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マシンの紹介
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第1話 サンパウロ〜マン島出場宣言

■機会(チャンス)は、地球の裏側から突然やって来た。

 ホンダが日本の2輪メーカーとして初めて「世界のレース」を体験することとなったのは、1954年(昭和29年)ブラジル・サンパウロ市市制400年記念国際モーターサイクルレースだった。しかしこのレースへは、ホンダ自身が積極的に参戦したというより、様々な偶然が重なり、結果としてホンダが日本の2輪メーカーとして初めて世界的なレースに出場することになってしまったと言った方が正しいかもしれない。しかし、そうであっても、初の国際レース参戦は数え切れない逸話とドラマを残すことになる。

 その前年1953年の初秋、ブラジルの日本総領事館から外務省宛に「ブラジル・サンパウロ市市制400年祭の行事のひとつとしてモーターサイクルの国際レースを開催するので、希望があれば参加されたし」という内容の招待状が届いていた。しかし、当時の日本では「国際レース」とはいったい何を指すのか、どんなことをやるのか、理解出来る人は皆無に等しかった。ましてやその招待状を受け取ったのは外務省から渡された通産省のお役人。半ば困り果ててその招待状は、担当者の引き出しにしまい込まれていた。

 その後しばらくして、まったく別の用件で通産省をたずねたある人物がいた。その人こそ、1930年(昭和5年)マン島TTレースにベロセット350ccを駆って出場(日本人初の海外レース参加)した多田健蔵氏だった。氏は、その後MFJの創立に尽力されたり、各地のレースを主催するなど、日本レース界の重鎮として知られることになる人物であり、通産省の担当者がしまい込んだサンパウロからの招待状を示し、氏に意見を仰いだのも当然のことだった。そして、通産省と多田氏は、その内容を日本小型自動車競争会連合会へと引き継いだのだった。

 しかし、日本小型自動車競争会連合会とはオートレースの統括団体。そのオートレースに出走しているのはトライアンフなどの外車が主であり、国産メーカーでマシンを製作しているのはメグロ製作所等数社にすぎなかった。それでも紆余曲折を経てメグロやホンダなど5社が125、250、350ccクラスへ出場することが決定された。ブラジルからの招待状到着から相当な時間が経過していた。

 さて、いよいよ参加内容も決まったところで先方へ連絡をとると「まったく返事がないので不参加だと思っており、経費もすでに予定額に達し、日本のチームを招待する予算は残っていない」との返答が返ってきた。昭和29年当時、日本から地球の裏側ブラジルへの渡航費用はおよそ80万円、現在の金額に換算すると約2000万円にも達するものであり、おいそれと出せる金額ではなかった。参加予定のメーカーは次々と出場を辞退し、日本チームの海外レース初出場は水泡に帰するかに見えた。

 多くのメーカーは出場出来ないことにほっと胸をなで下ろし「やれやれ面倒なことに巻き込まれずにすんだわい」というのが本音だったに違いない。

 しかし主催者に掛け合ってなんとか1名分の費用を提供してもらえることとなり「さてどうする」といった時点で参加の意向を持っているのはメグロとホンダだけだった。

 とはいってもライダー2名ではどうにもならず、マネージャー役を一人仕立てることになり、その費用はホンダが捻出し、いよいよ日本初の海外レース遠征が実現することとなったのだった。

■いざ、群雄割拠の檜舞台へ。

 1954年といえば、世界選手権ロードレースがスタートして6年目。ヨーロッパの有力メーカーはすでに超一流のレーシングマシンを擁し、本格的ロードレースが各国で開催される活況を見せていた。中でもMVアグスタ、NSU、モンディアル、モト・モリーニ、モトグッチ、ノートン、AJS、ジレラなどのそうそうたるメーカーがワークスマシンを送り出している群雄割拠の世界だった。

 そこにホンダが送り込んだのは、150ccの市販車ドリームE型をストロークダウンした125ccの急造マシンであり、ミッションはわずか2速という、おせじにもレーシングマシンとは呼べない、自転車に毛の生えた程度の実用車以下の代物であった。

 それでも、現地に赴いたマネージャー役の馬場利次とライダーの大村美樹雄は、パリ経由でインテルラゴス入り。レースに向けて入念な練習走行を行ない、ヨーロッパから訪れた出場者との膨大な性能差を埋めるべく努めた。そんな中、メグロのライダーとして共に練習を進めていた田代勝弘が転倒負傷し、本番に出場不可能になるアクシデントが発生する。結果的に大村は、日本人として唯一人このレースに出場することになった。

 レースは、ヨーロッパ勢の圧倒的な強さの中で終始し、大村は13位の順位を得たものの主要ライダーからは大きく水をあけられ、完走が精一杯だった。これが、日本のメーカーとして初めての国際レース出場の顛末である。

 しかし、その取るに足らない成績、むしろ惨敗ともいうべきレースから、無限の可能性と未来への確かな道のりを見いだしたのが、時の本田宗一郎社長だった。大村らが撮っていた有力チームの写真=当時の超一流レーシングマシンの姿に本田社長の目は釘付けとなり、やがてそれは打倒ヨーロッパの各メーカーとの闘志となって、むらむらと燃え上がるのだった。

 本田社長は、後の回想の中で、古橋広之進の活躍や、同年の湯川秀樹博士のノーベル賞受賞に大きな影響を受けたと語っている。戦後の復興の中で日本人に希望の光を与えた古橋や湯川。その日本人の中に本田宗一郎もいた。宗一郎は周囲に「オレもみんなに夢を与えることをやりてぇなあ」と言っていた。

 ホンダは、当時まだ実用車の生産がやっと軌道にのったところ。世界レベルのレースに参戦するなど社内の誰もが想像だにしなかった頃である。しかし、大きく見開いた本田社長の目には、世界を相手にサーキットを疾駆する自らの手で作り上げたレーシングマシンの姿がはっきりと映し出され、さらには、その姿に拍手を送る日本国民の姿も浮かんでいたのだった。

 大村らの出発に先立つ1954年1月1日のホンダ社報には、すでに英国マン島へ挑戦する意志が実に本田宗一郎らしい独特の言い回しで語られている。そして大村らの帰国から1ヵ月。その思いは、本田社長の中で燃え上がり、ある宣言となってホンダ全社員、そして日本全体を包み込むのだった。

 いわゆる「マン島出場宣言」は、ホンダ社員にとって、また機械工業に携わる日本の全ての人々にとって、まさに晴天の霹靂であった。いまだ戦後の復興期にあった当時、多くの企業やメーカーはやっと自社製品の生産が軌道に乗りかけている頃であり、自らの製品を輸出し、世界の市場に乗り出していくことなど、誰もが考えもしなかった時代だ。日本国内のオートバイ産業は、実用車を主体として右肩上がりの様相を呈してはいたが、世界的なレースに出場するような体裁と性能を備えたものなど皆無と言ってよかった。ましてやホンダは、実用車中心のメーカー。やっと初の4ストローク単気筒150ccドリームE型を発売したばかりであり、レース用マシンを作れるなどとは誰もが想像だにしなかったのである。

 社外の多くの人々は「また本田さん得意の大風呂敷」と受け止め、社内でも現実の業務目標と言うにはほど遠いほどの遠大な計画として、多くの人が半信半疑でこれを受け止めていた。実際のマシン開発も遅々として進まず、1954年の第2回富士登山レース、1955年の浅間高原レース(第1回全日本オートバイ耐久ロードレース)の惨敗ともいうべき結果の中で、その焦燥はつのるばかりだった。

 そんな中、1956年(昭和31年)に入って、技術部第2研究課いわゆるレーサー部門が設立され、河島喜好が課長に就任。マン島出場に向けたマシンづくりがここに本格的にスタートするのだった。

1954

「レーシング」の源流