エンジンを空輸する、という計画でロータスとホンダは合意したのだった。

 ホンダでは、テストベッドとなった試作型のRA270Eを積んだRA270Fでの実走テストからのフィードバックを反映させつつ、実戦に向けてRA271Eを製作するという作業をこなし、12月初旬には実物のブロックを使ったダミーエンジンをロータスに向けて空輸、年末にはエンジンテスト用として製作されたゴールドメタリックにきらめくRA270も完成した。年明け早々から荒川の試走を済ませ、鈴鹿サーキットでの本格テストをこなして、2月初旬に本番エンジンをロータスに送る日程調整をしていた。そこに、前述の電報がチャップマンから届いたのだった。

 事情が変わったというチャップマンからの知らせを受けた時は、すでに開幕まで4ヵ月。ホンダが取れる手段は限られていた。提携を予定していたブラバムと再交渉を始めるか、自らの手で車体まで造るか、さもなければ事情止むなしとしてデビューを見送るか、である。ブラバムとの再交渉はもはや時間切れ。となると、通常の神経ならばその年のデビューを見送るところだったが、宗一郎がそれを許すはずもなく、窮地に陥った時の変わり身は早かった。自ら未知を切り開くホンダの意志を、中村は「電見た。ホンダはホンダ自身の道を歩むであろう」とチャップマンに返電を送って知らせた。その瞬間から、まるで戦争のような慌ただしいデビューへの準備が始まったのである。

 エンジンはともかく、実戦に適した車体の設計という大きな問題はもちろん、タイヤやホイール、ブレーキ、マスターシリンダーなど、レースを戦う上で重要なパーツのいくつかは、ホンダ独自では製作出来ないどころか、日本には実戦で通用するコンペティティブなパーツ自体が存在せず、それらの調達の方法から模索しなければならなかった。そうしたハード面だけでなく、ドライバーの手配からチーム運営、果ては転戦の方法まで、全く白紙の状態からのスタートを強いられる。情報伝達もままならず、海外に既知の少ない日本企業にとって、気の遠くなるような作業がデビューの前哨戦としてスタッフを待ち受けていた。デビューの前に、ホンダのスタッフは大きなレースを戦わなければならなくなっていた。

 ところで2輪の場合、マン島に始まる世界への挑戦は、1954年の宣言文によってスタートが明確に切られたと語り継がれている。しかし、F1挑戦の計画がいつから始められたのかは定かではない。1964年のデビューを前に、『F1世界選手権 出場宣言』というものが社内報(1964年No.99)に掲載されてはいるが、これはひいき目に見ても烈々たるマン島宣言と並ぶとは言えず、報告にすぎないものだった。起源はもっと以前にあったのである。

 マン島の成功で2輪がレースを通じて名を馳せた実績を受けて、次のステップはF1だった。後発である4輪進出を世界に問う近道は、技術力を示すことであり、すなわち、レース、それも最高峰のF1に進出し、それを究めるという目標は、ホンダにとって自然の成り行きだったのだ。F1レースはもとより、4輪レースに対する経験は皆無だったが、2輪のレース経験から、高回転・高出力エンジンの開発には自信があった。4バルブ方式のルーフ型燃焼室との組み合わせがベストなことは分かっており、高出力化の面ではそれなりの勝算もあった。つまり、マン島を制圧した瞬間が、ホンダF1の出発点だったという見方が成立する。

 さらに遡って、『F1』という具体的な形ではないにしろ、4輪最高峰のレース制覇への野望は、1954年の宣言文にあったと見ることもできる。宣言文の書き出しに、本田宗一郎は、『私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであつた。』と書いている。時に、ホンダは2輪メーカーとして成長を始めたばかりであったにも関わらず、オートバイと表現せずに、『自動車』と書いた。その理由は、生産車だけでなくレースの世界でも、2輪の先に4輪を見据えていたからに違いない。そうした意志が汲まれ、マン島制覇をスタートの合図にするように、ホンダ内部では、小さいながら具体的にF1への動きが起こっていた。

 チャップマンからの電報で失意の底に突き落とされたが、開幕戦のモナコGPまでの4ヵ月、実戦用のモノコックシャシーを造るため、試作工場では材料の高張力ジュラルミンのリベットの打ち方のテストから始める必要があった。また、東京大学航空学科の教授の指導を受けて、空気抵抗の減少と冷却効率のよいボディーを模索。英国ダンロップと提携関係にあった住友電工に、軽合金鋳造ホイールやブレーキ系統の入手の協力を仰ぐなど、レース以前の問題をまずは解決しなければならなかった。

 初めての経験とは言え、ハードの準備を徐々に整える一方で、雑務もこなした。当時は、現在のように興行を取り仕切るFOCAのような組織もなく、日本のJAFも、未見の領域であるF1GPに参加するための何らの対応策も持っておらず、エントリーから、当時はそれが自然な形だったマシンに塗る“ナショナルカラー”の決定まで、ホンダは自らの手で行なわなければならなかった。

 各レースの主催者に電報や速達でエントリーフォーム請求と出走の意図を知らせると同時に、転戦の具体的方法やベース基地の決定などもしておかなければならない。整備基地にはホンダのベルギー工場の一角を交渉し、スペアパーツなどの物流はアムステルダムの2輪グランプリチームに同居して行なえることになった。

 一方、アメリカ・ホンダの推薦でデビュードライバーに決定していたロニー・バックナムを、鈴鹿サーキットで行なわれた第2回日本グランプリにS600で出場させ、チームメンバーと打ち解けるようにとの計らいも実行された。バックナムは、それに応えてGT1クラスで優勝しただけでなく、日本人ドライバーに異次元の走りを見せつけ、それに刺激された北野元が、初めて鈴鹿で3分の壁を破るタイムをマークするというオマケもつけてくれることになった。F1レベルでは無名とは言え、バックナムはやってくれそうだった。

 RA270による鈴鹿サーキットでのテストと並行して、実戦用のRA271の製作が進められていた。3月には、来日したジャック・ブラバムをRA270に乗せ、意見を仰いだ。RA270はあくまで試験車であり、具体的にグランプリカーとの比較ができる解答は得られなかったが、いくつか参考になるインプレッションが聞けた。さらに、ロニー・バックナムにも試走させたが、F1マシンの経験がなく、客観的な評価は望むべくもなかった。しかし、それでも開発のための貴重な意見を得ることができた。また、2輪ライダーの島崎貞夫などによる走行テストから、本番車への課題を確認した。

 この一次テストの終了をもって、シャシーの暫定開発チームは解散し、専任チームが新たに編成され、デビューに備えることになった。

 こうした準備を進めると同時に、製作日程とテスト日程から進行状況を予測し、デビューGPを想定した。その結果、マシンの完成を6月に予定し、7月11日にブランズハッチで行なわれるイギリスGPに出場という目標が立てられた。イギリスなら、英語も通じ、何かと都合もよさそうだった。 しかし、ホンダF1はイギリスGPに姿を現さなかった

 一応のテストはこなしたが、実戦にデビューする前に、本場のサーキットで走り、彼我の差を確認しておく必要もある。イギリスを見送るとなると、次はドイツGP。1周22km以上というグランプリコースの中でも名うての難コース、ニュルブルクリンクで行なわれるドイツGPは、デビューの舞台としてはまったく適してるとは言えなかったが、クルマは完成した。見送る理由はなかった。ホンダF1のデビュー戦は、8月2日のドイツGPと正式に決まった。

 デビューに向けて、ホンダF1チーム一行は、ベルギーのホンダ・アロスト工場に立ち寄った後、オランダのサンドフールト・サーキットに集結。そこで、羽田からニューヨーク経由でアムステルダムに到着して陸路サンドフールトにやってきたRA271と対面した。決まったばかりの日本のナショナルカラー、アイボリーホワイトベースに日の丸もまぶしいRA271を、彼らはそこで初めて見たのだった。

 サンドフールトは、専務理事のフーゲンホルツ氏が鈴鹿サーキットの設計者であるという関係もあり、ホンダF1がデビューするドイツGPの2戦前に行なわれたオランダGPの舞台でもあった。鈴鹿育ちのマシンとして、テストにうってつけ(後々、それは単なる思い過ごしだと気がついたが)、チームは意気揚々とテストを始めた。

 テストとは言え、そこでできることは限られていた。主に、12連装の京浜製キャブレターの調整に的を絞り、走る上で不具合がないかをチェックするだけの、いわゆるシェイクダウンテストに徹するしかなかった。それでも、初めてのヨーロッパのコースを、初めてのF1マシンで走ったバックナムは、1ヵ月前のオランダGPでダン・ガーニーのブラバム・クライマックスが記録した1分31秒2のラップレコードに対して、1分36秒台を記録。“ある感触”はつかむことができたのだった。

 8月2日、ホンダF1はデビューレースを迎えた。サンドフールトからニュルブルクリンクに移動したホンダ・チームメンバーは、想像していなかった関係者やファンの暖かい歓迎に感激し、そして、これは想像していた通りのトラブルの多発に泣いた。しかし、協力的な主催者に助けられることになった。

 とは言え、デビュー戦の成績は悲惨なものだった。予選でバックナムが刻んだタイムは9分34秒3、トップのサーティース(フェラーリ)の8分38秒8に1分近い差を付けられ、ホンダの前からスタートするゲルハルト・ミッターのロータスよりも20秒も遅かった。それでも15周で行なわれたレースでは、9位まで追い上げ、直線部分では、不揃いのキャブレターだったにも関わらず、トップを争うサーティースのフェラーリやクラークのロータスに遜色ないスピードを見せていた。結果として、ナックルアームの疲労破損によりバックナムはクラッシュ。彼とホンダのデビューレースは、そこで終わった。

 チャップマンの電報からほぼ半年。その間に未見の領域にあった最高峰のグランプリ用シャシーを完成させ、出走にこぎ着けた。最初から好成績は望むべくもなかったが、「やるようにやればできる」という感触に、悲惨な成績とは裏腹にチームの士気は高まったのだった。この後、ホンダは、残された4戦のうち、イタリアGPアメリカGPに出場。勝ち得るマシンで1965年シーズンに臨むための実戦データの収集に務めた。

 F1GP挑戦初年度は、終わった。そして、はるかな航海が始まった。

1964
「レーシング」の源流