翌1961年1月、来日したフーゲンホルツは四日市のステーションホテルに投宿し、早速そのスウィートルームでコースの設計に入った。コース原案は塩崎の手によってすでにドローイングされてはいたが、現場の地形との詳細な摺り合わせ、さらに実際の走行をシミュレーションした安全性の検証、コース幅の設定など、その作業は困難を極めた。特にフーゲンホルツにとって実績のあるザンドフォールトやホッケンハイム・リンクがまったく平坦な地形にあるのに対し、鈴鹿は複雑な起伏が入り交じり、そのコース設計における高低差の設定やカーブのつながりが重要な課題となっていた。
1960年8月26日(鈴鹿に候補地を決定後1週間)の原案では、現在のホームストレッチが大きな右カーブとなり、第1コーナーが深く回り込んでその先に立体交差とヘアピンが連なるという、およそ大胆な構想が盛り込まれていた。これは、レースの見せ場をグランドスタンド周辺に集中させるという方針に基づいたもので、委員会からの要望である、見る者を楽しませるコース設定を第一に考えた案だった。
そして、フーゲンホルツはこの原案と現地の地形、実際の走行を考慮し、1961年1月29日に修正案を提出した。第1コーナー先は現在のコースに近い複合コーナーを連続させ、その他はほぼ原案のデザインを踏襲したものだった。さらにフーゲンホルツは、コース以外の付帯設備の配置、機能、観客の導線、監視ポストの位置など、ありとあらゆるノウハウを提出し、20日間ほどの日本滞在を終え、帰国した。
一方、委員会はサーキットの管理運営を担当する企業体の設立を進めていた。そして1961年2月1日、正式に株式会社モータースポーツランドが設立され、それまでの委員会の業務をすべて引き継ぎ、事業として正式なスタートを切ったのである。また、レーシングコースだけでなく、遊園地や宿泊設備の建設・運営も事業の大きな柱として組み込まれ、鈴鹿サーキットは東洋初の本格的モータースポーツ・レジャー施設として、その存在が明確化されていったのだった。
この鈴鹿サーキット設立にあたって、株式会社モータースポーツランドではその基本的な考え方をホンダ社内報(1961年3月号)に掲載している。ここには、モータースポーツの位置づけやサーキットの必要性、さらに日本における自動車産業の未来像が実に明確に述べられている。今から30余年も以前に、まだモータリゼーションという言葉すらなかった時代に、これだけの見識と先見性をもって「モータースポーツ」をとらえたものは、皆無だった。それはまさにマン島出場宣言にも匹敵する、日本のモータースポーツの未来に向けた熱きメッセージだった。
さて、用地が決まり、コース案も決定し、次なる難関はこのコースを誰が造るかだった。当時の日本は、名神高速の試験区間が一部開通していたのみ。全国の一般道はまだまだ未舗装路が大半というモータリゼーション後進国だった。モータースポーツランドでは、この名神の工事を請け負っていた株式会社日本舗道に打診。当初日本舗道では過去に例のない事業だけにとまどいを見せたが、工事によって得られる技術を蓄積しようと、社をあげてこの事業に臨むこととなった。
現地測量、資材の搬入などが開始されたのは1961年の7月、そして8月25日には地鎮祭がとりおこなわれ、稲生山周辺に日本初のレーシングコース建設の力強い鍬音が響き始めた。
コースレイアウトは、実際の作業に合わせて微調整が計られ、最終的なコース案が完成したのは1962年1月15日のこととなった。またコースと同時にサーキットととしての付帯設備、関連施設、職員教育、さらにはレース運営にまつわる諸規定の整備など、関係者はまさに寝る間を惜しんでその完成に精魂を傾けた。
そして1962年9月20日、国際レーシングコース鈴鹿サーキットはその竣工式を迎えた。
1962年、ホンダは前年に続いて世界選手権ロードレースの125、250ccクラスのタイトルを連取。さらにこの年から挑戦を開始した350ccクラスでも見事チャンピオンに輝く快進撃を続けていた。さらにスズキが1960年から、ヤマハも1961年からホンダの後を追うようにGPに挑戦を開始しており、まさに日本のオートバイメーカーは疾風怒濤の勢いで世界GPを席巻しはじめていた。
そんなさなかの鈴鹿サーキットオープンは、まさに日本のオートバイ、そしてその後の4輪業界が世界に大きく羽ばたいていく歴史の、重要なマイルストーンであった。
その鈴鹿サーキットで初めてのレースが開催されたのは、竣工式からわずか1ヵ月半後の11月3〜4日だった。第1回全日本選手権ロードレース大会と銘打ったこのレースには、海外からも多くのGPライダーが招かれ、まさに世界GPを彷彿とさせる豪華な顔ぶれがそろった。
本田宗一郎のマン島出場宣言から8年、マン島初挑戦から3年の時を隔てて、ついに日本におけるモータースポーツが華々しく開花した瞬間だった。
第2話 スズカの道は、世界に通ず■鈴鹿サーキット開場
オートバイという工業製品がある。それを生産するには膨大な設備が必要とされるのは誰にでも理解できる。ホンダがマン島TTレースに出場を開始した1959年当時、国内のオートバイメーカーは淘汰の時期にあり、充分な生産設備と開発能力、そして確実な販路を持たないメーカーは次々と消滅していった。
一方、オートバイという商品を、それを運転する人々にライディングという喜びを提供するためのスポーツ用品と考えると、それを充分に活用する場が必要になる。例えばテニスラケットを考えた場合、生産する工場設備と、活用するテニスコートは三位一体となるのは誰にでも理解できる。壁うちばかりがテニスラケット本来の用途ではない。
さらにテニスには、壁うち等の練習の先に、学校などのクラブ単位の試合、地方選手権、国内選手権、そしてグランドスラムに代表される世界的な頂点のクラシックイベントがある。オートバイのレースにも、当然このピラミッド状の組織があり、多くのライダーが頂点を目指して切磋琢磨する。その過程において、選手を育成し整然としたレースを開催できる本格的サーキットは、まさに必要不可欠な存在である。
こと日本において、この常識が軽視されているが、ホンダだけは違っていた。1959年のマン島TT出場以来、世界のレースコース、サーキットを目の当たりにした本田宗一郎社長は、オートバイがスポーツとして本来活用されるサーキットの必要性をひしひしと感じていた。本格的レーシングコースの建設……それは、マン島TTに出場を果たし、世界のオートバイメーカーの仲間入りを果たしたホンダが胸に抱いた、次なる遠大な夢だったのである。
当時の日本には、専用のレースコースなる施設は存在していなかった。1957年に浅間高原レースが開催された浅間テストコースという専用コースはあったが、これは火山灰地を一部コース化しただけの完全なオフロードコースであり、ロードレースと呼ぶべきレースを開催できるだけの器ではなかった。
専用のレーシングコース建設……ホンダは、その夢を具体的な事業として推進すべく、1960年春、社内に藤沢専務を中心とした「モータースポーツランド設立委員会」を発足させ、国際レーシングコース建設に向けてその第一歩を記した。
委員会がまずやらなければいけなかったことは、その建設用地を決定し確保することだった。観客動員を考え大都市から遠く離れていないこと。コース設計に適した自然環境を有すること。さらに地元自治体、住民などとの折衝がスムーズに進むことも重要な要素のひとつだった。初期の段階で候補地としてあげられた場所には、浜松、水戸、浅間、鈴鹿、亀山、土山などの地名があった。委員会ではこれらの候補地の諸条件を検討し、最終的な候補地として鈴鹿、亀山、土山の三地区にこれを絞り込んだ。
そして1960年8月18日、委員会はその三地区を実地検分し、翌19日、名古屋の丸栄ホテルで最終決定を行なった。調査の結果、三重県の亀山は予定地の近くに人家が迫り、建設には多くの問題があるとされた。滋賀県の土山は地形が起伏に富み変化のあるコース設計が期待されたが、国道との連絡など、交通の便でポイントを落としていた。
一方、三重県の鈴鹿は周辺環境の点でもっとも高い評価を受けていた。名古屋、大阪からの便も良く、さらに地元自治体との良好な関係がすでに築かれていたことも大きな要因となっていた。その前年1959年にホンダは鈴鹿市に2輪の組立工場を建設。企業誘致には積極的な土地柄であり、全国で2番目に工場誘致条例を設けた進取の気風もあった。ホンダの国際的レーシングコース建設という遠大な夢に、杉本龍造市長以下率先してその計画を推進する恵まれた環境がそこにはあった。
委員会は国際レーシングコース建設の予定地を正式に鈴鹿に決定。その決定を了解した鈴鹿市は候補地として、土地が痩せ、農業にも林業にも適さない稲生山周辺の丘陵地帯を案内した。この時、委員会の中心的メンバーであった塩崎定夫は、すでにその深く切れ込んだ谷にホームストレッチを置き、その向こう側に連続するカーブを……と、具体的なレイアウトを思いめぐらせていたという。こうして日本初の国際レーシングコースは鈴鹿に建設されることが決定し、三重の鈴鹿はやがて世界のスズカとして人々に愛されることとなったのである。
1960年の暮れも押し迫った12月1日、本田社長の命を受け、塩崎定夫、飯田佳孝、小川雄一郎の3名が、ヨーロッパのレーシングコース視察のため、機上の人となった。飯田は1959、1960年の世界選手権出場チームのマネージャーでもあり、現地を知る貴重な存在としてその案内役を務めることとなった。
3名は、スパ・フランコルシャン(ベルギー)、アッセン(正式名ファン・ドレンテ・サーキット=オランダ)、モンツァ(イタリア)、ゾリチュード(西ドイツ)、ホッケンハイム・リンク(西ドイツ)、そしてニュルブルク・リンク(西ドイツ)などを視察。そのコースレイアウトから付帯設備、はてはコース路面の舗装状態に至るまで、詳細な調査を行なっている。なかでもニュルブルク・リンクはすべての面で魅力に満ちていた。ヨーロッパ屈指のテクニカルコースとして知られたニュルブルク・リンクは、そのコースそのものはもちろん、充実した付帯設備などもスズカがお手本とすべき多くの要素を備えていたのだ。
コースの概要は理解できた。必要な付帯設備も列挙した。問題は、その設計者だった。オートバイと同じで、その概要はつかめても実際の設計を行なう人物がいなければ具体的なかたちは現出しない。3名のメンバーは次にその設計者を捜し当てなくてはならなかった。
すでにヨーロッパでの活動によって多くの知人を持っていた飯田は、オランダでホンダ製品を取り扱うモーターサイクルディーラー、ヘッド・モト・パリスのオーナーMr.モーカルクにその件を相談してみた。彼は、世界GP挑戦初期の不慣れなホンダ・チームの転戦に同行し、物心両面に渡って多大な世話になった人物であり、飯田とも心が通う信頼の置ける人物だった。
そのモーカルクが推したのは、同じオランダ人のジョン・フーゲンホルツという人物だった。当時フーゲンホルツはオランダのザンドフォールトサーキットの支配人であり、コース設計の権威としても知られた人物だった。アッセンやホッケンハイムの改修を担当したのも彼であり、その実績には充分なものがあった。
早速フーゲンホルツの元を訪ねた3名は、日本におけるサーキットの設計、監修を依頼した。フーゲンホルツは「日本で初めてのサーキットを私に設計させてもらえるなんて、こんな光栄なことはない」とふたつ返事で快諾。ここに歴史的な日本初の国際レーシングコース建設は、具体的な設計の段階に入ることになった。
強行日程の中で各地のサーキットを視察し、フーゲンホルツ氏との接見を終えた3名のメンバーは、有意義な視察とこれからの壮大な計画に思いを巡らせながら、パリでその年のクリスマスを迎えた。
1962年(鈴鹿サ−キット竣工)