■2年めの、上昇気流と、乱気流。
1960年シーズンの世界選手権ロードレースは5月22日のフランスGPが開幕戦となるが、ホンダが出場する125、250ccクラスは第2戦マン島TTが緒戦となった。
1年ぶりのマン島は、暖かくホンダチームを迎えた。しかし、彼らが荷を解き、2クラスのまったく新しいワークスマシンがその姿を現したとき、多くのレース関係者はホンダの技術力とGP参戦にかける熱意の大きさに素直に驚いた。結果は、125ccクラス最高位6位、250ccクラス最高位4位という、前年並みもしくはやや向上といったところだったが、パドックの目利き達はその底力をすでに見抜いていた。
1958年から350と500のダブルタイトルを獲得し続けているジョン・サーティースは、ホンダのマシンに対して「来年、ホンダは確実にタイトルを獲得するだろう。問題はホンダがチャンピオンをとるかどうかより、誰がチャンピオンになるかに絞られている」とさえ言い切っていた。
イギリスのジャーナリズムもこのサーティースの言葉を引用し、さらに他のクラスへの参戦、全クラスでのタイトル獲得も不可能ではないとまで紙面を賑わせ、さらにはこのパワーをもってすれば4輪の制覇も不可能ではないとまで書き立てた。まだ表彰台にすら登っていないメーカーに対する破格の評価ではあったが、彼らの鋭い観察眼は、この1960年の時点でそこまでを見通していたのだった。
ライダーもまた、ホンダの将来性に大きな可能性を見いだしていた。前年のマン島終了後からちらほらと乗車希望を申し出るライダーがホンダチームを訪ねていたし、それは1960年に入ってから急速に現実味を帯びていった。この年、マン島のショートコースとも言うべきクリプスコースから、フルコースのマウンテンコースに変更されたこともあり、ホンダではこのマウンテンコースを良く知る外人ライダーの起用を検討していた。そこにジョン・ハートル、ボブ・ブラウン、トム・フィリス、ジム・レッドマンなどから乗車希望があり、その中からブラウン、フィリス、レッドマンなどがホンダ・チームのメンバーとしてGPを転戦することになった。さらにその後、現地ディーラーを通じてボブ・マッキンタイヤという大物もホンダとの関係をスタートさせ、ホンダはGP参戦2年めにして、単なる日本チームかられっきとしたインターナショナルチームへと成長していた。
2戦めのダッチTT(オランダGP)125ccクラス最高位4位(レッドマン)、250ccクラス最高位7位(ジョン・ヒューベルト)。
3戦め、ベルギーGP125ccクラス最高位7位(北野元)、250ccクラス欠場と、その壁は依然高くそびえていた。その成績の影には、GPを転戦することで味わう真の辛さがあった。マシンの消耗、さらに転戦による性能低下。またライダーの転倒/負傷など、ホンダチームは本格参戦の中でGP本来の厳しさと向き合っていたのだった。
しかし日本では、マン島で得た情報に基づいてすでに対策部品が用意され、また第2陣のメンバーが7月には渡欧し、心機一転、シーズンの後半戦を迎えた。
その効果は、早くも4戦めの西ドイツGPで開花した。ギヤトレーンの対策部品を装備したRC161と、第2陣のメンバーである田中健二郎が、強豪MVアグスタに続いて3位に入賞。ここにホンダは日本のメーカーとして初めて世界選手権ロードレースの表彰台を踏みしめた。
本田宗一郎のマン島出場宣言から6年、GP参戦2年目にして達成した、大きな成果だった。パドックのホンダ・メンバーはまわりの目もはばからず、互いに抱き合い、感涙にむせんだ。それまでの長い長い道のりの厳しさを思えば、まさに大願成就の瞬間であった。
しかし、本場のレース関係者は逆に、わずかGP参戦5戦めにして表彰台に登ったホンダに畏敬の念さえ抱き始めていた。ホンダは、もうGPのゲストではなかった。つねに上位を走り、GPそのものの中核をなすべき常任メンバーとして位置づけられていた。その評価は、続くアルスターGPでのフィリスの2位入賞、最終戦イタリアGPでのレッドマンの2位入賞で確実なものとなり、期待は限りなく膨らみつつあった。
しかし、ホンダにとって2年めの表彰台ゲットは、まだまだ満足のいく結果ではなかった。王者MVとの差はまだ確実に彼らの前に横たわっていたし、2ストロークの雄MZの存在も決して楽観を許せないものだった。さらに孤軍奮闘するドゥカッティのヘイルウッドやモリーニ単気筒のプロビーニなど、行く手を阻む者はあまた存在していたのだ。
それでも、125ccクラスでMV、MZに続いてメーカーランキング3位。250ccクラスではMVに続いてメーカーランキング2位を得たことは、大きな収穫だった。
どうすれば出場して恥ずかしくないマシンが作れるか、どうすれば完走できるかの時代は、すでに過ぎ去り、どうすれば上位を狙えるか、そしてどうすれば勝てるかを確実に見定める段階に入っていた。
その頃、GPに君臨するMVの社内では、翌1961年に向けて、レース関係者を驚愕させるある計画が進められていた。ホンダの存在をもっとも強く意識していたのは、他ならぬMVであった。
「来年も再来年も世の中に続けて出して下さい。きっと3年先には、世の中や大海を知るカエルに成長することをお約束します」
河島監督が本田宗一郎に誓った、その3年めは、足早に訪れようとしていた。
第5話 初表彰台獲得・制覇への手応え■世界初250ccDOHC4気筒4バルブ「浅間フォア」デビュー。
予想を上回る成績をあげて羽田に帰投した河島以下のメンバーは、休む暇なく次期マシンへの開発にとりかかった。翌1960年には、125ccクラスに加えて250ccクラスへの参戦、さらにマン島TT1戦だけでなく、世界選手権ロードレースのシリーズ戦を通しての出場が決定されていた。単純に考えても1959年の数倍のマシンや物資が必要になるばかりでなく、開発や製造にかかる労力はこれまでの比でないことは明らかだった。
だが、マン島1戦に出場して、たとえ優勝できたとしても、決定的な評価が得られないことも予測できていた。シリーズを戦い、各国のGPを転戦し、シリーズチャンピオンを獲得し、さらにそれを複数のクラスで達成し、加えてその姿勢を継続させること。GPの真の王者たりえるには、前途の道はあまりにも長く険しいものだった。
ホンダは、1959年のマン島初挑戦を終えたその瞬間、長く険しい道を疾走し、頂点を踏破しなければいけない宿命を背負っていたのだ。
当面の目標は、マン島帰投から2ヵ月後の1959年8月22〜24日に開催される第3回浅間火山レース。このレースには、マン島に間に合わなかった250ccクラスのワークスマシンRC160をデビューさせることとなっていた。当時、単気筒やせいぜい2気筒が主流だった250ccクラスに、DOHC4気筒4バルブという、まさに希有の超ハイメカニズムマシンをデビューさせんとするホンダの発想と技術力は、すでに他のメーカーを大きくリードしていた。
8月23日、250ccクラスのレースに出走した浅間フォアRC160は、上位1〜3位までを独占し、まさに他を圧倒する実力を見せつけた。その最高ラップの平均スピードは106.8km/hであり、350ccクラスで優勝したヤマハの96.2km/hさえも凌いでいた。さらにホンダは、クラブマンの50、125、250ccクラス、メインレースの125、250ccクラスを制し、まさに圧倒的な戦力を示した。
しかし河島らは、その成績に満足していたわけではなかった。開催レースの半数を制し、125ccクラスで1〜4位、250ccクラスで1〜5位を独占したといっても、世界に出れば表彰台は遙か遠く、GPでの優勝などまだまだ射程におさめることのできないマシンでしかない、それが偽らざる心境だった。
125ccのRC142と、250ccのRC160は、その浅間後、徹底的に洗い直され、正式に1960年型のRC143(125cc)、RC161(250cc)となって現れたとき、その姿は旧型と似てはいたものの、エンジンからフレームに至るまで、まったく新設計のマシンだった。
エンジン関係では、それまでの直立シリンダーを前傾させ、ヘッドまわりの冷却性を向上させるとともにエンジン高を下げ、マシン全体の車高低下を達成している。また250ccのRC161では、ベベルギアによるカムシャフト駆動をスパーギアを並べるギアトレーンに改め、エンジン幅を切りつめるとともにカム駆動系の高効率化を達成。
フレームでは、バックボーンタイプにこそ変更はなかったが、まったく新しい高剛性タイプに進化し、またフロントのボトムリンクサスペンションは一般的なテレスコピックタイプに改められていた。こうして解説すればわずか数行でしかないこれらの変更点だが、通常であれば数年を要して改良されるほどの大進化であり、これらを数ヵ月の間に完成させ、テストをし、レースに参戦出来るように熟成する一連の作業は、徹夜を連続し、1日を48時間に使い、1週間を15日にしなければ実現できない、常軌を逸した作業の上で、初めて達成されるものだった。