第8話 FI タイトルへ
マシンの紹介
RA271 RA272 RA273 RA300 RA301 RA302
RA300
RA273
『レ−シングの源流』のメニュ−へ

ホンダとローラの合作は“ホンドーラ”と冷やかされたが、ともあれ、僅か6週間でRA300は完成した。常識的に言えば、設計図を起こすだけで、どんなに急いでも1ヵ月はかかるところである。驚異的なスピードをホンダとローラは実現したのだ。それでも、軽いテストを済ませたRA300が、ロンドンから空輸便でミラノに到着したのは9月7日、プラクティスが始まる前日という際どさだった。

 冷却水とオイルを入れた状態で、ニューマシンは610kgに仕上がっていた。1966年型のRA273を徹底的に改良して軽量化した1967年型のRA273から約70kgの軽量化である。これを機に和光研究所でもRA273Eエンジンに熟成進化を加えており、両者の相乗効果で、加減速、ハンドリング、ブレーキングが向上したはずだった。

 しかし、モンツァの神は、数日前にシェイクダウンを済ませたばかりの“ホンドーラ”に軽い洗礼を浴びせかけた。スケジュール初日の金曜日、左フロントサスペンションのメッキされたアッパーアームに、微かな座屈の兆候が発見されたのだ。

 翌日の予選までにその改修作業を神掛かり的に終わらせることができたが、修理の間、当然RA300は走らせることができず、サーティースはもっぱらRA273で万一に備えてセッティングを進めておくしかなかった。ライバルのロータス・フォードDFVのクラークは、すでに初日に1分28秒5までタイムを削っていたが、RA273のサーティースは、31秒が切れずにいた。

 翌9日、正午すぎに苦心のアッパーアームは完成した。せっかくのメッキが補修のために溶接跡でところどころ黒くなっていたが、問題はプラクティスの時間だった。モンツァのプラクティスは3時間と長かったが、文字通りぶっつけ本番、セッティングをほとんどゼロからやらなければならないRA300にとって、とても充分な時間とは言えなかった。さらに悪いことに、セッション開始早々に、モンツァの空は雨雲に覆われた。土砂降りの雨。主催者はセッションを30分延長した。ホンダにとっては意味をなさない時間だったが、それでもサーティースは、1分30秒3を記録して、3-2-3-2と並ぶグリッドの4列目、予選9位を得た。

 高速のモンツァはスリップストリームを有効に使うことが上手いレース運びのひとつの作戦となるのだが、初めて使う新しい英国サーク社製のラジエターの冷却能力がどこまであるのか把握できていなかった。トップ集団にスリップストリームで食らいついても、そこでオーバーヒートすることを恐れて、中村とサーティースは、“第二グループの先頭を走って様子を見よう”という作戦を立てていた。当然、満タンでの走行もしていない。出走前にタンク一杯に燃料を入れると198リッターになったが、それでもゴールまで持つという確証はなかったのである。

 ジム・クラーク/ロータスがポールポジションを奪い、文字通り未知数のサーティース/ホンダは9位からスタートした。レースは荒れに荒れ、グランプリ史上でも稀に見る迫真のレースを展開し、劇的な幕切れを迎えた。

 ホンダにとって上出来のレースだった。マネージャーの中村良夫は、最後まで張り合ったジャック・ブラバムに祝福された。彼だけでなく、"Nakasan Congratulation you did well !(おめでとう、よくやった)"と、次から次にホンダのピットを訪れるフェラーリやロータス、ブラバムやクーパーのメカニックたちの言葉に涙を誘われていた。しかし、その涙は、単に接戦に勝ったからではなく、サーティースと作り上げた苦心のシナリオの歯車が、ようやくかみ合って順調な回転を始め、未来が見え始めたことに対する安堵の気持ちも現していたのだった。

 RA300はモンツァの勝利の後、最終戦のアメリカGPに出場して1967年の戦いを終えた。アメリカGPでは、燃料バッグのゴミが燃料を詰まらせるという小さなトラブルでレースを失ったが、英国に基地を持つセミワークスチームとなって、効率のよいレースを戦える確信を得ることができていた。

 すでに久米是志によってフォードDFVに対抗し得る軽量コンパクトなV12の構想も出来上がっていた。シャシーも、ジャガーEタイプやクーパーの主任設計の実績を持つディレック・ホワイトの協力を得て、1968年に向けて、4年間に培って来たノウハウを注入した戦闘力の高いRA301を作り上げる青写真は完成していた。

 1年落ちの重いRA273と、急造のRA300で戦ったにも関わらず、コンストラクターズのポイントでクリス・エモンのフェラーリと並ぶシリーズ4位だったのである。ドライバーはジョン・サーティースと申し分ない。1968年は、チャンピオンを奪える可能性さえ見え始めていた。

 しかし、思いがけない障壁に、そのシナリオは阻まれることになる。

 1964年から始まる『第一期ホンダF1』の中で、1966年は特別な年と言えた。シーズンも後半になった第7戦のイタリアGPにやっと登場したホンダRA273は、その後も含めて僅か3戦を走っただけでシーズンを終えており、それ以前に、1966年は、1.5リッターから3リッターへのエンジン排気量の変更で混乱した年だった。そして、"ホンダF1チーム"にはそれらの外的要因とは別に、解決しなければならない問題があった。

 N360が具体的な展開を始め、次のステップとして、世界市場を持ち得る小型大衆車の研究開発が必然であり、本業の事情は、F1に湯水のごとく予算を割ける状況ではなかったのだ。宗一郎は相変わらずイケイケの姿勢だったが、副社長の藤沢武夫は慎重だった。しかし、止めろと言っても宗一郎が素直に認めるはずもない。藤沢は思案の末、大幅な経費削減をF1マネージャーの中村良夫に伝えることにした。

 一方、F1と並行して1965年から挑戦を開始したヨーロピアンF2は、1年間の苦闘と熟成の甲斐あってレースを席巻できる自信ができていた。そこでF2に全勢力を注ぐことが決まった。限られた予算の中で、新たに3リッターとなったF1は、言わば後回しにされたのだ。

 そうした事情の中でF2が連勝を始め、研究所が落ち着いた頃に、3リッターのRA273はようやく完成した。工場を出て荒川のテストコースに持ち込まれたのは、シーズンが中盤に差しかかった7月下旬である。来日したギンサーが慣熟走行を行ない、次いで鈴鹿サーキットでテストを行なったRA273は、8月19日、イタリアGPのモンツアに向けて、羽田から送り出された。3日後の22日、広報部から正式にRA273は発表された。

 RA273のエンジンは、計画当初から12気筒と決まっていた。パワーには自信があったが、問題は、本田宗一郎社長が軽量化を第一義とした開発陣の意見とは裏腹に、重量増を覚悟しなければならない難問を強いていたことだった。完成したRA273は、最低重量規定500kgを天文学的に上回る700kgという戦車のような重量マシンになっていた。

 RA273のデビューと前後して、藤沢の決定で削減された予算の中で如何に効率よく戦うかを模索していた中村の許に、その6月にフェラーリとのゴタゴタでチームを去り、クーパーに乗っていたジョン・サーティースから、度々電話が来るようになっていた。サーティースは、「ホンダに乗りたい」と言っていた。2輪出身のサーティースは、マン島に始まるホンダの活躍に直接触れ、F1ドライバーの誰よりもホンダの実力を知っていた。ホンダなら、F1でチャンピオンを取れると信じていたのだ。

 中村は、藤沢からの大幅予算削減を聞かされた時から、折衷案を探し続けていた。F1を継続することがホンダの将来にとって必須であるという考えは変わらなかった。F2の連勝に気を良くしてこのままF1もワールドチャンピオンを取りたい、と意気上がる宗一郎と、市販車の開発のために、予算は出せないという藤沢。二人の相反する条件に対する折衷案が、サーティースとのジョイントでうまく形になりそうだった。1966年11月上旬、サーティースは契約の最終調整のために羽田に降り立った。そしてその月末には、鈴鹿サーキットでRA273を走らせ、数ヵ月前にギンサーがマークしたラップレコードを数周であっさり書き換えた。

 1966年12月5日、ホンダは、2輪のMVアグスタでチャンピオンとなり、F1に転向するや、1964年にフェラーリでワールドチャンピオンとなった世界で唯一の2輪と4輪の王者と契約を交わしたと発表した。

 しかし、金食い虫のF1活動に疑問視の声さえ上がり、予算は減らされ、ワールドチャンピオンのサーティースと契約したものの、事態は深刻だった。1967年は、1966年に使った前年型のRA273を改良したにすぎないマシンで戦わねばならなかった。

 その上、宗一郎のお達しで、ホンダにとって軽量エンジンを作ることは不可能だった。当面は、シャシーの軽量化を進めて対処するしか方法はなかった。1966年型を進化させただけのRA273は、F1GPを戦い得るマシンではなかった。そこで、シーズン半ばの7月、協力関係にあったローラ社製のインディ500で実績のあるシャシー"T90"を転用改造して、軽量シャシーを作り上げることを決めた。RA273最後のレース、ドイツGPをサーティースは4位で終えた。RA273の、それが限界の成績だった。次のオーストリアGPを欠場してイタリアGPまでに間に合わせるべく、夏休み返上の突貫工事が始まった。

 ジョン・サーティースは、コクピットに深く沈み込んだ独特の姿勢でモンツァの最終ラップの最終コーナーを立ち上がって来た。サーティースのホンダRA300の左側の文字通り”鼻の差”の位置に、ピッタリとジャック・ブラバムのブラバムBT24がついている。

 最終コーナー進入で、ブラバムは勝負に出た。サーティースのインサイドに鋭くもぐり込み、一瞬、リードを奪ったのだ。しかし、ブラバムの走行ライン上の路面には、すでにリタイアしたグラハム・ヒルロータス49の撒いたオイルがこぼれていた。それに乗ってタイヤを滑らせたブラバムは僅かに体勢を乱し、その隙にサーティースはトップを奪い返した。それでもブラバムはタイムロスを最小限に押さえ込んでサーティースの背後に食らいついて諦めず、スリップストリームを使ってゴールラインまでにホンダの前に出るべく、左に進路を変えてストレートを加速していた。

 ビッシリと埋まった観客席とピットのすべての目が、ゴールラインに向かう白いホンダとグリーンのブラバムの間をせわしなく往復していた。サーティースは、身を低く沈め、満身の力を右足に込めてアクセルを踏み続けてゴールラインを横切った。ブラバムとの差は僅かコンマ2秒。歴史的な接戦だった。

 1967年イタリアGPで、ホンダは1965年メキシコGPに続く2勝目を記録した。しかし、イタリアでのその勝利は、ホンダにとって、メキシコGPの時と違う意味を持っていた。メキシコGPは1.5リッター最後のレースであり、その締めくくりに勝利したことは充分な価値があったが、3リッター規定になって2年目の1967年イタリアGPでの勝利は、そこから始まるシナリオのスタートとしては申し分ない勝利だった。

「レーシング」の源流
1967