第6話 FI 初勝利
マシンの紹介
RA271 RA272 RA273 RA300 RA301 RA302
RA272
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 2400mという高地のメキシコシティー・サーキット対策として、飛行機で鍛えたノウハウを総動員させ、気圧密度、湿度、温度などを徹底的に分析して設定。また、スタッフも社内の序列とは無関係にグランプリを戦う上で最適なポジションに配置換えを行なった。それらを確認をして万全を期するために、マシンもチームもそのセッティングをレース前に試しておきたかった。そうしていい感触を得ることによってギンサーの闘争本能に火をつけておくべく、中村は主催者に掛け合って、レース前に確認走行の時間を手に入れた。

 中村の思惑通りに事は運んだ。ギンサーは、スケジュールが始まる前のその確認走行で充分な自信をつけた。前夜の雨でできた水たまりが何ヵ所か残る状況で、前年(1964年)メキシコGPでダン・ガーニーが記録したラップレコードを更新したのだ。ギンサーにさらに余裕を植えつけたのが、その日の夜、メキシコのテレビ局の1時間番組に中村と一緒に出演したことだった。見事なタイムに対して、司会者はギンサーをこれまでの万年2位のドライバーとしてではなく、スタープレイヤーのように、最も優勝に近いところにいるドライバーとして紹介し、何度も「どうしてあんなに素晴らしいタイムが出るのか」と聞いた。ギンサーの自信は加速した。

 予選でも、ギンサーの自信は持続、好調に3位のタイムをマークし、ポールポジションを狙うことを強く主張した。トップのクラークとのコンマ3秒差は、充分に逆転可能なタイムだった。しかし、マネージャーの中村は許さなかった。あくまでも目標はレースで勝つことである。予選で全力を出し切るのではなく、レースのためにその闘争心を保存しておきたかった。中村は、はやるギンサーをこう言って説得した。「あんたが勝つに決まっているのだからポール・ポジションであろうがなかろうが関係ない,見ろよジミー(クラーク)はあれだけ無理してスリップ・ストリーミングをやって,やっとリッチーのタイムよりほんのチョッピリいいだけではないか,特にリッチーのスタートは抜群にうまいのだから問題ないよ,まああまりヨソサンを刺激しないようにしようよ」(グランプリ1・二玄社より)。ギンサーはうなずき、そしてその自信と闘争心のすべてをレースにぶつけることになった。

 レース後、ギンサーと中村は、観衆の渦から飛び出した表彰台の一番高いところでメキシコシティの日差しを浴びていた。中村は本社に打電した。"Veni Vidi Vici"。「我来たり、我見たり、我勝ちたり」。 ゼラの戦いの勝利を元老院に知らせたシーザーの言葉だった。エンジニアであると同時に文学者であった中村らしい電報だった。

 ホンダは頂点に立った。1965年の、そして1.5リッター最後のF1GPが幕を閉じた。

 バックナムも5位に食い込んだ。圧倒的な勝利。仮に1.5リッターF1がそのまま続いたとしたら、ホンダは翌年、メキシコGPの勝利をバネに、勝利の女神に微笑まれる回数を増やすことができたに違いなかった。しかし、F1は1966年から3リッターにエンジン排気量が変更になり、F1GPはますます厳しい戦いへと成長して行くことになる。ホンダの戦いは、振り出しに戻された。

 デビューの1964年、ホンダがRA271での3レースで得た成果はいくつもあった。その最大のものは、RA271の致命的な欠点が、整備性の悪さにあることを発見したことだった。中村良夫はその著書の中で言っている。「エンジン換装が何時間でできるかということが,エンジンの出力が何馬力あるということとまったく同格に、グランプリ・カーとしての重要な要素であることを知らなかったのである。(中略)サスペンション,リヤーストラクチュアーをばらしエンジンをのせかえ,チェックをするということは尋常な仕事ではなかった.」(『グランプリ2』二玄社)。ホンダF1チームは、勝ち得るグランプリカーにとって、素早い整備ができる構造になっていることが、決定的に重要であることを知らなかった。しかし、1964年の3戦で身をもってそれを知ったのだった。

 オーバーヒートも深刻な問題だった。慢性的なアンダーステアも解決しなければならない課題だった。しかし、すでにF1は、1966年からエンジン排気量が3リッターに変更になることが決まっていた。残された1年間だけのために1.5リッターマシンをゼロから造ることは、その熟成期間を考えると得策とは言えなかった。そこで、RA271に、デビューシーズンで収集したノウハウを投入して、徹底的な改良を加えてRA272を造ることになった。

 タイヤ・メーカーも、ダンロップから、F1にデビューするグッドイヤーに変更された。さらに、ロニー・バックナムに加え、開発能力のあるリッチ・ギンサーを迎え、心機一転、いよいよ本格的な戦いを始めることになった。1月1日に行なわれた南アフリカGPは、時間的にも出場できず、ホンダの1965年シーズンは、5月30日の第2戦、モナコGPから始まることになった。

 モナコGPから、確実にポテンシャルアップしたはずのRA272を2台送り込み、2カーチームとして新たな戦いが始まった。しかし、ホンダの緒戦は、2台そろってリタイアに終わった。その後、6月のベルギーGPで初の6位入賞を果たし、7月のイギリスGPとオランダGPでは、ごく短時間ではあったがジム・クラークのロータスを抑えてトップを走り、2度目の6位入賞を果たした。イギリスGPでは、後にホンダのドライバーとなるジョン・サーティースのフェラーリと、レース前半のエポックとなる激しい3位争いを展開し、“いよいよホンダがキバをむき、ライバルに食いついてみせた”と報じた英誌もあった。しかし、それらは満足できる成績ではなかった。どのレースも、エンジンや駆動系を中心とするトラブルが相次ぎ、マシンポテンシャルから判断して当初期待したとおりのレースは出来ていなかった。

 そこでホンダは、異例の一大決心を企てた。シーズン途中であったにも関わらず、7月18日のオランダGPを終了した時点で、続くドイツGPをパスして、 9月12日のイタリアGPまでの間に、マシンを大改造することを決断したのだ。このままレースを続けても意味なしとの判断だった。前進の時の決断以上に、引く時の決断は勇気の要る作業だったはずだ。しかし、ホンダはそれを決行する。復帰のイタリアGPは、モンツァで行なわれる。エンジンパワーがモノを言う、ホンダ得意の高速サーキットである。

 スタッフはこの50日余りの間、それまで以上の厳しい試練と戦うことになった。作業は多忙を極め、不眠不休の開発が続いた。家に帰ってもただ寝るだけ。はいていた下着で体を洗って洗濯の時間を切り詰めるという、惨めな生活だった。しかし、彼らには、勝算があった。そこまでの間に世界の壁の高さは嫌と言うほど知らされていたが、改良を進めれば勝てる、やればできる、という確信にも似た感触があった。

 こうして、RA272改は誕生した。排気管を両側に移し、エンジン下部を削り落とし、さらには前傾角度を強くして搭載するための大手術で、エンジンの搭載位置は10cm低められた。重心位置の低下は、コーナリングにはもちろん、加速や減速でもマシンの安定性向上に貢献する。細部の見直しによってパワーも15馬力上がり、トルク特性も全体に改良されたことも確認した。アンダーステアが解消され、ブレーキバランスもよくなったはずだった。しかし、トータルパフーォマンスを上げたはずのRA272改は、イタリアに送り出す前に行なわれた鈴鹿のシェイクダウンではタイムが出ず、イタリアGPは2台そろってリタイア、1ヵ月後、本田宗一郎が唯一現場に足を運んだアメリカGPでも、ギンサーが7位に食い込むのがやっと、期待された成績は残せなかった。残るは、1.5リッター規定最後となるメキシコGP1戦のみとなった。

 RA272改のポテンシャルに自信を持っていた中村良夫は、1.5リッター最後のレースのマネージャーを志願した。複雑な社内事情のために、しばらく現場を離れていたのだが、メキシコシティ・サーキットは高地にあり、気圧の薄い高高度のエンジンセッティングには、第二次世界大戦中に経験したゼロ戦を始めとする飛行機の研究開発で自信があった。もともと優位なはずのエンジンに、さらにアドバンテージを付けられるチャンスを見いだしたのだ。さらに、スタート時点から主に外部との交渉を自ら行ない、F1構想そのものの推進役を自負していた中村にとって、1.5リッター規定のうちに勝っておくことが必須だった。

 リッチ・ギンサーのホンダRA272は、ダン・ガーニーのブラバム・クライマックスを抑えきって、トップでチェッカードフラッグを受けた。予選3位から絶妙なスタートを決めたギンサーは、1コーナーまでに楽々とトップを奪い、以後、その座を誰にも明け渡さなかった。レース終盤、体力で優るガーニーがファステストラップをマークしつつジワリジワリと背後に迫ったが、ギンサーは冷静にギャップを計算し、ガーニーに2.89秒先んじてゴールラインを横切った。デビューから2年目の完全勝利だった。

 ウイニングラップを終えてピットに戻ってくるギンサーを待っていたマネージャーの中村良夫に、群衆をかき分けて握手を求めた男がいた。最初に"Congraturations!"と言って中村の手を力強く握ったその男は、コリン・チャップマン。彼の策略にはまった形で混乱の中でスタートしたホンダのF1チャレンジは、1.5リッター規定最後のレースで見事に実を結び、そのチャップマンから最初に祝福を受けたのだった。1965年10月24日、1965年F1GP最終戦のメキシコGPである。

 それから12年経った1977年、本田技研の特別顧問の職にあった中村良夫の元に、グッドイヤーの広報担当をしていたフランス人カメラマン、ベルナール・カイエからエアメールが届いた。封筒の中にはドイツGPへの招待状が認められていた。1977年のドイツGPは、グッドイヤータイヤがF1グランプリ100勝目となる記念すべきレースである。中村は、ドライバーのリッチ・ギンサーとともに、その会場のホッケンハイム・サーキットに招待された。1965年メキシコGPで、グッドイヤーにとっても初勝利を飾ってくれたホンダを、グッドイヤーは“恩人”として忘れていなかったのである。

 グッドイヤーは、中村とギンサーを手厚く迎えた。7月30日のドイツGP予選の日、グッドイヤーは二人を特別表彰台に招き上げ、感謝の意を表して、太陽エネルギーだけで永久に時を刻み続けるアモルファスの置き時計を贈った。時計の裏には、「グッドイヤーはこのアモルファスのように、1965年のメキシコの勝利を決して忘れないでしょう」と刻まれていた。翌31日のレース当日、場内放送は何度も何度も繰り返した。「いまここで、1965年メキシコでのグッドイヤータイヤの第1回ウイナーであるリッチ・ギンサーとホンダのエンジニア、中村氏が見守っています」。中村とギンサーは、万感迫る思いでそこにいた。

 中村とギンサーがこうして、遠くドイツで喝采を受けられた裏には、F1GPという舞台に挑戦したスタッフによる数えきれない辛苦のドラマがあったのは言うまでもない。偉業はいつでも苦悩によって築かれる。さらに、苦悩の大きさはその道のりの遠さと志の高さに比例し、達成までの時間の長さに反比例して大きなものになる。ホンダは、F1GPという遠く厳しい世界の頂点に挑戦し、1964年に僅か3戦をこなしただけで2年目のシーズンを迎え、ギンサーのドライブでその最終戦で見事に優勝した。デビューから1年半足らず。自らのシャシーでの参戦を決定してから僅か1年10ヵ月後の頂点――それは快挙だった。

1965
「レーシング」の源流