■日本車、世界選手権に轍をしるす
そして迎えた1959年6月3日水曜日、午後1時、125ccクラスのスターティングフラッグが打ち振られた。グリッドから飛び出していったのは「火の玉男」の異名を持つイタリアの熱血漢、GPの王者MVアグスタに乗るタルキニオ・プロビーニ、これに続くのが、MVの実質的No.1ライダーであるカルロ・ウッビアリ。やや遅れて東ドイツの名門2ストロークメーカーであるMZを駆るルイジ・タベリとエルンスト・デグナー、さらに新興勢力として売り出し中のドゥカッティに乗るマイク・ヘイルウッドが上位グループを形成する。これらの、後にホンダと多くのつながりを持つことになるライダーに続いて、ホンダを駆るライダーも、奮闘を続けていた。
2周目に転倒しリタイアとなった個人出場のビル・ハントを除いて、ホンダ勢は10位前後に食い下がっていた。9周目に7位争いを展開していたチャドウィック/MVとヴィラ/ドゥカッティが相次いで転倒し、谷口尚巳が6位に浮上。主将の鈴木義一はその後方7位につけ、田中禎助(「禎」は「示」扁に「貞」が正しいが文字化けするので・・)はトミー・ロブ(ドゥカッティ)とのバトルに競り勝って8位をキープ。序盤10位につけていた鈴木淳三はブレーキパーツが脱落してピットイン/修理を行ない15位まで順位を落としたが、徐々に挽回し11位につけた。
結局レースは、プロビーニがタベリを7秒差で振り切り、MV、MZ、ドゥカッティが上位に名を連ねた。ホンダ勢は谷口の6位入賞に続いて鈴木義一7位、田中8位、鈴木淳三11位で完走。谷口は日本人として初の世界選手権ロードレース入賞を果たした。またホンダチームは、チーム賞も受賞し、その好成績にほっと胸を撫で下ろした。
このレース結果は、いち早く日本にも打電され、留守を守るホンダ社内の人間を歓喜の渦に巻き込んだ。レース後3日経つと通産省が異例のコメントを発表し、ホンダは初の本格的スポーツモデルともいうべきCB92を発売。全国のホンダ店はマン島入賞の張り紙に彩られ、日本の2輪関係者全体が望外の祝勝ムードに酔いしれた。
マン島出場チーム一行は、125ccクラスのレースの3日後、6月6日にマン島を後にした。それは、500ccのレースを見ることもない、あわただしい帰国だった。「ここで帰国せずに、続く世界選手権を戦えたら。いまは何としてでも経験が欲しい……」 まさに後ろ髪を引かれる思いでマン島を、そして世界選手権ロードレースの現場を辞した河島らは、羽田に帰投し本田社長以下の大歓迎を受けた。しかし河島は、本田社長と交わした熱い握手の手を、すぐさま来年用マシンの設計に差し向けた。
河島の頭の中には、マン島で得た実際のデータ、弱点、改良すべき部分、やらなければいけない幾多の作業が渦巻いていた。
とにもかくにも初出場という難関をくぐり抜けた小さなカエルたちは、無限の困難が待ち受ける怒涛の大海に向かって、本気で漕ぎ出そうとしていた。
■カエルたちの合宿
一行が投宿したのは、マン島オンチャンにある「NURSERY(ナースリー) HOTEL」。直訳すれば「養成所」という名のホテルは、初めて世界に挑むホンダチームにふさわしい名前だった。一行は、レースまでの約1ヵ月、このホテルをベースに合宿をおこなった。
コースの慣熟走行、レース用マシンRC141のセッティングと熟成は言うに及ばず、外国の生活習慣に慣れ、国際電報/電話の方法を覚え、ナイフとフォークで食事をし、洋式便器に座ることまで、彼らにはすべてが初めての体験であり、毎日が不安と発見、落胆と安堵の繰り返しだった。
本格的練習走行に入って、ホンダチームには一層重苦しい空気が漂っていた。自分たちのタイムと過去のレースタイムとの圧倒的な差。コースの高低差(気圧の変化)や高速コーナーでのエンジン回転のばらつき。コーナリング時のサスペンションやフレームの剛性不足。さらには決定的なブレーキ容量の不足なども、実際にロードレースコースを走って、初めて表面化した問題点だった。
河島監督はその苦境に包まれたある日、1通の手紙をしたため、航空郵便としてマン島のポストに投函した。「私たちは初めて世の中に出た井戸の中のカエルでした。でも、ただのカエルでは終わりません。来年も再来年も世の中に続けて出して下さい。きっと3年先には、世の中や大海を知るカエルに成長することをお約束します。私たちは日本に生まれたカエルです。他国のカエルなどに負けないだけの魂をもっています」
宛名は、本田技研工業株式会社社長、本田宗一郎。まさにまんじりともせず現地からの報告を待ち受ける本田にとって、この一文は現地の厳しさを如実に知らしめるとともに、さらなる情熱をかきたてる、確実なメッセージとなって伝わった。
しかし、公式練習が始まる頃になると、河島らの絶望は決定的なものとなった。前年のタイムを軽々更新してゆくライバル。予想を遙かに上回る馬力差/最高速の違い、操縦性やブレーキ性能の未熟さは、明らかなタイム差となってホンダチームの前に横たわった。
そんな中、河島は4バルブのRC142エンジンの投入を決定。船便には間に合わず手持ちで搬入した4バルブヘッドを組み込み、その馬力差を少しでも埋める作戦をとった。当時のホンダでは、まだ4バルブの明確な優位点を計りかねており、充分なテストを行なっているとは言えなかった。機構が複雑になる分、2バルブに比べてメカトラブルの発生率も高く、下手をすれば全員リタイアの可能性もある。無謀とも言える4バルブの投入は大きな賭けでもあった。それでも、わずかでも最高出力/最高速をかせげる4バルブの投入を決定せざるをえないほど、時の河島監督は追いつめられていた。
当面の順位予想は、1台が10位以内に入れれば上々の出来。6位以内の入賞など考えられる状況ではなかった、というのが、河島らの本音だった。
第3話 マン島初出場・苦悩の助走期間■1959年、5月3日、機上
羽田から飛び立った南まわりイギリス行きB.O.A.C.機が、目的地に到着するまでの40時間あまり。華やかだった羽田の歓送デッキとは対照的に、機内の一行13名は重く沈痛な空気の中にあった。
新鋭ジェット機コメット4の窓の外に広がる雲海を見つめながら、チーム監督の河島喜好は言うに言われぬ不安に包まれていた。羽田空港の歓送デッキで、マン島出場チーム一行を送り出した本田宗一郎社長の「1年目だ。気楽な気持ちでやってこい。決して無理はせず、全員元気で帰ってこい」という激励の言葉も、彼の不安を和らげてはいなかった。
隣の席にいる関口久一整備監督が、奥さん宛に手紙を書いていた。河島がちらりと覗くと、そこには「これからはまったくお先真っ暗で、ただ努力あるのみ……云々」といったことが書かれていた。チームのトップ2の心境からしてこうである。チーム全体の不安と緊張に包まれた雰囲気は、ただでさえ珍しい日本人乗客を、いやが上にも機内で浮き上がらせていた。
本田宗一郎社長のマン島出場宣言から5年。思うように進まないマシン開発。前哨戦ともいうべき浅間レースでの、充分とは言えない戦績。さらに出発直前にチームを襲ったアクシデント……。河島監督の脳裏を無数の出来事が駆けめぐっては消えていった。
チームのマネージメントの一切を担当した飯田佳孝にも多くの不安があった。マシンの性能以前に、4月上旬に船積みしたマシンや機材が無事にマン島に到着し、それを問題なく受け取ることが出来るのか。はたしてその荷は1ヵ月にも及ぶ船旅に耐えられるのか。マシン開発に勝るとも劣らないほどの苦労を重ねて手にしたドルだけで、1ヵ月に及ぶマン島遠征をまかなうことが出来るのか。不安は、誰の胸にも満ち満ちていた。
すべてが「初めての経験」だった。誰もが体験したことのない挑戦であり、険しい冒険でもあった。1959年5月3日、マン島初出場を目指すホンダチームは、まるで出征兵士のような悲壮感に包まれながら、機上にあった。
1959 年