マシンの紹介
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RC165

1963年、最大のライバルは自分自身だった。

 1962年シーズンに125、250、350ccの3クラスを制覇したホンダは、翌1963年、GP挑戦5年目にして初めて、チーム活動の縮小を行なった。125〜350ccの3クラス出場は変わらなかったが、マシン開発のペースはややスローダウンし、チームが使える予算も削減された。マシンは前年型を用い、パーツ補給を行なうのみとした。GPへの挑戦初期にはレースごとに新型が現れ、予選で問題が出た部分に決勝では対策部品が組み込まれるという想像を絶した改良は、もはや昔の手法になっていた。

 その背景には、2輪GPを制したホンダの、次のビッグプロジェクトが大きな影響となっていた。ひとつは鈴鹿サーキットの建設であり、もうひとつはF1への参戦準備だ。2輪GPの挑戦は膨大な出費となっていたが、サーキットの建設にかかる経費は桁違いだった。また、F1マシン開発は予算と同時に大量の人的資源を要求した。2輪GPマシンの設計に携わった優秀なエンジニアが次々とF1プロジェクトに引き抜かれ、2輪GP活動は金銭的にも人材的にも厳しい曲面を迎えたのである。2輪GPでの成功がなければ踏み出さなかっただろう次のプロジェクトが、逆に2輪GPの活動における最大のライバルとなるのだった。

 その結果は、戦績に明確に表われた。1963年の総優勝数は14回。前年の25回には比ぶるべくもない成績だ。250と350ccクラスでは辛うじてタイトルを守ったが、125ccクラスではこのクラスでも昇り調子のスズキに後塵を浴びせられ、わずか3戦に勝ったのみでランキング2位。50ccクラスはさらに悲惨で、シーズンを通じてのフル参戦をあきらめなければならないほどだった。

 前年、あれほど圧倒的だった250ccクラスではなんとか4勝をあげたが、その力は絶対的なものではなくなっていた。モリーニのプロビーニ、MZのヘイルウッドなどが時としてホンダの前を走り、さらにスズキに続いて実力を発揮し始めたヤマハが最大のライバルに成長していたのだ。中でもフィル・リード伊藤史朗の活躍は、2ストロークが軽量級だけではなく中量級以上のクラスにも大きな可能性を秘めていることを認識させた。50ccと125ccでスズキ、250ccでモリーニ、MZ、ヤマハ、そして350ccでMVの激しいアタックを受けるホンダは、こうして苦しい1963年シーズンを戦わなければならなかった。

1964年、多気筒/超高回転の雄叫び。

 だが、そんな苦境の中で、ホンダは決して歩みを止めてはいなかった。かんばしくない戦況が次々と入ってくる研究所内では、黙々と次期マシンの開発が行なわれていたのである。それはまさに、秘密兵器と呼ぶにふさわしい想像を超えたマシンだった。50cc2気筒。125cc4気筒という、誰もが成し得なかった小排気量/多気筒エンジンを搭載したマシンが、それだ。1963年、完成した鈴鹿サーキットで開催された、その年の最終戦日本GPにデビューしたこれらのマシンは、ホンダが2輪GPの盟主であり続けようとする、熱きメッセージだった。

 50ccの2気筒マシンRC113のシリンダー内径はなんと33mm。フィルムケースがやっと入るほどのボアには、NGKが開発した8mm径のプラグを中央に、吸入側13mm、排気側12mm各2本、計4本のバルブを配し、もはやそれは究極のモーターサイクルエンジンと呼ぶにふさわしいものだった。最高出力の13馬力(なんとリッター当たり260馬力!)を発生するのは、20,000回転。パワーバンドがわずか1,000回転ほどといわれるそのピーキーなエンジン特性を伝達するのは、9段という多段ミッションだった。4気筒125のRC146でもボアは35.26mm。精緻を極めた2台のマシンに世界のモーターサイクル関係者は改めて感嘆し、開発技術と生産技術に畏敬の念さえ感じるのだった。

 しかし、それほどまでのマシンを投入しても、ホンダは苦戦を続けた。1964年、4気筒マシンが波に乗った125ccクラスと、MVが実質的に撤退した350ccクラスでタイトルを獲得したものの、50と250ではともにランキング2位。中でも250ccクラスでは、戦力をこのクラスに集中させたヤマハの前に、わずか2勝しかあげられずに最終戦を迎えた。だが、50と125で実現した多気筒/超高回転/高出力の手法が間違っていないことは明白だった。そして1964年シーズンも残り2戦となったイタリアGP。この年すでにF1へのデビューで世界の注目を集めていたホンダは、またしても人々の度肝を抜くマシンをデビューさせた。

 新型250ccクラス用マシン。なんとそれは、前人未踏の6気筒エンジンを搭載していたのだった。アルスターGPを終了し、250ccクラスは残り2戦。この2戦に優勝すればタイトルを手中にできると考えたホンダは、まだ未完成の秘密兵器をイタリアGPモンツァに投入することで急展開を見せる。アルスターGP終了後急遽帰国した秋鹿監督はこの250cc6気筒の組立/調整にかかり、フィンランドのレースを終えるやいなやジム・レッドマンが来日し、荒川のテストコースを試走。そこでモンツァへの出場を決定しレッドマンはすぐさま離日。マシンは鈴鹿でテストを続けるという、超過密スケジュールの中で、250cc6気筒は実戦配備の最終調整を行なっていた。

 鈴鹿でのテストでは操安性などに不安を残していたが、エンジン出力に大きなチャンスを見いだしたホンダチームは、これをすぐさま空輸した。イタリアの税関で難癖をつけられ引き取りに手間取り、コースにマシンが到着したのは公式練習の直前という、滑り込みセーフの離れ業だった。レッドマンの手でモンツァの最終コーナーを立ち上がってくる6気筒。17,500回転で54.3馬力を絞り出すその絶叫にも似たエキゾーストノートは、まさにホンダが世界に向けて発した、無限の技術力を誇示する力強い雄叫びだった。

第9話 激闘のまっただ中で

1962年、さらなる快進撃は続く。

 ホンダが1961年に達成した、記録、戦績、そしてチームの規模、マシンの完成度は、そのどれをとっても、これまで世界のモーターサイクルメーカーが成し得なかったレベルに到達していた。

 特に、イギリスの有力紙などが大きく評価(そして皮肉を込めて論評)したのは、ホンダが単にレースに強いチームなだけではなく、優れた市販オートバイを世界中に輸出する、真のメーカーであることだった。例えばMVアグスタは、膨大なトロフィーをその社長室に飾りたててはいたが、誰もが楽しめる、誰にも有用な市販モデルを販売したことはなかった。これに対してホンダは、GPで勝利を挙げただけでなく、その技術を市販モデルに投入し、一般公道での喜びと利便性を向上させたことで、世界中のモーターサイクル愛好家に心地よく受け入れられていた。

「ホンダは、カブでGPの軍資金を集めた」と言われることがある。確かに当時のホンダの屋台骨を支えていたのはスーパー・カブだった。藤沢専務の発想を宗一郎社長が形にした希代の名機は、世界中の人々に愛され、人々の生活に大きなメリットを提供していた。小さな小さな「実用車」は、ホンダを世界に羽ばたかせ、大きな栄光をつかむためのかけがえのない原動力でもあった。もちろん、カブの兄貴分であるC72やCB92などのモデルも好調な販売を続けていたが、その信頼性や高性能を人々に確実に伝えたのがGPでの活躍だったことは言うまでもない。

 この頃、ホンダの資本金は100億円に近づき、年間の生産台数は100万台を達成していた。輸出額も100億円に到達し、我が国有数の輸出企業に成長していた。1959年に「輸出もしないで海外から高い工作機械ばっかり買っているホンダに、ドルは出せない」と、渡航費の工面に奔走した飯田マネージャーにとっても、わずか数年でこれほど環境が好転するとは想像も出来ないことだった。

 まさにホンダは、自らの道を全開で疾走していた。GPワークスマシンの開発は、1962年から参戦を開始する50と350を加え、なんと4クラス。圧倒的な性能を発揮した250は前年型のRC163を使ったが、50、125、350の各マシンは、もちろんまったく新設計のモデルだった。市販車では、250cc初のスーパースポーツ「CB72」がラインオフしており、その性能とスポーツマインドに多くのライダーがGPシーンを重ね合わせ、「ナナニイ」はカブに続くホンダの代名詞となっていた。

 しかし、宗一郎社長の発想は、グランプリへの挑戦や、優れた市販モデルを生産することにとどまってはいなかった。我が国初の本格的レーシングコース「鈴鹿サーキット」の建設が進められていたのだ。1960年に具体的な計画をスタートさせた鈴鹿サーキットは、1961年8月25日には地鎮祭をとりおこなっていた。それは、アルスターGPで高橋国光が125ccクラス初優勝(彼にとって2度めの優勝)を達成した日から2週間後のことだった。さらに、この時すでに、宗一郎社長の胸には、もうひとつの抑えきれない情熱が渦巻き始めていた。モータースポーツの最高峰、F1への挑戦。1961年当時、それはまだ正式な決定事項ではなかったが、その芽は確実に、伸び始めていた。

 1962年シーズン、ホンダは再び快進撃を開始した。前年、11戦10勝、表彰台独占9回の成績を残した250ccクラスでは、そのRC163が引き続き圧倒的な性能を発揮し、不参加のアルゼンチンGPを除く9戦に全勝。表彰台独占も6回に及んだ。前年、125ccクラスでも、熟成なったRC145が250ccクラス並の進撃を続け、開催レース10戦に全勝。表彰台独占も6回という好成績をあげている。初参戦となった350ccクラスでもその状況は変わらなかった。前年、250ccのマシンで何度も350ccのレコードを破っていたホンダでは、250ccのボアアップであり、350ccフルスケールではないRC170(284cc)、RC171(339cc)を投入。緒戦こそリタイアとなったが、続く5戦を全勝し、3クラス目のタイトルを手中にする結果となった。

 しかし、この1962年からGP格式となった50ccクラスでは、まったくいいところがなかった。小型軽量で高出力を誇る2ストロークエンジンを搭載するクライドラーデルビなどのマシンに先行を許してスタートしたシーズンは、やがて本来の力を発揮してきたスズキ2ストロークの独壇場となって推移。ホンダはフィンランドGPで1勝をあげるにとどまり、メーカーランキングは3位に甘んじなければならなかった。スズキに初のタイトルをもたらしたのは、前年突然サーキットから姿をくらまし大きな話題となったエルンスト・デグナーだった。晴れて西ドイツ国籍となった彼は、RM62の8段変速を巧みに操り、彼自身にとっても初めてのタイトルを手中にしている。

1962〜1964
「レーシング」の源流